あのあと、自分はすぐに眠ったらしい。彼女の胸の感触と、気味が悪いほど都合のいい言葉が、昨晩最後の記憶になった。
目が覚めると、昨日と同じように、ベッドの上で布団を被っていた。そうした覚えはないのに、下はしっかり穿いていた。それもまた魔女の力か。
……自分は、半ば開き直っていた。それで良しとするわけではないけれども、とりあえず、自分が間違いなく異常者であることは自覚した。もう二度とあんなことはしないでおこう……なんて、性欲的にすっきりした今の状態で思うことに、何の意味もありはしないことだって自覚している。
リビングへ出ていくと、相変わらず部屋の隅にデミが立っていた。
「おはよう」
わざわざ近付くこともせず声をかけると、彼女はまるで自分たちが、爽やかな朝の中にいるかのように微笑んだ。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「とても」
「それはよかったです」
とてとて、と彼女がこちらへ向かって歩いてくる。僕は椅子に座った。座る位置はもはや定位置となった。台所にもデミの立つ位置にも、椅子に座った状態で背を向けることはない。
「朝ご飯は何にしましょう?」
「あー……」
自分は普段から、そうポンポンと食べたい物が出てくるタイプではない。酒は好きだけれども、食い物に特にこだわりはないように思う。何一つ頭の中に浮かぶことがなく、それを誤魔化すように唸っていると、無言でまた料理本を渡された。
それを開いて、なんとなく、大きな見出しや旨そうに見えるよう撮られた写真
ではなく、細かい文字の方を見てみた。作り方の手順だとか、食欲をそそるための文章だとか。……どこにもおかしな部分はなかった、ように思う。魔女が自分で文面を考えて用意したというより、一字も余さず暗記した物を用意したと考える方が、むしろ自然である気がした。
「そうめんとか、いいかもですね」
「はい」
言った瞬間にどころか、言い終わるより若干早く用意されている気がした。彼女も向かいに座って、なんとなく二人目くばせでタイミングを示しあいつつ、両手を合わせてから食べ始める。
「昨日の」
「はい?」
用意された細かく切られた小ネギをめんつゆに雪崩れ込ませつつ、
「昨日のはまだ、マシな方なんですよ」
見ると、彼女の首には跡が残っていた。薄く、薄くだけれども、指の跡が。
「そうなんですね」
見渡してもどうやら無いようなので、言ってみる。
「すだち出せますか」
「はい」
絞りやすいように、くし型に切られたすだちが小皿に乗って現れた。ネギを入れたつゆにそうめんをつけて、それをすすり頬張ったあと、すだちの果肉をそのままかじる。……特に何も言われなかった。自分はこういう食べ方をするのが好きだが、どちらかといえば苦言を呈されることが多い。
「死なないから殺そうとされてもいい、っていうことですけど」
「はい」
「殺そうとすることにも結構、違いがありませんか?」
大きく深い皿にためられた氷水の中に漂う、白く細い麺を次々取ってはつゆにつけてすする。すだちは二切れ目をかじりだした。
「一思いに殺されるのと、その逆とでは、例え命が無限にあったとしても、違いませんか」
「そうですね、違うと思います」
どんな顔をしているんだろう。そう確認すると、つるつると麺をすする彼女は、背筋がひやりとするほど無表情だった。部屋の隅に立っている時と同じだ。ならば今さら、驚くこともないはずなのに。
控えめな量のそうめんを頬張った彼女がこちらに気付くと、いつもの微笑みを向けてくれる。もぐもぐ咀嚼しているのを見て安心した。口に入れた傍から、消えているんじゃないかという気がしたのだ。彼女は飲まず食わずの休み無しでいたとしても、顔色一つ変えないのだから。
「これは理解の浅い、私の予想なのですけど」
彼女はごくんと口の中のものを飲み込んでから、
「役割を果たすためには、なぶられた方が、より良いのかな……と」
誤魔化すように、はぁ……、と息を吐く。その後息を吸ってからもう一度、タバコでもふかすみたいに、ふぅーっと吐いた。
その通りだと答える覚悟もなければ、今さら「違う」と嘘を言うこともできないことを、ため息で誤魔化した気になっていた。
「お酒って出せます?」
「何にしましょう」
「ビール」
予想に反して、瓶で出てきた。彼女が一人で注いで渡してくれる。
