Ⅵ
梅雨になり,梅雨が明け,本格的な夏がやって来た。7月の末,「ムーンライト」での仕事から戻って夜食を摂っているボクに豊嶋先生が話しかけた。
「福岡を離れることになったの」
ボクは,びっくりして何も言えず,ただ先生の顔を見た。
「東京の病院で働くことになったの」
「いつから?」
「9月1日から」
「そう・・・・」
ボクは,何か話したいけど,何を話していいか分からない。突然のことで頭が混乱している。だから,変なことを言ってしまった。
「東京の病院で仕事するのは,栄転なの?」
彼女は笑った。
「まあ,栄転ってことはないけど・・・・大学病院から市中病院に移れば,給料はアップするね」
「シチュウ病院?」
「ああ,医者用語かしら。つまり,大学病院じゃないふつうの病院という意味」
「ふーん・・・・でも,お給料が上がるなら,よかったね」
「そうね。それと,親が東京にいるから,まあ親孝行にはなるね」
「先生,東京の人だったんだ」
びっくりした顔のボクに先生は微笑みかける。
「なんで,東京の人が九大病院で働いてたの?」
「同じテーマを研究している大先輩がいたからよ。もう何年も前にその先生は定年退官しているけどね」
「どんなテーマ?」
「ホルモン関係のテーマ・・・・まあ,先生が退官する頃,わたしも諦めかけていた。でも,ロミーに出会って『もう一度チャレンジしよう』と思ったの。でも,だめだったね」
「あの,News Letterのこと?」
「そう」
「ごめんね」
「ロミーが謝らなくてもいいのよ。むしろ,お礼を言いたいくらい」
「お礼?」
「うん。おかげで踏ん切りがついた。わたしも来年で40歳。踏ん切りを付ける歳ね」
話しているうちに,ボクも落ち着いてきた。
「・・・・むしろ,ボクこそ,豊嶋先生にはお礼を言わないといけない」
「お礼を言われるようなことは何もしてないわ。ホルモン測ったことくらいよ」
「ボクの容姿やダンスを褒めてくれる人はたくさんいる。でも,ボクの知性を褒めてくれたのは,豊嶋先生だけだよ。うれしかった」
先生はボクをまじまじと見つめる。
「この5年・・・・5年よね,ロミーと出会って・・・・この5年で,ロミーの美貌は大輪の花を咲かせたね。次は,ロミーの知性が花開くのを見たかったけど・・・・残念だわ。見届けられなくて」
「ボクが東京に行く機会があるかもしれないよ。そうしたら,また先生に会える」
「そうね,期待してるわ」
その時は,ボクのこの言葉が現実になるとは,思ってもいなかった。
「まあ,あと1ヶ月くらいあるから,それまでの間,ちょくちょく顔を見せるわ」
その翌週,「ムーンライト」でダンスの幕間に客席に呼ばれた。店長について行くと,男客が二人座っていた。ボクは,ヒロシさんのような例外はあるけど,男客の相手が苦手なので,助けを求めるように店長を見た。
「東京からのお客さんだ。ロミーの評判を聞きつけて,来てくれたんだよ」
そんなこと言われると,なおさら緊張してしまう。ボクはぎこちなくお辞儀して,二人の間に座った。そのうちの一人が名刺を出した。こんな場面で名刺を出されたのは初めてなので,ボクはなおさら驚いた。
「東京で小さな芸能プロダクションをやってる,相良というものだ。ロミーくん,みごとなダンスだね。時間がないからすぐ本題に入るけど,キミ,テレビに出る気はない?」
「テレビ?」
ボクは戸惑った。ふだん,テレビをほとんど見ないから,テレビに出るということが現実味をもって実感できない。
「テレビに出て,何をするの?」
「もちろん,ダンスだよ。そのみごとなダンスをテレビカメラの前で,そして,公開録画ならたくさんの観衆の前で披露するんだよ」
「ダンスするだけでいいの?」
「まあ,歌も歌ってもらうかな」
「ボク,歌はできません。やったことありません」
「歌なんて,練習すればだれでも歌える」
この言い方にボクは反発した。歌うために努力を惜しまないリリーさんをそばで見ているから。
「そんな言い方は,プロの歌手に失礼です」
