※この作品はR-18です。

自分は悪くないみたいな顔をして   作:氷菓くん

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04 私にとっての神様です

 我に返ったような、という表現では生ぬるい。賢者タイムという物は今までだって当然、それなりにあったわけだけれども、今回のそれは今までと比べ物にならなかった。

 人格が入れ替わったみたいだ。そう半ば呆然とする最中、悲しみや寂しさで泣きじゃくる子どもを包み込む母親のようにして、なぜか魔女は自分を抱きしめて、頭まで撫でている。

 信じられなかった。自分はついさっき、彼女に拷問のような苦痛を与えていた。それどころか、それを楽しんでいた。純粋に快楽を求めた結果として、彼女を苦しめたわけじゃない。彼女が苦しむこと自体を、自分は明らかに楽しんでいた。いざ、このような時が来れば、自分はそれを、嘘だと思いたくなった。

 女性を奴隷扱いするようなエロ動画はそりゃ数えきれないくらい見てきたけれども、それを見て興奮しながらオナニーするのと、実際に自分が女性を痛めつけるのでは、抱く思いがまるで違う。ゲームで人を殺すことと、実際に人を殺すことくらいの違いが、きっとそこにはあった。

 世の女性は、いやひょっとすると男性も、行き過ぎたサド趣味のことは軽蔑するだろう。それはわかっているつもりだった。しかし、本質的なところを、自分は今日までまるで理解していなかったのだ。今ならわかる、軽蔑されて当然だ。拷問や死刑が娯楽となっていたような時代、遥か過去の野蛮さが、自分の中にあることを、ようやく今日理解した、してしまった……。

 勝手な話だ、自分は苦痛を与える側だったのに、それが勝手に自分自身に対して、怯えているようだった。優しい手つきで頭を撫で続ける魔女が、自分のそんな感情を、察していたのかどうかはわからないけれど、全てを見透かされているような気もした。見透かしているのに、それを許容しているのか、それとも、泳がせているのか。

 抱きしめられて、衣服の布越しにでも触れ合う肌が暖かかった。女性の体に求める物を、その暖かさだけで満足できたなら、全てが丸く収まるように思えるのに。そして今は、確かにそれだけで満足できているのに。明日、いや、数時間後の自分でさえ、今と同じ気持ちでいる保証が、幾度となくその手の動画を見て一人で精を吐き出してきた経験上、どこにもないことがわかってしまう。

 そして、そんなこちらの気持ちとは別に、魔女は突然言うのだった。

「朝ご飯食べる?」

 思わず、えっ、と返してしまう。お腹減らない? と聞かれて、腹が減ったとか減らないとか、そんなことをほんの少しも、本当にこれっぽっちも考えていなかったことに気付いた。

「空いた……かも」

「よし、なに食べたい?」

 彼女は密着した状態だった僕から離れると、そう言いながら寝室の外へと出て行った。何もおいていかれたり、はぐれたりするわけではないのに、どういうわけか慌てて彼女の背中を追いかけてしまう。

「なにが食べたいか……うーん……」

「あんまり朝ご飯にこだわりはない? 毎朝決まった物を食べたりはしないタイプ?」

「しないタイプですね」

「目玉焼き食べれる?」

「え、あぁ、はい」

 なぜピンポイントで目玉焼き、好きなのかな……? と考えているうちに、彼女は台所に立って、どこからともなく取り出したフライパンをコンロに乗せ、これまたどこからともなく取り出した卵とベーコンをその中に入れて、火は普通にコンロのつまみを捻って点けた。

「座って待ってて」

「あ、はい」

 言われるがままテーブルの前の椅子を引いて座る。毎度、妙に椅子が大きい気がしてしまって、そのたび自分の体が子どもになったことを思い出す。

 そのうちジューといういい音が聞こえ始める。フライパンの中を見つめる魔女の背中を見ながら、ふと不思議に思った。

「あの、余計なことを聞いてしまったら、あれなんですけど」

「うん?」

「焼いた物をその、魔女の力で出すことは出来ないんですか?」

 料理番組特有の、こちらが完成した物です……ってやつではないけれども。無から想像可能なあらゆる物を取り出せるなら、完成後のベーコンエッグくらい出せるに違いない。調理という過程を踏むことに、朝の雰囲気以外、何も得られる物はないように思えた。

