波間の向こうを目指して(新・本編side) 作:夢枕 七変化
俺の手の届かない所へ逃げるように、小鳥が窓から飛び立つように、傍を離れたナミが演奏を終えた。それから水分補給を終えたのか、本当に間を置かずに演奏を再開したのを見れば慣れている事がよく分かる。
スっと息を吸い込み、その細くしなやかな指先が楽器に触れると同時に流れ始めた旋律は、やはり先程の曲と似てはいるがこれまでに他では聞いた事の無い物だ。物悲しく響くその音に、なんとも言い難い気分にさせられる。
とりあえず目の前にある物を摘み、ナミの動作を見守る。それから間もなくナミの姿からは想像出来ないような、低い少年と青年の狭間のような声が聞こえて来た先程とは違い、愛らしい少女らしい歌声が響いて来た。
本当に同1人物なのかと疑わしくなる程に、声質からして違う気がして、小さく苦笑する。この声もまた、先程の話していた時の声とは異なるところに驚きつつ、恐らくは先程歌っていたソレの返歌だろうと判断する。
「ーーー」
穏やかで優しいそれは、愛情深く俺とは関係の無い世界に生きる者の歌だなと思わされれば、苦いものが込み上げる。それでも、歌の邪魔をする気にはならない。
「ーーー」
妙に可愛い歌詞だなと思う。お前は寒くないのかと、突っ込みたくなる。
「ーーー」
歌いながらナミが遠くを見つめるような顔をしてから、諦めたように自嘲したのが見えれば妙な苛立ちが募る。何を考えてそんな顔をしてやがるんだ。
「ーーー」
達観したようなそれをその瞳に宿し、慈愛に満ちた表情で優しい声を響かせる。誰かの為に笑って犠牲になる事を選んだ、ファミリーだった者達の顔が思い浮かぶ。
「ーーー」
今にも泣きだしそうに揺れる瞳が、けれども渇いているからこその悲壮感。俺だとてこれまで何も亡くさずにここまで来た訳じゃねェが……ここまで思いつめたような状態になった記憶はねェ。
近いとするならば母上の事だけだが、悲しみも強かったが何よりも憎しみと怒りが強かった。同じ痛みを、いや、それ以上の痛みと苦しみを味わえと心から思い、全てを破壊しようと決めた切っ掛けだろう。
……いや、その前に……何か……?
何だ、この違和感は。何かを無理に記憶から消されているような、無理な改ざんでもされているような……?
「ーーー」
その次の瞬間、歌を聞いていて間違いなくナミが〝宝玉〟だと確信した。自分の生きた証を残す為に、作曲や執筆したのだろうと分かっちまった。
「ーーー」
重い病だと言うのならば1度、予定には無かったがローを探し出して治させてやる。俺に見つからない為に潜水艦なんて物を使っているのだと分かるが、それでも捕まえられねェと決まった訳でも無い。
「ーーー」
だが恐らくは、病気ではなく別な何かを抱えているのだろう。……調べさせるか。
叶うなら吐かせたかったが……。情報を持たなければ手に入れる事すら難しそうな歌姫に、重い息を吐き出す。
「ーーー」
纏う空気が変わったのを肌で感じた。愛しい者を守り満足して死に逝く者の空気に。
「ーーー」
救いを求めるようなそれでありながら、何処かで救いを拒むような雰囲気を纏わせて、全てを諦めているのだと伝えて来る。それ程にただ、嘆くだけで前に進もうとしない、いや……その場から動こうとしないのだと気付かされる。
「ーーー」
そうして自らの全てを諦めるには、若すぎるだろうと声を出しそうになるのを抑えるだけで、精一杯だとは……笑わせる。俺は何をこんな小娘相手に動揺しているのか。
「ーーー」
遺される者を想い、旅立つ自分は幸せだと歌うこれは恐らくナミの本心なのだろう。態度にも表情にも出さねェが、無性に泣きたくなる。
馬鹿な奴だ。そうなるよう〝教育〟された訳でもねェのに、そんな慈善的な事が起こり得るのか……。
