とあるマンションの部屋の前で、唐突にインターホンが押された。ピンポンという機械的な音に対して、若々しい声で女性の返事が聞こる。そして間もなく玄関が開かれた。
現れたのは、声の印象通りの雰囲気をまとった、20代前半と見える綺麗な女性だった。その女性はどこか、とうの昔に社会への順応を終えたような、一般的な落ち着きをかもしだしている。
一方、その女性から見て、インターホンを押した人物の正体は、年端もいかない少年であるように見えた。玄関から顔を出した彼女は、少年を見て少し驚いた。まったく心当たりのない顔だったからだ。見知らぬ少年が突然訪ねてきたら、それは誰でも驚く。
ほとんど小学生に見えるその少年。彼が、いったい何の用だろう。ドアを手でおさえたまま彼を見下ろしてフリーズしてしまった女性に、少年の方から要件が告げられる。
「あ、あの、たすけてください」
その少年の、見た目相応の高い声。女性は頭の上にハテナマークを浮かべた。それを察知した少年は、それで一度、絶望したかのようだった。親を見失った迷子のように、その表情に心の内をそのまま貼り付けている。
しかし、気を取り直した少年はおそるおそる、自首でもするかのように、禁句を口にするかのように、また一言、言った。
「……ま、魔女」
それを聞いた途端、女性は、微笑んだようだった。
「何があったのか話してごらん」
途端に、全てを理解したかのような、あるいは全てを受け入れたかのような雰囲気をまとった女性は、少年の手を取り、彼を家の中へと招き入れた。少年は怯えているような、期待しているような、複雑な表情を見せる。
実際のところ、その女性は人間ではない。彼女は魔女である。正確に言えば様々な条件はあるものの、願いをたちどころに叶えてしまう能力を持っている……と言って間違いではないような、はっきりとした人外の力を持った存在。少年の手を引く彼女はそういう存在だ。そんな彼女に決まった名前はない。
魔女は少年をリビングへ招き入れると、彼をテーブルの前の椅子に座らせ、自分はその向かい……ではなく、少年から見て90°の角度へと陣取り座った。
「聞いた話、こういう時正面に座るのは避けた方がいいらしいんだ」
聞かれたわけでもなく解説する彼女に、少年は適当な生返事をする。
「それで、何があったの? どう助けてほしい?」
優しく語りかける彼女は、絵面だけで見れば、スクールカウンセラーのようにも見える。実際は、素人でも知ってるような聞きかじった知識を、意気揚々と実践してみているだけの、人間の真似事が好きな人外なのだけれども。
「それが、何から話せばいいのか……」
「君が話したいことから、話していいんだよ」
少年は、彼女の顔を見ることが出来なかった。横を向けばすぐそこに、不自然に甘い言葉を投げかけてきてくれる女性の姿が見えるだろう。それを見ることができない。
彼は今、自分がいかに異様な状況にあるか、理解はしていても、受け入れられずにいる。いやに都合よく耳障りのいい言葉をくれる、今日初めて会ったばかりの女性が、不気味に思えるのだ。縋りつきたくなる一方で、恐怖を感じていると言っても差し支えなかった。
しばらくの間、彼は黙っていた。叱られる子どもみたいに、言いたいことも言えず、時が過ぎるのを待っているかのようだった。
しかし当然ながら、叱られているわけではない今現在、時間は何も解決してくれない。あるいはもっと長く黙っていたなら、話すことをうながすよう、隣にいる美人が、また都合のよい言葉をくれたのかもしれないけれど、その言葉が今の彼を救えたのかどうかは、微妙なところである。
結局、彼は自分から沈黙を破った。そうするしかないのだ。
「信じてもらえないかも、しれないんですけど」
「信じるよ、どんな話でも」
「……僕は、大人だったんです」
解き放たれた言葉に、魔女は約束を果たすように、興味を示して見せた。
「大人?」
