キハラが現れたというのに、その晩の夢の主役はやっぱり新堂先生だった。
でも、これまでに見ていた印象とは打って変わって、夢の中の先生は素敵だった。
まるで恋人同士みたいに仲睦まじい私達。これは予知夢なの?この時点で、もう私が彼を好きになってしまった事は明らかだ。
急に、夢の中の先生がピリピリした空気を醸し出し始める。
その緊張感に硬直したまま、一晩を過ごす。こんな調子じゃ安眠できるはずもなく。結局いつものように、何度も寝返りを打ちながらの寝苦しい夜となった。
目覚めてもまだぐったりしていたけれど、キハラが迎えに来てくれる事を思い出してテンションはぐんぐん上がる。
外へ出て久々の太陽を拝む。これなら自転車で登校できそうだけど、今日はお預け。
どうしてもキハラと話さなければならない事があるのだから。
「行って来ま~す!」
「気をつけてね。頭を打ったりしないように、気をつけるのよ!」母が言う。
この人の場合はジョークとか嫌味ではない。真剣に言っているのだ。
私は母に嫌味な笑顔を向けてから、横付けされた白ベンツに向かう。
「おはようございます、ユイお嬢さん」
「おはようキハラ!早く行こ!」
「はい」恭しく頭を下げ、助手席のドアを開けてくれる。
もう私が後部席に乗らない事をちゃんと覚えていてくれた。こんな事が妙に嬉しい。
私が助手席に収まったのを確認すると、運転席に乗り込んでエンジンを掛け車を発進させた。
これで二、三十分は二人きりで話せる。まずは初歩的な質問から行こう。
「それで。どうして電話に出なかったの?」
「充電をし忘れていまして。自分とした事がうっかりしておりました。本当に申し訳ありませんでした」
ウソっぽい。とても信じられない。キハラがそんなミスを犯すなんて!
でもここで責めていたら話が進まない。
「分かった。それじゃ、婚約者の人は無事なの?」
「ユイお嬢さん。その前に確認ですが。もちろん一方的にご質問されるだけではありませんよね?」
予防線を張ったわね。やるじゃない?
「いいわ。こちらの質問にちゃんと答えてくれたら、私も答える。それでいいかしら?」
「ありがとうございます」
頭を下げつつそう言ったあと、キハラは答えてくれた。「実は彼女……申し訳ありません」
「何でそこで謝るのよ!話が進まないでしょ?いいから続けなさい」
「はい。彼女に、その…………」
珍しくキハラが言いにくそうにしている。
何なの?不安に駆られてつい声が大きくなる。「キハラ!早く言って、時間ないんだから!」
「懐妊の徴候が見られました」
「はい?」予想外の言葉に思わず固まる。
こんな私も彫刻に見えているんだろうか。見えないか!ははは……。
さっきのは私の聞き間違いだ。そうよ、解任よ、きっと。仕事を辞めさせられたんだ。
「キハラの彼女さんて、どっかの会社の重役だったっけ!」
「違います。その解任ではありません」
だよね……。キハラだって男だもんね……。
途端に私はぐったりシートにもたれた。
「申し訳、ありません」
「……だから。何で謝るのかって聞いてるの!おめでたい、話じゃない……」
今の私、明らかにめでたい話をしているテンションじゃない。でもここは大人にならなきゃ。
「それで、できてたの?赤ちゃん」
「はい」今度ははっきりと答えた。もう謝罪の言葉も付けない。
「そっか。おめでとう、キハラもお父さんだね。結婚式、早めないとじゃない?」
「そうなんです。しかし……」
キハラが何を気にしているのか、それは私にしか分からない。だから、彼を説得できるのは私しかいない。キハラの幸せを私が潰すなんて、絶対にイヤだ。
「キハラ。良く聞いて。あなたの心配していたように、私はどうやらヴァンパイアを虜にしてしまったみたい」
「やはり……!恐れていた事が起こってしまった!」
