Ⅳ
その年の秋も終わりかける頃,木立の紅葉が目立ち始める頃,「淡雪」で一人のお客から話しかけられた。その人の顔は知っている。以前,ボクにパンツスーツをくれた人。その後も時々顔を見かけたけど,彼女はボクとほかのお客さんの会話を楽しいそうに聞いているだけで,それまでほとんどボクに話しかけてきたことはなかった。その人がある日,
「キミに医学的に興味がある。いろいろ調べさせてくれない?」
と話しかけてきた。
「医学的に興味があるの?」
「うん。まず,女性ホルモンと男性ホルモンの値を調べてみたい」
「お医者さん?」
「ああ,自己紹介してなかったね」
と言いながら彼女が差し出した名刺には
「九州大学附属病院第三内科 豊嶋彰子」
と印刷されている。
「『としま』じゃなくて『とよしま』と読むの。よく間違えられるけど」
「とよしま・しょうこ,さん?」
「いや,とよしま・あきこ,よ。彰子はふつう『あきこ』と読まない?」
「ボクの母が,この字を書いて『しょうこ』だったんです」
「そうなの?・・・・なにかの縁かしら。まあ,それはともかく,この種の研究は対象が成人してからの方が確定的なデータが得られるけど,わたしはキミを今の年頃から,思春期の頃から追ってみたいの。今年,14歳よね?」
「そうです。来年の1月で15歳になります」
彼女はうなずいた。
「九大病院に出かけないといけないの? 昼間に」
「ああ,キミは紫外線を浴びちゃいけないんだよね・・・・じゃあ,わたしが採血しに来ようか? とりあえず血液検査で分かるから,性ホルモンの値は。お店が始まる前の時間ならいいでしょう? もし,ほかのお客さんが入ってたら,2階の部屋で採血してもいい」
「ボクはいいけど」
と答えて,ボクはミユキを見る。ミユキは
「まあ,ロミーがいいと言うのならいいけど,あまり危ないことはしないでね」
「もちろん,危ないことはしません。ご安心ください」
その翌日,さっそく彼女は採血用の注射器とかその他もろもろの道具をもってやって来た。結果を説明してくれたのは,翌週の初め。
「なかなかおもしろい結果が出ているよ」
そう言って,結果報告書をボクに見せてくれる。テストステロンとかDHEAとか,エストラジオールとかエストリオールとかエストロンという名前が並んでいる。
「テストステロンは男性ホルモンの代表。DHEAも男性ホルモンの一種。エストラジオールは女性ホルモンの代表。エストリオールとエストロンは女性ホルモンの一種・・・・ああ,そうだ,『男性ホルモン』とか『女性ホルモン』と言うけど,1種類のホルモンじゃなくて,いくつか似たような作用のホルモンをひとまとめにした名前なの。それで,キミの場合,テストステロンの値はキミの年齢にしては低いけど病的というほどではない。エストラジオールは,思春期の男の子にしては高すぎるけど,思春期の女の子よりはちょっと低い。つまりキミは,ホルモン的には少年と少女の中間,中性なのね。両性と言うべきかな。まだ性成熟の前だとしても,こういう結果は珍しい」
「ふーん」
ボクは,昔ヒカルが言ってくれた「ロミーは女にならなくていいよ。男にならなくてもいいよ。ロミーは今のままでいいの」という言葉を思い出して,うれしくなった。それに,彼女の説明もおもしろかった。その気持ちが彼女にも伝わったのかもしれない。
「こういう話,興味ある?」
「うん」
「わたしは,キミの体のどこかに卵巣があるんじゃないかと推測している。いや,卵巣そのものじゃないよ。卵巣の細胞と同じ細胞。女性ホルモンを分泌する細胞がキミの体のどこかにあるんじゃないかなと思っている」
「ライディッヒ細胞?」
と,ボクは知ってる細胞の名前を口にした。
「いや,ライディッヒ細胞は精巣にある細胞。女性ホルモンを作るのは顆粒膜細胞というの・・・・ずいぶん詳しいね。まあ『動いている物体の電気力学』なんかを読みこなしているんだから,それくらい知ってて不思議じゃないのかな。物理だけじゃなくて生物も興味あるの?」
「うん。どちらかというと,物理より生物の方が興味がある。『生命形態学序説』とか『脊椎動物の進化』とか」
「なるほど,比較解剖学・・・・進化形態学かな,そっちの方面に興味があるのね」
「分子生物学にも興味あります。『偶然と必然』も読んだんです。おもしろかった」
「ああ,あれはどちらかというと哲学寄りだけど,でもほんとうにすごいね。その年でそんな本を読みこなしているなんて・・・・じゃあ,研究にも興味持ってくれる? キミをモルモットにするのはかわいそうと思ったけど,興味を持ってくれるなら,もうちょっと積極的に探求してみたい」