「大人です。普通に年相応の、こんな子どもみたいな見た目じゃない、大人だったんです。昨日までは……!」
子どもらしい高い声で聞かされると、その言葉は劇の中のセリフのような物になってしまう。彼自身、今自分は何か、フィクションの中にいるのではないかという思いが、ずっと抜けきらずにいる。
「大人って、何歳?」
「もうすぐ三十になります」
「体が子どもになってしまったことに、心当たりはある?」
体が子どもになってしまう。そんな話を至極当然というように魔女は受け入れた。しかし彼は、疑われたかったわけではあるはずもないのに、自分の話を信じてもらえたなら当然来るであろう問いに、苦い顔をして若干言いよどむ。
「……あります。女性に声をかけられたんです。あなたのことも、その人に聞いて……」
「ほほう」
魔女が一つ身じろぎする。少年は反射的に、そちらを見た。相手の方を見られないほどの緊張は、どうやら彼から失われていたようで、案外非常にのんきな顔をしていたその女性を見て、彼の中の緊張はさらに失われていくようだった。
「その女性とのこと、詳しく聞かせて?」
だから少年は、いや、その男は、上手い具合にちょうどよく、口を滑らせたのだろう。
「詳しく……というと、あまりその、なんというか……気持ちのいい話にはならないんですけど」
「いいよ。大丈夫」
「……友人との飲みの帰りに、解散して一人になってから、その女性に声をかけられたんです。いやに友好的な人でした。突然、一目惚れだ、奢らせてほしいと言われました」
そこまで話して彼も、自分が都合のいい言葉に流されるまま、口を滑らせてしまっているような気がしてきた。しかしもはや引き返すこともできない。話しきるしかない。そう腹をくくるような気持ちだった。
「普段なら、悪徳な勧誘か何かだろうと考えて、無視していたはずなんです。ただその時は、その、酔っていて……。実際、一緒に飲んでしまいました。そしてなんと言いますか、その、……軽蔑されるべきだとわかってはいるんですけど、けどその時はそれがどうも……」
「流れでホテルでも行っちゃった?」
一瞬、喉がつっかえたかのように驚いたが、しかしやがて頷く男は、正直なところ安堵しているようだった。口にしなければ、行ったことの程度がマシになるとでも思っているのか。あるいは相手が話の先を読んでくれたのなら、それがイコール、自分の行ったことが相手に受け入れられて、許しをもらえたような意味になるとでも、思っているのだろうか。
「そして、正直ほとんど記憶がないんですけど、朝目が覚めた時には、こんな体になっていたんです。その時すでに相手の女性の姿はなくて、部屋に現金と、書き置きが置いてありました。……自分も、ここに書かれた場所にいる女も、魔女という人外の存在であると。子どもでいるのが嫌ならば、彼女に助けを求めるといい……と。他にどうするわけにもいかず、このままでいるわけにもいかずに、その書き置きに従ったんです」
峠は越えたとでもいうように、あとの話はスムーズだった。記憶を失うほど酒を飲んで、その勢いで初対面の女性とそういう行為をしてしまったことなんて、さらっと流して話してしまう。とはいえそれも、体が子どもになってしまったことに比べれば、確かに大した話ではないのかもしれないけれど。
そして事の顛末を聞いた魔女は、彼に結論を達した。確信を持った結論だった。
「君が会ったのは、「退行の魔女ハーフタイム」という魔女だ。彼女にはお察しの通り、人間の体を子どものようにしてしまう力がある」
そして最後に情報を付け足す。
「ちなみに今回、彼女が君に力を使った動機は、彼女の性癖、ショタコンです」
「…………」
少年の格好をした男は、沈黙した。彼が思い出しているのは、昨日自分に声をかけてきた妙な女性、つまりは魔女のこと。するとなるほど、彼女を表現するにあたってまず真っ先に出てくる単語は、母性であったように思えてくる。
「……え、それで、僕はどうすればいいんですか」