仮にもお客様に,面と向かって批判的なことを言うべきでないことは分かっていたけど,この時ボクはどうしても言わないではいられなかった。
「あっ,いや,そんなつもりじゃないんだ」
このやりとりを聞いていたもう一人の客が笑い声を漏らした。
「見かけによらず,なかなか骨があるじゃないか。こんな奴の方が見込みがあるんじゃないか,相良?」
ボクは,その人の方を見た。「精悍な」とか「苦み走った」という形容が似合う美男だった。
「あのー,あまり長くいられないんです。次のステージの準備もあるから」
「あっ,そうだね。ステージは2回だけ,次で終わりだよね。じゃあ,その後,ボクたちが泊まっているホテルに付き合ってくれないか?」
「ホテルに?」
ボクは驚いた。そんなボクの様子を見て,またもう一人のお客が笑った。
「ロミーさん,誤解しないでくれ。なにもキミを連れ込もうってわけじゃない。キミのダンスをもう少し観察したい。そして,いろいろ話をしたいということなんだ」
「ありがとう,ミタテ。ボクの代わりに説明してくれて」
相良さんは彼に礼を言う。「ミタテ」という名前なのかな・・・・。
その日,ボクはダンスを終えて相良さんたちと一緒に「ムーンライト」を出た。
「そうだ,ミユキに電話しないと」
「ミユキ?」
「ボクの叔母さん。一緒に住んでるんです」
「つまり,キミの保護者だね。うん,それは大切だ。じゃあ,ボクの携帯電話を使いなさい」
と言って,相良さんは,その頃ようやく普及しだしていた携帯電話をボクに渡した。
「・・・・ああ,ミユキ。ロミーだよ。これからちょっとお客さんとホテルに行くの・・・・違うよ!仕事の話をするの。詳しいことは帰ってから話すけど,東京の芸能関係の人なの・・・・夜食? うん,食べるよ。遅くなるけど」
こんな話をしているボクの脇でミタテさんがまた笑っている。
「叔母さんも誤解したな」
相良さんたちが泊まっているホテルは中州から川を渡ってすぐ,「淡雪」にも近い所だった。部屋に入ると,相良さんはテーブルを隅にどけ
「ちょっと狭いけど,ここでもうちょっとキミのダンスを見せてほしい」
と言って,音楽をかけ始めた。ボクがふだん踊っているリズム&ブルースやキューバ~ラテン系の音楽とは違う,歌謡曲。いかにもアイドルタレントが歌いそうな曲。慣れないけれど,踊れなくはない。だけど,やっぱりちょっとぎこちないのかもしれない。ボクの踊りを見てミタテさんが
「この手の曲は,慣れないのか?」
と尋ねた。
「はい」
と素直に答えると,おかしそうに笑った。
「まあ,正直なのは良いことだ」
「確かに,ロミーくんは歌謡曲で踊るのには慣れていないようだね。でも,練習すればすぐうまくなる。なんと言っても,キミは素質がある。もう一度かけるよ」
そう言って,相良さんはまた同じ曲をかけた。ボクが踊り始めると,
「ここは,こんなふうに」
とか
「ここは,こうやって」
とか,ボクに指示した。ボク手を取って振り付けることもある。それが嫌だった。ボクは音楽の流れに乗って踊る。音楽の流れに身を任せると,自然に体が動く。その自然な動きを邪魔されるのは嫌だった。相良さんは邪魔しているつもりではないのだろうけど,ボクには,そのアドバイスや指示は不自然な動きをボクに強制しているとしか思えない。
「もう,いいです」
「えっ?」
「もういいです。ボク,別にテレビに出たいなんて,思ってません。だから,もういいです」
「そんな!・・・・キミ,冷静に考えてごらん。これはすごいチャンスなんだよ」
「だから,ボクはテレビに出たいなんて思っていないんです!」
思わず口調が荒くなった。相良さんも気を悪くしたみたいだった。ミタテさんが間に入ってくれた。
「相良,子供相手にムキになるなよ。テレビに出たくないと言うんなら,それでいいじゃないか。金の卵はほかにもいるさ。・・・・ところで,ロミー」
と,彼はボクに話しかけた。
「歌謡曲じゃなくて,ふだん踊っているリズム&ブルースやラテンなら,踊ってもいいのかい?」
