隔離というのが、異空間で行われる物だとは思わなかった。自分を養うと宣言したあの魔女に、同居人が、それも男の同居人がいるとは、少しも想像さえしなかった。
リビングに、テーブルと椅子、テレビ、窓、カーテン、冷蔵庫、本棚、それとコンセント数か所。ほんの少し動けば、寝室、キッチン、トイレ、なんでもある。要するに、自分が今いる場所は、ただの家だった。無論、自宅ではない。
ここは、魔女と話をしたあのマンションの一室に、ものすごく似ていた。というかきっと同じだろう、そっくりだ。けれどもここは、あの一室ではない。
当然のようにその場にパッと出てきた、当然ながらコンマ一秒前までそこに存在しなかった扉を通って、どうやらやって来たらしい、ここが異空間。元居た場所とそっくりの場所。自分が今いる場所は、一般の人間としての言い回しをするなら、この世のどこでもない場所……らしい。
正直実感がない、というか、実感のしようがないけれど、ともかく自分はあの魔女に言われて、そういった場所に連れてこられた。これが彼女の言う、隔離だ。
子どもの体をした大人である自分は、現実の生活に戻ることを放棄して、ここに引きこもることを選んだ。そんな自分の世話は全て、あの魔女がしてくれるらしい。……という話だったけれど、今この場に、彼女はいない。
そもそも自分の隔離される場所が、あのマンションではなく、わざわざそれを再現した異空間となったのは、あの部屋には主がいるからだった。魔女は部屋の主ではなかったのだ。
人間の男が、魔女と同居している。その男が部屋の主であり、自分が訪ねた時に魔女しかいなかったのは、あの時間帯、その男が仕事で家を空けていただけだった。
魔女としても、部屋の主(彼女は「あの人」と呼んでいた)と自分とが、顔を合わせることを避けたかったらしい。そのための異空間だ。ありがたい話である、こんな状況、誰だってその男に顔を合わせたくはない。
そういう理由で、魔女は今ここにいない。異空間とは違う「本来の場所」で、「あの人」と過ごしているのだろう。……話が決まるまで、本当に知らなかったのだと言えば、自分は許されるのだろうか……? これはつまり、今の自分の立場は、間男ということになる、そうとしか思えない。
窓の外を眺めれば夜だ。夜の風景が、町の明かりが見える。全て魔女が作った物だ。想像出来ないことは叶えられない能力の魔女が、全て作った景色だ。あの時、窓の外は見なかったけれど、見ていればきっと本当に、今見えている景色があったのだろう。窓の外には、犬の散歩をしているらしき人の姿や、ライトを点けて走り抜ける車まで確認できた。
そして、窓から視線を横に逸らすと、一番の問題が視界に入る。今さら魔女の力に、ああだこうだと思いを巡らせるつもりはないけれど、窓の外は「そういうものだ」と認識するとして、部屋の隅にある「彼女」だけは、どう捉えていいものかわからない。
こちらが視線を向けると、すぐに目が合った。壁と壁とで直角になっている部屋の隅に、女性が一人立っている。彼女の見た目は、そう「見た目」は、自分を養うと言ったあの魔女に瓜二つだ。
機械みたいに直立不動でこの部屋にいる彼女は、魔女いわく、メイドらしい。もっと言えば、彼女が自らの能力で生み出した、人間の世話をするためだけに生み出された異能の存在。別な意識をプログラミングされた、言わば彼女の分身……ということらしい。人間の世話をするというのは、この隔離空間において事実上、僕の世話をするということとイコールだ。
魔女がこちらに顔を出せない間は、彼女が僕の言うことを聞いてくれるらしい。望む物を用意してくれるらしい。代役としての分身というわけだ。大体のことは出来るから、何でも言うと良い……と言われはしたものの、部屋の中に女性が一人、無表情かつ微動だにせず立っているというのは、なんとも緊張感の生まれる状況だった。