「待って待って!だけど、そうでもないのよ。それが」
疑惑たっぷりの師匠の目を前にして、持論を展開するのはかなりの勇気がいる。
でも、ここは私の踏ん張りどころだ。
「良く考えてみて。もし彼が私を手に掛けようとしてるなら、とっくにやってるわ」
私があの人と二人きりだった現場を、キハラは二度も目撃している。
「様子見という事だってあり得ます」
「いいえ。私は先生からいろいろ聞いた。魅力的な血の前で、彼らは自分をコントロールできなくなるって。彼がもし邪悪な存在なら、本能のままに動いてたなら、私が今生きてる訳がないの」
「そんな話をあなたにするのですか?ヤツが!」
「ヤツなんてやめて。新堂先生よ、キハラ。言葉に気をつけて」
「申し訳ありません、つい…………」
キハラは一応謝ってくれたけれど、心からの言葉でない事は見え見えだ。
「それにね、あなたには叱られちゃう話だけど、私ここへ来て二回も彼に命を救われたの。殺されるどころか、救われたのよ?その意味、分かるわよね」
キハラはしばし無言で何かを考えていた。
「申し訳ありません。本来は自分が助けるべきところでした」
そう言った彼の表情はとても悔しそうだった。
役目を取られた!ってところ?こんな師匠の姿を見て、喜ばずにいられるもんですか!
そんな感情を押し隠して毅然と言い返す。「いいのよ。キハラだって言ってたじゃない。二十四時間側にはいられないって」
「しかし、その……新堂先生は、あなたの側にいたという事ですよね」
「その辺の事は良く分からない。でも、ずっと気にしててくれたって事でしょうね」
「……そうですか」
未だに納得はしていないふうのキハラだけど、少しだけ表情が柔らかくなった。
「お嬢さんの言い分を信じない訳ではありませんが、一度、その方と話をさせてくれませんか」
「それはダメ!」私は即答した。
私以外の人間が彼に近づいたらと思うと、またあの恐怖が襲ってくる。なぜか自分は特別だという自信がある。説明なんてできない。
「こちらからも質問、いいですか?ユイお嬢さん」
「ああ、……そうだった。どうぞ」
これで答えない訳には行かなくなった。キハラにはやっぱり今も敵いそうにない。
「先程の自分の要望を却下されたのは、彼の判断ですか」
「違う」
「あなたがそう思っただけですよね?」
「そうよ!」
「その方に伺っていただけませんか。もちろんお嬢さんが立ち会われても結構です。二人きりでなくても。むしろその方がこちらとしても……」
「あなたの事は先生も知ってる。っていうか、この町中の人間全部。手に取るように!」
だって、心が丸分かりなんだから。それが問題なの!もしキハラが妙な事を考えてしまったら?すぐさま対決が始まったら!そんなのイヤ。どっちにも傷ついてほしくない。
「ならば話は早い。お願いします」
「私は質問は受け付けたけど、お願いを受け付けるとは言ってないわ」
こんな事を言っても無駄なのは分かっていた。だってこのまま師匠が引き下がると思う?
「ユイ。これはお願いじゃない。命令だ。今日中に話を取り付けろ。いいな?」
ほらね?でもそれは無理。
「残念だけど今日から、新堂先生不在なの」
「ならば来てからでいい。必ず話を取り付ける事。分かったか」
問題が先延ばしになっただけじゃない!「ずるいよ、キハラ!」
「何がだ。師匠の命令に背くつもりか?いつからそんなに偉くなった」
キハラが豹変した。もう逆らえない。私にはヴァンパイアよりキハラの方が怖い!
それでも私は立ち向かう。この簡単には信じがたい秘密を、キハラに分かってもらうために。
新堂先生の事を思い浮かべるだけで、ただひたすら一緒にいたくて堪らなくなる。私はどうかしてしまったのかも。これが盲目の恋ってヤツ?
