波間の向こうを目指して(新・本編side) 作:夢枕 七変化
呼吸と容態が落ち着いたのを確認して、俺はそっとナミの傍を離れる。入れ替わるように入って来た小さな船医に笑いかければ、心配そうな顔をされちまう。
「……ナミなら、安定したよぃ。もう死ぬ事は「マルコが、キツそうに見えるんだ。最近ちゃんと寝てるか?」」
思いもよらない言葉に動きを止めると、睡眠はストレスの緩和も含めた多くの役割を担うから疎かにするなと言われちまえば、ありがとうの他に何が言えるだろう。甲板に出て居る事を伝えて数歩歩けば、何故か蜜柑の香りがしてそちらに足を進める。
向かった先に蜜柑は当然無くて、何なんだと首を傾げると今回の騒動の引き金になった女が歩み寄って来た。その女からもナミと似た香りが僅かにするのが、少し気になったが。
「まさか、有名な〝白髭海賊団〟の隊長にお会い出来るとは思わなかったわ」
「アラバスタでは、仲間じゃなかったんだったねぃ。アラバスタでは、1時的にだが俺だけでなくエースも行動を共にしていたよぃ」
「エース……ルフィの兄で、ナミの弟だと聞いてるわ」
何を聞いたのか、妙に優しい顔をした女は……そうだ。ニコ・ロビンと言ったな。
悪魔の子としての呼び声が高過ぎて、その名を思い出すのに時間がかかった。だが……確かに悪魔の子と呼びたくなる程に美人だ。
世界政府はこんな小娘1人に、何考えてんだかねぃ。そう思ったからこそ、ナミもルフィも、仲間達も……助けに……いや、奪い返しに行ったのだろう。
ならば、もう悪魔の子とは呼べねェない。仲間に迎えに来てもらい、愛されているこの子は既に悪魔の子ではなく、1人の〝ニコ・ロビン〟と言う生命だ。
「……それよりロビン、お前ェからナミと似た香りがする上に、この辺りから蜜柑の香りがしたんだが……何かあるのか?」
「この場所から蜜柑の香りがするのは、ここにナミの蜜柑が長い事植えられていたからじゃないかしら?」
言われてみれば確かに、蜜柑の樹があったのはこの辺りだ。本体は無くなっても、香りは木製の船にしっかりとその痕跡を残しているらしい。
そう思えばなんとも不思議な気持ちになる。ここはナミが必死になって守っていた家なのだと、居場所なのだと言われた気がして何も無い部屋で意識を失っているナミを想う。
「私からナミと同じ香りがするのは、ナミが私に合わせて自分の洗剤と良く似た物を作ってくれてるからよ」
「は?」
「人によって髪質とか肌の質が違うからと言って、ナミが自分の蜜柑洗剤を元にして少し手を加えた物を作ってくれてるの。だから、僅かに違うんでしょうね」
下手すりゃ海に潜ってるからと、風呂に入らないのが普通な位の海賊稼業でシャンプーだのを使ってるだけでも珍しいと言うのに、それが手作りとは。その上人に合わせて作り替えてるとなれば、海賊を名乗るには可笑しすぎるだろうと思うのも当然。
「……ナミは、何を目指してんだろうねぃ?」
「難しい事を聞かれた気がするわ」
そんな事を言って笑うロビンに、ナミを頼むよぃと言えば分かりやすく驚いた顔をされる。この女も、ここで感情を手に入れたのだろう。
俺達が親父や兄弟達に救われ、変わったように。ここに居る奴らも、きっと互いに良い影響を与えあっている。
「貴方も、ナミを?」
「出逢う前から、堕ちてたよぃ」
「罪な子ね……。怪我は、酷いの?」
「峠は超えた。後はある程度の設備のある所で感染症対策を行えば、死ぬ事はねェよぃ」
どう考えても、この船はこれが最後の旅となるだろう。位置を考えれば、ウォーターセブンまで帰れるかの瀬戸際。
帰れたとしたならば、標準より少し高い医療の島である事を考慮すればナミの生命に関わる事は無いだろう。船大工の島であるから、外科はいくらいても、いくら技術があっても足りない程なのだから。
今回のナミの問題は、内臓ではなく外傷だ。外科に強い島に行って生命を落とさせる事は、あの市長がさせないだろう。