「モルモットにされるのはいやだけど,研究に協力するのは,かまわないですよ」
「それじゃ,シンチグラフィーをやらせて。ただ,この検査はどうしても大学病院に来てもらわないといけない」
というわけで,ボクはミユキの日傘を借りて大学病院に出かけた。晩秋の弱々しい日差しの下で日傘を差すボクを,周りの人たちは物珍しそうに見るけど,そんなこと今さら気にならない。
先生がその結果をもってお店に来たのはそれから1週間後。
「ちょっとがっかりしてるの。エストラジオールを標識してシンチグラフィーしたんだけど,期待に反して体のどこも濃度がほぼ同じ。エストラジオールが集中している場所は1つも見つからなかった」
「つまり,どういうこと?」
「つまり,エストラジオールを産生する細胞が集中している組織や臓器はどこにもないということ。どこかに,特に副腎あたりに,ホルモン産生腫瘍でもあるんじゃないかと期待したんだけどね」
そう言って,先生はシンチグラフィーの写真を眺めている。そして,鞄から1枚のチャートと取り出して,じっと見つめている。
「それは何?」
「ああ,これはステロイドホルモンの合成経路の図。ステロイドホルモン,つまり副腎皮質ホルモンと性ホルモンはコレステロールから作られるんだけど・・・・ここ」
と言って,図の端の方にある構造式を示し,
「これがテストステロン,つまり男性ホルモンの代表みたいなホルモン。そして,このテストステロンにアロマターゼが作用するとこのエストラジオールになる。エストラジオールは女性ホルモンの代表ね」
「アロマターゼ?・・・・芳香族?・・・・あっ,ほんとうだ。エストラジオールにはベンゼン環がある」
「さすがね。有機化学も勉強してるんだ」
「うん。少しは」
ボクは自慢げにニッコリ笑った。
「じゃあ,テストステロンとエストラジオールの構造の違い,この6員環がベンゼン環になっているけど,それ以外の違い,見つけられる?」
ボクはもう一度しっかりとテストステロンとエストラジオールの構造式を見比べる。
「ここの水素が取れているのは,ベンゼン環になるために炭素が二重結合したからですね」
「そうだね。ほかには?」
ボクは見つけられない。
「キミは,有機化合物の命名法は知っている?」
「基本的なことは」
「それなら,エストラジオールの『ジ・オール』から推測できるでしょう・・・・」
「・・・・つまり,OH基が2つある・・・・あ,あった。6員環の酸素に水素が結合している」
「そういうこと」
ボクはまた2つの構造式を見比べる。
「たったこれだけの違いなんだね。男と女の違いって」
「まあ,男女差にはいろんな次元があるけど,ホルモンについてだけ言えば,確かに,『たったこれだけの違い』ね」
「だったら,ほんとうに,男か女かなんて,どうでもいいことだね」
「・・・・まあ,男女差はホルモンだけで決まるわけじゃないから,それはちょっと論理の飛躍だと思うけど・・・・でも,そう信じることがキミを勇気づけるのなら,そう信じてもいいよ」
そう言って,彼女はボクの肩に手を置き,ボクを見つめる。ボクは彼女の視線がまぶしくて,顔を伏せ,もう一度「ステロイドホルモンの合成経路」の図を眺めた。そして,ふと思いついた。
「ねえ,このアロマターゼが働き過ぎているってことはないの?」
「アロマターゼが働き過ぎている?」
「つまり,ボクの体のアロマターゼは勤勉すぎて,テストステロンを片っ端からエストラジオールに変換している。それでボクはテストステロンが少なくてエストラジオールが多い,というわけではないの?」
彼女は意表を突かれたようにボクを見る。そして,つぶやいた。
「それは考えていなかった。でも,コロンブスの卵ね。言われてみれば,なんで今まで思いつかなかったのだろう。ホルモン活性過剰というアイデア。ホルモン欠損症はたくさん知られているけど,逆はあまりない。でも,あってもおかしくない。問題は,それをどうやって検証するか・・・・まあ,それはゆっくり考えればいい」
そして,ボクに語りかける。
「前々から思っていたけど,ほんとうに賢い子ね」
そして,しばらくボクを見つめてから,
「キミの知性が花開くのを見てみたい」
とつぶやいた。ボクは,ハッとして彼女を見つめる。
「医者になる気はない?・・・・医者じゃなくてもいいけど,医学を研究する気はない?」
「医学には興味があります。でも,ほかにも興味あることはいろいろあります。ダンスとか・・・・今,突然,医者にならないかと言われても」
