Ⅸ
夏が平穏に過ぎ,秋も深まっていく。そして,あの11月半ばの日曜日。ボクはいつものように朝食を用意して先生を起こした。
「先生,起きて。朝ご飯だよ」
先生はにっこり笑って起き出して,テーブルに着いた。いつものように,トースト,目玉焼き,サラダ,そして食後のコーヒー。ボクはカフェオレ。向かい合って座って飲んでいる。飲み終わる頃,先生がボクに話しかけた。
「今日はロミーにお伝えしないといけないことがある」
その軽い口調につられてボクも
「なあに?」
と明るく聞き返した。
「わたし,ガンが見つかった」
言われた瞬間,ボクは固まった。ボクは先生を見つめる。先生はいつものように穏やかな表情でボクを見ている。〔聞き間違いじゃないよね・・・・〕
「ガンって,つまり,あの,胃ガンとか肺ガンとかいう,あのガンのこと?」
「そうよ」
ボクはまた黙って先生を見つめる。
「最初に発見されたのは肝臓だけど,それは転移巣で,原発巣は膵臓らしいわ」
先生は,ごくありふれた出来事を話すような口ぶり。ボクは頭が真っ白になって,何かに操られるように席を立ち,先生の脇に行き,ひざまずいて,先生をじっと見つめる。
「先生,それって,つまり・・・・もう転移してるってこと?」
先生は穏やかな表情でうなずく。癌が発見された時,既に転移がある。それが何を意味するか,ボクにも分かる。いつの間にか涙が溢れてくる。ボクは顔を先生の肩に埋めて静かに泣き始めた。
「ごめんね。ボクが泣くなんて。ほんとうは,先生を慰めてあげないといけないのに。ボクは泣くしかできないよ。ほかには何もできないよ」
ボクは先生の肩にすがりつくように泣き続ける。そんなボクを先生は優しく抱き,髪を撫でてくれる。
「ロミー,わたしのために泣いてくれるのね」
ボクはひとしきり泣いてから,顔を上げた。
「入院するの? 手術するの?」
「手術はする予定がない。今さら間に合わない。まあ,これから,たとえば腸に転移して腸閉塞を起こしたりしたら,閉塞をバイパスする手術とかするかもしれないけど,今は予定がない。入院も当面はしないよ」
「そうなの・・・・」
「担当の医者にはっきり言ったの。治せるあてがないのに,無駄な治療をして副作用で患者を苦しめるようなことはしないでくださいって。何もしなければ予後1年,治療すれば2年の寿命が見込めるとしても,その2年が副作用に苦しんで寝たきりだったら,意味がないじゃない。かと言って,何もしないわけじゃないのよ。副作用ゼロは無理にしても,許容範囲の副作用で,これまでと同じように暮らせる期間を延ばせるような治療は受けるつもり」
先生の言う通り,それからも特に目立った変化はなかった。火曜日から土曜日までこれまでどおり病院で働いて,土曜の夜から月曜の夕方まではボクと過ごす。唯一の変化は,月曜日の午後,抗ガン剤の点滴を受けるようになったこと。午後出かけ,点滴は1時間もかからないけど,それから2~3時間くらい経過観察され,夕方に病院を出る。それから,治療室に付き添ったボクを連れて夕食に出かけ,「スターダスト」に送ってくれるのが,月曜日の新しいパターンになった。
「副作用はないの?」
「なくはないけどね・・・・口内炎ができて口の中が痛くなって,ものが食べれなくなる」
「えっ,じゃあこの夕食も・・・・」
「まだ大丈夫。一番辛いのは明日。だから明日は一日ほとんど何も食べないけど,人間,1日くらい何も食べなくても平気よ。氷を頬ばって口の中を冷やしてる。そうすると,ずいぶん楽なの」
「氷を頬ばりながら患者さんを診てるの?」
「まあ,診療のあいまにね」
ほんとうは深刻な話のはずなのに,先生は気楽な口調で語る。
「明日,明後日が過ぎると楽になって,日曜日にはほぼふだんどおりになっている。だから,ロミーが作ってくれる朝ご飯はちゃんと食べれるよ」