あの声、心を捉えて離さないあの瞳(黒の瞳はちょっと嫌い)、そして磁石のように私を引きつける、魅力的でミステリアスな雰囲気。全てが麻薬のように私を虜にする。
その彼がヴァンパイアと知った今も、想いは変わらない。
「分かったわ。話してみる。週明けになると思うけど」
「よろしくお願いします。自分はいつでも構いません。どこへでも伺います。ただし可及的速やかに、お願いしますよ?」
私は苦虫を噛み潰したような顔で頷いて、急いで鬼師匠から目を背けた。
新堂先生のいない学校は、いつもと変わらず長閑だ。
まるで先生なんて、元々存在していなかったように。あんなに盛り上がっていた女子達でさえ、誰も彼の事を話題にしない。
雲の上のスターかぁ。身近な存在じゃないから、いないならいないでやって行けるんだ。
キハラの婚約者が妊娠したという事実は、私にとっては衝撃以外の何ものでもなく。すでに恋心は打ち砕かれてはいたものの、どこかでキハラを独占している優越感があった。
でもそれも終わり。私の師匠の座すら、引退すると言われてしまうかもしれない。
こんな状況でも私が正気を保っていられているのは、間違いなく新堂先生の存在があるからだ。彼がいなければ、今頃私はどうなっていたのだろう……?
いないと思えば思う程に会いたくなってしまう。
ж
そして週明けの月曜。土砂降りの朝だ。これなら確実に新堂先生は来る!
学校に着いて、キハラの車から駆け降りて真っ先に医務室へ向かう。
鍵が閉まっている。まだ来ていないらしい。
ガッカリして廊下を歩いていると、私の担任教師が前からやって来た。
「朝霧?おはよう、医務室に何か用かな?」
「先生、おはようございます。その……保健係の仕事頼まれてて!」とっさにこんなウソをつく。
新堂先生が私を保健係にした理由が、今なら分かる気がする。
「そうか。新堂先生はまだ来てないみたいだね。いいよ。鍵、開けてあげよう」
やった!言ってみるもんだ。部屋で待ち構えていよう。
こうして医務室に忍び込み、新堂先生を待つ事二十分弱。
マズイ、朝のホームルームが始まっちゃう。遅いよ、新堂和矢!遅刻だぞ?
窓際から外を覗いたり、廊下を覗いたりソワソワしていると、ようやく先生が現れた。
「ユイ?教室に行かなくていいのか?もう時間だぞ」
「先生!遅いじゃない、待ってたのよ?とっても大事な用があって……」
そこまで言うと、彼は何か勘付いたように目を細める。
もうすでにキハラの心を読んでいるのかも。「先生、まさかもう……」
「早く教室に行きなさい。サボる気なら、私を巻き込まないように」
口調がよそよそしい。さては誰かいる?振り返ると、案の定担任が部屋を覗いていた。
「ほら。朝霧さん。君の担任がお迎えに来てるよ」
「は~い」仕方なく彼から離れてドアの方へ向かう。
「保健係の仕事だけど、昼休みにもう一度来てくれるかな」新堂先生が話を合わせてくれた。
「はい!」
これで話すチャンスができた。
何が何でも今日中に話をつけないと。キハラがいい加減痺れを切らす頃だ。
担任にはちょっぴり怪しまれたかも。でも私と新堂先生がそういう仲らしい事は、もう教師達にも広まっているはずだし、別にいいや。そういう仲、ではないんだけど!……まだ。
こうして昼休みまでの長くて短い半日を過ごした。
「新堂先生っ!」
勢い良く医務室のドアを開けると、そこには先客がいた。下級生の積極的な女子達が、彼を囲んで談笑している。
入って来た私を見て固まる一同。
この反応からすると、私と先生が付き合っているという噂話を知っているようだ。
「あっ、朝霧先輩……!ごめんなさいっ、私達すぐに帰りますから!」
「あ、いいのよ別に。ごゆっくり」
私は新堂先生をチラリと見て警告する。そういう笑顔を振りまくからよ!と。
だって先生ったら、またも神々しいオーラを放ちながら、直視できないくらいの笑顔を見せていたから。
恍惚とする女子達を傍から見ていて思った。自分も先生と話している時、こんなふうになっているのかなぁと……。やっぱりこれって一種の催眠だ。先生が魔力でも使って私達を操っている、そうに違いない!近づけるのも遠ざけるのも自由自在って?