「出来るけど、こうして焼いた方が楽しいじゃん」

「そういうものですか……?」

「わざわざ炭に火をつけてバーベキューするのが楽しいのと同じだよ」

「な、なるほど」

 そういうものだ、と言われれば仕方がない。どうやら彼女は、趣とか、そういったものを重視する人らしかった。そうめんが流れることに大きな意味を感じて、縁日の売り物を正当な価格だと評価するタイプだ。

 そのうち、これもやはり唐突に彼女の手元に現れた皿に、無事完成したベーコンエッグが乗せられ、ただ座っていただけのこちらの目の前に差し出された。炊けた白米は茶碗に装われた状態で、冷えた麦茶はコップに注がれた状態で、それぞれ唐突に傍へ現れたので、それらに対して彼女は、趣をさほど感じないらしい。焼く、ということが特別重要なのだろうか。

 まったく同じラインナップを自分にも用意して、魔女は向かい側に着席した。ラインナップ自体は同じながら、それと見比べて明らかに、自分の方の量が全体的に少ないことに気付いて、そうか自分の体はもう……と思い出す。食べきれない量を出されるよりずっといいけれども。

 それから、魔女が「あぁ」と呟くと、サラダとドレッシング、味噌汁、それと醤油がテーブルの上に現れた。偶然かもしれないが、やはりどれも全て、火は通っている物こそあれ、焼いてはいない物だ。

 二人分用意された食事を見て、何か、自分の中に引っかかる物を感じた。それが何なのか正体を掴めず、しばらくの間きっと、変な顔をして自分は静止していただろう。

 そして体の動きを止めた代わりに、いつもより割り増しで稼働した脳みそは、唐突に答えを思い出す。部屋の隅をバッと勢いよく確認した。

「あの」

「ん、どうした?」

「彼女は」

 視線でそちらを指す。本当に、空気清浄機でも置いてあるかのように、無機物そのものといった雰囲気で、彼女は微動だにせずそこに立っていた。魔女本人がこうしてここにいる間、どうも立ち位置が微妙なようにも思える、メイドと呼ばれた分身が。

「あぁ」

 席の位置からして、魔女からすればメイドは背後に立つ存在だったが、振り返りもせずにこちらの言っている内容を把握したらしく、事もなげに彼女は言った。

「そういえば、聞いておかなければね」

「何をですか……?」

「君は、彼女……あのメイドのことを、自分に都合の良い人間……あー違うか、異能の人間……だと思いたい? それとも、とても良く出来た便利な機械だと思いたい?」

 魔女が、自分の創造主である存在が、明らかに聞こえる距離でそう言っても、メイドがすることといえば呼吸と瞬きくらいで、こちらには少しの反応も見せなかった。

 さっき……性的な行いをする前に、たしか魔女は言っていた。自分の分身について、僕が「何でも頼んでいい」と伝えられていた彼女に手を出さなかったことを知って、手を出しやすいように設定したのに、といったようなことを言っていた。

 設定とやらは、口ぶりからするにおそらく、今からでも変更できるのだろう。きっと口調をあっさり変更出来たことと同じだ。だから彼女は改めて、なぜか今改めて、問いを投げかけてきている。

 どうする、あいつ人間扱いする? 別にどっちでも問題はないよ。……と、つまりはそういう話だ。仮に分身を機械ではなく生物として見るとしても、例えば彼女に手を出してしまえば……さっき魔女本人に対して自分がやったようなことをしてしまえば、それは果たして人間扱いしているのだろうか、という話になってしまう気もするけれど。

 しかし、苦しい問いだった。別に、ただ彼女を人間扱いして、何もおかしなことをせずに、魔女と同等に持っているであろう異能の力でもって、こちらの生活をサポートしてもらえればそれでいいはずなのに。しかし自分にとって、この問いはとてもつらい物だった。

