波間の向こうを目指して(新・本編side) 作:夢枕 七変化
草になろう
その頃の事は、朧気にしか覚えていない。でも、戦場にあってなお笑うその小さな命に手を伸ばさずには居られなかった事だけは、何故か鮮明に覚えてる。
きっとあれが私の人生において、大きな分岐点だったのだろうと今なら分かる。あの時ナミを拾っていなければ、きっとベルメールさんは私の存在に気付く事は無かったし、私もベルメールさんに気付かれなければ遠からず死んでいたと思う。
荒れ狂う嵐の中で、私とナミを庇いながら自分の生まれ育った島に連れ帰ってくれたベルメールさんが、親になると言ってくれたのを聞いて、私はよく分からずにいた。だってその時にはもう、私の中で〝お母さん〟はベルメールさんの事だったから。
私やベルメールさんの話を聞いて、皆がナミの笑顔を見たがったのは当然だろう。明るく、穏やかに笑うそれに何度見ても子供らしくないなと思うけど、それに救われてるのだ。
ゲンさんがナミの笑顔見たさに風車を帽子に付けたのは、皆の中では微笑ましいエピソードとして残った。けど、その話の中心に居るべきナミがハイハイで動けるようになる頃には、変な子だと皆が思うようになっていた。
だって……その時点で普通に本とかを読み漁っていたから。既に奇妙なんてレベルじゃない。
でも、私にはそんなナミもやっぱり可愛くて仕方ない。この時点で私も、相当な姉馬鹿だと思う。
ただ、成長するに従いその活字への執着が強くなって心配にはなったけど。アルコール中毒みたいに、ナミは活字中毒なんだろうって皆で話していたのは懐かしい思い出。
そんな日々もナミが時々泣きそうな顔で楽しい筈の話を読んでいれば、何かあると気付けてしまい終わりを告げた。多分、私が聞かなければナミは今でも何も教えてはくれなかったと思う。
強がりで、それでいて失う事を極端に怯える優しい子。私の大切な愛しい妹。
怖い夢を見たと、何度も繰り返して見たのだと震えながら話すナミは、きっと天才。出来ない事は何も無くて、何もない所から何かを作り出して……そして、その小さな体で私とベルメールさんを常に全力で守ろうとしてくれる。
この子は、天使なんだと思う。だからこそ、突然天国に帰ってしまうんじゃないかって、何度も不安になった。
だってナミはいつも遠くを見ているから。私やベルメールさんを大好きだと、愛してると全身で表現するのに、どこかで1線引いて眩しそうに見詰めるから。
それが……私にはずっと寂しかった。重すぎたり、強過ぎたりするように感じるその愛に、私が小さく体を震わせるのは、その愛情の記憶だけを遺してナミが消えてしまうような気がしたから。
そんなナミは5歳になるとそれを待っていたかのように、海へと飛び出して行く。お金と共に帰ってくるナミのおかげで、生活は格段に良くなり楽になった。
ベルメールさんは私もナミも分け隔てなく厳しく教育してくれて、その中で気付いた事があった。治療とかは1瞬で覚えるのに、攻撃も躱せるのに、ナミは攻撃が極端に苦手だ。
その為に私と組手とかやっても明らかにナミは逃げるだけで、私は攻撃を当てられずに振り回されるだけ。だから多分私の攻撃は相当な速度になってると思う。
何度やっても殴れないナミは、いったいなんなんだと言いたくなる程に素早い。……猫?人じゃなくて猫なの?