こんな話をしているうちにその年も終わりかけた。
「来年のロミーの誕生日は月曜日だね。前の日からホテルに泊まらない?・・・・あっ,ラブホテルじゃないのよ。ちゃんとしたシティーホテル。ささやかな誕生日プレゼントよ」
ボクは,拒否する理由はない。
「それに,してみたいことがあるの。ホテルじゃないとできないんだなあ・・・・」
「なあに?」
「それは秘密。でも,心配しないで。ロミーを困らせたり悲しませたりするようなことじゃないから」
こんな話をする先生は,まるで少女みたいに生き生きした表情だった。
やがて年が明け,ボクのバースデイイヴ。先生は新宿にほど近いホテルを予約してくれた。夕食はレストランで摂る。
「せっかくだからワインで乾杯しよう。まだ未成年だけど,1杯くらいいいよ。18歳の最後の日。明日から19歳。十代最後の歳だね」
「・・・・ボクも大人になるんだね」
「どうしたの? そんな,感慨深そうな言い方」
そう言われて,ボクはちょっと恥ずかしそうに笑った。それから,子供の頃のことを話した。「ガイジン」と馬鹿にされていたボクを慰めてくれたヒカルの言葉。「大人になったら・・・・」。でも,小学生のボクにとって「大人になる」のは遠い,遠い,現実感のない話だったこと。
「でも,ミユキさんのところでは,みんなロミーをかわいがったじゃない。まだ・・・・12歳だった?」
「うん。それもね・・・・ミユキのところに引き取られて分かったんだ。ボクが大人にならなくても,ボクの周りが大人になればいいんだって。でもね,そんなこと考えてたボク自身も,じきに大人になるんだよ」
「そうね。人はいつかは大人になる」
先生はボクを見つめる。その視線に慈しみがこもっている。昔,ヒカルがボクに向けたのと同じような視線。ボクはいつか訊きたいと思っていたことを尋ねた。
「先生,ボク,医学部を受験したら受かると思う?」
先生は一瞬,虚を突かれたように驚いた。それから,深くうなずいた。
「医学部と言ってもピンキリだけど・・・・東大は無理かもしれないけど,それよりランクを下げれば,国立の医学部も十分合格圏だと思うよ・・・・医学部に行くつもりなの?」
「まだ決めてはいないけど,考えてる」
「まさか,ガンの治療法を研究しようとか・・・・」
「そういうことじゃなくて・・・・いつか先生が言ってたでしょう『ロミーの知性が花開くのを見たい』って。今からだと,花開くのには間に合わないかもしれないけど・・・・」
「つぼみが膨らむのには立ち会えるかもね」
「そうだと,いいね・・・・これまでダンスに打ち込んできたように,これから勉強に打ち込んでみようかと思うんだ。医学でなくても,ほかの分野でもいいんだけど,もともと興味があるんだし,せっかくお医者様がすぐそばにいるんだから・・・・先生は昔,ホルモンを測っていた頃,ボクに『医者になる気はない? 医学を研究する気はない?』って訊いたよね。いろんなものへの興味を一通り満たしたら,学問の世界に身を置いてみないかって」
先生は遠くを見るような眼差しになった。
「そう,そんなことがあったわね・・・・その,わたしの願いを叶えてくれるの?・・・・それは,わたしにとって最高の誕生日プレゼントだわ。ロミーの誕生日にわたしがプレゼントをもらうのも,変な話だけど」
しみじみと語る先生に,ボクは現実的な質問をした。
「受験勉強って,大変なのかな。先生はどうだった?」
「わたしは,もう20年以上も前のことだから・・・・知識としては,ロミーは十分だと思う。ただ,入試問題を解くには知識だけじゃなくて,コツというか慣れというか,そういうものが要るのね。特に数学は。それは,ある程度入試問題を解いてみれば身につくはずよ。今年の入試にはもう間に合わないと思うけど,来年の入試には間に合うでしょう。なんたって,知識は十分にあるんだから,ロミーは。・・・・やってみる?」