彼女はちょっと苦笑いした。
「まあ,キミの年頃なら,そうだよね・・・・今すぐとは言わない。でも,いつか研究の世界に入りたいと思ったら・・・・そうだ,急に現実的な話になるけど,大検は取っておきなさい」
「ダイケン?」
「大学受験資格検定試験というのかな,正式には。その名のとおり,高校に行かなかった人たちに大学受験の資格を認める検定試験よ。高校の国語,数学,理科,社会,英語が試験科目。キミなら簡単に受かるよ」
「でも,何のために?」
「キミが,いろんなものへの興味を一通り満たした後,学問の世界に身を置きたいと思い立った時,すぐに大学を受験できるように」
「ありがとうございます。ボクの知性を高く評価してくれて」
「事実を認識してるだけよ」
それから1週間ほどして,彼女はお店に分厚い本をもって来てくれた。
「J.D.ワトソンの『遺伝子の分子生物学』の初版よ。キミにあげる」
「いいんですか? こんな高そうな本」
「わたしは最新版を買ったから。ああ,だからと言って,もう役に立たないお古を押しつけるというわけじゃないのよ。キミには初版を読ませたいの」
「・・・・?」
「つまりね,若い人,これからその分野の勉強を本格的に始めようとする人には,その分野についての最新の正確な知識を伝えるだけでは不十分なの。その前に,まずその分野への興味を呼び覚ます必要があるの。そのためには,ただ正確な知識を羅列しただけの本ではだめなの。著者の熱意,著者自身がその分野に寄せる情熱が行間から伝わるような本でないとだめなの。えてして,その種の情熱は初版には溢れているけど,版を重ねるにつれ,記述が洗練され,構成が整理され,最新の知識が補われていくプロセスの中で失われがちなのね。確かに,初版には,今から見れば不十分な点や,時には間違いも含まれている。でも,そんなものは,キミが分子生物学に興味を持って自分で勉強していけば補える。でも,キミに分子生物学への興味を呼び覚ますには,多少の欠点はあっても著者の情熱が伝わるような本の方がいいの」
彼女の言うことは,納得できた。たとえば三木成夫の『生命形態学序説』を読んだ時,そんな印象をもった。子供のボクが読んでもこの本には著者の独断が含まれていると感じる。この記述はひょっとしたら間違いかもしれないと思える。でも,そんな欠点を越えて,この本はボクに進化形態学への興味をかき立てた。似たようなことはほかのいろんな分野でもあるのだろう。
「著者のJ.D.ワトソンはF.クリックと共にDNAの二重らせん構造を解き明かした人。1953年のことね。それから分子生物学の熱狂の時代が始まるんだけど,この初版が出たのが1964年。その熱狂の真っ最中ね。著者の情熱だけでなく,時代の熱気も感じるかもね」
こんな言葉を付け加えて,彼女はボクにその本を手渡した。
「ありがとうございます」
この頃から,彼女は「淡雪」でも,ボクに話しかけるようになった。たいてい,
「今,どんな本を読んでるの?」
と訊かれて,ボクがその時読んでいる本のタイトルを答える。すると,その本について,あるいはその本に書かれていることに関連する分野についての会話が始まる。ごくたまに,ほかのお客が会話に加わることがあるけど,たいていは彼女とボクの会話はほかの客たちには理解できないようだった。こんな知的なテーマについて会話できるのがうれしかった。ヒカルが死んでから,こんなことを誰かと語りあうことはなかったから。彼女は専門の医学のほかにも,いろんなことを知っている。ボクは彼女を尊敬するようになった。
2階の部屋で採血する時や,たまに九大病院に出かけて彼女に診察を受ける時,ボクは自然に「先生」,「豊嶋先生」と呼びかけている。だから「淡雪」でもそう呼びかけたら,
「ここで,その呼び方はやめて。ここでは『豊嶋さん』か『彰子さん』と呼んで」
と言われた。仕方なく「豊嶋さん」と呼ぶようにしたけど,ボクは不満だった。なので,2階の部屋で採血している時,話しかけた。
「ボクは『先生』と呼びたいんです。先生って,もともと尊敬と憧れを込めた敬称ですよね。ボクは先生を尊敬し憧れています。だから,先生と呼ばせてほしいんです。ほかの人がいる時にも。お医者様だから先生と呼ぶんじゃないんです」
そう言いつのるボクの頭を撫でながら
「分かったわ。その気持ち,とてもうれしい。わたしを尊敬しているというその言葉,素直に受取るわ」
「ありがとう,先生!」
先生はボクを優しく見つめてくれる。