この空間を来て、まだ一時間も経っていない。メイドあるいは分身と呼ばれた彼女と、自分はまだ一言も会話していない。しかし、ずっとそうしているわけにもいかないだろう。魔女はおそらく半日、もしかするとそれ以上、ここへは帰ってこないかもしれないのだから。
子どもの目線から見る大人の威圧感には、ホテルをどうにか抜け出して、魔女のいる部屋にたどり着くまでの時点で慣れた。周囲の物の高さと比べても、魔女やその分身は特別背が高いというわけでもないように思えるけれど、子どもの目の高さから見ると、それでも大きくは見える。慣れてもそれは変わらない。
小さく、バレないように深呼吸をして、彼女の方を少し見上げながら、いよいよファーストコンタクを試みることにした。
「あ、あの」
「何か御用でしょうか?」
驚かされた。声が分身元の本人とまったく同じだったからではない。今まで無表情だった彼女が、なんともまあ話しかけやすい、むしろ話しかけたくなるとまで言えるような、完璧な微笑みを見せたからだ。
それが出来るのならばなぜ、今までロボットのような無機質さを演出しながら、延々突っ立っていたのだろう。疑問に思ったけれども、人外の力で生み出された分身のことは、考えるよりも魔女本人に聞いた方が明らかに早いので、今は疑問に思う心を忘れることにする。
「あー、えぇ、そうだなぁ……」
とにかく話しかけねばと思ってばかりで、要件を考えていなかった。金を払っているわけでもないのに、初対面の相手にあれをしろこれをしろと頼めるメンタルも、自分は持ち合わせていないのだけれども。
「じゃあ、飲み物をもらえますか」
「何に致しましょう?」
「えー、何に、うーん……、とりあえずお茶で」
「どうぞ」
いつの間にか、彼女が色付きのコップを握っていた。この異空間へ通じる扉が出現した時と同じだ。まばたきさえしていないのに、いつ出てきたのか、まったくわからない。
「あー、どうも」
とりあえずそれを受け取ると、コップの中身は麦茶のようだった。コップを手渡される時、美しく微笑む彼女が、若干膝を曲げていたことで、改めて自分の体のことを実感してしまう。
ともかく、飲んでみると、やはりウーロン茶でも緑茶でもなく、麦茶だった。飲み物をくれと言えば「何にする」と聞いてくるけれども、お茶をくれと言っても「何にする」とは聞いてこない。話しかける前の彼女はロボットを彷彿とされる無機質さをまとっていたけれども、話しかけてみればむしろ、魅力的な人間のような振る舞いを見せてくれた。
もしかすると、必要以上の機械感を出さないように、プログラミングされているのかもしれない。「何にする」と二度聞いてこないのは、機械的なやり取りによるストレスを生まないためなのではないか。微笑みも同じ理由なのでは。そんな気がしてくる。
お茶を飲み終えて、さてこの空いたコップ……というよりは、無から現れたコップはどうしようかと思い、彼女の方を見てみる。するとまた目が合った。
「片付けましょうか?」
そう言って差し出された手にコップを渡す。するとコップは、消え去った。もしかすると、片付けてくれと頼めば、手を触れることさえもせずに消せるのではないか。それくらいの、万能感のような物を感じた。
そして、ふと思いつく。そうだ、頼み事というのは、もっと広い意味を指しているのではないかと。
「あの」
「はい」
「話し方、もう少しフランクな感じにできますか」
「できるけど……、どのくらいがいい?」
あんまりあっさり、一秒の間もなく通ったので、むしろこちらが一瞬フリーズしてしまった。やっぱり、そういうことまで含めて、頼めば大体出来るのか。
「今くらい、というか、あなたを作った本人と同じくらいにしてもらえると、助かるんですけど」
「ん、わかった。じゃあ今後そうするけど、また変えたくなったら言ってね」
あまりにもスムーズに口調が変わるので、そこからまた機械っぽさを感じた。用意されたいくつかのパターンから選んでいる気持ちだ。