 心のどこかで自分が言う。あれを機械だと思いたいんじゃないのか。あれに感情はなく、あれから得られる反応は全て、人類では考えられないほどよく出来たプログラミングの結果でしかないと、そう考えたいんじゃないのか。そうすれば万が一、自分があれに何をしてしまっても、罪悪感が和らぐじゃないか。

 ……そんなような考えが、確実に自分の中にある。そしてそれを今、はっきりと魔女に聞かれたことで、彼女から心の中を見透かされたような気持ちになってしまう。醜さを指摘されたようで、息が詰まる思いだった。

「まあ、どちらにせよ、私も私の分身も、年単位で絶食したって死なないんだけどね」

 さほどでもない豆知識、とでもいうようにポロっとそんな言葉をこぼして、彼女は一言「いただきます」と言った。彼女が初めに口をつけたのは、あれだけ趣にこだわっていたベーコンエッグではなく、味噌汁だった。

「答えはいつ出してもいいし、なんなら出さなくてもいい。なあなあでもきっとやっていけるさ。まあ食べなよ」

「は、はあ」

「……うむ、聞くタイミングを間違えたね。ごめん」

 謝られるとなおさらつらいので、いただきますの挨拶をしてから、自分は逃げるような気持ちで朝食を口に入れた。そんな気持ちでいたって、味はする物だった。ベーコンエッグは黄身の具合がちょうどよく出来ていて旨かった。

 やがて、二人ともすべて平らげる。結局あのメイドは食事に加わることなく、それがどうも、ターニングポイントになってしまったような気になったが、慌ててそれを振り払った。いい加減そういう、息をするような自然さで、流れへ身を任せてしまうのは良くない。彼女をどう見るかなんて、こちらの意識の問題一つじゃないか。

 壁にかけられた時計を見ると、もうすぐ十時が迫っていた。そしていろいろとひと段落してようやく、そういえばと思い出すことがあった。

「そういえば、同居している男の人というのは、もう仕事へ行ったんですか」

 口にしてから、あまりにも今さらで、間抜けな質問だったと気付いた。けれど魔女はそれを笑わなかった。なんだか、努めてそうしてくれたような。

「うん、今日は朝早かった。いつもはもうちょっと遅いかな」

「なるほど」

 夜までずっとここにいられるんですか。そう聞こうとして、さすがに思いとどまった。何をそんな、乙女のようなことを言おうとしているのか。

 が、それは言うまでもなく、見透かされていたようだった。

「夕方くらいまで、今日はたぶんずっとこっちにいられるよ。何かしてほしいこととか、聞いておきたいことがあったら言ってね」

「あ、はい。ありがとうございます」

「と言っても、してほしいことなら、分身に頼んでもほとんど結果は変わらないけどね」

 そう言って、なぜか彼女は少し笑った。

 結局、その日の夕方まで、ここでは何も特別なことが起きることはなかった。ゲームには魔女の力で再現して作れる物とそうでない物がある(対戦系のコンピューターが思考するタイプのゲームは、コンピューターに最善の動きをさせることは出来ても、「強さ設定」のような物までは再現できないらしい)とか、魔女の豆知識みたいなことを聞いたりして、たぶん、団らんしていたと言っていい生活が、この異空間の中にあったように思う。昼はスパゲティを食べた。

 まるで同じ日の朝、自分が彼女に欲望をぶつけて凄惨な嘔吐き声を引きずり出していたことなんて、夢だったかのようだった。

「それじゃあ、そろそろあの人が帰ってくるから。また明日ね。困ったことは全部そこのメイドに頼んで」

 夕方頃、確実に完全再現できる娯楽物として、テレビやインターネットいった現代の娯楽に欠けたこの異空間へ、数多のボードゲームを置いていったまま魔女は去って行った。窓の外には綺麗な夕焼け空が見えて、カラスがオレンジ色の太陽の前を横断して飛んでいた。

