冬休み最後の日曜、新堂先生からのお誘いで延期になっていた遠出デートをする事になった。
冬晴れの水色の空がとても美しい。そんな空の下、アパート前の通りには、ピカピカに磨き上げられた黒光りするベンツが停まっている。
「お母さん!外まで見送りなんて勘弁して、恥かしいからっ!」
「新堂先生にちゃんとご挨拶しないとでしょ。ほらほら、あんまり待たせるんじゃありませんよ」
全くこの人は……。過保護なのか、単に新堂先生の顔が見たいだけなのか!母は私に負けず劣らずの面食いなので。
挨拶をすべく、私を差し置いてベンツに駆け寄る母。
それに気づいて新堂先生が車から降りた。その姿に、今日は別の意味で目を奪われる。
だって先生ったら、サングラスにマスクで顔の大半を覆い、首にはマフラーを巻いて手元はもちろん手袋着用。肌のほとんどが隠されていたから。
「あら先生、お風邪?」そんな姿に不安を抱く母。
違うのよ、彼、ヴァンパイアだから。太陽の光が苦手なの!
「いいえ、至って健康です。空気が乾燥しているので予防のために。ご心配なく」
こんな言い訳に一人吹き出す。「お待たせ、先生。早く行こ!」
母が見送る中、私達は出発した。
「それにしても……それじゃ不審人物よ?」そこまでしなくてもいいんじゃない?
「仕方ないだろ。町を出るまではこのままだ。しばしの辛抱だから」
「誰に言ってる?自分?」
「おまえに決まってるだろ。俺の完璧な顔を見たくてうずうずしてるユイにね!」
「ちょっとぉ~!私の心だけ読めないなんて、ウソなんじゃない?」
恥かしくなって大声を出す。だって、図星なんだもの……。
「それで、どこに連れて行ってくれるの?」
こっちに越して来てから、一度も遠出した事はない。誘ってくれる人もなく、交通手段もないとこうなる。つまり引き籠もり!
「県境の、山の奥の方、かな」
何て曖昧な説明なの?「山奥で、何するの?」
「心配になってきたか?」楽しげに聞いてくる。
なので負けずに言い返した。「狩りをする気なら、ライフルでも借りてくるんだったなって」
途端に彼が凍りついた。久しぶりに彫刻姿を拝んだって感じ。狩りはマズかったか。
「ごめんなさい……別に!変な意味じゃなくね?」
いつまでも動かない彼に、心配になって尋ねる。「……新堂先生、怒った?」
「いや。少し驚いただけだ。そう来るとは夢にも思わずにね」
ようやく普通に話してくれて安心した。
これから一日が始まるっていうのに、私の一言で台無しになるなんて真っ平!今後、言葉には気をつけよう。
「残念ながら、狩りは予定には入ってない。晴れた日に一人で良く行く場所なんだ」
「私、本当についてっていいの?……お邪魔じゃない?」
何だか先生のプライベートに踏み込むようで、気が引けた。
「今さら怖気づくなよ!お邪魔だなんて滅相もない。共に行く相手ができて嬉しいよ」
「ホント?」
先生は答えずにただ笑った。心から嬉しそうに。
車はどんどん進んで、やがて山道に差し掛かる。
「そろそろいいか」
先生がサングラスとマスクを外し、マフラーを煩わしげに取ると後部席に投げた。
その様子を、一挙手一投足見逃さないように観察する。
「今日は暖かそうで良かった」
私を見て微笑むその顔は、息をのむほどの美しさ。こんなの絶対に見慣れる事なんてない。
彼がさり気なくベージュのネルシャツの第二ボタンまで外した。
滑らかな白い大理石のような肌が、首元からそこまで見えている。そのシャツの下には、引き締まった筋肉が付いているのも分かる。
「先生って案外……筋肉質なのね」思わず呟いてしまう。
彼が不思議そうにこっちを見る。
「あ!ごめんなさい、ジロジロ見て」
こんなに薄着の先生を見た事がなかったから。大抵は白衣を羽織っているし。
それにしてもこんなに神々しい彼が、忌まわしい存在だなんて誰が信じるだろう。
「さあ、着いたよ」
「え、意外に早かったのね」もっともっと時間がかかると思っていた。
車が停まった先に道はなかった。鬱蒼とした山だ。獣道すらない薄暗がりが広がる。
「ここ?ここじゃ太陽の光が届かないよ」上を見上げるも、生い茂った木々が光を遮っている。
「ここからは歩く」
「えっ!」マジ?そういう事は早く言ってよ。それならスニーカー履いて来たのに!
ニットのワンピにヒール付きブーツで決めた私。だってデートでしょ?ああ、失敗。
足元を睨んで後悔を始める私を、先生は不思議そうに見下ろしてくる。
「どうかしたか?」
また私が怖気づいたって思ってる?今ならイエスって言うかもね!
「これじゃ、山の中は歩けないかなって……」まだ問題点に気づいていない彼に訴える。
「ご心配なく。ユイは歩かなくていい」
「えっ?どういう事?」
「さあ、こちらへどうぞ」そう言うと、先生は私の前で屈んで背中を向けた。
乗れって事?!「ちょっと待って、おんぶして行くっていうの?冗談でしょ!」
「冗談じゃないよ。すぐに着くから」そう言ったところで、しばし考えた後にモコモコの上着を羽織る。「これで冷たくないよ」って、そうじゃなくて!