そんなナミがある時海に出たきり、突然帰らなくなった。定期的に手紙は届くものの、その帰らない期間はなんと2年。
……あれだけ大好きだと言いながら、忽然と姿を消して帰らなくなった妹に、どれだけ心配したか。怒り狂う私を穏やかに笑って受け止めて、それなのに私が泣いたら本当に困った様子を見せたナミ。
それに何より、2年でナミは恐ろしく強くなっていた。そして……綺麗になった。
それからはずっと共にいてくれるようになったし、前よりも1緒に歌ったりする時間も増えた。多分その頃が私達家族にとって、1番穏やかで楽しい期間だったと思う。
ナミは離れていた期間に出逢った人達の事を、楽しそうに幸せそうに話してくれた。優しくて、頼りになる兄のような〝ベック〟と、そのベックに迷惑掛けてばかりの少年のような暖かい人。
その人は師匠で、それにより希望が持てたと微笑むナミは大人びて見えた。その人物を基本的には師匠と呼んでたけど名前は〝シャンクス〟と言うらしい。
同年代の友人であり弟みたいなのが3人出来たのと明るく笑ったナミ。ヤンチャで生意気で、無鉄砲で早熟な……何よりも心配な弟が居るのだと言って〝エース〟と何度も不安そうな顔をして見せた。
それの他に、優しくて賢い弟として〝サボ〟と言っていた。けど、何かに付けて1番語ったのは、小さくて可愛い弟分の〝ルフィ〟だろうと思う。
もう既に弟では無くて息子に近い勢いで溺愛してるナミの言動に、私もベルメールさんもつい笑ってしまった。ルフィ、シャンクス、ベック、エース、サボ、この順番で多く語られるそれは、本当に楽しそうでそれなら帰れなくても仕方ないかと思わされた程。
でもそんな日々は、本当に突然終わりを告げた。そう……ナミが怯え続けていた事が、現実となって襲い掛かってきたから。
その日ベルメールさんが作ったワンピースを見て、怯えた様子で飛び出したナミを追いかけたのは、嫌な予感がしたから。何かを感じ取ったのだろうか、ベルメールさんもまたナミと2人で早く帰ってきてと言う。
「ご馳走作って待ってるわ」
「うんっ!」
それから急いで追い掛けたのに、ナミの足は異様に早くて全く追い付けない。でも、居場所なんてわかり切ってるから、姿は見えなくても必ず会えると追い掛ける。
いつも前を走るナミは、今回のようになんの前触れも無く突然姿を消してしまう。でも、きっと私が転べば心配してどこからともなく帰って来てくれるのだという事も知っている。
……違うんだよナミ。私もベルメールさんも、そんな事を望んでる訳じゃないの。
ただナミに幸せに笑っていて欲しいだけなの。自分の事をどうでもいいものみたいに扱わないで、私達が心配してるのはいつでもナミの事なんだよ。
息を切らせてゲンさんの元へ到着すれば今にも泣きそうな顔で、絶望に満ちた雰囲気でナミは私を見詰めた。だから、確信してしまう。
「ナミ、約束したでしょう。必ず守るから、大丈夫だから、ね。……今日なんだね」
私の言葉にナミは腕の中で小さく頷くから、やっぱりかと思う。ゲンさん達を守りたかったんだって分かってしまえば、ナミが飛び出した事も叱る気にはなれない。
いつも走るのは、必死になるのは、自分以外の〝誰か〟の為で……。どうして、自分を大切にしてくれないんだろうと泣きたくなる。
愛しくて、可愛くて……少し、憎い大切な妹。言葉もそうだけどね、愛情だって1方通行なんてダメなんだよ。
独りになろうとしないでよ、ナミ。私は、私達は……そんなにも頼りないかな。
私達はナミの重荷にしかなれないのかな?
天気の予報を外さないナミだから、胸騒ぎがすると言えばそれも信じて貰える気がして口から言葉を紡ぎ出せば、キラキラした眼差しで私を見てくるナミ。そんな顔を見れば、何考えてるか位は分かる。
どうしてこんなにマザコンでシスコンなんだろうって思うくらい、ナミは私とベルメールさんを大好きだ。既に信仰に近いような気がする時もある程に。
無言で拳をナミの脳天から振り下ろせば痛いと言うけど、反撃はして来ない。小首を傾げる色々な意味で勿体無い妹に、溜息が自然と落ちる。
手を握り走り出した時、奴等は姿を見せた。木の所……林に隠れるよう言われた私達は、そこで様子を伺う。
「夢が、そのまま現実に……」
こんな光景を何度もナミは見ていたというの?
そして、コイツらによってベルメールさんはその命を散らして、ナミは拉致されるの?
……そんな絶望しかないそれを見ていたのならば、あの異様な焦りも分かる気がした。それ位に敵は凶悪で……。
青ざめて震えるナミを見れば、いつもその小さな体で必死に私達を守ろうとしてくれていたのを思い出す。だけど、今は守らなくていいよ。
お金はナミが貯めてくれた。だから、ベルメールさんだって死なない。
大人しくしてれば、誰も死なない未来に進めるんでしょ?なら、そんな顔して魚人を見ないで、命を……捨てようとしないで……!