 コンピューターの細かい強さ設定、難易度設定に手こずる魔女の作った分身と、ボードゲームって楽しく遊べるのだろうか。という点については、さすがに本人も気付いているらしく、「無いよりマシ」との言葉を残して去っていた。今部屋の中には、豊富なボードゲームと彼女の分身だけが、土産として残されている。

 今すぐ遊びたいというわけではないけれど、とりあえず自分は、その分身……メイドに近付く。ある程度距離を詰めると、センサーで反応したみたいに彼女がこちらを見て、人畜無害な微笑みを向けてくれた。

「あの」

「うん?」

「口調って、やっぱり最初のものに戻してもらえたりしますか……?」

「はい、可能ですよ」

 たとえ一瞬だろうと、再び分身と本体と、どちらがどちらか分からなくなることは避けたかった。区別がつかなくなった時の、あの時のなんとも言い難い気持ちは、おそらく「不安」が最も近い。避けられるのなら避けたい感覚だ。

 それにもう一つ、魔女と同じ話し方をさせると、まるでこの分身をそのまま代替品として扱っているようで、そのような細かいことの積み重ねが、何か重大な失敗を招くような気がするのだ。

「あなたは……ええと、なんと呼べばいいですかね」

 二日目にして、ようやくそれを聞くのかと、恥を知る気分だったが、聞かないわけにはいかない。

「分身でもメイドでも、他に候補があるのならその通りにでも、なんなりと呼びやすい言葉でお呼びください」

 他に候補があるのなら、そう言われてハッとした。そういえば自分は、あの魔女の名前を知らない。これには、心の底から驚いた。まるで支障はなかったが、しかしそうか、知らなかったのだ。名前も知らないまま、今まで関わってきた。

 けれども考えてみれば、むしろ逆に、名前とはそこまで重要な物ではないのかもしれない。もちろん蔑称等は論外だけれども、好きに呼んでいいと目の前の彼女も言うように、あまり名前にこだわりすぎるというのも、それはそれで正しくないのかもしれない。

「うーん……困ったな、分身もメイドも名前らしくないけれど、候補も思い浮かばない」

「でしたら、私の方から候補を挙げても良いでしょうか?」

 自分は、彼女のその言葉にも驚いた。まるで機械のようだと思っていた彼女が、特に案がないならこう呼んでほしい……と意思表示をするようだったからだ。

 しかしすぐに思い直した。たしかにそれは意思表示なのかもしれないが、しかし同時にある可能性として、それは事前に魔女の仕込んだ、名前が思いつかなかった時用の単なるプログラムかもしれない。こちらで考えたところで何もわかることはない。人間としてでも、機械としてでも、好きな方として扱えばいい。分身の振る舞いを通じて、魔女がそう言っているような気がした。

「どんな候補ですか」

「デミ」

 なんだか、どこかで聞き覚えがあるけれども、意味を覚えていない単語だった。ただ、あまり良いニュアンスではなかったような。

「デミっていうのは、どういう意味の言葉なんです……?」

「あれから取りました。今、目に入ったので」

 彼女が指さしたのは、テーブルの上に置きっぱなしになっているボードゲームの一つだった。それは一応二人でも遊べるけれど、三人以上で遊んだ方が楽しい(魔女談)らしい協力型のゲームだった。

 パンデミック。ボードゲームの箱にそう書かれているのを見て、ああ、彼女は本当に、名前なんかどうでもいいと感じているのだなと、そう悟った。いや、それもやはり、目につくものから取れ……という、プログラムの可能性だってあるけれども。

「わかりました。じゃああなたのことは、デミと呼ぶことにします」

「はい。……それと、余計なことでしたら、無視してもらって構わないのですが」

「はい?」

「私に対しては、敬語を使っていただかなくても大丈夫ですよ」

 言われて、特に意識してやっていたわけでもなかったから、なるほどという気持ちになった。「私に対しては」ということは、魔女本人に対しては、また別の話だということだ。言われてみれば、魔女、僕、分身……の三人は微妙な関係にあるのかもしれない。