言えば大抵の世話は焼いてくれる、という話だったけれど、現状で頼みたいことはあまりない。異空間とやらであることを除けば、せいぜい普通の他人の家でしかない場所で、いつまでも突っ立ったり探索をする理由もないので、とりあえず椅子にでも座ることにした。座高の方がまだいくらか、自身の目線の高さが受け入れやすいものになる。
腰を落ち着けてから彼女の方を見ると、また無機質な棒立ちに戻っていた。彼女を機械の類だと思うのならば、ある程度近づいて見つめることが起動の条件になっているのかもしれない。どう見ても質感が人間である相手を、機械だと思うことなんて出来そうにないけれど。
……自分の視線が、彼女の方へ自然に寄っていくことを、段々と自覚し始める。彼女がこの部屋の中でずば抜けて異質な存在なのだから、そちらが気になることは当然なのかもしれない。けれど、どうだろう? 本当にそれだけが理由なのか。自分に自信が持てない。
ものすごくあっさりとした流れで異空間に連れてこられて、当然のように魔女本人と瓜二つなメイド(?)を用意されて。そんな怒涛の流れの中にいても、自分は何も、あの魔女に言われたことを忘れたわけではない。覚悟さえ決めれば、元の生活に戻る道だってあったはずなのに、ここへ来ることを選ぶに至った理由を、忘れたわけではない。
言えば大抵のことはしてくれる。その言葉を、魔女の言ったことを鵜呑みにするなら、自分に都合のいい意味で受け取ってしまって、おそらく問題ないのだろう。確信はない、あれは本人に対する意味だけで、今部屋の隅に立っている彼女に対しては、「そういうこと」は対象外なのかもしれない。しかしどちらにせよ同じことだ。
意思の確認はお互いに済んでいる……と思われる。思われる、だけだ。確信ではない。仕方がないのだ、こんな状況で、確信できることなど何も無いのではないか。いや、こんな状況でなくても、いつでもそうだ。「そういうこと」に関して、確信なんてあった試しがない。
口にする勇気が出ないまま、時間だけが進んだ。拒否されることや否定されることが恐ろしくて、口にできないその望み以外、これといって彼女に頼みたいことは思いつかなかった。元々自分は人に何かを頼むタイプではない。ふと、夕飯を食べるべきかとか、風呂に入るべきかとか、あるいは眠ってしまうべきかとは考えたけれど、どれも別に、望んでしたいわけではなかった。
普段は当然腹が減る。あれが食べたいこれが食べたいと思うこともある。風呂に入りたくなる時も来れば、眠たくなる時も来るだろう。ただ単に、偶然、今は全て違うのだ。しかし、頼むことがないとなると、部屋の隅に立つ彼女はもはや、緊張感を放ち続けるだけの機械のように思われた。加湿器が湿気を振りまくのと同じだ、緊張感だけが部屋の隅から振りまかれている。
だんだんと本当に怖くなってきて、彼女の目を観察することにした。すると瞬きをしていることが確認出来て、少し安心することとなった。本当に、瞬きさえしないような気がしたのだ。相変わらず、身じろぎ一つせず彼女は立っているけれど。
テーブルの上にテレビのリモコンが置いてある。異空間でも番組は見られるのか? 気になって電源を入れてみると、どうやら起動はしたようだったが、画面は黒いままだった。しばらくリモコンをあちこち押してみたけれど、これといって変化がない。ハリボテということか……。
窓の外から来る車の走行音、誰かの大きな声や、鳥の鳴き声。部屋の中の冷蔵庫が、ブゥーンと唸る音。そんな環境音以外、何も聞こえない、リモコンをテーブルに置く音がひどく目立つような部屋だ。ちょうどいい、そう思って彼女に話しかけてみる。
「あのー」
カチリと歯車が合うみたいに、彼女はこちらに目を合わせて微笑んだ。
「うん?」
「テレビ、見れないんですか、これ」
「あー、何か見たい物ある?」
「いや、特には……」