ボクはうなずいた。
それから部屋に戻った。先生はフロントに電話して翌朝のルームサービスを頼んでいる。
「明日の朝,二人分の朝食をボーイさんがもって来てくれるのよ。『朝食の用意ができました』って」
翌朝,ドアがノックされ,「朝食をお持ちしました」とボーイさんが声を掛ける。ボクが起き出そうとすると先生に引き留められた。
「誕生日の朝くらい,ゆっくりしてなさい」
そう言って先生が起きてドアを開け,2人分の朝食の載ったワゴンを引き取り,ベッドのそばまで押してきた。
「ロミー,起きて。朝ご飯よ」
と言ってにっこり笑った。
「一度,これを言ってみたかった。これを言いたくて,ホテルを予約したの」
こう語る先生の表情は,イタズラがうまくいった時の子供のようだった。
朝食が済んで,ボクたちはドアに“Don’t disturb”のプレートを下げて,またベッドに入った。
「食べて寝る。怠け者の生活そのものだね」
「いいのよ。誕生日くらいは」
ボクは先生の肌のにおいを感じながら部屋の天井をぼんやり眺めている。そして,ふと日ごろ思っている疑問を投げかけた。
「ボクはフランス語や英語の勉強のために本を読んだり歌を聴いたりしてたけど,どうして文学にも歌にも,こんなに恋愛が溢れてるんだろうね。詩や小説もたいてい恋愛がからんでいるし,歌なんて,ほとんどが恋の歌だよね。人生は恋だけじゃないのに」
これを聞いて先生は笑った。
「よりによってロミーからそんな疑問を聞かされるとは」
「よりによって?」
「だって,ロミーは愛されるために生まれてきたような存在じゃないの」
「愛されることだけがボクの人生じゃないんだよ。先生だって『ロミーの知性が花開くのを見たい』って言ってるじゃない。先生自身だって,ボクを愛することだけが先生の人生じゃないでしょう」
「まあ,そうだけどね」
先生はまだ笑っている。ボクは意地になったみたいに言いつのった。
「バンドが歌う歌の中に『愛はこんなに辛いものなら,わたし一人で生きていけない』という歌詞があるんだ。これ,おかしくない?」
「何が?」
「だって,愛が辛いものだと切実に感じたら,『もう愛なんか要らない,恋なんかしない,わたしはこれから一人で生きていく』って決心するものじゃない? 愛のつらさを実感しながら,一人じゃ生きていけないって,論理的に筋が通らないよ」
先生はおかしそうにボクの方に顔を向ける。
「まあ,歌の文句に論理を要求してもねえ・・・・」
それから真顔に戻って,ボクをじっと見つめる。
「世の中には,誰かがそばにいてくれないとだめな人,一人では生きてられない人もたくさんいるの。そんな人は,恋も愛もたくさん経験して,辛い思いもいっぱいして,それでも誰かを愛さないと,誰かから愛されないと,だめなの。だから,ロミーがからんだ歌詞を論理的に整理するなら,前後を入れ替えて『わたしは一人で生きていけないから,愛で辛いこともたくさん経験する』ということになるのね」
ボクもまじめに先生を見つめ返す。
「先生はどうなの? やっぱり,一人では生きていけない人なの?」
「わたしは・・・・」
と先生は話しだし,ちょっと間を置いて,静かな口調で言葉を継いだ。
「わたしは,たぶん,一人でも生きていける。時には,人にアドバイスすることもある『誰かに頼ったり依存したりしないで,一人で生きていきなさい』って。でも・・・・」
先生はじっとボクを見つめる。
「今は,ロミーを失いたくない。今は,残り少ない寿命と引き替えてでも,ロミーを引き留めたい」
そう言って先生はボクを激しく抱きしめた。