「失礼しました!」
考え事の最中に、彼女達は一斉に飛び出して行った。
「朝霧さん。そんなとこに突っ立ってないで、入ったら?」
新堂先生がぼんやりする私に声をかけてきた。
「ええ、言われなくても。先生ったら相変わらず大人気ね」
ここのところ、女子達が大人しくなったと思っていたのは気のせいだったみたい!
「妬いてくれたのかな?」意地悪な笑顔でこんな事を言ってくる。
「それが狙いですか」なるほど。あの手この手で私の気を引こうっていうのね?
「って、そんな事はいいんです!先生にお願いがあって……」
私が最後まで言う前に彼は答えた。「状況は理解している」
「やっぱり?」
先生が頷く。「問題発生は、間違ってなかっただろ?」
「……そうみたいですね」いろんな意味で!
先生は私の顔をじっと見つめる。いつものように。
「大丈夫か?また悪夢にでもうなされたか」
昨夜眠れていなかった事に気づいたみたい。今日なら目の下のクマで先生に勝てる気がする。
「そっちは絶好調、ってわけ?」
「どうかな」肩を竦めて私から視線を外し、窓の外に強い視線を向ける。
「キハラの考え、読んだのね」
「ああ。耳を塞いでても聞こえてくるよ。とても強烈だね、君のナイトは!」
「ごめんなさい……」
「なぜユイが謝る?別に悪いとは言ってない」
「だって先生に不快な思いをさせてるんじゃないかって……」それはもう気が気じゃなかったこの数日!
「大丈夫だ。今のところはね」
それはつまり、これからどうなるか分からないという事だ。ああ、神様!
「それで。俺にどうしろと?ユイの願いならば考えてやる」
「キハラがあなたと話をしたいって。会ってもらえる?今日か明日か……近いうちに」
「もちろん。全然構わないよ」
「ホント?!」やけにあっさり!でも問題は……。
「新堂先生?これだけは守って。何て言ったらいいの、その、善良なヴァンパイアとして接してほしいの」
「そうしなかったら?」
「イヤ!お願いよ……。分かってる、あの人過激だから、頭でどんな事考えてるか分からない。あなたが我慢できないような事も、もしかしたら!でも!お願いだから……」
支離滅裂。自分でも何を言ってるのか分からなくなる。私の気持ちは伝わったのだろうか。
ひたすら視線を向けられ、最後には俯いた。
私にはどうしようもない。
「ユイ。そう心配する必要は、ないかもしれないぞ」
「え?」予想外の言葉に、顔を上げて先生を見る。
「心配するな。おまえの大事なものに、俺は一切、手を出したりしない」
優しく頭を撫でられ、ひんやりとした感触が髪を解して伝わってくる。それだけで、今までの不安がたちどころに消え去って行く。
私は自然に彼にもたれ掛っていた。
今日はエタノールの香りじゃない。何だろう、このムスクみたいないい匂い……。
「そうと決まれば、午後は不在にする」
夢見心地から一転、現実に引き戻された。
体勢を戻して訴える。「ちょっと待って!それじゃ私が立ち会えない。放課後にしよう?ね?」
「おまえは来なくてもいい」
「イヤよ、私も行く!」先生の白衣を掴んで懇願する。
「俺の事、信じてくれてないのか」
何て悲しげな目をするの?何も言えなくなるじゃない。
「そ、そうじゃないけど……」
「ユイ。信じて、待っていてくれるね?」吸い込まれそうなブラウンの瞳が私に告げる。
「……はい」私の口は勝手にこう答えていた。
ふと我に返る。「それじゃ、すぐにキハラに伝えなきゃね」
「その必要はない」先生が当然のように言う。
そうか、キハラが今どこにいるか知っているんだ。心を覗けば!何て便利なの?