これといって楽しみにしている番組があるタイプではなく、テレビは適当にチャンネルを回して、見覚えがあったりどこか惹かれるところがあったりした物を、そのまま見続けることがほとんどだ。まず適当にチャンネルを回すことができなければ、何も始まらない。
しかし考えてみれば、この空間は全て「魔女が想像した世界」だ。魔女が知らない物はここに何一つ無い。今まさにリアルタイムで放送されている番組なんて、映ったとして、せいぜい彼女が今まさに視聴しているチャンネルが一つ、こちらのテレビにも映るだけだろう。
つまりここで見られる番組は、あの一室で彼女が、主人である男と一緒に見ている番組だけということだ。それをここで一人、いや、メイドと呼ばれた彼女と二人で見るのは、なんとも惨めに思える。
「ごめんね、見たことある物しか映せないから」
「いや、いいんです」
「何か見たい物があったら言ってみて。もしかしたら知っているかもしれないし」
仮に魔女が過去見た映像をテレビに映すとして、そんな物どの程度正しく記憶されているかわからないじゃないか……と考えかけて、この部屋や窓の外の景色全てが、自分の目にどれだけ本当っぽく、本物っぽく見えるかを思い出して、少し恐ろしくなった。魔女の記憶は、人間のそれとは規模が違うのかもしれない。
「いや、特に思いつかないので」
「そう?」
会話が終わると、彼女はまたこちらに微笑みを向けて、またどこか虚空を見つめて動かなくなってしまった。微笑みが始まりと終わりの合図みたいだ、初めて見た時には心底安堵した表情が、今では少し気味が悪く感じるような……。
しかし、この何もない時間を、なんとかして潰さなければ、いよいよ気持ちが厳しくなってきた。夕飯でも食べようか。この想像の世界に、食材の買い出しにでも行ってみようか。そう考え始めて、もしも「何か適当に食わせてくれ」と頼んだら、どうなるのだろうと気になった。
子どもがサンタさんに「ぼくの一番ほしいもの」と頼むようなものだ。何がもらえるのだろう、という期待のような物がある。が、少し考えてわかった。サンタに無謀な期待をかけても、親を困らせてしまったといつか理解するだけで、それ以外には大して面白い物など手に入らないだろう。今回だって何も面白いことは起こってくれない。
なんでもいいから食い物をくれと言ったら、本体の魔女が主人と一緒に食べているであろう夕飯と、同じメニューが用意されるに違いない。それが一番想像しやすい物だからだ。いくら化け物じみた記憶の仕方をしていても、食事について思い出すなら、今日食べたばかりの物が最も思い出しやすいことに変わりはないだろう。
少し油断すれば、いや、少し横着して「何でもいい」と口にすれば、たちまちこの場には、惨めさを誘う物が用意されるのではないか。そのように思えてきた。そしてすぐに、一つ想像をする。
例外は無いのではないか。何でもいいと言えば、横着すれば、何でもそうなのでは。例えば今自分が、何でもいいから「そういうこと」をしてくれと言えば、与えられる行為は、異空間ではない現実の方で、魔女が男としていることに……そういうことなのではないか。
惨めになりたくなければ、自分の望みを具体的な言葉にして、はっきりと伝えていくしかない。それが真実である気がした。しかしもっと考えてみれば、ここにいる自分が取る行動といえば、頼むことだけだ。世話を頼むだけ。それ以外を望むならむしろ、ここにいる意味がない。
惨めかどうかを考えること自体、ナンセンスなように感じられる。自分の手のひらを見つめてみると、不自然だと感じるほど小さかった。鏡を見れば小さいのは手のひらだけではなく、自分の体の全てだとわかるだろう。こうなってしまった経緯まで含めて、現状はすでに、惨めさから逃れられるものではないのだろう。
しかしその事実が受け入れがたかった。なんとしても、これ以上の惨めさは避けたかった。何も不自然なことじゃない、百発殴られたとしても、それは百一発目の拳を受け入れる理由にはならない。自分が惨めであることと、惨めさを避けることは、何も矛盾しない……!