 考えてみればあの魔女は、無償で自分のことを助けてくれている。それも必要最低限どころか、普通ならばいくら金を積めばいいのかもわからないような、何から何まで全肯定してくれるような扱いをしてくれる。この時点でおかしな話だけれども、そもそも退行の魔女とやらに、詳しい理由は不明ながらも結果として選ばれて自分は、体を子どもにされてしまったのだから、魔女という存在の価値観や倫理観については、人間の常識では語れないような気もしている。

 そしてそんな魔女に生み出されて、これもまた無償で僕に尽くすようにとされている彼女、デミもまた、人間の常識では語れない存在なのかもしれない。が、ともかくここに上下関係のようなものがあるとするなら、魔女>僕>デミとなりそうなことは、改めて考えるとギリギリわかってくるような……こないような……。

「敬語……ううん……、じゃあ、まあ、その場のノリで話したいように話すことにします」

「わかりました」

 口調を変えろと言われてすぐに変えられるデミの尋常ではないことを、こうして身をもって体感するのだった。

 まあ、それはそれとしてだ。名前と同じく、話し方なんていうのも、瓜二つの人間が身近にいたりしない限りは、基本なんだっていいのだ。それはいい。それよりも、今はデミに聞きたいことがある。たとえ全ての返答が、魔女のプログラミングの結果であったとしても。

「ところでなんですけど、デミさんに聞いてもいいですか」

「はい」

 自分は、とてもシビアなところを突こうとしているのに、相手の振る舞いのおかげか、緊張の類はまったく感じていなかった。

「今朝の会話を聞いていて、デミさんはどう思いましたか」

 彼女はまた微笑んだ。

「座って話しましょうか」

「ああ、はい」

 ある程度近付かないことには、デミが起動しない(この表現は彼女の機械扱いを決定しているようで好ましくないが、他に表現のしようがない)ので、彼女と話す時は部屋の隅に近付いて立ち話となってしまっていた。逆に言えば、それを問題と思わない短さでしか会話したことがなかった。

 ボードゲームの山は、デミが使う魔女と同等の力で、瞬時にテーブルの端へ整頓され積み上げられた。今朝の話をしようという流れで、二人でテーブルを挟み向かい合って座ると、魔女と瓜二つの彼女をそこに座らせれば、本当に今朝の風景を再現しているかのようだった。窓の外では、刻一刻と日が沈んでいっているけれど。

「どう思ったかというのは、私を人間扱いするか機械扱いするか、という話のことですよね……?」

 自身に関することをデミはさらりと言葉にする。彼女を人間扱いするというなら、その言葉からして、すでに非道な物だというのに。むしろこちらの方が、彼女の言葉に返事をするのが少し苦しくなって、頷くだけで返してしまった。

「どう思うと言われますと、そうですね……。何も、……というのが、答えになってしまいます」

「何も?」

 そんな馬鹿なことはないだろう、という言葉が頭の中に浮かぶ。そして、あんな話を目の前でされて、何も思わないなんていうのはまるで、心が無いみたいじゃないか……と考えて、答えに辿り着いてしまったような気になった。

「私は、あなたをあらゆる方面でサポートする役割で生み出された存在です。あなたの要望を叶えることが、私の唯一の存在意義であって、それ以外には何もありません。そういう風に作られています。なので、どういう扱いをしていただいても、そこに変わりはありませんから、少し投げやりな言い方をしてしまうと、どう扱われるかということについては……どうでも良いのです。ですから、何も思うことはありませんでした」

 淡々と、それでいて何か、こちらを慰めているかのような微笑みを、貼り付けたようなとは表現できない微妙な変化を繰り返しながら、常にその顔に浮かべて。彼女が言ったことは、何か恐ろしい力によって強制されているのでなければ、それは、人間の心から出る言葉ではなかった。

「……例えば、たとえばですよ」

「はい」

 微笑む彼女を、どうしても問い詰めたい。自分がなぜそう思うのか、わからなかった。彼女に人間らしさを感じて、彼女を人間扱いして、それで、それで……自己満足がしたいのか。それともその自己満足こそが、人として最も重要な物なのか。あるいは逆に……彼女は機械だと確かめて、それなら平気だと安心したいのか。

