雨の日は憂鬱になる。特に夏の日の雨は蒸し暑くて、激しい雨音が心地よく感じる時もあれば、五月蝿く感じる時もある。彼女との出会いは、そんなある日の夏の夜で。まるで、捨てられた子犬みたいだった彼女を拾って、家に上げたのが始まり。でもなく。
例えば夜の帰り道にふと視線を感じて振り返れば、綺麗な満月の輝きに照らされた夜の桜の並木の下で、舞い散る花びらの幻想的な光景に見とれて。いつの間にか彼女が木の傍に手を付いて立っていたのが、出会いの始まり。でもなく。
暑い日差しを感じながら目を覚まして、ふと違和感を感じて布団をめくってみれば、いつの間にか扇情的な黒の下着姿で一緒に眠っていた。どこかのラノベや美少女ゲームにありがちなシュチュエーションでもない。
きっとどれもが正解で、どれもが間違っている。
ひとつだけ分かるのは、彼女はいつの間にか傍にいたというだけ。
それだけがきっと正しい答え。
「……おはようございます」
目を覚ますと、いつも俺の傍には彼女がいる。艶のある綺麗な桜色の髪に可愛らしい狼の耳。アイスブルーの瞳は、いつものように俺を見下ろしている。北欧人特有の白い肌のほとんどを晒し、胸と秘部を隠す扇情的な黒い下着姿のまま四つん這いになって、小柄な身体に似つかわしくない力で、俺の手首を掴んでいた。それから。
「……いただきます」
それから俺の胸に顔をうずめて、すんすんと匂いを嗅いで、首筋に舌を這わせる。いつもの日課。いつもの儀式。ゆっくりと動く舌が、れろ、れろ、と首筋に唾液の痕を付けていく。そして近づく熱い吐息に、桜色の唇。視線の先は白い天井だけで感触だけでしか彼女の行動を確かめる術はないけれど。
「あむ……ちゅ……」
首筋に奔る鋭い痛みに、今日も命を吸われているのだと実感する。だけど、腕の中の温もりが愛おしくて、手放したくなくて、そっと抱きしめる。その存在のすべてを受け止めるように。太股のあたりで彼女の尻尾が当たって揺れ動いている。
「んぐっんぐっ……」
少しずつ少しずつ吸われる俺の血と命の源。彼女が、かわいらしく喉を動かすたびに俺の中にある血は少しずつ減っていく。それから手足の先から徐々に冷たくなっていって、段々と意識が朦朧としてくる。なのに頭は冴えていて、腕の中の温もりは優しくて暖かい。安心する。
それから湧き上がるのは酷く強烈な衝動。性的快楽にも似た興奮。頭の中が熱くなって、呼吸も激しくなり、心臓の鼓動も爆発的に早くなる。ドクン、ドクンと激しく脈動する鼓動がとても煩い。食べられているのに、欲情しているという矛盾。下半身のモノが熱くなりはみ出しそうになる。
身体が熱くなり、長距離走を走りぬいた時のような疲労感が襲ってくる。なのに熱い身体は凍りついたように動かなくて、金縛りにあったかのよう。捕食者を前にして動けなくなるような感覚の中で、心地よい疲労と快楽が波のように襲ってくる。脳の中を支配する。
首筋に触れる唇の感触が気持ち良い。吸い出した血を舐めとる舌の先の感触が気持ち良い。暴れないように押さえつけてくる手の温もりも、体の上に伸し掛かっている華奢な少女の柔らかい感触も、肌と肌の触れ合いも全部気持ち良い。
そんな中にあって、首筋に顔を埋めている彼女の髪の香りだけが、ひどく場違いで心地よい。
それは彼女の名前と同じような。花の香りがした。
再び首筋に舌が這う感触。彼女の舌が動くたびに、性的欲求にも似た感触はだんだんと収まっていき、頭の中は冷静さを取り戻してゆっくりと冷めていく。手足の末端は相変わらず寒くて、体温を失ったかのように冷たい。感覚が酷く鈍っている。命を差し出した代償に、ゆっくりと死が迫ってくるような感触。そのまま腕や二の足から冷たくなって動かなくなるんだと錯覚するような静寂。時間がとてもゆっくりに感じられる。
ふいに、彼女が首筋から唇を離して、己の半身をゆっくりと起こす。そして朝の目覚めと同じように、冷たいアイスブルーの瞳で、だけどとても優しく俺を見下ろしていて。