「もう1つお願いがあるんです。お願いばかりで申し訳ないけど・・・・」
「なあに?」
「ボクのことは『キミ』でもいいけど,ロミーと呼んでほしい。親しい人はボクをそう呼びます。自分でも気に入ってる呼び名なんです。姉が付けてくれたんです」
「お姉様って,あの,お亡くなりになった」
ボクはうなずく。
「そう・・・・そういう由緒のある呼び名なのね。うん,いいよ・・・・ロミー」
「ありがとう,先生」
年が明け,しばらくして,ボクは15歳になった。3月末,学校の人がボクに卒業証書を届けてくれた。1年の1学期から3年の3学期まで,学校の職員さんが中間試験と期末試験の問題をもって来てくれて,ボクが解いて解答用紙を届けていた。詳しいことは分からないけど,それで卒業を認めてもらえるらしかった。それを聞いた豊嶋先生は
「確か,大検は中学卒業が受験資格なのよね。だったら,今年の夏,受けてしまえば。ロミーなら,今年のうちに全科目受かるよ」
と,ボクに勧めた。
「じゃあ,その気になれば,ボクは来年から大学に行けるの?」
「そうではないみたいね。わたしも気になって調べたけど,仮に15歳とか16歳で全科目合格しても,大学を受けられるのは18歳を過ぎてから,つまりふつうに高校を卒業する歳になってからというルールみたいよ」
「ふーん,そうなんだ」
「でも,あと3年よ。3年なんて,あっという間よ」
そうなのかな? あっという間に3年が過ぎて,ボクは18歳になるのかな。それからまた2年があっという間に過ぎて,20歳になるのかな。大人になるのかな?・・・・ジュリアは,20歳くらいのはず。リリーさんはもうちょっと年上。今のボクには彼女たちは自分とはかけ離れた大人に思えるけど,あっという間にボクも彼女たちみたいな大人になるのかな?・・・・考え始めると,不思議な気分になった。
その夜,ミユキは2階の部屋にふとんを2つ敷いた。
「今日からは別々に寝るのよ。いくらロミーが中性みたいだっていっても,ふつうなら高校生になる歳なのよ。もう,わたしと一緒に寝ちゃだめよ」
ボクは驚いてミユキを見る。〔どうして,高校生になったら,一緒に寝ちゃいけないの?〕と問いたかったけど,ボクは黙っていた。問うても無駄と思えたから。
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- (ミユキ視点)
ロミー,そんな切なそうな目で見ないで。
今日,ロミーと豊嶋先生の会話をはたで聞いていて気がついた。ロミーはもう高校生の年頃だってこと。そして,「かわいい」んじゃなくて,「美しい」と言うべきだということ。あの天使のようにかわいかったロミーが,いつの間にか花のように美しい人に成長している。だから,もうわたしと一緒に寝るべきじゃないの。もうそんな年頃じゃないの。
「男とか女とか,そんなのどうでもいいってロミーは言うけど,どうでもよくはないの。それに,もしロミーが女だとしても,もう叔母と一緒に寝る年頃じゃないのよ」
ロミーは寂しげにうなずいてくれた。
その夜,わたしはなかなか寝付けなかった。これまで3年くらい,いつも感じていたロミーの体の温もりが感じられないからかしら・・・・。隣の布団に目をやると,ロミーはいつの間にか安らかな寝息をたてている。そうね,不眠なんてまだ縁のない年頃ね。・・・・明かりを消した部屋で,ロミーの端正な横顔を眺めている。これからもっと美しくなるのかしら? どこまで美しくなるのかしら? -
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その年の夏,勧められるままに大検を受けたら,先生の言ったとおり全科目受かってしまった。
それから1年が穏やかに過ぎた。その日その日でいろんな出来事はあるけれど,過ぎてしまえば,「あっという間」とも思える。ボクは16歳になり,春が過ぎ,夏も終わった。そして秋,ジュリアからショッキングなことを聞かされた。
「わたし,今月いっぱいでここを辞めるの」
「えっ?・・・・それで,どうするの?」
「ママと一緒にアメリカに戻るの」
「・・・・」
ジュリアの事情はそれまでに聞く機会があった。ママは日本人。パパはアメリカ人。「白人とインド人の混血のアメリカ人」とジュリアは言葉を補った。〔だから,こんな南国的な美貌なんだ〕とボクは納得していた。何年か前,ママとパパがけんかして,ママはジュリアを連れて日本に戻っていた。そしてジュリアはママを助けるためにムーンライトで働き始めた。