彼岸を見るには早すぎる。旅立とうとするな、その旅路に向かうにはお前は才気溢れ過ぎている。
いらねェと言うならば、その高い能力と美しい容姿を俺に捧げろ。最期まで使ってやるし、守り抜いてやる。
「ーーー」
誰を想っている。誰の為にその命を、捨てようとしているんだ。
やっと見つけ出したんだ、手の届かない所へやってたまるか。その心が手に入らないとしても、俺はナミを諦めるつもりはねェ。
「ーーー」
旋律は途切れる事無く、歌声は甘く辺りに響く。酔いしれるように聞き入るむさ苦しい男達は、ナミの悲痛なそれに気付きもしてねェってのか。
真横に立つ鷹の目が異様に殺気立っているのが、ナミを手に入れるにあたって障害が少なくねェと示している。流石に七武海同士で争えば、面倒な事になるのは目に見えているからな。
「ーーー」
それでも、それをしてでも欲しくなる。どんな仕掛けかは知らねェが、雪の中で俺に微笑みかけたのも間違い無くナミだと分かっちまう。
今、触れられる位置に漸く辿り着いたんだ。逃がすか……必ず、手に入れる。
「ーーー」
……ナミ、お前は誰と歌いたいと想っている?
幸せそうに、蕩けそうな顔で誰を……?
「ーーー」
この歌はその蕩けきった顔の元になってる相手に向けての、惜別の歌だというのか。なら、最期に〝愛してる〟とでも返したいのか?
そう、少し馬鹿にしたように思いながら耳を傾けていれば、予想外の言葉が続いた。それも、恐らく歌の主人公は死んだのだろうと、その歌い方で伝わって来る。
「ーーー」
それが伝わるような途切れ途切れの歌声に、無意識で握る手に力が入る。……俺を、見ろとナミに視線を思わず向けるが、演奏を終えるまで当然こちらを向く事は無い。
音が余韻を残しつつ消えれば、代わりに拍手が鳴り響く。その拍手に応えるように、にっこりと笑ってお辞儀して見せたナミはまるで人形のように完璧な笑みを讃えていて、表情からだけではその感情を読み取れない。
それでもその瞳は既に死んでいる者……奴隷と同じ瞳を……奴隷?まさか、ナミは奴隷なのか?
怪我をしている様子も無ければ、血の匂いもしねェのにも関わらず巻かれている包帯はそれを隠す為かと思い至れば、少しばかり厄介な事になるかも知れねェと思う。今はこの名が持っていた筈の権力が存在しねェから、宝玉を守ろうにも隠す他の守り方が出来なくなる恐れも……いや待て。
脳内に魚人達の海賊団が思い出される。そうだ、焼印には別な焼印でとすればいい。
俺のそれを焼印として押せるように作るかと考えた時、ナミがひょっこりと姿を見せた。その様子を見るに、奴隷だと考えるには無理がありそうな無邪気さを持ち合わせている。
「これが私のお仕事です。これで、納得して頂けましたか?先に曲を教えて貰わなければ、歌えないでしょう。宝玉が認める歌姫の1人なのですから」
歌姫の1人ってことは、まさかこのレベルの歌い手が他にもいるのか?
「他にもいるのか?」
思わず問い掛けた俺にナミは1瞬その瞳を揺らして、その存在を今更隠そうとするかのように微笑んだ。何も語る気は無いと、その表情から伝わる。
頑固な奴だ。更に気も強い。
その上で、自尊心も高いな。そんな女が、全てを捨てて守ろうとする存在か……。
「……その筈ですよ。それでは」
俺が少し考え事をしている間に立ち去ろうとしたのを、鷹の目が即座に捕らえた。それを見れば出遅れた俺に、今回何かする権利はないと分かる。
それでも諦めるつもりは欠片もねェから、明日は俺の為に空けておけと言い残して鷹の目と去る姿を見たくないが為に、その場を立ち去る事にした。まさかその1方的な俺との約束を消し去る為に鷹の目がナミを隠そうとするとは、この時の俺には全く予想できない事だったがな……。