そして、ゆっくりと動かない自分の手をからめ取って、冷たくなった肌を温めるように。彼女は俺の手の甲を、その頬にそっと押し付けた。
とても暖かい人肌の温もりに、安心していく自分がいる。そのまま看取られて死んでもいいと思えるくらいに。
「……ごちそうさま」
「それから、いつもありがとう」
潤んだ瞳で俺を見つめながら、彼女は自らの唇を舌で舐めとって。俺の命を味わい尽くす。
毎朝行われる命がけの日課。今日も彼女は儚げな印象を纏ったまま、確かな温もりを俺に伝えてくれる。これが夢でも幻でもないのだと。
「んっ」
ペールピンクの髪と同じ色の、獣耳を揺れ動かしながら。彼女は再び俺の胸に顔を埋めた。とても気分が良いように歌を口ずさみ、それから大きな尻尾もそれに合わせて揺れ動く。
彼女の名前は綺堂さくら。夜の一族と呼ばれる吸血鬼であり、人狼と吸血鬼の混血でもあるハーフ。
それから現実にはいないはずの、物語の登場人物で。
俺の部屋で暮らしている居候だった
この子について分かっている事は少ない。
最初に出会った時は酷く動揺した。けれど、それ以上に彼女の方が精神的に不安定で、だからこそ逆に落ち着くことができた。
彼女の正体が何であれ構わなかった。それよりも今にも不安で泣き出しそうな彼女のほうをどうにかするのが先だった。こちらが一方的に知っているだけの関係で、さくらにとっては見ず知らずの他人なのに。彼女は俺に哀願する。いわく、捨てないで。見捨てないで。ひとりにしないでと。
夜の一族は欧州のどこかで発生した人類の突然変異種で。有体に言えば吸血鬼だ。人を超越した高い身体能力と鋭い五感。それから優れた知能を持つ。その代償に繁殖能力が低く、個体数はずっと少ない。純血は数を減らしていて、さくらのような混血児が増えている。人よりちょっと優れただけの個体も多い。
彼女らの最大の欠点は栄養素の一つである鉄分の生成能力が乏しいこと。だから吸血行為をすることでそれを補っている。能力が高ければ高いほど、血を必要とするし、他者から摂取しなければ貧血になりやすくもなる。それが長期に渡ると成長も遅れてしまう。吸血されて分かったことは、血液提供者の生命力とかも、自らの糧にして飲み込んでいるようだ。
出会った当初のさくらは、既に息も絶え絶えで、今にも倒れそうな様子。放っておけば意識を失い、まるで舞い散る桜のように儚く消えてしまうかもしれない。そう思わせるほど弱々しく。だからこそ見捨てることが出来なかった。そんな事をしたらきっと後悔すると思ったから。
家に連れて帰って、風呂や食事よりも先に、彼女は俺の血を欲した。俺の着ていたワイシャッツのボタンを震える手でもどかしそうに外そうとして。だから、代わりにボタンを外して、首元を無防備に晒した。彼女の衝動を受け入れるように。彼女の全てを受け入れるように。
それからソファに押し倒されて、気が付けば気を失っていた。
あとは奇妙な同居生活を始めて、今に至る。
最初は大変だった。
さくらという少女は、一見すれば無口で冷たい印象を他人に与える女の子だ。感情表現に乏しくて、人見知りもする。容易に他人を近づけないし、基本的に気を許すのは動物たちだけ。日課は近くに住む小鳥にパンくずを与えることくらい。口癖は残酷だから。
だけど、本当はとても寂しがり屋で、心の何処かで人の温もりを求めている。一度でも気を許した相手にはどこまでも愛情深く接する。そして受け入れ信頼した相手に拒絶されることを酷く恐れる女の子だった。
残酷だからという口癖も他人と距離を置き、自分の本当の気持ちを誤魔化す為の方便に過ぎない。夜の一族の寿命は長く、いつまでも若々しい姿のままだ。それで人の二倍は優に生きる。愛する人も、仲の良かった友人も年老いて天寿を全うし、自分を置いて行ってしまう。その定められた運命に、彼女は酷く怯えていて。だから、自分を誤魔化して、残酷だからと口癖のように呟いている。他人と距離を置こうとする。
彼女はそうして自分の心を守ってきた。