別に彼は現状の詳細が知りたいわけではなく、ただ単に体を元に戻したいだけなのである。むしろなぜ今自分がこんな状況にあるのかなんて、体さえ元に戻れば、最悪一切不明でも構わないのだ。
ここにいる魔女は、人を子どもにする魔女のことを詳しく知っていた。ということは、ここにいる魔女を紹介していたその「退行の魔女」とやらだって、紹介相手の魔女がどんな性質を持っているのか知っていたに違いない。知っていて、だからこそ紹介した。ということは、自分は助かるのだ。無事、元の体に戻れるのだ。
少年はそう確信していた。大人になれば自然と結婚できて子どもを生んで幸せな家庭を築けるのだと、信じて疑わない少年のような心で、彼は自分が助かったことを確信していた。
「どうすれば、と言われてもね。そうだな……心の準備をしてもらえるかな。とても、つらいことを伝えなければならないから」
「と、と言いますと……?」
「落ち着いて聞いてね。……まず、君はもう、元の体には戻れない」
つらいことというのは、例えば元の体に戻るには、とてつもない苦労や苦痛を要するとか、後遺症のような物が出るとか、そういう話を想像していた。そんな少年に、事実を伝える言葉は、すぐには伝わっていかなかった。
スローモーションだった。階段を踏み外して落っこちる時、車にはねられた時、死という絶望を予感して、視界がスローモーションになるみたいに。事実は彼の脳みそを、ゆっくりゆっくり、普通の言葉を理解するために要する時間の、十倍近くをかけて巡っていった。
「…………なんで?」
出てきた返事は間抜けなものだった。魔女が書き置きを残してくれなければ、なんで、などと言うことも出来なかっただろうに。
「私の能力は、想像できることに限って、それを無償で瞬時に実現することなんだけど、その能力では君を元の体に戻してあげられない」
「……どうして!?」
今のように慌てふためき、希望が自分の手の内からどんどん零れて逃げ出していくような感覚を、彼も今までの人生で何度か、きっと味わってきたことがあった。どうしよう、どうすればいい……と頭を抱えて、どうにもならないような気持ちになったことが、三十年に満たない過去の中に、いくつもあったように思える。
案外どうにかなったこともあった。やはりどうにもならず痛手を負ったこともあった。しかし後から思えばそのどれもが、人生における「致命傷」では、決してなかったことがわかる。しかし、しかし今回は、伝えられたことが本当ならば、それはどう考えても……。
「想像できることに限って、ということは、そうか、大人の僕の姿が想像出来ないんで、それでダメだってことですね!? それなら大丈夫ですよ。写真がありますし……!」
「いや、悲しいけど、そうじゃないんだ」
追い込まれた人間特有のまくしたてる調子で話す彼へ、落ち着いた様子の、それでいて本当に申し訳なさそうな顔をする魔女が、事実であるから仕方がないものの、とどめをさす。
「見た目だけなら、君を大人にしてあげることは出来る。何なら少しかっこよくしてあげることでもね。でも、私からすると「男性」って、むしろ見た目しかわからない。女だからね。だから見た目は私の能力で用意できても、中身はそうもいかない」
「いや、もうそれでいい!」
男は身を乗り出さんばかりだった。
「見た目には問題ないんでしょ……!? 女性と同じ物理的な非力さとか、そういう物が出てしまうとしても、全然それでいい。とにかく見た目なんですよ、こんな体で、仕事に行けないでしょ……!」
必死に、縋りつくように魔女を頼る男は、しかしそれが男性の性なのか、それとも人間の性なのか、どうにも礼儀に欠ける態度であるように見える。物を頼むなら、それも唯一その相手にしか出来ないことを頼むなら、もう少し言い方があるように思えなくもない。
とはいえ、少なくともここにいる魔女がそんなことで、機嫌を損ねるということは万に一つもあり得ない。彼女はそういう存在なのだ。