「何かつまむ物もあった方がいいですか……?」
「いや、いい」
グイと一気に飲み干す。するとすぐにまた注がれた。朝っぱらから……、というツッコミは一切来ない。まるでそれが、普通のことであるように思えてきた。自分が酒を朝から飲んでも、毎日飲んでも、目に見えて酒に依存しても、彼女は何も口を挟んでこないのではないだろうか。そんな考えがだんだんと、彼女と一言話す度に一歩また一歩と、確信に近付いていってしまう。
その……余計なことを言っているとは思いますが……そろそろやめておいた方が……、なんてことを言われる未来が、今はまだ、少しだけ想像できる。しかしどうも、そちらの想像の方が実現せずに、仮に酔うたび自分が暴力を振るうようになったとしても、彼女はそれを咎めないどころか、またこちらに都合のいい言葉ばかりを並べてくれるような気がして……。
自分は今、素面だ。コップ一杯のビールで、酔うわけがない。なのに、まともに考えて、そんな想像ばかりが浮かんでくる。……と、そこではっと気が付く。
「しまった」
「どうしましたか……?」
「子どもじゃないか、体が!」
「ああ、平気ですよ」
彼女がラベルを見せてきた。書かれている文字は、ノンアルコール……と、いや、そういう問題じゃないだろう。
「いやいやいや」
「ああ、いえ、そのですね。これは魔女の力で作った物なので、ちゃんと都合良く、体に害のない物になっていますよ」
そんなことがありえるのか……とまったく信じられないような、鼻で笑いたくなるような気持ちになった。その理屈でいけば、飲めば飲むほど痩せるコーラだって出せてしまうのでは、などと考えた。
「いや、じゃあなぜラベルを見せたんです」
「少し説明がややこしいので……。その、しっかり酔えるんですよ、これでも。それで害がないっていうのは、説明が難しいかなと」
いつからとは無く彼女に付いていた印象が、問いかければ、知っていることなら何一つ隠さずに答えてくれそうだいう物だったので、突然息をするかのようにやられたその誤魔化しは、ものすごく意外だった。誤魔化されたと思えば、ノンアルコールの表記さえ、こちらが聞いた瞬間に魔女の力で表記したような気さえしてくる。
「説明というか、つまり既存の食べ物に、いくら食べても太らない効果を足したり、たった一種類の物を食べ続けて、なんら問題ない栄養を得られるようになったりするんですか? 魔女の力っていうのは」
彼女の目が少し輝いた気がした。自分の悩みに真剣に興味を持ってくれる友人を見つけた時のような輝きが。
「はい、出来ますよ。というか、今までの食べ物、全てそうです」
「へぇ……」
知らないうちに神の食物を口にしていたような、そんな気分になる。ここがトンネルの先だったら、今頃豚にされていた。
そして気付いた。彼女はそうだ、求められないことと同じくらい、応えられないことにも怯えているようだ。説明に自信がないことは避けたいのだろう。
命が無限なら、なぜ殺されてもいいということになるんだ。それはどういう心情なんだ。そう問いただしていくと、たぶん彼女は泣きそうな顔をするんじゃないだろうか。……容易に想像できた。気の毒なので、あまり深いことは聞かない方がいいのかもしれない。難しいことは何も聞かなくても、こちらに不利益はまず無いのだから。
それなら遠慮なく、ということでまた酒に口をつける。そうめんを食べながらビールを飲むのは初めてだった。家で瓶ビールも初めてだ。
「言うまでもなくそういう、完璧な食べ物? とでも言うんですか。そういう物にしておいてくれたのは、さすが気が利いてますね」
それは自分だって、普通の食べ物とそれより遥かに完璧な食べ物が、どちらも無限に出せるとしたら、他人には後者を渡すだろう。そうしない理由がない。けれども、放置しておくと機械みたいになる彼女に対しては、そういう人間らしい判断を評価したかった。
「いえ、それしか出来ないんです」
ある意味で世辞とも言える自分の言葉によこされた彼女の返事は、まったく予想していないものだった。
「例えば栄養というのが、実際のところ何なのか、魔女は……あの人は理解していません。なので私の使える力も、それと同じ仕様になっています」
わかりやすく首をかしげて見せながら聞く。
「理解していないとは?」