「お金はあるから、見付かっても大丈夫。誰も死なないよ……」
「そうだね。でも、ベルメールさんが心配だから、早く帰ろ」
私はその言葉に頷いて、ナミと共に家に向かう。ナミは明らかに私の速度に合わせて走ってくれていて、何かあれば私を庇うだろうと分かる。
だからどうか、何事も起きませんようにと願う。可愛い妹、愛しい妹、少し変だけど……大切な妹なのよ。
家まで後少しと迫った所で、ドクターに捕まった私達は家に帰るなと言われてしまう。〝ナミがいるから〟他の島へ逃げる事も容易いだろうって。
皆が知ってる事だ。私は凡人で、ナミは天才。
出来ない事が何も無い代わりに、妙に鈍くて……自分を蔑ろにしやすい事を知らない人はこの村にはいない。私は感情を抑えて、ドクターに言う。
「お金ならあるから、大丈夫」
「金がある?」
「蜜柑の洗剤作ったのを、私が売りに行ってたの。蜜柑だけの収入だと、ベルメールさんも大変だと思って」
続けられたナミの言葉を受けて、ドクターはホッとした様子でその場に座り込む。それでも心配そうに、危ないからここに隠れているように言われるけど、ナミは姿を見せないと何かあった時殺されかねないからと言って走り出す。
それの後を追って行けば、大怪我をしているベルメールさんが、地に横たわっているのが見えた。正確にはゲンさんが抱えているから、その表現には多少の誤りもあるのは分かってるけど。
それを見て、私が耐えられなくて駆け寄り抱き着くとベルメールさんとゲンさんが私を愛おしげに見つめてくれる。でも、何故かこの場所にナミは来ない。
その代わりにこれ迄に聞いた事も無い、酷く冷たい声音がナミから発せられるのを聞いた。そんな声も、出せたんだと思うのと同時に、離れていた間に何があったのかと問い詰めたくなる。
「この村を解放して、2度と来ないで貰いたいと言ったら、いくら用意したらいいのかしら?」
「それは出来ねェ相談だな。お嬢ちゃん。と、言ったらどうする?」
「叩き出す」
「お前のママは、あのザマだが?」
私はベルメールさんに1度も勝てなかった。そんなベルメールさんをこんなにも簡単にズタボロにした相手にナミは、何をしようと言うのか。
止めなきゃ、喪ってしまう。止めなきゃ、守らなきゃ……!
そう思うのに、ベルメールさんの殺気で随分慣れてたと思ったのに体は動かなくて、声も出せなくて……。そんな私達を見てナミはふっと微笑んだ。
そのまま砕け散ってしまいそうな儚い微笑みは、甘く優しく、そして切ない。そんなナミの唇が動いて、言葉を紡ぐ。
「ゲンさん、ベルメールさんとノジコを家に避難させて。危ないから、出て来ないで」
「「「ナミ!?」」」
私達3人の声が重なるけど、ナミはもう決意を固めてしまっている。ああなったナミは、絶対に意見を変えない。
頑固で、意固地で、融通の効かないそれに、私は震える体に力を入れて家に移動する。せめて、ナミの邪魔にはなりたくない。
こんな魚人を相手にナミが勝てると思ってる訳じゃないけど、冷たい空気を纏って立つナミから、その緊張感を奪う事は許されないってのは分かるから。ゲンさんがベルメールさんを抱いて、私と家に入ってくれた直後、悲鳴と怒号、そして破壊音が表から響く。
その悲鳴も怒号も呻き声も、全てナミのものは無いから良かったと思う。時折ナミの酷く冷めた声が聞こえてくるので、無事なのだと分かる。
少し静かになった時、チラリと窓から確認すると全身を真っ赤に染めたナミが、血液を滴らせながら巨大な敵と切り結んでいるのが見えた。あんなにも、強かったのかと遠く離れ過ぎた実力に声を押し殺す。
私達は、ずっと……守られて来た。何も出来ずに、ただ守られて来たのだと、思い知る。
離れていた期間は、この力を得る為のものだったのだと……知ってしまえば不満に思っていた自分を殴り飛ばしたくなる。でも、傷付けている筈のナミが傷付いているようにしか見えなくて、優し過ぎる妹に、涙が溢れて止まらなくなる。