「わかった、わかった。君がそう言うなら、見た目だけでも元通りの君にすることを約束する。でも、その前に一つ、聞いてもいいかな」
「なんですか」
魔女は、少年の顔を見て、それから少し斜め下に視線を向けた。その視線は、テーブルによって阻まれたわけだが。
「私は、彼女のことをよく知っているから聞くんだけどさ」
言う前に、魔女が少し、罪悪感のような物を表情に見せた。数分前の男が、似たような顔をしていたような。
「その、男性器だけさ、大人のままの大きさだったりしてない?」
男が目を見開いた。思わずゆっくりと、震えるように頷いてしまう。図星だったのだ。
「彼女はそういうことが出来るんだ。狙った部分だけを、子ども化の対象外に出来る。まあそれが出来なければ、君は大人の思考力も失っているはずで、まずは脳が子ども化から例外化されているわけだけど、しかしそれともう一つ、彼女はそういうことをするんだよね……」
性的な対象として見る相手の、見た目は子どもの方がいい、でもあそこは大人の方がいい。そんなめちゃくちゃな我儘を押し通すことが出来るのが、異能を持った人外の特権なのかもしれない。助けを求めてここを訪ねた男は、まんまと取って食われたわけだ。
「……え、いや、でもそれが何なんですか」
彼は困惑した。実際に自分の身へ起きたことを言い当てられただけで、まるで物理的に、下半身のそれを見透かされたような気がしたのだ。
「彼女にはそういうことが出来る。一部分だけ都合のいいように。でも私には出来ないっていう話」
気を遣ってか、魔女が少年から目をそらした。今までは少年が魔女の方を見ようと見なかろうと、魔女の側からは常に少年を見つめていたのだけれども。彼女ともあろう者が自爆する形で気まずさを感じるはずがないので、目をそらしたのは気を遣ったためであろう。実際、少年は再び、彼女の顔を見ることができなくなっていた。
「私が君の体を大人にする場合、それは時間を早めるわけではないんだ。未来のひみつ道具にある風呂敷で君を包んで、体を大人にするっていうのとは違う。直接、私が想像した大人の君を、作り出すことになる。その作り出した体が君の物になる。……わかる? 作り出した物だけが、君の物になるんだ。私は「見た目」しか作れないと言ったね?」
「つ、つまり何なんですか。どういうことなんです」
「男性器だけ、今ある物を取って付ける、ということは出来ないっていうことだよ。もちろん見た目だけは再現するけれども、例えばそれを触った時の感覚等は、私には想像もできないことだから、悪いけれど再現できない」
そこまで言われれば彼も理解してきた。しかしそれは非常に受け入れがたいことだ。認めたくなんかない。だからあえて耳を塞ぐような気持ちだった。
「つまり!?」
「君を大人の体にするなら、見た目はともかく、実際のところは、女性になってもらうことになる」
「……本気で?」
「本気で」
……文字通り、少年は頭を抱えた。傍に誰もいなければ、おそらくその次は、自分のモノにでも触っていたのではないだろうか。選択によっては、その感覚とさようならをしなければならないのだから。
二択だ。意識等のいわゆる「中身」と、そして股間のモノ以外を子どものままにされた状態で、今後も生きていくか。それとも事実上の性転換を経て、大人の体を再び手に入れるか。それなりに地獄の二択だった。
仮に子どもとして生きるにしても、誰もがそんな展開になった時、探偵事務所に拾ってもらって偽名を名乗ることが出来るわけじゃないのだ。大人になることを放棄した場合、非常にシビアな問題として、「今後どう生きていくのか」ということについて向き合わなければならなくなる。
しかし見た目と意識以外、自分の「男性」を失うことだって、そう易々と受け入れられることではない。人によっては違うのかもしれないが、少なくとも彼はそうだ。酔いと流れに身を任せて魔女とホテルへ向かった時、彼はそういうことを期待していた。当然、それが望むところであったからだ。自らの男性を失うということは、もう二度と、それが訪れることはないと、はっきり約束されてしまうことになる。記憶のはっきりしない昨晩の行為が、人生で最後のことになってしまうわけだ。