この頃から,先生の衰弱が目に付くようになった。毎週会っていると気づかないけど,何ヶ月か前の先生を思い出して見比べると,「痩せた」と思う。それでも,相変わらず元気だった。ボクの前では元気に振る舞っていた。そして,3月末で仕事を辞めた。
「心身が不完全な状態で診療して,ミスがあってはいけないからね。すぐに入院というわけではないの。自宅療養よ。まあ,考えようによっては優雅ね。のんびり,本を読んだり,音楽を聴いたりしているわ」
ボクは,平日にも先生のところに出かけるようになった。もちろん,看護とか介護とかができるわけじゃない。何ができるわけでもないけど,なるべくそばにいたかった。本をもってきて,先生のそばで読んでいる。受験参考書や問題集を持ち込んで,先生に教えてもらうこともある。先生は少しもいやな顔をせず,それどころか
「役に立ててうれしいわ。人間,どんな時にも,人の役に立てるというのはうれしいものね」
と言ってくれる。そして,ボクの受験勉強が順調に進んでいるのを喜んでくれる。
「思ったとおり,筋がいい。始めるのが半年早かったら,今年の入試で受かったかも」
先生のお母様と顔をあわせることもある。
「仕事を辞めたのを機会に,ガンのことを告知したの」
ボクのことは「若い友達」と紹介した。男の子とも女の子とも言わなかったけど,お母様は女の子と思っている。その方が都合がいいから,ボクも先生も敢えて訂正はしない。
「今度医学部を受験するの。勉強を見てあげてる・・・・わたしが好きでやってるのよ。こんなことでもしないと,退屈でしょう。わたしにとって,ささやかな生きがいよ・・・・それから,おいしいコーヒーをわたしのために淹れてくれるの・・・・うん,コーヒーくらいはまだ飲めるよ・・・・お菓子は・・・・でも,もって来てくれれば,この子が食べるかも」
というようなことを先生はお母様に話している。お父様が一度も顔を見せないのが不思議だけど,それを問うことはしなかった。ひょっとして,もうお亡くなりになっているのなら,そんな話をさせたくはないから。
御館さんに話すつもりはなかったけど,結局話すことになった。平日の午後,出かけることが多くなって,不審に思われたから。それまでも時おりお客さんから,アフタヌーンティーや夕食に誘われることはあったけど,明らかに出かける頻度が上がって,御館さんも気になるようだった。先生のことを説明したら,びっくりした様子で,
「そういうことか」
とだけ答えた。
こうして,春が過ぎ,夏も過ぎ,秋の初めの頃,先生は施設に移った。病院ではなく,ホスピス。電車に乗って,荒川を渡ってすぐのところにあるそのホスピスの小さな個室を初めて訪れた日,先生は
「ロミーに出会えて,幸せだったよ。ロミーに出会わなかったら,わたしの人生はもっと殺伐としてた。『わたしのロミー』と言っていいよね。『わたしだけのロミー』とは言わないから」
とボクに話しかけた。
「先生,そんな,もうすぐ死ぬ人のようなことを言わないで。もうちょっと生きていてほしいんだ。長生きして,なんて言わないけど,ボクの20歳の誕生日まで生きていてほしい。ボクの20歳の誕生日を祝ってほしいんだ」
「うん,がんばるわ。確約はできないけど,がんばる」
そう言ってくれたけど,先生が少しずつ弱っていくのはボクにも分かった。立って歩くのが難しくなり,車椅子を使うようになった。秋の花々が咲く中庭に面したロビーに行くのに車椅子を押してあげたこともある。
その頃,御館さんが先生を見舞った。御館さんを見て,先生は驚いた。それから,うれしそうな表情を浮かべた。
「1年半ぶりくらいですね。お会いするのは。あの時は不愉快な思いをさせてしまいました。『若気の至り』という言訳が通用する歳ではないのに」