……そう言えば、ナミの書いた小説の中に今回の事件を彷彿とさせる物語があったな。帝国領内にある小さな王国の国王の元に現れた美人秘書は、皇帝により派遣された皇帝に忠誠を誓った暗殺者だと言う内容。
暗殺者は国王やその付近にいる近衛兵達に絆されて、葛藤するようになる。それでも、命令に背けずに国王暗殺を企み……と言うストーリーの話。
本当に……ナミには何が見えてんだかなぃ。そう考えた時、脱力したのは不可抗力だろう。
そんななかであ、何も無い船の上で、ルフィ達は暴れ出す。怪我も治りきっちゃ居ない筈なのに、楽しそうに遊ぶ姿はあどけない普通の少年達だ。
まァ、俺達も似たようなところはあるがねぃ。だからこそ、俺達は海賊をやってんだからなぃ。
そんな事を考えていると、空を飛んでいる船の上でエースの幻が見えた気がした。こんな賑やかで当たり前な光景の中に、エースが居ない事に慣れたくねェなぃ。
そう思ったら、少しでも早くエースを探さなければならない事に気付く。幾度もナミから注意され、警告され、ヒントまで貰っていた。
なのに……このままにはできねェだろぃ。おめおめと何も出来ずに終われば、俺達は家族を喪うだけでは済まないだろう。
そんな事を考えていた時、船室からナミが巨大化した船医に抱えられて出て来た。血の気のない顔をしているのに、平然と微笑む姿は本当に怪我とかに慣れきった人間のそれだ。
「皆、ナミが起きたぞ!」
その言葉で全員が反応して、その中でナミの微笑みの理由がルフィだと気付かない程鈍くはなれない。それ程迄に、惚れ込んでんのかよぃ。
そんな事を考えながら見つめていれば、船は海面に降り立ち、それでも壊れる事なくその姿を維持している。このまま島まで帰れるかは分からねェが、この船はこいつらの安全が確保される迄は踏ん張るだろう。
「健気なもんだな。想いも、言葉も届きやしねェとわかってんだろうに」
思わずそう語りかけちまうくらいには、俺もこの船が可愛い。俺はお前の最期に、付き合ってやる余裕は無さそうだが、大切な人達に見送られるんだ……それで、充分なんだろう?
せめて、その想いが、伝わる事を祈ろう。戦場で僅かに聞こえたあの声がこの船の物だとするなら、最期の時に僅かにでも良いから仲間と想いを伝い合える事を祈ってやるくらい、嫌われ者の海賊にも許されるだろうからな。
「ナミは目を離すとすぐに死にかけるから、俺凄く忙しいよ」
「ふふ、チョッパーが優秀だから甘えてみてるのよ」
「甘えられるのは嬉しいけど、怪我されるのは嫌だぞ、俺は。……俺は、ナミに元気でいて欲しい。ゾロとナミの怪我はいつも尋常じゃねェし、ウソップも怪我し過ぎだし……外科ばっかり実践経験増えてる気がするよ」
「まぁ、アイツら病気にならない生き物だから」
楽しげに笑うナミと、珍しく困りきった顔をしてる船医を見ながらそっとルフィに声をかける。俺は、エースをどうにかしないとならないからねぃ。
正直に言えば離れ難い。こいつらといるのは、それはそれで楽しいものがあるし、ナミは心配だ。
それでも俺は、俺の大切な弟を見殺しには出来ねェ。何より、家族が泣くような未来は本当に不要だと思っているんだよぃ。
「どうやらエースはここにいねェみたいだし、もう大丈夫そうだから俺はまた探しに行くよぃ。皆、元気でな」
「おっさん!ありがとう!」
「……おっさん、だがよぃ……。まァ、エースの弟じゃ仕方ねェか」
「待って!マルコさん、エースはどうなってるんですか!?」
未練になりそうで声をかけずに行こうとしたのに、当人から声がかかるとはねぃ。上手くいかねェもんだ。
そう思いながらも傷に触れないように、そっと支えてやれば身体から力を抜いたので内心でホッとする。それからこれ迄のあらましを掻い摘んで説明すれば、ナミは頭を抱えた。
その行為には俺も同調したい。ナミと俺は案外、本質が近いのかも知れないねぃ?