「ボクの自由に踊らせてくれるなら」
彼はうなずく。
「テレビに出ろとは言わないが,東京に出てくるつもりはないか? オレは新宿歌舞伎町で店をやってる。ムーンライトと同じようだけど,カウンターじゃなくてボックス席だな。そこで,キミの自由に踊りたいように踊ってみる気はないか?」
「東京に?」
ボクは,心が動きかけた。〔東京に行けば,豊嶋先生と・・・・〕そう思って,考え直した。東京に行けば,ほかの人たちと別れることになる。いろんなことはあっても,ミユキやルミさんやリリーさんたちと別れるのは,悲しい。
「そのつもりはありません」
「そうか」
ミタテさんはちょっと残念そうだ。
「まあ,今はそうかもしれないが,また気が変わるかもしれない。その時は,東京に行きたいという気になった時は,いつでも連絡してくれ」
そう言って,彼は名刺をくれた。「御館正和」と書いてある。それを見て,ボクはふと冗談を思いついた。
「オヤカタ様って言われませんか?」
御館さんは笑った。
「たまに,そう言われる」
初対面の人に冗談を言うなんて,失礼なことだったかもしれないと,言ってしまってから思い至ったけど,御館さんは気にせずに対応してくれた。よかった。ボクは彼の名刺をポケットにしまった。
「淡雪」に戻ったのは11時頃,
「ミユキ,ただいま。遅くなったけど,心配した?」
「ううん。電話もらってたから,心配はしなかったけど・・・・ロミー,東京に行くの?」
「行かないよ」
ボクはできるだけ明るい声で答えた。ボクが東京に行くことになれば,ミユキはきっと悲しむだろうから,安心させてあげたかった。だけど,ボクの返事を聞いて,ミユキは微妙な表情になった。それから,自分の表情に気がついたのか,あわてて笑顔を見せた。
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- (ミユキ視点)
「東京の芸能関係の人と話がある」と電話で言われた時,ひょっとしてロミーがここを出て東京に行くことになるのかと思った。悲しみの片隅で,安堵もあった。でも,そんな話じゃなかったと聞いて,うれしいはずなのに,期待外れの気持ちも湧いてしまった。それが顔に出ていたかしら・・・・。ロミーは,こんなわたしの気持ちに気づいたのかしら? わたしを見るロミーの瞳。無垢の瞳。まるで,何の悪も知らないみたい。・・・・そうね,女に抱かれるのは悪じゃない。人と人が体を重ね合うのは,罪じゃない。何人の女に抱かれても,ロミーは無垢のままなのね。わたしのところに来た頃と同じように。
ここがロミーの居場所,そう思っていた。いくらか誇りを込めて。ほかの女の腕に抱かれても,ロミーはここに戻ってくる。これからもずっとそうだと信じていた。でも,そうではない。もうじき,ロミーはここを出ないといけない。それをわたしの口から告げるのが辛い。 -
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「ムーンライト」からの帰り道,ボクは空を見上げる。ビルとビルの間の狭い空。那珂川に架かる橋の上からなら,もうちょっと空が広がる。ネオンサインで明るい中洲の空にも,いくつか星は見える。こと座のヴェガ=織姫星,わし座のアルタイル=牽牛星,はくちょう座のデネブ・・・・光年で測る宇宙空間の人間離れしたスケール,何億年の単位で測る宇宙の悠久の時間。
「蝸牛角上何事か争わん 石火光中この身を寄す」
ふと,つぶやいた。
- カタツムリの角の上のような狭い場所で何を争うのだ? 火打ち石の火花のような短い人生なのに -
いつ頃からだろう,ボクが「ムーンライト」に仕事に出かける途中,幼い女の子と顔を合わせるようになったのは。まだ梅雨が始まる前だったはず。その子は6~7歳くらいかな?・・・・中洲大通りから小さな路地に入る角に立っていてボクを見ている。目と目が合ったら,ちょっとはにかむような笑みを見せて,路地の奥に駆けていく。それが毎日の習慣のようになった。梅雨になり,毎日雨が降るようになっても,その子は傘を差してボクを待っている。そして,雨傘越しにボクに笑みを見せる。