椅子に座っていると、足が床に届かない。その足をぶらぶらと前後に振りながら、お呼びのかからない彼女がそうしているように、ただひたすら、壁を見つめることにした。気軽に頼めることの中で、自分が望む物は何もないように思えた。
……ゆっくりとまぶたを開くと、気のせいか、全てが闇に包まれているように思えた。まばたきをしてみるけれど、やっぱり同じだ、暗い、何も見えない。
首から下が心地よい温もりの中にあることに気付いて、ハッとして飛び起きた。眠っていた……。いつの間にかベッドに運ばれて布団がかけられている。いつの間に……と謎の焦りを感じながらベッドを飛び降りると、闇の中で声がした。
「起きた?」
正直、心臓が止まるかと思った。自分の肩が明らかに跳ねた。寝ぼけているからだろうか、暗闇の中とはいえ、傍に人の気配などまったく感じられなかった。
しかし、落ち着いて考えてみると、その声は非常に聞き覚えのある物だった。あの微笑みが頭に浮かぶ。
「起きました」
橙色の小さな明かりが一つ、天井にともった。はたしてそれが単なる電灯の機能の一つなのか、魔女の力による物なのかは知る由もない。いや、仮に電灯だとしても、ここにある電灯は魔女の力による物なのか。
「おはよう。今ね、朝の八時だよ」
寝室の隅に、リビングにあった物とは別の椅子を置いて、そこに彼女が座っていた。……そこで自分は、再びハッとすることになる。
今目の前にいるのが、本体なのか分身なのか、まったく判別できない。それはそうだ、見た目も声も同じなのだから。そうか、あの口調は、そういうことだったのかと、今頃ようやく理解する。あのやりづらい口調は、本体との差別化のための物だったのだ。
「えっ……と」
「私は分身じゃないよ」
「あ、あぁ」
「紛らわしい口調に変更したんでしょう? あまりオススメはしないけど、どっちが本体かなんて、大した問題でもないからいいか」
自分が寝ている間に魔女が来て、分身からいろいろ情報を聞き出していたのだろうか。それも「世話」の一環なのかもしれない。寝落ちした自分をここまで運んでくれたのが、分身だったのか本体だったのかというのは、彼女は「大した問題でもない」と言ったけれど、むしろかなり重要なことに思える。口頭で頼まなくても、あのメイドは動くことがあるのだろうかという、大きな疑問が一つ解明されるかどうかの違いだ。
いや、けれどそれが解明されたところで確かに、だからどうしたという話なのか。むしろ心配なのは、当人も戦慄するほど唐突に、自分が寝落ちしていたことの方だ。いくらなんでも、まったく眠気を認識せずに突然眠ってしまったのは、これはもはや気絶に近いのではないか。
「なんか、いつの間にか寝てたみたいで……。まったく眠くなかった気がしたんですけど」
「緊張していたんじゃない?」
「緊張……、そんなに……?」
たしかにリラックスとは程遠い感覚であったことは認めるけれども、気を失うような眠り方をするほど緊張していたとも思えない。
「電池が切れたみたいに、突然眠る子どもっているでしょう? 遊び疲れたりして」
「あぁ」
いるいる、と言うようなニュアンスを感じさせるような相槌を打ったけれど、実際のところはピンと来ない。兄弟姉妹はいないし、小さな子どもと接する機会もないから、子どもという存在の性質を、自分はまったく知らないのだ。
「そんな感じじゃない? 君は今、体は子どもなんだから」
「……なるほど」
子どもの頃の記憶なんてエピソードばかりで、そういった感覚的なことはほとんど、あるいは全て忘れてしまった。言われてみれば確かに、そのあたり心得ておかなければならないのかもしれない。あまりにも皮肉だ。自分ももう歳か……と実感させられる日を恐れていたのが、まさかこんなことになるとは。
「それで、一つ質問があるんだけど、いいかな?」
薄明りのおかげもあって、だんだんと目が慣れてきた。そして一つ重要なことに気が付く。魔女の本体と分身の見分け方だ。本体の方も話している時は、機嫌よさそうに柔らかい表情をしていることばかりだけれど、しかしあの分身の微笑みとは、まるで別種の表情をしていることを、比べてみて知った。