でも,やっと二人が仲直りした。そして,ママはアメリカに戻ることになった。ジュリアも一緒に。
「彼氏さんはどうするの?」
「置いてくわ・・・・わたしには,ロミーと離れる方が心残りよ。かわいい弟と思っているんだから。でも,ロミーはもう一人でも大丈夫。ソロで十分にやっていける。ダンスはわたしよりうまくなったわ」
ボクはジュリアをじっと見つめる。ジュリアはわざと冗談めかした口調で
「背もわたしより高くなったし」
と付け加えた。確かに,ボクはもうジュリアよりちょっと背が高くなっている。でも,
「この半年くらい,伸びが止まってるよ」
「そうね。リリーさんは抜けないのかな」
二人は笑った。そして,黙ってしまった。それから,ジュリアがふとつぶやいた。
「ロミー,出会った頃はかわいかったけど,今は『きれい』になったね」
そして,ジュリアは旅立った。ボクはダンスステージの時間すべてをソロで踊る。仮想のパートナーと踊る。パートナーはジュリア? それともヒカル?・・・・ボクの中で二人の面影が重なり合う。
ジュリアがいなくなって,まるで防波堤がなったかのように,店長から客席に付くよう要求されようになった。「もちろん,ロミーが未成年なことは分かっている。接客しろと言うんじゃない。ただ,出演するタレントとして,ひいきの客にちょっとあいさつしなさいということだよ。バンドの人たちだってそうしているだろう」
それは事実だった。リリーさんとか,ほかのバンドのメンバーも幕間に客席に着いている。
「それに,かなりのチップをはずんでくれているお客もいるんだから」
それも事実だった。たまに千円札,まれに万札のチップが楽屋に届けられることがある。だけど,ボクは「万が一,通報とか摘発とかされたらお店に迷惑をかけるから」と言って,断り続けた。こういう場所に来るお客と話すことは,「淡雪」で慣れているし,嫌いじゃない。でも,「淡雪」と「ムーンライト」ではボクの立場が違うこと,ここでは「淡雪」でのような対応はできないことは分かっていたから。
こうして年が暮れ,年が明け,ボクの17歳の誕生日。この日,店長は
「お客様がロミーの誕生日を祝ってくれている。顔を出しなさい」
と,きっぱりした命令口調でボクに話した。ボクは断り切れなかった。
店長に連れてこられたカウンター席には女客が座っていた。
「ああ,やっとロミーちゃんと話ができる。何年かかったかしらねえ」
「3年越しのラブコールでしょう」
と,店長がお愛想を言い,
「ロミー,そっちに座りなさい」
と,彼女が座っているカウンター席の隣を示し,ボクが座ったのを見届けて去って行った。
「それにしてもロミーちゃん,そのセーラー服,とてもお似合い」
ボクはセーラーカラーの着いたノースリーブのシャツと短めのホットパンツを着て,手にマリンブルーのドレスを持っていた。ステージが始まる時はドレスを着て登場し,途中でドレスを脱ぎ捨ててこの格好で踊る。ボクが思いついた趣向。お客にはとても受けている。
「わたしはお酒を飲んでるけど,もちろんロミーちゃんはだめよね。何を飲む? コーラでいい?」
「はい」
そう答えたボクを彼女はしげしげと眺めている。
「ロミーちゃん・・・・じゃなくて『ロミー』と呼ぶべきね。この3年で『かわいい』から『きれい』に変身したもの」
ジュリアがつぶやいたこと。「淡雪」のお客さんからも時々言われる。ボクはなんと答えていいか分からず,黙ってうつむいている。
「そんなに緊張しないで。それとも怖がっているの? 怖がらなくてもいいのよ。取って食おうというわけじゃないんだから。わたしは美しいものが好きなの。だからロミーが好きなの。その顔立ちも,体のラインも・・・・もちろん華麗なダンスも」
こう話しかけられて,ボクは彼女の方を向いた。
「うん,そう。こっちを向いて,そのきれいな顔を見せて」
彼女もボクを見ている。
「変な下心がぜんぜんないとは言わないわ。わたしだって,大人の女だから。でも,そんなことよりも,何よりも,ロミーの美しさに心を奪われているの。その美しい容姿と華麗なダンスに。たぶん,わたしだけじゃない。ロミーのファンはみな同じ思いなのよ,きっと。それは誤解しないでね」
ボクはうなずいた。
「ジュリアさんがいなくなってどうするんだろうと思ったけど,ちゃんとソロで踊れるのね。彼女とのペアダンスもきれいだったけど,ソロでも美しい」
「それは・・・・仮想のパートナーと踊るように踊ってるんです。ボクの隣にパートナーがいると想像して,その人の動きを想像して,ボクも動くんです」