 例え話をする中で、頭の中に浮かぶのは、あの寝室で自分が魔女に対して行ったことだった。

「僕が自分のことだけを考えて、あなたに尋常ではない、血反吐を吐くような負担を強いたとします」

「はい」

「逆に、僕があなたに出来るだけ負担をかけないように、人として当然程度の範囲で、つまりまったく僕の負担にもならない範囲で、あなたにも配慮をしたとします」

「はい」

「そのどちらのパターンでも、どうでもいい、ということですか……?」

 彼女の微笑みは崩れなかった。魔女も、分身であるデミも、ニュアンスこそ違えど二人とも僕を、何か一貫した価値観で見ている感じがする。それはなんだろうと考えてみると、なるほどそれは、その微笑みや無償の献身は……子どもに対するものなのか。何も、母親から子へ対するそれとは違って、自分が生んだという責任があるわけでもないのに。

「いいえ、それはきっと、違うと思います」

「どう違いますか」

「私の役目は、要望を叶えることです。負担のない生活を提供することではなく、たとえ負担がなかったとしても、その上にまだ要望があれば、それを可能な限り全て叶えることが重要なのです。なので、たとえ私に配慮していただくことがあなたの負担にならなかったとしても、あなたの言葉を借りるなら、あなたが「自分のことだけを考えた」結果浮かぶ要望があるなら、それを叶える義務が私にはあるのです」

 ……とにかく一つわかったことは、無機質であった彼女はしかし、無口ではなかったということ。そしてもう一つわかったことがある。いくら話しても、言葉を重ねても、微笑みを浮かべても、彼女の中から、無機質さは少しも抜けていかない。

 けれどもそれは、彼女を機械だと断定するに足る理由にはならなかった。彼女の言葉、表情、振る舞いは、全てどこか機械的だけれども、しかしそれにしては、どうも生々しい。逆に彼女を人間として見た場合、まるで、すでに壊れてしまっているかのようで、そしてそれが、彼女に対する印象として、きっと一番正確だ。

 壊れた人間、生々しい機械。デミと名付けた、僕の世話をする……というにはあまりにも解釈が広く、こちらに都合の良すぎる、メイドと呼ばれた存在。彼女と、今日、初めてまともに話した。

「あなたは、それでいいんですか」

「良い、と言いますと……?」

「実際に、要望を叶えるだけの、その……道具のように扱われたら、つらいでしょう」

「いいえ、まったく。むしろそれが本望です。あえて言うならば、それが私の幸せです」

「どうしてですか……?」

「そのように作られましたので」

ふぅん、そうなんだ……と納得できるのは、これが人の口から語られているのではなく、取り扱い説明書の文面に載っていた時だけだ。そもそも自分含む人間は、それはそういうものなのだと言われて、それですんなり納得できる場面の方が少ない。

「……もしも自分が、そういう風に作られたからという理由で、他人の要望を叶えることに命を懸けさせられたら、たまりませんよ」

「それは、そうだと思います。人間ですから。私は人間ではないので平気ですよ。かといって、機械の定義にも、当てはまりませんけど」

 人間ではない、機械でもない。その言い方なら、それは魔女にも当てはまりそうだった。どちらでもない存在から、どちらでもない存在が生まれる。機械が機械しか生み出せない一方で、人間は人間も機械も生み出せる。その人間が、人工知能と倫理についてあれこれと議論する中で、魔女は「都合よく便利な分身」を作ることに対して、どう考えているのだろうか。

 それはこちらで考えても、わかるわけがないことだった。何しろ魔女だってその気になれば、特別な力を使わなくても何かしら機械を制作できるだろうし、きっと子どもを持つことだって出来る。魔女はどちらでもない存在でありながら、どう考えても完全に人間の上位互換だ。そんな存在の頭の中を想像するのは、百年後の人間の倫理観を、予言するようなものだとしか思えない。