もう、霞んでその姿さえ見る事は出来なくて、そんな私を見てベルメールさんが優しく呼び掛けてくれる。その声に導かれるように、ナミだけがどうしていつもこんな目に合うのかと泣くしか出来なくて。
「どうして……っいつも、ナミだけが……!」
「居場所に、止まり木になりましょう。ナミにとって休める場所であり続けましょう。……きっとそれが1番大切な事よ」
風は己の姿が見えないから、己の存在を忘れてしまうから、私達は風に揺れる草になろう。私達が揺れて、それで初めて風は自分が存在するのだという事を思い出せるのだろうから。
何処までも草を愛して、傷付けるものに攻撃を仕掛ける。それで居て、自らの存在を否定してしまう。
でも……守られている草である私達が、風であるナミに〝貴女はここに存在している〟のだと伝える事は出来るから。きっと私達が居なくなれば、ナミは簡単にその命を捨ててしまうだろうと、それだけは分かってるのだ。
その時、外から村の人達の声が聴こえてきた。助けが来たのだとは、何故か思えなくて……嫌な予感が全身を駆け巡る。
冷静に考えて、ナミはきっと村の人達を庇うだろうと思うから。……でもそんなのはいや、ナミ、死なないで!
そう思った時、ドアが開かれる。そこに現れたのはナミでは無くて……多くの傷を受けて尚、楽し気に笑う魚人に思わず、ナミの事をどうしたのかと叫ぶ。
けれども明確な答えは貰えず、ひと睨みされただけで悲鳴さえ出せない恐怖に晒される。……こんなのを相手に、ナミは戦ってたの?
なまじっか戦えるようになってるから、その遠すぎる実力が分かってしまう。怖い、怖い、怖いっ!
震えるしか出来ない私の目の前で、魚人はナミの机に近付く。そこに積み上げられている海図を手にした魚人は、その眼を大きく見開いた。
……そうだ、ナミは〝能力に目を付けられた〟と言っていた。まさか、その能力って……。
なんでも出来るから、日常生活にて活用されないそれを見落としていたけど、ナミは天才。その天才が描いた海図があれば、魚人に敵なんて居る筈もない。
外に出て行った魚人を見送り、ナミを助けようと飛び出したゲンさんを見送り、動けないベルメールさんと残される。……私は、ただここで震えてるだけなの?
そんなの、嫌よ。なんの為に、私は鍛えてもらったのよ。
妹に守られる為じゃない、守る為に鍛えてきたのよ!ここで動かないで、いつ動けば良いのよっ!
「妹を返せ!私の大切な妹よ!アンタの達の好きにはさせない!」
勝てないのなんか分かってる。でも、ナミを奪い返すんだと、全力で挑みかかる。
それなのに、簡単に吹き飛ばされて地に転がる私のなんと情けない事か。ナミ、アンタこんなのと戦ってたの?
「姉に手を出すなら、舌を噛んで死んでやるわ!そうしたら、アーロン達が求めてる海図は永遠に失われる!」
やめて、お願い、やめてナミ!私を庇わないで!
ゲンさんがナミを助けようと、何度も何度も起き上がる。そして、血塗れで倒れるゲンさんを見て、ナミが悲鳴をあげる。
そうだ、ナミはゲンさんの事も、大好きなんだ。取り戻そうとしても、ナミを苦しめるだけなら、せめてゲンさんを生かさなければと、私はドクターを呼びに走る。
誰も死なせない。ナミが命懸けで守ろうとした全てを、守り抜いてみせる!
泣いてる暇なんて無い。ナミは……必ず、私達の所に帰ってくるんだから!
そうしてナミを犠牲に私達は、誰1人〝死ぬ事は〟無く揃っていた。数日後、切なそうに私達を見て、決意を固めた表情でナミが帰って来ると、迫真の演技をしてみせるナミに背筋が凍る思いがした。
この子がこんな事を言うなんて、何かある。そう分かるのに、その演技に乗って騙されたフリをする他に何も出来ない自分が情けなくて……。
海を見つめて、声を震わせて、お気に入りのその場所でナミはもう2度と泣かないと、そう宣言した。この時私は12歳、ナミはまだ……たったの10歳だった。