「ああ,そういうこと・・・・だからなのね」
彼女は納得したようにうなずく。
「ロミーのダンスには色気があるの。『色気』という言葉が適切かどうか分からないけど,何か引き込まれるような,ただ美しいから引きつけられるのではない,引き込まれるような何かがあるの・・・・そう,まるで,わたしがロミーの手を取って踊っているような気分にさせられる,そんな雰囲気。でもその話を聞いて納得だわ。まさに,そんなふうに踊ってるのよね」
彼女の話を聞いてボクはジュリアの言葉を思い出した。「目の肥えたお客なら,ロミーが想像上のパートナーと一緒に踊っているペアダンスを想像してくれるし,自分がその『想像上のパートナー』のような気持ちになることもある・・・・」
10分ほどして,ボクは楽屋に戻った。
その日から,毎日,1人あるいは1組のお客の相手をするようになったけど,彼女が話したように,ボクの体に触るとか,露骨に体を求めるような人はいなかった。そんなことしない客を見極めて店長が付けてくれているのかもしれない。
ある日は,もう老年(70代くらい?)と見受けられる白髪の温厚な紳士の隣に座った。彼はボクが席に着くなり,
「キミには一言文句を言いたかったのだよ」
と,穏やかな口調で語りかけた。
「すみません。何か失礼なことをしてしまったんですか?」
と,ボクが尋ねると,彼は笑みを浮かべて
「そういうことではない・・・・キミを初めて見た時,『なんてきれいな人なんだろう』と思ったんだ。女の人だと信じ込んでいた。女か男かという疑問さえ思い浮かばないほど信じ込んでいた。男の子だと知った時は,心から落胆したよ。このことを,わたしを深く落胆させたことで文句を言いたいんだ」
「ああ・・・・」
ボクはどう対応すべきか分からない。きちんと謝るべきなのか,冗談として流すべきなのか。なので,その場で思いついたことを口にした。
「そんなにがっかりしないでください。女か男かなんて,気にしなくていいんです。だって,関係ないでしょう。こうやってお話しするだけなら。つまり・・・・」
これに続けて〔セックスするんじゃないなら,ボクが女だって男だって,関係ないでしょう〕と言おうと思って,〔セックスの話は,あまりおおっぴらにしてはいけないんだ。下着姿をおおっぴらに見せてはいけないのと同じで〕と思いとどまった。
「ボクが女か男かなんて,どうでもいいことでしょう?」
彼は,一瞬びっくりしたようだった。
「ずいぶんおもしろいことを言うね。そして大胆なことを言う」
この会話をカウンターの中に立って聞いていたホステスさんが笑った。
「ロミーちゃん,それは無理よ。いくらお話相手するだけといっても,相手が女なのか男なのかは気になるのよ」
「そうなの?」
「そうよ」
このやりとりを聞いて,彼も表情がほぐれた。
「まあ,キミが何も気にすることはないのだ。わたしがキミの美貌に魅せられて勝手に心ときめいたというだけのことだよ。男というのは,いくつになっても,きれいな人を見ると心ときめくものなんだ」
「あら,ヒロシさんをときめかせてがっかりさせたのね。ロミーちゃん,罪が重いよ」
というホステスさんの言葉で,ボクも気持ちがほぐれたけれど,あまり時間がない。
「ヒロシさんとおっしゃるのですね,申し訳ありません,次のステージの準備があるので,これで・・・・」
と言って,ボクは席を立った。
「ああ,残念だね。いつか機会があれば,もっとゆっくり話したいね。キミの歳では酒は無理だろうから,お茶でも飲みながら」
ヒロシさんに限らず,「もっとゆっくり話したい」,「この店の中ではなく,どこか喫茶店あたりでゆっくり話したい」と希望されることはある。感じの良いお客なら,そうしてもいいと思う。ヒロシさんもそうだけど,17歳の誕生日に付いた「ルミ」と名乗るお客さんは,とても感じのいい人。それから何度目かに客席に着いた時,そんな希望を語られた。ただ,仕事が終わってからは,すぐにミユキの所に戻りたい。
「じゃあ,仕事の前ならいいの? 一緒の夕食を摂るのは?」
それは,許容範囲と思えた。それで,翌週の月曜日に約束をした。
その日,
「今日,夕食は要らない。お客さんに誘われたの」
「えっ?」
と,ミユキは驚いた。
「誘われたって・・・・夕食に?」
「うん。それから,そのままムーンライトに行くから」
「それって・・・・同伴出勤?」
「ドウハン?」
そう聞き返したボクに,ミユキは困ったような顔をした。
「いや,何でもないの・・・・いいお客さんね,晩ご飯に誘ってくれるなんて」