「正直、理解できません。けれど、理解を放棄してしまったら、それはあなたの機械扱いを決定してしまう気がして……」

「そうでしょうか……?」

 その時、会話している最中では初めて、彼女の顔から微笑みが消えた。突然キョトンとして、心の底から「そうか?」と疑問に思っているように見えた。自分はそこで初めて、彼女に人間味を覚えた。

「人間同士でも、わからないなって思うことはありませんか……?」

「あります。けど、考えることの放棄はしない、……してないつもりです」

「では、どうするのですか……? 考えても考えても、わからない時というのは」

 理解できない人間はいろいろいる。理不尽に思えてならない目上の相手、歩み寄りたいけれどまるで理解が及ばない後輩や、もっと小さな子ども。大昔の自分は当時恋人にも、時々理解できない部分を見ていたように思う。

 自分に害のあるタイプには、極力関わらないように、関わらなければならないにせよ、最小限に出来るようにしてきた。それは改めて考えれば、こちらからも相手を突き放し、人間扱いしない行為ではあったかもしれないが、しかしこちらも人間であって、害に対する耐性は無限ではないので、それは許してほしい。

 それで、ならばもう一つのパターン、害はないが理解不能なタイプに対しては、自分は今までどうしてきただろう……? そう考えて、遠目に見た何かが、猫の死体であることに気が付いた時のような、息をのむ心情となった。

 かといって、沈黙で時間を稼いでも、今この場で考えたすぐにバレるような出まかせを言っても、意味はないように思える。そのまま言うしかないのだ。……自分の声が、震えているような気がした。

「考えても、わからない時は……。そういう時は……、相手の主張を、尊重してきたつもりです……」

 例えば、男の自分にとって最もポピュラーな理解に至れないこととして、生理の苦痛を訴える女性という存在がある。どれだけ言葉を尽くされても、結局その苦しみがどんな物であるのか、インフルエンザで寝込む時の苦痛と同じような共通認識としてまでは、理解することができない。しかし尊重はしているつもりだった、つらいのだろうなと、理解はできなくとも、理解しようという姿勢だけは示しているつもりだった。

「それなら、ぜひ私の主張も、そうしていただけると嬉しいです」

 誘導尋問だと思った。それとこれとは別なのだ。苦痛を主張されたなら、それは尊重するし、逆にもっと、守備範囲外の趣味の話をされるとか、ポジティブながら理解できないことを主張されても、やはり尊重しようとは思っている。しかしそのことと、彼女の言ったことをそのまま受け入れることは、違うだろう。

 納得出来ない。……そう顔に書いてあったのだろう。受け答えが主であった彼女の方から、話し始めた。受け答えというのは、言葉のみに対する物ではないというだけのことかもしれないけれど。

「お前はあの人のために、そのためだけに生きねばならないのだ……と生まれた時から言われて育った人間が、その運命に納得出来るかというと、道中の人生で起こる様々の末に、尽くす相手に多大な恩を感じていたりでもしなければ、まず納得出来ずにいるでしょう。それが人間というものだと心得ていますが、これは間違っていませんか……?」

 自分にとってそんな星の下に生まれることは、完全に他人事であり、いっそおとぎ話のようだけれども、それでもやはりそこで理解を放棄せず想像してみれば、自分がその状況に置かれたとすれば、それはやはり納得いかないだろうと思う。

「は、はぁ。まぁ、そうだと思いますよ」

「なぜ人間は、そのように感じる生命として、確立されたのでしょう? 私は、誰かのためだけに存在することを、少しも苦には思わず、納得もしているのに」

「なぜ、と言われても」

 言うならば、種族の違いなんじゃないだろうか。そう結論付けることは理解の放棄であるのかもしれないけれど、そうせざるをえないような気がしてしまうから、そうしたくない気持ちと合わさって、まさに今こうして苦悩しているのだ。