「……嫌だ」
意味もなく、思ったことを呟く。それが彼に出来る最後の抵抗だったのかもしれない。なにせ、そもそも今の状況は、自分が得体のしれない女にほいほいとついて行ってしまったことが始まりなのだ。どうしてこんなことに……と嘆くことさえ出来ない彼には、もはや「嫌だ」と口にすることしか、出来ることがないのである。
やがて少年は天井を見上げ始めた。その所作の覇気の無さが、彼の心情を表すと同時に、疲れ切った大人のような雰囲気を子どもの体のままでさえ吐き出して、現状の悲壮感を体現していた。
それを見て、魔女はその表情に憐れみを浮かべ、それを隠そうともしなかった。彼女にとってこのような状況は、初めてのことではないのだ。体を子どもにされた後自分を訪ねて来て、同じように苦しむ男を何人も見てきた。退行の魔女は、後始末をよく彼女に押し付けるのだ。
彼女が抱く同情の気持ちに、嘘は億分の一も含まれない。いつだって、何度でも、本気で同情して、それでいて、自分がそれに押しつぶされるということは、絶対にありえない。人間に寄り添う心と、その心の「人間基準で見た時」の異様な強度が、その台詞を引き出して来る。
「私から、一つ提案があるんだけど、聞いてもらえないかな」
「…………」
男は光の失せた目で天井を見るのをやめて、縋るような目つきで彼女を見つめた。
「私に君を養わせてほしい」
提案という名の単刀直入な申し出に、返事が出るのは少し間を要した。元々ここへ来た時から明るくはなかった彼の声から、さらに精気が抜けたようになっていく。
「それは、子どもの体のままで生きることを勧める……という意味ですか」
「いや、ちょっと違う。……今までの君の人生を、捨ててほしい。その代わり、私が君の望む物を、出来る限りなんでも用意する。全力で、なんでも。……元の体以外なら」
「つまり、具体的にはどういうことですか」
「つまり、もう外に出るのはやめてみない……? っていう提案。見た目だけ大人になるのは嫌でしょう? でも、子どもの体のままで、親や友人、仕事関係の人、その他諸々の人間と、今後会って付き合っていくのは、現実的じゃないと私は思う。アニメみたいにいろいろあって、子どもになりましたと言って受け入れてもらえればいいけれど、どうかな、君の家族や友人は、子どもの体をした君を君と、認識してくれる……?」
「だからあなただけを頼りに、隔離されろって言うんですか……?」
男からしても魔女の言うことは的を射ていると感じられた。仮に、仮に今付き合いのある人たちから、自分が子どもの体になったという事実を受け入れてもらえたとしても、それでも仕事で外部の人間と顔を合わせることは出来ないだろう、そうなると仕事自体続けられるか怪しくなってくる。
理想的な「仮の話」でさえそうなのに、実際はどうだ、友人どころか親でさえ、自分を自分とは認識しないかもしれない。自分しか知り得ないことを話して、この子どもの見た目が僕なんだということを認めてもらえたとしても、自分がこんな体になった理由を、魔女の力だとか、あるいはよくわからないだとか、そんな説明で親が納得してくれるだろうか。
どんな病院へ連れていかれても、まともな人間が納得してくれる答えなんか出るわけがない。自分の身に起こったことについて理解して納得できるのは、当事者である自分と、目の前にいるような人外だけだ。そしてその自分でさえ、納得と言っても受け入れられているわけでは断じてない。
正直に言って、今の体で身内や知り合いの前に出る勇気が、そうしてこれが今の僕だと主張する勇気が、自分の中にはまったくない。あるいはこのような時こそ酒を浴びるほど飲んで、わけのわからなくなった状態で挑めばいいのだろうか。……子どもの体で? 考えれば考えるほど、なおさら、現状が異常であることを再認識するだけだった。