「どの食べ物にどういう栄養が含まれていて、それが人間にどういう影響を与えているのかだとか、そもそも栄養というのはどういう理屈でその効果を発しているのだとか、そういう何と言いますか……学問的なことですか。それを理解していないのです。理解していないものは、当然ながら再現できません」
「なら全ての栄養を併せ持ったかのような完璧な食べ物は、どうやって作っているんです」
「魔女にも生まれた時から体があって、その体は健康でしたから、「その状態にする物」を作ることは出来るんです。人間の体は、食べなければ弱り、死んでしまう。そこまではわかっているから、食べれば健康が維持される物を作る、ということなら出来るんです」
無知だからこそ強力な力が使える……ということなのだろうか。いや、自分だって栄養の何たるかを知らない人を無知呼ばわりできるような、立派な知識は何一つ頭に入っていないわけだけれども。
「なるほど」
「私の体もあの人の体も、そんな物ですよ? 人間の体の仕組みに詳しい者が解剖してみれば、おかしな部分ばかり見つかるかもしれません」
理屈を無視して健康を手に入れられる食べ物が無限に生み出せるなら、理屈を無視して「人間の体の感覚」を得られる肉体だって、無限に生み出せてしまう。そういう話だった。分析してみればそこには、人間の理屈が通用しない作用で、それらが成立していることがわかるのかもしれない。そこに赤血球が無くても血は赤く、酸素を運んでいるのかもしれない。
「……なんか、いいですね」
空になったコップを差し出しながら言う。すると、もはや「注ぐ」という過程すらすっ飛ばされて、満タンのビールがいつの間にかコップの中に入っていた。
「というのは……?」
「なぜ、って考えることがないわけじゃないですか。欲しい結果だけ先に得られるなら」
怪我をすれば、どうやって治すかを考えなくても、治ったという結果が得られる。ならば悲しみにくれた時だって、いつかの楽しかった時を思い出すことが出来れば、理屈をすっ飛ばして、その時の気持ちへ帰ることが出来るんじゃないだろうか。
この異空間を、全てが想像と再現だけで出来ている世界を、いとも簡単に生み出せてしまう者が、自身の過去の心の様子を致命的に忘れてしまうところなんて、まるで想像できなかった。
「つらくなったら、つらいのは嫌だと思えば、つらくなくなるみたいな。いいなぁって思ったんです、そういうの」
意識したわけではなかったけれど、口から出てきた言葉は実際のところ、嫌味として彼女に聞こえただろう。それを聞かされて、そんなことを言われた傍からだ。彼女は、とても悲しそうな顔をした。心の根っこの方が、絞めつけられるように痛んでいるような、そんな悲痛な表情だった。
「つらいのですか……?」
彼女からまっすぐ向けられた目線を、こちら側で逸らすことしかできなかった。
「おかしな話ですけどね」
「そんなことありません」
「ありますよ。……終わったら、罪悪感が出てくるんです。昨日みたいなことも、その前に魔女にやったことも」
「……なるほど」
特に驚くわけでもなく、軽蔑するわけでもなく、かといっていつもの微笑みもなく、彼女はそう相槌を打った。
「どう考えたってつらいのはデミさんの方なのに」
「私は少しも、つらくなんかないですよ。むしろ」
彼女の言葉をさえぎる。
「僕はわかりませんよ」
飲んでも飲んでも、コップに酒が湧いてくる。もう少しだけでも違った状況にいたなら、無限に供給される酒を見るのが愉快で仕方なかっただろう。よく目を凝らすと芸が細かいことに、テーブルに置かれたビール瓶の中身は、着々と減っていっていた。
「昨日の夜は確実にありましたけど、今は罪悪感があるのか無いのか、自分でわかりません」
まるで被害者面だった。もしもそれを指摘されたら、自分はどうするんだろう。この場から逃げ出すのか、逆ギレでもするのか。……まるで想像がつかないのは、指摘されることなんてないだろうと、彼女に対してそう確信していなければ、そもそもこんな話はしていなかったからだろう。
「……私が苦しんだ方が、興奮するんじゃないですか?」
気が付くと、彼女もビールを飲んでいた。
「しますよ、正直。してしまうんです」
「……困りましたね。嗜好を否定するわけにはいきませんが、罪悪感を抱かせてしまうことを、良しとするわけにもいきませんし……」