分身の方の微笑みは、なんというか、こういう表現をして良い物かわからないけれど、媚びている感じがした。媚びへつらっているとまでは言えない、微妙なニュアンスが、分身の方にはあったように思う。
「質問……?」
「いや、昨日は何も、エッチなことしなかったんだなと思ってさ」
メンタルがむせるような感覚だった。
「え、いや、え?」
「したいんじゃないの? そういうこと。何でも頼んでいいって言ったじゃない」
「いや、何でもって、だってそういうのは、あれでしょう」
何でもと言われて「じゃあ性的なこともいいんだよね?」と、当然の権利を行使するように言える人間には、自分はなれる気がしない。そのような人間は軽蔑されるべき存在であるということを、酒に酔ってでもいない限りは、しっかり理解しているからだ。
「言いにくかった?」
「言いにくいっていうか、いや、何でもとは確かに伝えられましたけど」
「そういうことしちゃっても許してくれそうな雰囲気を、設定したつもりだったんだけどな」
言われて、そういうことだったのかと合点する。あの機械っぽさは、人間性の欠けた感じは、そういう目的で意図的な物だったのだ。たしかにあのメイドの口から、警察呼びますよだとか訴えますよだとか、そんな台詞が出るところは想像できない。それにしたって、嫌がるようなことをすれば、控えめに拒否してきそうな気もするけれど。
もしかするとこの世のどこかには、あれを見て即座に「何でもいいと聞いている」と、「そういうこと」を頼める男が、五万といるのだろうか。それとも男というのはむしろ、ほとんどがそういう性質なのか……? 自分は決して男性を代表できるほどの、多数派だという自信を持っているわけではない。
正直なところ、その手の人間が羨ましかった。そういう男たちが軽蔑されるべきことは理解しているけれど、理解しているつもりだけれども、しかし自分は実際のところ、そういう行動に出られるメンタルを持った人たちのことを、軽蔑するどころか羨んでいた。本当は、欲望の話だけをするなら、本当は自分は……。
「設定って……。……でも、それでもやっぱり」
「言いにくかった?」
「言いにくいっていうか、ダメじゃないですか、そういうことは……!」
「ダメ?」
くすくすと、魔女は笑った。おかしそうに、僕のことを笑う。しかしその笑みの中に、軽蔑のニュアンスは少しもない。まるで、マセたことを言う子どもに対する笑みのようだ。
「誰も咎めないのに」
「けど」
「じゃあさ……」
薄暗い部屋、ベッドの上。椅子から立ち上がった魔女が、僕へ覆いかぶさるようにしてベッドの上へと上がってきた。思わず後ずさりするような格好になってしまって、まるで彼女に押し倒されているような構図になる。女性の方が体格的に自分を圧倒しているのが、やはりおかしな感じがした。
……正直、興奮してしまった。けれどもほんの少し、怖い、という気持ちもあったような気がする。
「君がしたいエッチなこと、私にさせて……?」
「え……」
「これでも、ダメ?」
見た目だけなら、彼女はこちらの実年齢より、ずいぶん若いように思える。しかし怪しいものだと思った。何なら、向こうはもう、何百年もの時を生きているのではないだろうか。相手が魔女だとわかっているからか、そんなことを思った。子ども扱いされている。自分の今の体については関係なく、純粋にそう感じた。
その感覚に引っ張られたのか、いや、また流されたんだ。自分は、流されてばかりだ。自然に自分の首が、よわよわしく、しかしはっきり相手に認識できる程度に、横に振られていた。
唇をふさがれた。舌が入ってきた。
「んっ……!?」
今までの体験とは別物みたいに、彼女は特別積極的だった。口内を蹂躙するようなぬるぬるとした感触が、思考を溶かしかねない心地よさをひっきりなしに与えてくれる。なんだかとても甘くて、いいにおいがした。
「さわっていい?」
舌を絡ませている最中に、お互い口が塞がっているはずなのに、はっきりと彼女の声が聞こえた。その声は気のせいでなければ、なぜか正面ではなく頭上から聞こえてきたような気もする。