「うん、そうだよ。君を幸せにするって約束するから、私に君を隔離させてほしい。それが、君にとって一番マシな選択だと、私は思ってしまうんだけど……どう?」
流されてしまいたい。初対面の女と酒を飲んで、ホテルへ行った時みたいに、自分に対していやに良い条件で提示される流れに、思考を停止して身を任せてしまいたい。もはや彼は大した葛藤もなく、ごく自然にそう思った。
普通に考えて、誰かに養ってもらえるなんて、なんて楽ちんで良いことなんだろうか。勇気を出してこの体で現実に戻るより、そっちの方が素敵な気がしてならない。……しかし、そうとなれば、魔女を目の前にして、一つの問いが脳内へ浮かんできてしまう。
自分は何も、子どもの体で現実に向き合うか、隔離されるかの二択を迫られているわけではない。もう一つの選択肢、事実上の性転換を経て、大人の体に戻るという択もある。それを選べば基本的な生活を送るくらい、今まで通り出来るようになるだろう。二度と男としてそういった行為を行うことは出来なくなるけれど、逆に言えばそこ以外は、さほど問題ないはずなのである。
何せ想像さえ出来れば願いを叶えられるらしい魔女がいる、女性の体で起こる困りごとは、全て彼女が解決出来るはずなのだから、問題なんかあるはずがないのだ。男でなくなること、それ以外の問題は、一つも……。
「仮に僕が、あなたに隔離してもらって、あなたに養ってもらうことを選ばせてもらったとすると」
魔女が「養う」という言葉を、人を一人養うことの重さに気付かず使っている可能性は、絶対にないと言い切れる。自分が頭を抱えて絶望するに至る、「想像出来ることならば」という妙な条件があるとはいえ、目の前の魔女は願いを叶える力を持っている。子どもの体に変えられてしまった身で、魔女の力自体を疑うことはしない。彼女が養うと言うからには、その力でもってそれが可能だということだろう。
だから、彼が心配するのはそこではなかった。仮に自分がそれを選んだとして、本当に養うことなんか出来るのか、そんなことは聞くまでもなかった。何なら、魔女はその気になれば金くらい好きなだけ、道端の石ころを拾うみたいに得られるのではないかとさえ思っている。残る不安は、別のことだ。
「もしも仮に、僕がその選択肢を選ばせてもらったとしたら」
「うん」
「僕は、性行為をしたいと言いながら、あなたに養ってくれと頼むことになりませんか……?」
男を捨てればとりあえず生活には戻れるのに、それが嫌だと言い張ることは、そういうことじゃないか。彼はそう考え、そしてそれを否定させることを恐れた。彼の知っている「女性」というのは、そういうことを嫌うものなのだ。
自分の選んだことの意味を相手に悟られたら、犯罪者のような目で見られるのではないか。それも自分を養うと宣言してきた相手からだ。もちろん相手に「それ」を求めるわけつもりはない。完全に失うくらいなら、一人で欲を満たせるだけで十分だ。しかし、だとしてもそうやって蔑まれる可能性は、とても無視できた物ではなかった。
そんな彼の、建前で顔色を窺うような言葉を聞いて、彼がここへ来た意味を察した時と同じように、彼女は、魔女は微笑んだ。
「それでいいじゃない」
「え」
「言ったでしょ、君のほしい物なら、出来る限り用意するって。君が私に隔離されることを選んでくれたら、その意味くらい、わかってるよ。……なんでもするよ」
そうして彼は、やはりこんな状況に流れ着いてしまった彼では、この場の流れにも逆らうことはできずに、あっけなく流されるのであった。男を捨てられないことと、男としての欲を相手に向けることは、決してイコールではない。……そんな上っ面の理屈も、どこかへ流れ去って、見つからなくなってしまう。
以降、誰一人として、彼のことを目撃した「人間」はいなかった。