先生は穏やかな口調で御館さんに話しかける。そう,あのショーパブで火花を散らせたのは,去年の春のこと。あれから1年半くらい経った。御館さんは何と返事していいか分からないのか,困ったような笑みを浮かべた。それから,
「これからアンタの分までロミーを愛するから・・・・心配しないでくれ」
と語りかけた。先生は優しく微笑んで首を振る。
「むしろ,ロミーを手放してほしい。この子は来年医学部を受験します。きっと受かるわ。その時は,手放してほしい。ほんとうにロミーを愛しているなら,医学の勉強に専念させてほしい」
御館さんはボクを見つめ,それから先生を見つめる。そして,目を伏せて,
「死んでいく人のたっての願いとあっては,拒めないな」
とつぶやいた。それから,
「オレの方からも頼みがある」
と言って,先生に語りかける。
「まだ若いのに,こんなことになって,いろんな未練があるだろうと思う。特に,ロミーへの未練や執着が残っているだろう。でも,くれぐれも,取り憑かないでくれ」
先生は,優しくうなずいた。
「そんなこと,しませんよ。仮にも,ロミーを害するなんて,そんなことするわけありません・・・・でも,そっと見守るくらいは,いいでしょう?」
「それはもちろん」
こんな会話を交わして,先生はちょっとおかしそうに笑った。
「お互い,この期に及んで,ロミーのことばかり話してるのね。どれだけ惚れ込んでるんだか」
そう言われて,御館さんも笑った。先生はボクに語りかける。
「ロミー,幸せね。こんなに愛されて」
/ / / / / / / / / / / / / / / / / / / / /
- (豊嶋先生視点)
「恩讐のかなたに」というのかしら。今さら,御館さんを憎みも恨みもしない,張り合おうとも思わない。いつかロミーが悲しそうに問いかけた。
「どうして,同じ神を愛する者どうしは互いに仲良くできるのに,同じ人を愛する者どうしは互いに仲良くできないの?」
ひょっとしたら,同じ人を愛する者どうしが互いに仲良くできるかも。御館さんを好きとは思わないけど,ある種の親しみを感じる。それで十分ね。ちょうど,同じアイドルのファンどうしが意気投合するような感じ? 確かに,ロミーはわたしのアイドル。そのアイドルを愛するだけでなく,アイドルから愛された。わたしはなんて果報者。
ガンのことだって,そうなの。ロミーは,わたしがガンにも動じないと思っているでしょうね。そんなことないの。動じたわ。うろたえたのよ。当たり前でしょう。でも,アイドルの前では,いいかっこうしたかった。だから一生懸命演技したの。でも,演技しているうちにいつの間にかそれが本当になってきた。それでよかったと思ってる。その方がずっとよかったと思っているよ。感謝してるよ,ロミー。 -
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御館さんのお見舞いからしばらくすると,ボクが訪れる時もベッドに寝ているようになった。頬がすっかりこけている。でも,目はまだ生き生きした光を保っている。ボクは模擬試験の結果を見せる。
「千葉大医学部:80%合格圏だって」
先生はうれしそうに微笑む。
「つぼみが膨らみかけてるね」
そして12月初め,見舞いに来たボクに施設のスタッフが説明した。
「豊嶋さんは,数日前から深鎮静に入ってます。つまり,痛みを抑えるために意識を低下させています。今日はロミーさんがいらっしゃるということで,覚醒するよう薬を調整していますが,うとうとなさるかもしれません」
部屋に入ると,先生は入口の方に頭を向けた。しばらくボクを見つめて,ようやくボクだと気がついた。
「ああ,ロミー・・・・」
