波間の向こうを目指して(新・本編side) 作:夢枕 七変化
独り……取り残されたナミは自分の肩をじっと見詰める。さっきもそのマークは見た筈なのに、俺はなんだか初めて見たような気がしていた。
うさぎの尻尾みたいなナミの髪の毛が、少しだけほつれて、ぴょこぴょこと跳ねてる。ナミの髪の毛らしいそれに口角が上がりかけた時、ナミが動いた。
短剣を足から引き抜き、声を出しながら肩に振り下ろす。その動きに迷いも躊躇いも見えない。
俺はそっと立ち上がり、ナミの所まで歩いて行く。後少しで手が届きそうなトコロに到着した時、ナミの震える声が聞こえた。
ずっと、その名を憎しみと悲しみと怒りを込めて呼んでいたと……ここに来て気付いた。それ迄は、何を言っているのかさえ、理解出来てはいなかったんだ。
「アーロン……!」
白い柔肌から、赤い物が流れて行く。繰り返し呼ぶ名が、怨嗟の声だと気付かされる。
痛みだって相当なものだろうと思うのに、涙ひとつ見せない。苦しそうに、声を震わせるのに……ナミは他には何も俺に見せようとしないんだ。
それを降ろさせたら、ナミの腕が使い物にならなくなる。そう判断してナミの手首を掴めば、ナミは俺を見てその身体から力を抜いてくれた。
それは俺を傷付けない為なのか、武器を手放すナミ。掠れているその声が、泣いてるのだと……慟哭を上げているのだと俺に伝える。
「どうして……」
か細いその声が、ずっと大きく見えていたけど、本当は力無い少女なのだと俺に突き付ける。俺が甘え続けて来た現実を、今になって突き付けられているんだ。
「何も、知らない癖に」
「うん、知らねェ」
俺は多分、ナミの事を何にも知らねェ。守られて、甘やかされて、導かれて……誰の目にもナミは俺の保護者だろうと思う。
そんな相手を目の前にして、俺はただ欲しい欲しいと駄々こねて、困らせてた。……でも、今目の前に居るのは……多分等身大の、隠されてたナミだ。
強がっていたんだ。悲しんで、苦しんで、もがいて……でも、優しくて馬鹿なナミは、誰にも頼れなかったんだよな。
俺は強くなったつもりだった。でも、ナミも強くなってて、なのに、敵に敵わなくて……俺が頼りなくて、ナミは俺に頼れなかったんだと気付く。
「私、島を出ろって、言った……わよね?」
こんな状態でも、俺を気遣って、巻き込まないようにって距離を置いて、守ろうとしてくる。でもよ、俺は……ナミに頼って欲しいし、信じて欲しい。
俺……もう、ガキじゃねェよ。ちゃんと、守るから……その傷、その荷物、少しでいい……見せてくれ。
「あァ、言われた」
俺の言葉を受けて、ナミが小刻みに震え出した。もしかしたら、俺はナミのこんな小さな姿……初めて見たかも知れない。
いつも大きくて、優しくて、穏やかで、賢くて……。何でも許してくれたし、心配して、褒めてくれて、支えてくれた。
でも本当は、ひとつしか違わない、優しいのだけが取り柄の……普通の女の子なんだ。強がらないと生きられなかった、孤独な少女だったんだな。
「ルフィ……助けて」
その時、振り向いたナミが泣いていた。泣かせちまった事が、悔しくて……泣いてくれた事が、嬉しい。
頼ってくれた事が嬉しくて、縋らせちまった事が情けない。その全ての根源が、村人達の向かった所に有るんだろう。
はらはらと落ちるナミの涙が美しくて、悲しい。その涙が、その表情が、大切な人達をただ想っているのだと教えて来るから……。
『俺の、大切な帽子だ』
シャンクスの声が、耳元で聞こえた気がした。この帽子は、シャンクスの物だ。
今からナミの憂いの元、ブッ飛ばして来るからよ、シャンクス……守っててくれよ。俺は、戦うから、守るのは任せて良いだろ?