話の大前提が、ここで行われる全てのことが、僕の幸福を……それだけを基準にして回っている。いざそのような、楽園のような物を与えられると、どうして万歳して喜ぶ気になれないのだろう。逆に、何か納得できるだけの苦労をしてからなら、今のような状態を自分はむしろ、当然の物だとして受け取るのだろうか。
何かがおかしい。そんな思いがこの空間そのものに定着して、目の前の彼女、デミが自分を傷つける未来はどんどん想像できなくなっていくのに、いつか全てが崩れてしまうような漠然とした不安が、自分の中にあるというよりも、自分を取り巻いているような気がしてならない。
「私は本当に、これっぽっちもつらくないんですよ? それでも罪悪感は湧きますか」
無言で頷くしかなかった。すると、彼女が途端に不安そうにする。重要な用事を控えた前日、布団の中で眠れなくなる時のような印象を纏いだす。
「どうすればいいんでしょう……?」
その問いに対する答えは一つしかなかった。あまりに気の毒で、即答することは出来なかった。
「わかりません、僕にも」
まだ自分が、画面の中での行為を見て一人で興奮することに、同じような罪悪感を覚えていたのならわかる。元々自分はそういう行為に興奮を覚えつつ、同時に罪悪感も抱く人間だったということになる。
しかし今までそれは一切なかった。それが今どうしてこうなっているのか、自分でもさっぱりわからない。結局画面の中でだって、実在の人物が実際にその行為をされているというのに。苦痛を与えられている相手の人数は、画面の中だろうと手で触れられる距離だろうと、変わってなんかいないのに。
今もう一度、動画を見たらどう思うのだろう。魔女と関わる以前の自分には、すでに戻れなくなってしまっているような気がする。今の自分は、お気に入りの動画にさえ罪悪感を覚えるんじゃないか。
「……わからないなら、したいようにするのが一番じゃないですか……?」
おそらく暗い顔をしたまま黙りこくっていたであろう自分に、そんな言葉がかけられた。自分の心の中を改めて見ることに必死で、その時の彼女の表情は見ていなかった。
その言葉が、まるで何の責任も負わない立場から、適当に聞こえのいい言葉を吐いているように聞こえてしまった。無責任どころか、最も割を食うのは彼女自身なのに。理屈ではそうだとわかっているのに、自分はその言葉がどうも、気に食わなかった。
「じゃあ、すぐしましょうよ」
今までのことだって、いつもそうだった。何の罪もない言葉に、まるで自分が罰を与えてやろうとさえ思っているような。そうなってしまう時の自分からは、世界をどこか歪んで感じていた。
「だんだん慣れてきている気がするんです。あれこれ求めることに」
自分が席を立つと、それを見た彼女も席を立った。それと同時に、テーブルの上の食事関連の物は全て、跡形もなく消えてなくなる。ごちそうさまは言い忘れた。自分が向かうのも、その背中を追う彼女が行く場所も、わかりきっていた。行為は、いつもそこで行われたのだから。
……なんとなく、寝室を暗くした。眠るわけでもなく、明るいままが嫌なわけでもなかったけれど、今までがそうだったから、本当になんとなくだ。ただし完全な闇ではなく、お互いのシルエットが見える程度の薄明かりは点けたままにした。
そうしてそのシルエットを、ベッドに腰かけた彼女を押し倒すようにして、体格差を感じながらキスをした。
「ん……」
舌を入れると、むしろこちらより積極的にデミの方から絡めてくる。明らかに不自然に、ミントの香りがした。魔女やその分身と事に及ぶと、ことあるごとにその力に触れることになるらしい。
一度口を話すと、少し乱れた息で彼女が少女みたいに、
「ふふっ」
と笑った。しかしこちらが一瞬怪訝そうな顔をしたのを、この薄暗い中で見逃しはしなかったらしい。
「あ、すみません」
そう我に返ったように言う彼女を、もちろん責める気にはならなかった。
「キス好きなんですか?」
「好きです。……けど、してもらえることは、全部好きですよ」
その口ぶりではなく、言葉そのものに対して、言わされているみたいだ……と思った。彼女が心の底から言っていたとしても、そう感じてしまう。
けれど考えてみれば、実際彼女は言わされているのだ。強制といった生易しいものではない。彼女の言葉を借りるなら「神の手によって」、彼女はそう言うように、仕組まれて生み出されている。