「うん。とても感じのいい人。今度,ここに来てもらってもいい。ミユキもきっと気に入るよ」
「あっ,いや,それはいいわ。・・・・せっかくだから,今日は,わたしがふだん作らないような料理をごちそうになりなさい」
「うん。そうするね」
ルミさんが連れて行ったのはフランス料理のレストラン。ボクは,親と暮らしていた頃も,たいてい家で食事をしたから,こういう場所には行き慣れていない。テーブルマナーは見よう見まねで知っていたけど。
「コースだと多すぎるよね。特にロミーは,これからダンスで体を動かすから,あまり食べ過ぎない方がいい。アラカルトにしようか」
「アラカルトって?」
「一品料理のこと。つまり,自分の食べたいものだけ注文するの」
「それって,当たり前じゃない? 食べたくないものは注文しないでしょう」
と,ボクとしては当たり前のことを訊いたら、ルミさんは笑った。
「そうね。確かに,そのとおりね。でも・・・・」
と言って,料理のコースというものの仕組みを説明してくれた。それでボクは,ルミさんにいろいろ訊きながら,ラムのポトフを注文した。
「たぶん,全部は食べきれないから,ルミさんちょっと手伝ってね」
「いいわよ。ロミーは小食なのね。だからそんな華奢な体型なのね・・・・じゃあ,わたしは・・・・ドリアくらいでいいかな,ロミーのポトフをちょっともらうんだから」
やがて料理が運ばれてきた。ルミさんはボクに顔を近づけ,ひそひそ話をするみたいに,
「みんな,ロミーを見ているわ。ジロジロ見たりしないけど,チラチラと見ている。気になるのね・・・・そんなセーターじゃなくて,肩の出ているドレスを着てくれば,雪のように白い肌をぞんぶんに見せてあげられるのに」
「まだ冬なんだから,そんなかっこうしたら風邪ひくよ」
彼女はちょっと考えて,
「それなら,毛皮のコートを着ればいいのよ。毛皮のコートはとても暖かいの。ヨーロッパでは,それこそ肩も露わなイヴニングドレスの上に毛皮のコートを羽織って真冬でもパーティーやオペラ観劇に出かけるんだから」
「毛皮のコートなんて,持ってないよ」
「買ってあげる」
「えっ?・・・・」
「まあ,ミンクやセーブルを買ってあげられるほどのお金持ちじゃないけど,安物の毛皮なら買ってあげられる。今度買いに行きましょう。いつがいい?」
ボクは話について行けない。
「ゆっくり選びたいから,ダンスの仕事のない日曜日がいいわね。でも,その後でレストランに行きたいから,あまり遅くならない時間,5時頃でどう?」
ボクは,何も言えないままうなずいた。
次の日曜日,ルミさんは「なじみ」らしいブティックにボクを連れて行き,まずドレスを選んだ。
「ドレスなら,持っているよ」
「それはステージ用のドレスでしょう。そうじゃなくて,ちゃんとしたパーティードレスを買うの」
そう言いながら彼女はドレスを選んでいる。そして,黒,といっても地味な黒ではなく,光沢のある黒の生地に金ラメがちりばめられたドレスを選んで,
「試着してごらん」
と,ボクに差し出した。
ボクが試着室から出てくると,
「すばらしい。まるでロミーのために仕立てたみたいよ。とても似合ってる」
というルミさんの言葉で,その場にいたほかの人たち,店員さんやお客さんの視線がボクに集中した。ルミさんもそれに気づいたらしい,口元に笑みを浮かべた。
「ドレスは『女物』と意識されるけど,ほんとうはロミーのような体型,細い肩,薄い胸,引き締まったウェストの方が似合うのかもしれないね」
「昔,ジュリアからも同じことを言われた。ボクが初めてドレスを着た時」
というボクの言葉にルミさんの表情が翳った。そして気を取り直すように,
「じゃあ,コートを選ぼう」
と語るルミさん。
「そこまでしてもらうのは・・・・申し訳ない・・・・」
と言うボクの頬を,彼女は軽く平手で叩いた。「痛い」というわけではないけど,生まれて一度も人から叩かれたり殴られたりしたことのないボクはびっくりしてしまった。
「ロミー,いいかげんに自分の美しさを自覚しなさい。あなたは神様が心を込めて作り上げた美の傑作なの。だから,それにふさわしい衣装をまとうべきなの」
このやりとりで,ボクたちはさらに周りの注目を集めた。そんな視線を気にすることなく,ルミさんはコートの品定めを続けている。
「まあ,これが予算との兼ね合いで一番いいかしら」
と手にしたのは,オリーブ色というのかな,ちょっとくすんだ緑のコート。
「着てごらん」
と言われるままに袖を通した。
「うん。似合っている。ロミーの白い肌と,黒いドレスのどちらにも合う色ね。ロミーはどう思う?」