「人間は、地球がなければきっと生まれなかった。地球は、宇宙がなければ存在し得なかった。宇宙は、きっと神様が作ったのでしょう。なぜ人間がそういう生命として確立したのか、理由はわかりませんけれども、唯一はっきりしていることは、神様の創造の末に、「人間」という結果があることではありませんか? 誰も、そのことにまで遡って、意義を唱えようとする人はいないのではないですか」

「うーん……まぁたしかに、そうかもですね」

 苦労して抜かなければならない親知らずは、なぜわざわざ自然にしていて体の中から生えてくるんだとか、旨いと感じる物ほど健康に悪いとは、そもそも生きるために食事があるはずなのに、いったいどういう仕組みなのだとか、そういうことを考えたことはある。けれども、それに対して心の底から、ああ神様なぜですか……! と思ったことがあるかと言われれば、それは間違いなく無かった。

「確かに、人から与えられる理不尽には納得出来ないのに、神様から理不尽を与えられれば、人間って意外と受け入れてしまうのかもしれませんね。……で、それがつまり、何なんですか……?」

「私にとっての神様は、私を作った魔女その人なんですよ、という話です」

 だから自分の生まれた意味を、疑う気持ちはありません。彼女は再び、微笑みを浮かべてそう言った。

 魔女がどこから来たのか、ということを、自分はまったく知らない。もしかすると魔女というのは、人間の突然変異なのかもしれないし、ただ見た目が似ているというだけで、まったく別な宇宙人のような存在なのかもしれない。

 そのどちらにしても言えることは、さすがの魔女とあっても、宇宙が存在しなければ、そもそも存在していなかっただろうということ。人間が親に理不尽を感じて神には感じないとすれば、彼女の神だってやはり、人間と同じなのではないか。あの魔女はむしろ、ただの親なのではないか。そう思った、思ったけれども……。

 彼女にとっては、本当に少しの疑いもなく、魔女が神様なのかもしれない。そう感じさせる不気味さが、その微笑みの中にあった。優し気な声の中に、機械でも、もはや自分と同じ人間でもない、狂人のそれを感じた。

 理解はできない。けれども尊重することまでもは諦めたくない。……が、尊重しようという思いの末に自分がやろうとしていることは、もしかすると押しつけなんじゃないのか、そういう新しい考え方が、自分の中で生まれつつあった。

「……それがあなたの、デミさんの本当に望むことなら」

「はい」

「僕だって、助けてもらえて悪い気はしないんですよ」

「はい……!」

 何年も片思いした相手から、愛を告げられたような、彼女はそんな、本当に幸せそうな顔をしていた。

 そして、もう、たったこれだけで、タイムリミットなのだろうか。自分の心の一部から、音の無い声が聞こえてくるのがわかった。……彼女はあれだけのことを言ったのだ、お互いにこんなにも言葉を尽くしたのだ。前言を撤回させてほしいと言われた時は別としても、それまでの間、すでに彼女には、こちらの要望を「なんでも」叶えること……その義務が発生しているんじゃないだろうか。自分の一部分が、そんなことを言う。

 一度その声に従った後の、今ならわかる。これは悪魔の声だ。人の道を外れた者の声だ。聞こえるだけなら、ギリギリ踏みとどまれる。しかし従ってしまえば、自分は再び人の道を外れてしまう……。

 仮に。人の道に乗っ取った価値観を持つことが人間であると定義するならば、デミが人間でないことと、今の自分は、何がそんなに違うというのだろう。……どうしてそこまでわかっていて、内なる悪魔の声に従ってしまいたいという気持ちは、こうも強烈に、無限を体現するかのように、次々湧き上がってくるのだろう。

 自分に区別がついていないことがわかる。この欲望は、オナニーがしたいと思う時と、まったく同じ物だ。ただの映像に対する感覚が、今目の前にいる彼女に向いてしまうのは、どう考えたってまともじゃない。それはちゃんと理解できている、いるのに、その理解はこの欲望を消し去ってくれる理由に、なぜだかどうやら満たないらしい。

 夕日はもう完全に沈み切って、自分とデミで二人きり、ここにも夜が訪れていた。

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