だが、苦労性な所の他は似てないねぃ。ナミは、甘過ぎる。
「相変わらず、優しくて甘い姉ちゃんだなぃ。また、機会があれば会おう。エースは見付けたら連れ戻すから、そんなに心配するなよぃ」
頭でも撫でて、唇も奪ってやりたい衝動に駆られるが、怪我人を襲う趣味を持ち合わせてはいない為に俺は姿を鳥に変える。そして、何か言いたそうにしていたナミを残してその場を飛び立つ。
それからエースの目撃情報や食い逃げ情報を元に探し回り、結局数日かけてウォーターセブンに帰って来ちまった。あの馬鹿……何処に隠れてやがる。
間違いなく俺から逃げ回ってると分かる動きに、思わず溜息が落ちた。その時見覚えのあり過ぎる緑頭がイライラと言うより不安そうにしているのが見えて……ゾロが平常心を無くすなら、仲間に関してるねぃ。
「どうしたよぃ?」
「マルコ!?……じつはさっき、ナミが危険な状況に陥ってな。その事をエースに伝えたら、エースが助けに行くから待てと言われたんだが……その後どうなったのか分からねェ。その危険が去ったのは確認したんだが、なら何故エースはナミを連れ帰らねェのか」
そうして話を聞いてみれば、ゾロとしてもエースとナミを探し回ったり色々したらしいとわかる。元の危険な存在が、海軍大将である青雉だと知れば溜息も落ちた。
本当に、変な男引き寄せる女だよぃ。それにしても、そうなれば考えられるのはひとつだねぃ。
エースが助けに入った時には、既に襲われてたナミが居たのだろう。それを見て、理性が切れたエースが野獣と化してるだろうねぃ。
これだから、若い奴ってのは……。泣く事もできずに怯えるナミが、見えた気がした。
「ゾロは仲間達の所へ帰れ。いいか、ゾロとナミは買出しの途中、偶然俺を見付けた。その後はナミと俺は情報交換していたんだ。だがナミは俺との会話の途中で傷が開いた為、俺が治療してから帰す事になった。……分かったなぃ?」
「分かった。なら、適当になんか買って帰る。今は宴の途中なんだよ」
「なら、酒か食いもん、もしくは両方を買って帰れよぃ。足りなくなって来たからと言えば、怪しまれねェだろぃ」
頷いたゾロに、仲間に上手く伝えておけよぃと告げてから、見聞色の覇気でナミを探す。意識があれば良いんだが……。
その時オロオロしてる様子の人間達に気付き、そちらへと足を進める。エース関連なら、困る人間が出るのは当然だからねぃ。
そうして少し調べればエースが借りてる部屋も判明して、誰の気配もないその部屋に踏み込む。そこには明らかに乱暴された様子のナミが、力無くその身体を横たえていた。
完全に意識のないナミを抱き上げれば、エースの好むコロンの香りがしてあの馬鹿……と内心で舌打ちしてから、とりあえず半分程張った湯船にナミの身体を入れておく。その間に部屋の方を対処して貰うよう頼み、ナミを清めちまう。
何をしても目覚めないナミに、何したらこうなるんだと思いつつ、あの大怪我の直後である事を思えば当然かとも気付く。その上直前に大将と戦ってんなら、疲弊していて当然だろう。
簡単に犯された訳じゃねェだろうからねぃ。ナミの事だ、精一杯戦い、そして襲われたのだろう。
大切な人間を人質に取られたとかなぃ。……海軍の、正義の人間が聞いて呆れる。
ナミにバスローブを着せてベッドに寝かせると、武器や荷物を纏めてから、少し部屋を出る。服が……ねェ。
あの馬鹿、破いて犯して燃やしたか……?
そんな事を考えながらも、衣服を揃えて戻りつつエースの借りていた部屋を追加で今日も借りられるように支払いを済ませる。今日中に目覚めるとは思うが、肉体的にも精神的にも動けるかは未知数だからねぃ。
帰ってからその頭をそっと撫でれば、ナミの瞼が痙攣した。どうやら目覚めるらしい。
そして目覚めと同時に何やら動こうとして、動けずに驚愕してる様子を見ればそうなるよなぃ……と思う。なので休んでろとの言葉の代わりに頭を撫でれば、ナミは唇を動かすだけで声を出さない。
……声が涸れたか。……なんで、この状態で大丈夫とか言ってんだ、このボケはよぃ。
〝あれ?動けない。あ!私は大丈夫ですから、心配なさらないでください!〟
唇の動きを読めばそう言ってるのは分かる。本当に嫌になるよぃ。
「大丈夫じゃねェから、大人しく寝てろぃ」
「まるこ、さ……」
「今は、喋るなぃ。わかってる事は説明してやる」
そうして簡単に説明してやれば、ナミはそれを正しく理解したらしい。エースの馬鹿野郎。
大切な相手なら傷つけてんじゃねェよぃ。そう思いつつ、そっとその瞼を覆うようにして寝かせようとすれば、手が掴まれた。
何か言いたいのだろう。恨み言くらい聞いてやるべきだとわかっていながら、俺は懺悔するように口を開いていた。
「……ナミ、そのままで聞いてくれるかい?」