ならば同じようにその神には、言わされたその言葉に偽りが生まれないように、本当に心からの幸せを彼女が感じるように仕組んでおいてほしい。そう願いたくなるのは彼女への同情なのだろうか。……どうも、自分の罪悪感をかばって、我が身可愛さに願っている気がしてしまう。
考えることをやめてしまいたくて、再び唇を塞いで、貪るみたいに舌を動かした。自分のことについて考えを放棄することに関しては、まったく悪いことだという認識がなかった。
……そんなような平和な、普通の行為を経て。そうなるのが自然という風に、挿入をする流れになった。何をきっかけにしたわけでもなく、あるいは彼女の中にきっかけがあったのか、今日はどういう体勢でしますか……? と聞かれたので、それに答えたのが始まりだった。
わざわざ同じ体位を選択する理由もなかったので、なんとなく順番の印象で、後ろからすることを選んだ。次に同じことを聞かれれば、彼女に上になってもらうことを頼み、その次があれば、今度は立った状態ですることを選ぶだろう。
そんな、なんとなくで選んだ体勢だった。しかしいざ、こちらに全てを差し出して、犬みたいな恰好のまま背を向けるその姿を見ると、こう、来る物があった。
自分は、彼女から受け入れてもらっているに過ぎない。彼女を騙して手玉に取っているわけでもなければ、力でねじ伏せているわけでもない。なのに、正常位ならそのことが正しく実感できた昨日と変わって、後ろから見る彼女は、無防備という他なかった。
その無防備という印象が、自分の中の歪んだ何かを、さらに歪ませたのがわかった。リアルタイムで本当に、「あっ」という感じで、それがわかってしまった。
「あぁ……っ」
特にことわりもなく挿入すると、完全に「準備」が終えられたその秘部はあっさりと受け入れて、ぬるぬるとした快感をこちらの欲に忠実に与えてくる。……そして本当に心底、彼女は気持ちよさそうに喘ぐのだった。
こちらも間違いなく気持ちよかった。腰を動かし続ければそのうち射精するだろうなとわかったし、それが億劫になれば彼女に動いてくれと頼めば、そのままそれも実現するだろう。なんて贅沢が許されているのだろう、そう思った、本当に。
けれど、違う……とも思ってしまった。自分が本当に欲しいのは、これじゃない。今自分が抱いているのは、過去に性行為に及んだ時と同じだった。それはやがて別れる恋人とのことだったり、店に金を払って身を許してもらう相手とのことだったりしたけれど、どれにも共通していることは一つだった。
本当の望みを口にすれば、たちまち自分の全ては否定されて、たとえ上辺だけだったとしても受け入れてもらえているように見える今の関係は、崩壊して二度と元に戻らないだろう。だから、今ある物だけで満足する。無いよりずっといいのには違いないし、それは客観的なことではなく、自分でも本当にそう思っていた。実際、自分も男なので、普通にセックスすれば、普通に気持ちよくなれてしまう。
しかし、気持ちよくなるだけでは、満足とは言えなかった。気持ちよくしてもらえている時点で、満足がどうのこうのと語る資格は、その場の自分にはすでに無いと思っていた。でも、もし今ここにある「受け入れてもらえている」という感覚が、上辺だけの物ではなかったら。その感覚が、もしも底のない物だったら。
してもらえることは、全部好き。そんな言葉を、本当に言葉通りに受け取ってしまうのは、どう考えても馬鹿でしかない。けれども、僕はどうやら、馬鹿だとわかっていても、それを諦める理由にすることが、ついに出来ないらしかった。
「あの」
腰を止めて呼びかけると、息を荒くした彼女がこちらを向いた。
それから、かなり長く話したと思う。それはほとんど会話じゃなかった。彼女の口にすることは、イエスかノーかどちらかしかなかったからだ。そういうことしか、こちらが話さなかった。裸で繋がったままそんなやり取りをするのは、我ながらひどく滑稽に思えた。けれども笑う余裕など一切ない。自分は必死だった。
要望の全てを、偽らず隠さず、そのまま伝えた。何度も念を押した。くどいほどに確認した。しかし彼女は、何度聞いても何度聞いても、こちらに好都合な答えだけを、微笑みながら即答で返すだけだった。
用意してもらったコンドームを装着して、最後にまた確認を取る。
「本当にいいんですね……?」
「はい、どうぞ」
妊娠の心配がない相手にゴムを付ける理由は一つ。……僕は、彼女のアナルに自分のモノの先端を、ピタリとくっ付けた。