そしてこちらが返事をする暇もなく、すでに自分の下半身は衣服の類を全て捨て去っていて、完全に硬くなったその棒を、彼女が慣れた手つきでまさぐっていた。次々に与えられる快感と興奮の中で、しかし自分は、思考を放棄しきれずにいた。
というのも、どうやって脱がされたのか、まるでわからなかったのだ。間違いなく一秒もかからず、モノを露出させられたわけではなく完全に脱がされたのだ。……ああ、そんなこといっそ、考えないようにすればいいのだろうか……。
やがて、彼女が唇を離す。名残惜しさを感じて、思わず自分の口から「あっ……」と声が漏れてしまった。今さらだけれど、その声が子どものそれで、自分の物じゃないみたいだった一方、これでよかったと思った。どんな女性が聞いても、元の自分の姿、元の自分の声で同じことをするより、ずいぶんマシに感じられるだろう。
そして、ふいに、ヌメリとした快感が、自分のモノを這った。
「ひっ!」
どんな女性が聞いても、というのは建前だった。自分はどうも、今の状態で発する自分自身の情けない声が、元の声よりずいぶんマシに聞こえる。気色の悪い声を出すことについて、勝手に許されたような気分になってしまう。そんな気になれるのだ。
下半身の方から、じゅるじゅる……と、粘った水っぽい音がする。暴力的とも思える快感が、次から次へと流れ込んでくるのがわかる。思わず身をよじってしまうほどに。
「気持ちいい?」
口を離して、彼女が聞いてきた。思わず首を縦に振ってしまう。まるで、もっとしてほしいと催促するみたいに。
すると彼女は、自分の唾液で滑った竿をしごきながら、天使のような悪魔のような、現実とは思えないことを言うのだ。
「してほしいことがあったら何でも言ってね。してみたいことでも、なんでもいいから。少しでもあったら言ってね。君のしたいことを、全部させてあげたいの。君に気持ちよくなってほしい」
頭がおかしくなりそうだった。一つの疑いがいくつにでも分身して、大衆の声のようになって自分を責めるようだった。
彼女は、こちらのことを、善良な男だと思って言っているのではないか。素面では自分から性行為を申し出ることもできない、しかし確実に性欲は持っている、そんなかわいそうなやつだと思っているのではないか。酒の勢いで初対面の女とホテルへ行くことくらい、大したことではないとさえ思っているのかもしれない。
しかし違う。それは事実とまったく異なる。酒の勢いがどうとか、自分が小心者であるとか、そんなことは本質ではないのだ。彼女はそれを知らずに、言ってしまえばこちらを「甘く」見て、性欲を舐めてかかって、そんなことを言っているのではないか。
その言葉を鵜呑みにすれば後悔するぞ。自分も相手もこの上なく、ずたずたに傷つけられるに違いない。そんな予感が、どこからともなくやってくる。何も明確にそう断言する過去の体験などは、何一つとして存在しないのに。しいて言えば、自動的に受信される電波のような、常識というやつが、そう警告していた。
黙ってしまった僕を、いぶかしむように魔女が見つめてくる。体だけ子どもになってしまったこちらよりよほど、純粋な瞳をしているような気がした。
「……ねぇ、私は魔女だよ。君の言う「ダメ」も、確かに人間の女性相手ならわかるけどさ。……いいんだよ、大丈夫。何でもって言ったら、本当に「何でも」だよ。約束する。極論だけど、殺されたっていい」
衝撃的な言葉のあとに、彼女は、死なないからね私は、と付け足した。……自分の脳みそは、まるで何か、理由を探していたようだった。理由がもらえるのを待っていたようだった。
そうか、人間じゃないんだ。彼女は魔女なんだ。見た目は人間だけれど、でも自分だって、見た目は子どもなのに、実際は子どもじゃない。彼女もそれと同じなんだ。
「……じゃあ」
その時の自分は、あれだけのことを言った時点でむしろ、彼女にはこちらの欲望を満たす義務がある……そう確信していた。情事の最中に何かを確信したのは、初めてのことだった。