ボクは姿見に映る自分の姿を見てうなずいた。
「じゃあ,それを着たままレストランに行くから。着てきた服を紙袋に入れてもらいなさい」
「この格好で,ほんとうに寒くない?」
「コートの前ボタンをきちんと留めれば大丈夫よ」
ボクは,普段着を入れた紙袋を下げて街を歩いた。ルミさんの言うとおり,そんなに寒くはない。
レストランに入り,クロークに紙袋を預ける。
「コートもここで脱いで預けておきなさい」
と言われてコートを脱ぐと,クローク係がドレス姿のボクを見つめた。そんな彼女に背を向けてボクたちは予約席に歩く。レストランの客たちがボクを注視する中,ルミさんがボクの腰に腕を回し,抱き寄せ,耳元でささやいた。
「誇らしいわ」
レストランでボクに注がれる視線は,「ムーンライト」のステージで感じるのとは違うけど,ボクはだんだん慣れてきた。席に着いて,ボクに向き合って座るルミさんは,そんなボクを満足げに眺めている。
「美しく生まれた人は,その美しさを惜しげなく振りまいて,周りの人たちを幸せにする義務があるのよ」
ボクたちを取り巻くテーブルから聞こえてくるささやきに「レズビアン」という言葉が混じっている。ルミさんも聞こえたようだ。
「極上の美を目の当たりにして,それが男か女かなんてことを気にするようなくだらない人間たちの言うことなんか,気にしなくていいのよ」
と,嘲りの笑みをたたえて言い捨てた。
その夜,食事を終えてレストランを出る時,ボクが着替えのできる場所を尋ねたら,クローク係は
「着替え室というのは特に用意しておりません。どうしてもということでしたら,トイレで着替えていただくのですが,そのままお帰りになってはいかがでしょうか? ドレスもコートもとてもお似合いですよ」
と答えた。
「そうよ。何も普段着に着替えて帰ることはないでしょう」
と,ルミさんも賛成する。ボクは,毛皮のコートを着ているボクを見たミユキの驚き,そして「お客さんに買ってもらった」と聞いた時のミユキの驚きを予想したけど,結局二人に押し切られた。そして,ミユキは予想どおりの反応を示した。
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- (ミユキ視点)
このところ,ロミーには驚かされてばかりだわ。先週は思わず,「同伴出勤」なんて言葉が口をついて出てしまった。今日は,毛皮のコートを着たロミー。その下のドレスも,ロミーにとても似合っている。思わず見とれたほど。それにしても,いくら安物だと言っても毛皮のコートを買い与える客がいるとは。それも,ロミーが語るには,「ボクの雪のように白い肌をレストランの客たちに見せたいために」・・・・。
5年前,ロミーがやって来たとき,この子を育て上げる歓びを予感した。開きかけている花を満開にさせる満足感を期待した。でも,わたしが手をかけるまでもなく,ロミーは美しく育っていく。そして,周りも放っておかない。今日のお客のほかにも,ロミーを磨き上げようとするお客,そうして磨き上げたロミーを連れ回すことを喜ぶお客は何人も現れるだろう。そうやってロミーは美しく輝いていく。わたしは,ただそれを見ているだけなのかしら・・・・。
そんなことを思いながら,わたしはロミーの美しい寝顔を見ている。ただ見るだけ?・・・・そうじゃないことは,ずいぶん前から気づいている。この唇にキスしたい。この体を抱きしめたい。誰かが手折る前に,わたしがこの花を手折りたい。「叔母様」だから,しちゃだめなの?・・・・ほとんど毎晩のようにロミーの寝顔を見ながら,わたしはこんなふうに心を乱す。
そして今,わたしはロミーの唇にそっと唇を合わせた。ロミーは眠ったまま。わたしは唇を離し,もう一度,唇を,今度はしっかりと合わせ,吸った。ロミーがぼんやり目を開いた。わたしはあわてて唇を離す。そんなわたしにロミーはかすかな声で
「ヒカル・・・・」
と呼びかけた。そしてまた目を閉じて眠りに落ちた。
ロミーはヒカルちゃんの夢を見ていたの? それとも,わたしをヒカルちゃんと見間違えたの? 今でもそんなにヒカルちゃんのことを思っているの? ばれずに済んでよかったと安堵する反面,わたしはヒカルちゃんが妬ましかった。ロミーを揺り起こして「キスしたのはヒカルちゃんじゃなくてわたしなの」と言いたい衝動さえ芽生えた。
翌朝,1階で朝食を摂りながら,ロミーが話しかけた。
「昨日,ヒカルの夢を見たの。夢の中でヒカルはボクにキスしてくれた。うれしかった」