魔女の力はあらゆる病気を「健康な状態に戻す」ことで治す。しかしそれは、魔女が知っている健康に戻す、ということだ。要するに「病気とは何か」を理解していない魔女の力では治療は出来ても予防は出来ず、そして治療できるのは、女性の体に存在する箇所だけだ。
デミとの性行為でゴムをつけることは、衛生上問題のあることをするという意味とイコールになる。
「ぐっ……」
キツい穴に先端を押し付けると、彼女が少し呻いた。潤滑剤は触れた箇所から自動で湧いて出る。……ただし、彼女の後ろの穴は、まったくほぐされていない状態だった。魔女の力を使えば、今すぐにでも受け入れる態勢が完全に整った状態に出来るのに、それはまったく実行されていなかった。
僕が、禁止したからだった。再三確認を取ったけれど、彼女は、いいですよとしか言わなかった。
「ぎ……ぃ……」
押し付け続けると、潤滑剤の効果もあって少しずつ、本当に少しずつ、亀頭がその小さな穴の中に侵入していった。そこからは、あまり時間を要さなかった。
「ひ……いぎ……」
性器に入れる時と同じスムーズさとはさすがにいかないものの、強烈に締め付けてくる穴を無理やり広げて、モノはどんどん入り込んでいった。めりめりという音が、本当に聞こえてきそうな痛々しい様子が、自分の一番敏感な部分から感じ取れる。
七割ほど挿入が完了したところで、不意に泣き出しそうな声がかけられた。
「あ、あのっ」
特に応答はしないが、彼女が話す時間を取る。
「ぃ、痛い、いたいです……。やっぱり……、む、無理……」
その言葉を聞いて、今までよりいっそう力をこめて、腰のモノを穴に押し込んだ。感じたことのない異様な感触を伴って根元まで入った。
本当に入るんだ、なんて呑気な感想が浮かんだ。正直本当に、それが本心だった。実際に自分でやってみるまで、あれは嘘なのではないかと思っていた。何度もその手の動画を見てなお、何か巧妙な演出やトリックなのではないかと疑っていた。
「ぎゃっ! いだぃっ、む、むりです! うごかさないで……!」
暗くてわからないけれど、声から察するに、すでに彼女は泣いていたと思う。……全て、確認済みのことだった。
まるで何も聞こえていないように、かまわず腰を振った。
「ぎっ、ぎゃあっ! ぎゃああああ痛い! 痛い!! 痛いいいいい!!」
未知の快感だった。それは尻穴のもたらす快感だったのかもしれないが、しかし自分にとって何よりも価値があったのは、その悲鳴だった。その快感には正気を失わせるものがある。もっと、もっと……とねだるように、わざと激しく腰を動かした。
「ぎゃあああああああああああああああ!! 無理! むりっ!! 痛いいい、痛いいいいいいッ!!」
ぬるぬるとしているのに、同時にものすごい力で締め付けてくるその穴はたしかに気持ちがよかった。奥まで入れると締め付けというよりも、包み込む感じがするのもまた良かった。……でも、まだ出すには惜しい。いったん腰を止める。
「デミさん?」
呼びかけると、ゼーハーと異常事態を伝えるかのような息遣いで、彼女がこちらに意識を向ける。
「気持ちいい?」
そう問いかけた時の、彼女の血の気が引いていく様子が、薄暗さの中でもわかった。
「え……?」
「気持ちいい?」
「え、い……痛いです……。あの、もう、やめ」
拒否の意思を聞くが早いか、バチンッ!! と音が響くほど、僕は彼女の尻を思い切り叩いた。
「ぎゃあ!?」
続けざまに何度も、渾身の力で手のひらを尻に打ち付ける。後背位の体勢にある彼女は満足に抵抗することができない。そうでなくても、痛みで限界かもしれないけれど。
「ぎゃっ、いたっ、いたいっ、ひっ、ひいいいい」
真っ赤になるまで叩いた。これも当たり前のことだけれど、叩けば本当に色が変わるんだ……と確認するような気持ちがあった。
ひとしきり叩き終えたところで、痛みと恐怖で震える尻をさすりながら、もう一度聞く。
「デミさん気持ちいい?」
返事の声は見事なほど怯えきっていた。
「き、気持ちいい……です……」
それを聞くやいなや、腰振りを再開する。
「うぎゃあああ! ひいいいい! や、やめ……! たすけてええええ!」
逃げようともがいているのか、痛みのあまり痙攣しているのかわからない動きで、彼女はのたうち回る。それを見ながら、さっきと同じくらい強く、腫れ上がった尻を叩く。