ボクはベッドの脇に椅子を寄せて座り,じっと先生を見る。先生もボクを見てくれるけど,視線が弱々しい。ボクは先生の手を握る。先生も握り返してくれるけど,以前,ボクを抱きしめてくれた時のような力がこもっていない。それでも,先生はボクに話しかけてくれる。
「ロミー,長生きしてね。そして,時々わたしを思い出して。ロミーが思い出してくれる時,わたしはロミーの中で生きているから」
ボクはしっかりうなずいた。〔時々じゃなくて,いつも思い出すよ。先生はボクの思い出の中でずっと生きてるんだよ。ヒカルがボクの思い出の中でずっと生きているように〕
そして,先生は12月半ばに死んだ。ボクの20歳の誕生日まで,あと1ヶ月だった。
年が明けた。ボクは土曜の夜も,日曜の朝も夜も,そして月曜の朝も,御館さんの部屋で過ごす。何度目かの日曜日の朝,御館さんが
「日曜日にオマエがいるというのが,奇妙に感じるよ」
と話しかけた。
「じきに慣れるよ。そして・・・・ボクがいないことにも,じきに慣れるよ」
次の週末がセンター試験だった。
「その話はするな。今はまだ,するな」
ちょっと気まずい雰囲気になった。それを吹き払うように,ボクは明るい声で
「明後日,ボクの20歳の誕生日だよ」
と告げた。御館さんも機嫌を直したようだ。
「そうだな。明日も明後日も夜は仕事だから,今日,今夜お祝いをしよう」
そして連れて行ってくれたのは,あのショーパブ。御館さんと豊嶋先生が火花を散らした,あのショーパブ。席に3人分のシャンパングラスが用意されている。ウェイターがシャンパンを持ってくると,御館さんは3つのグラスに注ぐ。そして,
「ハッピーバースデー,ロミー。乾杯」
ボクと御館さんはグラスをあわせた。それから,御館さんはテーブルに置かれたままのグラスに,「カチン」とグラスをあわせた。ボクも一緒に。
その週末のセンター試験,手応えは十分だった。3月初旬の二次試験も。そして,合格発表。模擬試験の予想どおり,合格していた。4月から医学部の学生になる。「学校」と名の付くところに通うのは8年ぶり。でも,そんなに心配していない。同級生は一番若くても18歳。小学校や中学校の悪ガキではないはず。それに,医学部というのは要するに医者になるための訓練をする場所なのだから,同級生たちとの付き合いが下手でも困りはしないはず。勉強していれば,それでいいはず。
ボクの人生の2度目の転機だと,自然に意識した。1度目の転機は,ボクの気持ちや希望とは無関係に突然やって来て,ボクからヒカルを奪い,ボクの人生を変えてしまった。2度目の転機は,ボクが自分で選んだ。・・・・ボクは,自分の20年の人生を振り返る。一番幸せだったのは,ヒカルと一緒に過ごした12年。でも,その後も不幸だったわけじゃない。中州と歌舞伎町で過ごした8年だって幸せだった。そして,これからも。だって,ボクの好きな勉強をして過ごすのだから。
ボクは「スターダスト」の社長室をノックした。こういう話は御館さんの部屋ではなく,きちんと社長室でするべきだと思ったから。
「どうぞ」
という声で,ボクは中に入った。
「千葉大医学部に合格しました」
「おめでとう」
ここで,二人とも言葉に詰まった。それから,ボクは前もって用意しておいたセリフを語った。
「御館さん・・・・社長,仕事を辞めさせていただきます・・・・医学の勉強は仕事しながら片手間にやってよいものではないと思うんです。学校の科目の試験に受かるだけなら,医師国家試験に受かるだけなら,それでもいいかもしれないけど,卒業した時ちゃんと医者の仕事ができるようになるためには,それじゃだめなんです。だから,辞めさせてください」
御館さんは聞き終わり,しばらく黙って下を向いていた。