大切なこの帽子をナミならば預ける理由も、これに込められた信頼も想いも通じるだろうと信じて、頭に乗せる。シャンクスみたいにカッコイイ事も、優しい言葉も、俺には何も告げられない。
その時、ナミの髪を止めていたリボンが血に染ってるのが見えた。そっとそれを拾えば、それを貰って花のように笑うナミが、見えた気がして……思わず、強く握りしめる。
爆発しそうな感情で、ナミを傷付けたくなくて少し離れた時、
だけど、大切な存在を傷付けない為に、助ける為に、正しく力を振るう為に……俺は叫んだ。この状態になっても、
「当たり前だァー!」
叫んで、前を見据える。手首にそのリボンを巻いて、いつものナミの優しさという強さを少しだけ借りてから歩き出す。
まだ頼っちまってて、情けない俺だけど……帽子だってナミを守る為なら力、貸してくれるだろ。初めて見たナミの本質は、俺に甘えた考えは許されないのだと教えてくれた。
俺が突っ走って、大切な奴を守らないと……全て失っちまう。強くなりたいじゃもう遅い。
強くなって、守るんだ。大切な人をもう、誰も喪わない為に。
「行くぞ!!」
「「「おう!!」」」
進み始めて少しすると、サンジがナミに上着を渡したのに気付く。でも、今は振り向く事が出来ない。
ウソップが支えて歩いてるのだと分かる。だけど、今は声をかける事も出来ない。
今、何かやれば、俺はきっとナミを傷付けちまう。まだ、分からないんだ。
必ず、アーロンって奴はブッ飛ばすけど、それはナミをあんな泣かせ方したからだ。でも俺は、どうやったらナミを助けられるのか分からなくて、分からない自分が許せねェ。
ゾロの子分二人が、村人達を押さえていたのを見てナミが喜ぶだろうなと思った。だけど今は、邪魔だ。
「……退いてくれ」
「「ルフィの兄貴!!」」
石で出来てるそれを打ち砕き、中へと入る。どれが何だか分からないが、此奴ら全部……ナミを虐めてた奴で間違いないんだよな?
それでも、雑魚はどうでもいい。今俺がぶっ飛ばしたいのは、アーロンってやつ、ただ1人だ!!
「アーロンってのはどいつだ」
「アーロンってのは、俺の名だが?」
「そうか……」
ならもう、他を相手にする必要は無い。そう思ってナミがやるように床を蹴り、握り締めた拳を突き出した。
拳をまともに受けて吹き飛ぶ巨体。それが壁を破壊して瓦礫に埋まるが、ダメージがない事は分かりきってる。
その程度でどうにかなるなら、ナミがこれ程苦しめられる筈無いんだ。確かにナミは甘いけど、それを補えるだけの強さも持ち合わせている。
つまりは、あれだけ弱ってる理由はこいつにあって、ナミが
「うちの航海士を泣かすなよ!」
ナミが涙を流しながら、憎しみを込めて呼んだその名前。それが犯人以外のなんだってんだ。
ナミを泣かせる奴は許さねェと、ずっと前から決めていた。俺は……笑って零れる涙しか、ナミに流させるつもりなんてねェんだ。
「そうかお前ら、ナミが目当てか」
重々しい様子で言葉を口にしたアーロンって奴に反応して、ナミが飛び出して来た。今度こそ、俺が守るから……大人しくしててくれと祈るように思う。
だが、アーロンは語る。ナミの
だがその最後に見せたのは、紛れもない〝嫉妬〟であり、それと同時に、それに含まれる〝憎悪〟だ。……あれだけ苦しめて、傷付けて、弱らせて……なのに、惚れてると、そう言うつもりなのか。
「お前……ナミの事……」
なら、どうして……あんなにも消えそうな存在にしちまったんだよ。自分の生命を軽んじてたのは確かに昔からだったが、ここまでじゃなかった筈だ。
大切ならどうして、こんなにボロボロにしたんだ。何故、感情の全てを奪うような真似をしたんだよ……!!