「ぎゃああっ! い、いだいいい、いだいいいいいいい!!」
腰を止めないまま何度も叩いていると、どうにか苦痛から逃れようと考えた彼女が、必死に叫んだ。
「ぎっ、ぎ、ぎもちいい、ですっ、きもちいいですっっ! きっ、ひっ、ぎゃあッ、うぎゃあああ、き、気持ちいい! 気持ちいいです! 気持ちいいです気持ちいいです気持ちいいですうぅぅぅ! あああああああああッ!! ぎゃああああああああああああッッッ!!」
懇願するような悲鳴を聞きながら、僕は思い切り腰を打ち付けて、一番奥で精を吐き出した。気持ち良すぎて声が出なかった。ただ彼女の腰を強く掴んで、ぶるぶると身震いしながら、時間をかけて射精した。……今までで一番気持ちいい経験かもしれない。そう思った。
陰茎を抜いて、ぽっかりと広がって閉じなくなった彼女の穴を見た。痛々しく腫れ上がっている……それどころか、出血までしているのが見て取れた。
それを見て、ようやく自分は、我に返る。
「ぁ……ぅ……ぅぅ……ひっ……うぅ……」
ベッドのシーツに顔をうずめるようにして、すすり泣く声だけが部屋に響いていた。泣き声が、部屋に充満していく。それがみるみるうちに変容していって、口々に僕を刺すようにして言う。
人でなし。人でなし。異常者、悪魔。どうしてこんなことが、平気で出来るのだ。
「うぅ……ひっ……ぐすっ……ぅ……」
自分の心の中で、すーっと、何かが引いていくのがわかる。全部が裏返っていくみたいだった。今の今まで、同じ物を見てどうしようもない興奮を覚えていたのに。今はそれが、どうすることもできない罪悪感を湧きあがらせる。背を向けて泣き続ける彼女を見て、どうしてさっきまで自分がそれに興奮できていたのか、本当にわからなくなる。
誰に言っても信じてもらえないと思った。誰からも許してもらえないと確信した。自分は興奮のままに相手を痛めつけて、自分の手によって無残な姿となった彼女を見て、後悔している。後悔しているのだ、本当に。罪悪感は、後悔だ。
呆然と、座ったまま動けなくなった。視界に映るものが全て、脳に入ってこないみたいに、意識がどこかへ行ってしまっていた。取り返しがつかないことをした。本当に、取り返しがつかないことをしてしまった……。そんなことばかりぐるぐる頭の中で回って、それが全てを占めてしまって、何をすることもできない。
何分くらいそうしていたのかわからない。その間も彼女はずっと泣き続けていた。そしてある時、ふと気が付いた。
粘った液体が、彼女のアナルから垂れている。確認するけれども、ゴムは破れていなかった。破れるわけがない、魔女の力で出した物には、異様なほど不都合がない。それは、予めそうしてもらうことを決めていた、演出だった。
そしてようやく思い出す。自分はまだ、取り決めたことを、最後まで行っていなかったことを。
「で、デミさん……?」
恐る恐る、嘔吐するみたいに、喉まで言葉を用意する。それを吐き出すのは、どうしたってその言葉を口にする以外道はないのに、自分の心臓を止める装置の、スイッチを押すみたいな気持ちだった。
「デミさん……おわり」
言い終わるが早いか、彼女に抱き着かれていた。飛び込んでくる彼女のあまりの速度に、そして子どもの自分との体格差に、本能的に「おそわれる」と感じて体が硬直した。
「すごかったです!!」
満面の笑みで、彼女は言った。そしてこちらの顔を覗いて、
「……どうしたんですか?」
と不可解そうに聞いてくる。
今考えても、どうかしていたとしか思えない。あの時話したことはこうだった。アナルに入れてみたい、そして、痛みで泣き叫ぶところが見たい。それが全て、二つ返事で受け入れられた。ゴムをしなければならないことは察していたので、最後の演出についても相談したけれど、やはり即答で受け入れられた。
演技の終わりは、こちらが「おわり」と言うことと決めていた。それを一瞬、本気で忘れてしまっていた。忘れたのは、いざその時となったら、言うのが怖くなったせいかもしれない。その合言葉を言ってなお、彼女が同じ振る舞いをしたのなら、それが真実だと確定してしまうから。合言葉を口にすれば、自分が裁かれる。そう思うと実際、恐ろしくてたまらなかった。
「ごめんなさい」
きょとんとした顔をされる。
「わからないんです、本当に。なんでこんなひどいことが出来るのか」