「オマエの人生だ。そうと決めた人間を無理やり鎖でつなぎ止めるわけにもいかないだろう。そんなことしたって,まともなダンスを見せられるはずはないんだし・・・・それに,先生との約束もあるしな」
御館さんはまたしばらく下を向いていた。それから顔を上げてボクを見た。
「それで,いつまで?」
「3月の最後の土曜日まで」
「よし,その日がオマエのファイナル・レビューだな。辞める理由は最終日の最終ステージが終わってから,オレがお客に説明する。それまでは誰から何を訊かれても黙っていろ,いいな」
ボクはうなずいた。そして,社長室のドアに手を掛けて振り返り,
「長い間お世話になりました」
と言ったら,
「そのセリフは最終日にとっておけ」
と言われた。
その翌日,ボクのファイナル・レビューの予告ポスターが店内に貼られた。そして,最終日の最終ステージ。ふだんは,さすがに夜中の12時の最終ステージの頃にはお客の数も減っているけど,この日はほぼ満席だった。
「みんなオマエに名残を惜しんで最後まで残ってるんだ。さあ,ロミー,一世一代のダンスを披露しろ」
そう言って,御館さんはステージの袖からボクを送り出した。ボクは夢中で30分踊り通した。そして最後の曲が終わると,御館さんがステージに出てきた。
「店内のポスターで予告しておりましたように,今終わったこのステージがロミーのラストダンスです。当店でのラストダンスという意味ではありません。ロミーの生涯のラストダンスです。Romy the Dancerロミー・ザ・ダンサーのラストダンスです。2年半ほど当店の看板を背負ってくれたロミーは,今日この時を限りにショーダンサーの仕事を辞めます」
お客の間から悲鳴のような声が起った。
「悲しんでくださってありがとうございます。しかし,今悲鳴を上げたお客様も含め,ここにいる皆さんが祝ってくださるようお願いします。ロミー,本名藤原ヒロミは明日から新しい人生を歩み始めます」
ここで間を置くと,お客は話の続きを黙って待っている。
「この3月,藤原ヒロミは千葉大学医学部の入学試験に合格しました。この4月から藤原ヒロミは医師を目指して6年間の勉学に励むことになります」
客席にどよめきが広がる。
「ショーダンサーが医者になる。素晴らしい話じゃありませんか,みなさん。藤原ヒロミ,ロミーの新しい人生をどうか祝福してやってください」
御館さんはあいさつを終えた。そして,ボクと一緒に舞台の裾に消えた。カーテンコール。ボクは何度かステージに出る。そしてアンコールを踊った。Ike & Tinaバージョンの『プラウド・メアリー』。前半の静かなパートはドレス姿で優雅に踊り,曲想が替わる時にドレスを脱ぎ,その下に着込んでいたホットパンツとノースリーブのセーラー服姿になって激しく踊る。
アンコールを終え,すべての仕事を終え,ボクは社長室に顔を出した。
「御館さん,ほんとうにありがとうございました。この2年半,そして今日も」
彼はにっこり笑った。そして
「ロミー,明日になったら,この世界のすべてのことを忘れてしまえ。ここで出会ったすべての人のことも,もちろんオレのことも」
「えっ?・・・・」
「いや,忘れなくてもいいのか。忘れなくてもいいが,思い出にしてしまえ。この世界のことはすべて思い出にしてしまうんだ。オレのことも・・・・。明日からのオマエは別世界の人間になるんだ。医者になるための修行に励むんだ。もう二度とこの世界に戻ってくるな。もう二度とオレの前に顔を見せるな。オレも二度とオマエに会うつもりはない」
そういうことなのか。御館さんなりの,精一杯の,心からの励ましと祝福の言葉なんだ。彼はもう一度笑った。そして,それまでとは口調を変えて語りかけた。
「よろしいですか? 分かってくれますか? 未来のドクター・フジワラ」
「はい,了解いたしました」
終わり FIN