俺は長く行きた。親父に言えばヒヨっ子がと笑われるだろうが、エースやナミに比べれば倍以上生きている。そんな俺でさえエースの気持ちはわかっちまう。
だからこそ、謝りたい。これは、エースを捕まえられなかった俺の責任でもある。
エースの気持ちは知っていた。離れる前に、ナミにエースに対して、注意するように告げる事さえできなかった俺の罪は重いだろう。
心優しいこの少女は、恐らくエースを恨みはしない。ただ、己の無力を嘆き自分を責めて……ルフィに言えずにその心を縛るのだろうと分かるから……。
だから、つい、エースを理由にして俺の想いを伝えていた。惚れてんだと……本当に、愛しいのだと。
それをどう判断したのか、混乱してる様子だけが伝わる。……これでも、女に不自由した記憶はねェんだが、こんな反応返されるとは思わなかったよぃ。
「ナミに自覚があるかは分からねェが、エースに襲われて、体もつらいだろうが……心はもっと疲弊している」
自分にだけ厳しいナミに、休むよう言い聞かせる。これでナミは、案外素直だから言えばちゃんと聞く。
休む事も大切なんだと、そう告げる事が大切なのだ。叶うならば、ナミを傍で護ってやりたいねぃ。
「俺には心を癒す事は出来ねェからなぃ。心の安定は、眠る事でしか得られねェから……今は眠れ。何処にも行かねェで、守っててやるから……な?」
「……ェー、す」
守ってやる?……違う。
守りたいんだ。俺が、ナミを、この手で。
そんな俺にナミは声も出せない癖に、唇を動かして必死で言葉を返そうとする。エースが弟として愛しく可愛い事、そして恨んでも憎んでも怒ってもいない事を必死に伝えようとするそれは、少しばかり痛々しい。
守りたいと願っても、俺は親父がどうしても大切で……家族から離れるなんて選択肢は無い。互いの優先順位か決まってる以上、軽々しく手は伸ばせないと理解もしている。
「……声を出さなくても、唇の動きでわかる。伝えたい事があるなら、動かせばいい」
医者なんだ。読み取るくらいできる。
声を出せない仲間もいる。声を出せなくなった患者もいる。
それくらいできないで、船医が務まるかよぃ。まァ、これを言うと他の船医達から勝手に船医のハードル上げんなと怒られるけどなぃ。
そう思って笑った時、ナミはゆっくりとその唇を動かした。前に聞いた、夢見の話を覚えているかとの問い掛けに頷けば目を疑う様な言葉を紡がれる。
音にされなかったそれは、俺の思考さえ僅かであれ止める程の威力。エースを喪うその流れと、戦争が起きる理由。
それを知り説明できる知識量……それだけでも世界的に見て恐ろしい程の価値があると、何故この少女は分からないんだ。己の稀有な能力を当然として、けれどもそれを誇るでも無く、利用するでもなく、ただ……大切な存在を守る為にだけ使おうとする。
……敵わないねぃ。このお人好し……護らないでいられる理由がわからないよぃ。
「(その戦争で起きる大まかな事をお伝えしておきたいのです。この先でエースを連れ戻せなかった場合を考えて……)」
この時、ナミの眼を見ていたら俺は呑まれていただろうと確信する。気高すぎる、女王の気質。
なァ……ナミよぃ。お前は、なんの王になる為にこの世に現れた?
「是非、聞きたいよぃ」
名だたる男達を虜にするのは、その気質故か。心優しいだけの少女に、この運命はキツイだろうが……世界はナミを捨て置く事を許さねェだろうなぃ。
そうして語られるナミのそれを、メモしつつ質問を繰り返していけばまるで
「十分に有り得る話だなぃ」
そのままそっとナミの頭を撫でてやれば、気持ち良さそうにする。それを見てそのまま眠りに落ちるのを確認してから、親父に電話を入れたのは当然の事。
エースをもう少し探してダメなら、1度帰れと指示された俺はそれに逆らうつもりもない。エースを助けるには、この情報を全て確認して皆で対策を練るべきだからな。
その通話が終わる頃、魘されるナミがいてそっと手を伸ばす。痛そうに、苦しそうに歪められるその表情。
「ナミ!」
声を掛けると縋るように伸ばされた腕。……おっさんになっている事に、これ程感謝する事になるとはねぃ。
そんな事を思いながら、そっと抱え込むように抱き締める。細くて、柔らかなナミからは、良い香りまでするのだから、たまらない。
不死鳥の力が役立つなら、本当に有難い。心に影響を出せるかは分からないが、減るもんでなし……いや、むしろ能力を使う事でそっちのやる気が減るかもねぃ。
甘えるように、縋るように回された腕。スリスリと擦り寄り……囁かれたのは……。
「ルフィ……ルフィ……っ!」
敵は、恐ろしく強大だった。そんな事を考えながら俺はナミか目覚めるその時まで、共に休む事を決めたのである。