アーロンの言葉でナミは震える。その姿を見て、俺が感情を取り戻させた弊害だと気付く。
これ迄ずっと、ナミは独りだと思って気を張ってたのに、俺がそれを壊したんだ。だから、ナミは、自らが傷つく事に……俺の為に、恐怖を抱いてくれてる。
こんな時に、それが嬉しいなんて言ったら……怒られそうだな。その証拠に、今ゾロが臨戦態勢に入った。
その時アーロンがナミに色を纏った視線を向けた。ナミが倒れそうになって、けれど耐えているのだと気付く。
……させるかよ。もう、ナミを傷付けさせてたまるか!!
その後に続いた言葉で、ナミの目の前で、ナミの大切な人達が傷付き倒れたのだと知る。心が優し過ぎて脆い、ナミの目の前で……。
何も出来ないままに、サボと別れた過去を思い出す。そのサボが死んだ時の衝撃をも、同時に。
俺が、膝を擦りむいただけで泣きそうな顔をしていたナミが、そんなの耐えられる筈がない。そんなナミを、村人の命で従わせていたのか……!!
「……そっか、私が演じきれなかったから……。なら、私の責任だわ」
その声を聞いた時、戦う時のナミの声だと気付く。守る為なら、夜叉となる事を厭わないナミの悲しい姿。
魚人達がサッと道を作る。ナミに近付く事さえ出来ずに、離れて行く。
そう、気圧されてると言うのが正しいんだろう。ナミは昔から無意識で人を〝威圧〟していた。
だけど、そう……ナミの戦う姿は、綺麗だけど、物悲しい。だから本来、極力戦わせたくなんて無いんだ。
「アーロン、もう……終わりにしましょう。これで、楽にしてあげる」
このまま戦わせたら、ナミを喪う。そう感じて俺はナミに抱き着いた。
死なせるか!俺に、助けを求めてくれたのに、どうして簡単に生命を捨てようとするんだ!!
「お前は、下がってろ。アイツは俺がぶっ飛ばすんだ!」
「ルフィ……」
俺の名を呼ぶその瞳が、戦う姿から俺を気遣う姉に変わる。……この戦いが終わったら、何時までも守られてる弟じゃないって、解らせてやる……!!
ウソップがナミを説得しようとして、けどナミがそれを受けて屁理屈を捏ねる。サンジとウソップを守る為に大義名分を振りかざして、死地へと向かおうとするんだ。
でも、ウソップはそれを許さない。こういう所が、仲間にって俺が望んだ理由だと思う。
理由はいつも、後からついてくる。欲しいと思う奴は、皆良い奴だ。
「何も出来ずに守られるだけの立場に当たる人間の気持ち、少しは考えたらどうなんだよ!」
血を吐くようなウソップのその言葉に、俺も震えそうになる。そうだ、俺もいつも、守られてるだけだった。
いつもナミは1人で怪我して、1人で血に濡れて、心を傷付けて苦しみながら……それでも、俺達が無事ならそれでいいと笑ってたんだ。今度こそ、惚れてる相手をこの手で守りたい。
「……ナミさん、俺は慟哭を上げて涙を落とす君を、勝手に護りたいと思う。これは俺の我儘だ、だから気にしなくていい」
サンジが優しい声を響かせる。ナミが、それに何も言い返せずに立ち尽くす。
誰にでも優しくて、身内には甘くて、なのに自分にだけ厳しい女。俺の……初恋の女。
「君は……戦うには綺麗すぎる……。そして、優し過ぎる。残酷な程に、ね」
続いたサンジの言葉に、俺は内心同意する。その通りだと、心から思わされたから。
その時、ナミの身体が微かに震えた。泣くのを耐えてる時のナミの表情になってるのを見て、俺は決意する。
ここまで感情が戻り始めてるなら、後はナミが俺を信じて待っていてくれたら解決出来る。……少し、休ませないと、隠してるつもりみたいだけど、ナミは血も体力ももう限界の筈だ。