梅雨が明け,真夏のある日,この子がボクに何かを差し出した。見ると,道ばたに生えている小さな花。無邪気な目でボクを見ながら,名も知らぬ花を差し出してくれる。ボクは受け取って,
「ありがとう」
と,お礼を言った。その子は,いつものようにはにかむような笑みを見せて,路地の奥に駆け出した。それから,時おりその子はボクに小さな花をくれるようになった。ボクはいつの間にか,その子と目を合わせるのを楽しみにするようになった。ただ,目を合わせて笑みを交わすだけ,それだけだけど,なぜか心が和む。
そんな彼女が8月の中頃から姿を見せなくなった。お盆でどこかに出かけたのかと思ったけど,お盆が過ぎても戻ってこない。いなくなってしまったのかな? 引っ越したのかな?・・・・
そして,8月末,豊嶋先生が別れのあいさつに来てくれた。
ジュリアがいなくなり,あの女の子がいなくなり,そして豊嶋先生もいなくなる。
9月の半ばを過ぎた頃,1階のカウンターでミユキと朝ご飯を食べている時,ミユキが話しかけた。
「ロミー,今度,会ってほしい人がいるの・・・・男の人。ここでも何度か会ってはいるけど,ロミーとわたしとその人と,3人で会ってほしいの」
ボクは,ミユキに顔を向けた。
「その人と,結婚するの」
ボクは驚いた表情でミユキを見る。
「・・・・ずっと前から,2年くらい前から,話を持ちかけられていたんだけど・・・・その話を受けることにしたの」
「じゃあ,その人もここに住むの?」
ミユキは首を振る。
「ここには住まないわ。その人も,わたしも,そしてロミーも」
「ボクも?」
「再開発計画の話,聞いたことはあるでしょう。この辺一帯の小さな家をみんな取り壊して,大きなビルを建てるという話。話そのものは何年も前からあったんだけど,とうとう本決まりになって,年が明けるとすぐに,この辺の家はみな取り壊されることに決まったの。だから,もうロミーもわたしもここには住めないのよ」
「お店は,どうするの?」
「お店も,閉める」
「ミユキは,それでいいの?」
「いいも,悪いも,どうしようもないでしょう。そう決まってしまったものは」
ここで,ミユキの言葉がいったん途絶えた。そして,
「それでね・・・・結婚してからもロミーと一緒に暮らすのはね・・・・」
「できないよね」
ミユキは返事をせず,うつむく。
「心配しないで。ボク,一人でも暮らせるよ。簡単な料理なら作れるし,掃除,洗濯もできるよ。今でも,朝ご飯,ボクが作ることもあるでしょう。掃除や洗濯をしてあげることもあるし。心配しないで」
ミユキは何も返事をしない。しばらく沈黙が続いて,やっと話を再開した。
「立退き料とか休業補償が出るの。それ,ロミーにあげる。わたしは要らないから。たぶん,ロミーが大人になるまで暮らせるくらいの金額よ」
ボクは首を振る。
「いいよ。要らないよ。そのお金はミユキのものだよ。ボク,一人で生きていける。仕事もあるし,けっこう稼いでいるんだよ。ダンサーで。ボク一人なら暮らしていける。心配しなくていいよ」
「心配したいの。世話を焼きたいの。叔母として,甥のロミーの世話をしたいの。でも・・・・ロミーが嫌だと言うのなら,無理強いはしない」
その日のうちに,ボクは御館さんに電話した。
「御館さん? 博多の『ムーンライト』のロミーです。覚えていますか? 先月,東京に誘ってくれたでしょう。今もあのお誘いは生きてるの? 住む所はあるの?」
話は電話で即決した。来月初めに東京に行く。御館さんの店でショーダンスをやる。あとで地図で調べたら,御館さんの店は,豊嶋先生が今月から働いている病院からそんなに遠くない。まるで,ボクに「ここを出なさい。東京に行きなさい。新宿歌舞伎町がオマエの新しい居場所なんだ」と言ってるみたい。