本当は誰よりも優しくて、心配性で。愛する人に一途に尽くそうとする健気な少女。
そんな彼女がひとりぼっちになって、訳も分からず混乱していて。頼れる人もすがれる人もいない状況になってしまったら。血を摂取しないまま飢えと渇きに侵されて、わき上がる自身の吸血衝動に怯えていたとしたら。
それはどれ程の不安だったのだろう。
俺には想像もつかないが、少なくとも深夜に、見知らぬ誰かに助けを求めてしまうくらいに怯えていたのは間違いない。
初めての吸血行為で、俺は気を失い。次の日から奇妙な同居生活を続けてからも、彼女との距離は一向に縮まらなかった。或いはそのまま姿を消していても不思議ではなかったのだろう。けれど、さくらは元来の優しさと俺の血を吸ったという負い目。それから助けて貰ったのに恩を返せていないという律義さが、今も彼女をこの家に押し留めているようだった。
自然と話せるようになるまで一週間は掛かっただろうか。
目を覚ました時に、必ず俺の傍にいてアイスブルーの瞳で観察しているくせに、こっちが見つめ返すと慌ててテーブルやソファ、扉の陰に隠れて様子を伺っていた日々を思い出す。人狼の血が入っているのに、行動は人見知りする猫や臆病な子犬のそれだったから。思わずおかしくて内心で笑ってしまったのは内緒だ。
そのまま一緒に食事をして、一人にしてしまう不安を残しながらも仕事に行って。帰ってきて居なくなっていないかと心配する日々を続けた。言葉を交わすのはおはようとか、おやすみなどの挨拶のみで。基本的には一方的に語りかけるだけだった。
事情をようやく聞き出せたのも束の間。彼女は一週間と少しの間吸血衝動を抑えて、我慢していたらしく。それで耐え切れずに体調を崩して、俺に血を提供してほしい。助けてほしいと苦しみ喘ぎながらも哀願して。俺は彼女を助けるために再び血を吸わせた。その時、アイスブルーの瞳が血のように赤く染まっていたが、それからのことは記憶にない。
吸血衝動は一か月に一回程度なのだが、前回の食事では量が足りなかったらしい。今では毎日少しずつ血を提供することで何とかなっている。
そうして徐々に信頼関係を築いていって。といっても一方的に与えるだけの関係だったけれど。それでも、少しは触れ合えるくらいには信頼してくれて。俺がいない間に、不慣れながらも掃除や洗濯をしてくれるようになった。
それもひと月くらいまでのこと。
ある日、布団に寝入っていた俺は誰かの気配を感じて目を覚ました。家に住んでいるのは俺以外には一人しかいないから、必然的にさくらということになる。
いつもの朝と同じように華奢な体が伸し掛かってくる。彼女の軽い体重を布団越しに感じる。
そっと目を開けると、さくらはアイスブルーの瞳を潤ませながら、俺を見下ろしていた。その顔は僅かに紅潮しているようにも見える。俺の存在がちゃんとそこに在るのか確かめるように、手で俺の顔に触れてきて頬を撫でられた。そこから感じる体温がとても熱く、そして柔らかい。
いつもはヘアバンドで隠している人狼の耳と大きな尻尾も晒したままになっている。
黒い雲から零れる月明かりに照らされて、さくらは白い肌を晒していた。普段着ている私服も脱ぎ捨てて下着姿のまま。穢れのひとつも見当たらない白い肌を強調するかのように、ガーターベルト付きの黒い下着が扇情的だった。
さくらは俺の布団の上で何かの衝動を抑えるように悶えていた。静かな夜と相まって、聞こえてくる吐息も激しく。まるで何かの熱に浮かされたかのようだ。
彼女は今にも泣きだしそうな表情で、切なさそうな声で、俺に哀願した。
「お願い……」
「ごめん、なさい……こんな事、あなたに言うのは、間違ってる……でも」
「身体が……疼いて、とまらな、くて……」
「もうすぐ、わたし、きちゃう、から……」
「はつ、じょうき――」
「だから、たすけて……」
そっと近づいてくる涙で濡れた顔。きれいな桜色の唇。朝と同じように俺の顔に添えられた手。いつものと同じ感覚。けれど、吸血するのとは違う行動で。
彼女は俺の唇を貪った。