まだオンとオフを切り替えるみたいに、カチリと自分の意識が変わるのがわかるならいい。今は人の苦痛を興奮の材料にする悪魔のような自分だ、今は正常に人の痛みを理解しようと思えるまともな自分だ、というようにわかるならまだいい。
わからないのだ、本当に。どこから自分が切り替わっているのか。正常に戻る時はすぐにわかるのに、異常な状態に至った瞬間というのが、本当にわからない。それに異常な状態というのも、一種類ではない。
まず、それを「したい」と思う時。これは本当に、いつから思っているのか、あとから考えても一切わからない。いつの間にかそういう欲望が自分の中にある。イラマチオも首絞めも今回のことも、いつから「したい」という気持ちが自分の中にあるのか、いつ考えてもわからない。
もう一つは、それを実行に移す時。これはタイミングだけなら、リアルタイムでもわかる。「今だ」と思う時があることは自覚している。しかし何をもってして「今だ」と思うのか、何をもってしてそれが許されると思うのかは、やはりわからない。正気に戻ってみれば、実行に移した自分が恐ろしくなる。後悔も罪悪感も、遅すぎる。
そして今の気持ちも、いつかなくなるのだ。たぶん、吐き気のする話だけれども、これに例外はないのではないように思える。どれだけ後悔しても、罪悪感を抱いても、本当にいつの間にか、まったくわからないうちに、しかし必ず、自分はまた悪魔に戻ってしまう。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
正常な今でさえ、その謝罪の言葉に、許してほしいという下心が満ちていることが自覚できた。結局クズはいつでもクズでしかないのかもしれない。悪魔のような段階を抜け出して、やっとまともな人間の心のような物を感じたとしても、最後に思うのは自分のこと。本当に「人を傷つけない」ことを考えるなら、それこそあの時、「男」を捨てるべきだったのではないか。そんなことを考えた。
相手の顔が怖くて見れずに、うつむいたまま何度も謝った。わがままな自分の、人間性そのものみたいな謝罪の言葉だった。それが受け入れてもらえないことは、もはや想像できないことになっていた。それだけ自分は腐った人間になっていた。しかし、だからといって、自分が許してもらえるところも、上手く想像できない。
彼女はそんな僕の頬を、両の手のひらで挟むようにして顔を上げさせたかと思うと、ちゅっと唇に短くキスをした。
「謝らなくて大丈夫ですよ。とっても楽しかったです」
そう言って笑う彼女の、物理的な傷がとっくに治されたことは確認するまでもない。しかし、しかし彼女は、快感を与えれば喘ぐのだ。あれも初めから演技なのか……? そう考えるのは、楽観的すぎるんじゃないか。
気持ち良ければ喘ぐし、激痛には泣き叫ぶ。彼女の反応は全て「本物」なんじゃないか? 傷を治せば痛みもなくなるのかもしれない。何なら傷だけ残して痛みを消すなんて芸当だって出来るのかもしれない。しかし演技まで、魔女の力は行っているのか……?
演技だと思えば、全てが演技のようでもあった。部屋の隅で棒立ちになっている時の彼女だけが本当で、こちらに微笑みかけてきた時には、すでにもう演技が始まっている。実はそちらが真実なのかもしれない。けれど今までの彼女は、時々だけれど、それでも確かに、人間みたいな時があった。彼女に人格を感じた時があった。
これは彼女の許しの言葉を、本物だと思いたい自分が、そのために考えていることなんだろうか。しかしどうしても、彼女の泣き声は、本物だったような気がするのだ。直感的に、演技などどこにもなくて、彼女は本気で泣いて、本気で許してくれているような、そんな気がする。
本当は何もわからなかった。異様な記憶力で、よくわからない倫理観で、人間より遥かに強くて、でもそれほど遠い存在ではないような気がしてしまう、人間っぽさも時々感じて。自分から見える魔女はそういう存在で、その魔女が作ったデミについても同じだった。彼女の心の中に今何があるのか、本当に心なんてあるのか、実際何もわからない。元々自分の直感に自信があるわけでもない。
「……どうして悲しそうな顔をするんですか?」
心配そうに覗き込んでくる彼女を見て、それが本物であってほしいと願ってしまった。たとえそれが、彼女の受けた痛みまで本物にしてしまう願いでも。