「ほら、早くしろ。日が暮れるぞ?」
何だか自分だけズルをするような気分。でもこれはトレーニングじゃないんだし、いっか。
「んじゃ、遠慮なく!えいっ!」勢いをつけて飛び乗る。
先生はグラつく事もなく立ち上がる。
「…………重くない?」
「全然。まるで羽毛のようだよ」言いすぎ!
「それじゃ、目、瞑って」
「どうして?」
「驚かせたいんだ。いいと言うまで開けないで。いいね?」落ち着いた声が言う。
私は言われたとおり、きゅっと目を瞑った。途端に頬に冷たい風が突き刺さり始める。ヒュンヒュンと風を切る音が耳元で鳴っている。必死に先生にしがみ付いた。
やがて風が止んで、代わりに暖かな日差しを感じる。目を閉じていても、周囲が明るくなった事がすぐに分かった。
「着いたよ。目、開けてご覧」私をそっと降ろして耳元で囁く。
目の前に広がったのは、そこだけポッカリと木がなく、まさに空間。
本来ならば草原地帯なのだろう、草は今の時期黄色く枯れてはいるけれど、朝露があちこちで反射してキラキラしている。
「キレ~イ!ねえ新堂先、生……」私は振り返ってこの感想を伝えようとした。
でも彼は思ったより遠くにいて、ぼんやりとしたその姿を目を凝らして確認する。
そして私は言葉を失った。
ここからでも見て取れるくらいに、先生の肌は輝いていたのだ。まあ、いつも輝いてるけどそれ以上に……。
彼はどこか不安そうな顔をしている。
「センセっ、こっちに来てよ!」私はそれを払拭すべく、笑顔で彼を手招きで呼ぶ。
それでも彼は動かない。
「灰にならないって事、証明してくれるんでしょ?」
ようやく彼が笑った。肩を震わせて。「おまえには本当に参るよ」
「遠慮するなんて、らしくない事するんだもん」
先生がゆったりとした足取りで、一歩一歩こっちにやって来る。
そして目の前まで来た。その肌にはまるで、数千のダイヤモンドが埋め込まれているようで、草原の美しさなんて霞んでしまうくらい美しい。
「ヴァンパイア泣かせだな、ユイは」私の衝撃に気づく様子もなく彼が言う。
こんなコメントに私は思わず吹き出す。「あははっ!何それっ!」
「怖く、ないか?俺の事」表情から笑みが消えて、不安そうに聞いてくる。
「怖いのは……先生から益々目が離せなくなった事、かな」
私達は乾いた枯れ草の上に腰を降ろした。
彼が後ろに手を付いて空を仰ぐ。気持ち良さそうに目を閉じて。そんな姿にも釘付けだ。
光を放つ薄紫色の瞼。大理石のように滑らかな肌は、繊細な輝きを放ち続ける。
「先生の肌って、未知の石材でできてるんでしょ」
「ふふ!触ってみるか?」
「え、いいの?!」いつもは私が触ると、冷えるからと拒絶するのに。
驚く私を見ておかしそうに笑う。「普通、恐れるところだぞ、今のシーンは」
「あら失礼?」私もつられて笑う。
そして遠慮がちに頬に手を伸ばす。
先生がそんな私の手を取り、自分の顔に触れさせてくれた。
何?この肌触りは!石のように見えたのにそれ程固くは感じない。むしろ、まるでサテンのように滑らか。ひんやりしているけれど、いつもみたいに凍る程じゃない。
興奮しっ放しの私を、彼が興味津々に見つめている。瞳は明るいブラウン。今日はとっても明るい色だ。今までで一番かも。それは先生が今、とてもリラックスしてる証拠か。
「感想は?」何も言わない私に痺れを切らしたのか、探りを入れてくる。
「もう、……言葉にならない」私は正直に答えた。
すると今度は先生が私の頬に触れた。
この完璧な美の彫刻を前に、動けないでいる私にさらに催眠術を掛ける。
「俺には、おまえの方がずっと輝いて見えるよ。人間のおまえの方が……」
ボーっとなって体勢を保てなくなり、私の体は先生の方に傾いた。
「おっと!大丈夫か?」
「あ、ごめんなさい……。やっぱり先生、変な魔力とか使えるんでしょ」
「何だそれは」
「今も使ったし、今までも何回も!気づいてないの?」
「全く。記憶にないが。それってどういうのだ?」
私もこの人に同じ事をしてあげられたらいいのに。悔しい!私は説明を諦めた。
「ねえ?私、先生の事が好き。きっとキハラより。これは、あなたに魔力を掛けられたから?」
「そんなつもりは俺にはないが……。もしかしたらそうなのかもな」
どうして否定してくれないの?ちょっぴり悲しい気持ちになった。
先生は続ける。「肉食動物は獲物を捕獲するために、あらゆる手段で誘惑する。俺の全てがおまえを惹き付けるように。声も、姿も、香りも……。そうして毒牙に掛かるんだ。俺達の種族は史上最強の肉食動物さ」
「先生ったらそんな言い方……」獲物だなんて。やっぱりそう見られてたのかな。
「そんな必要もなく、おまえは俺から逃げられないというのに?」
彼の瞳が怪しく光る。
でも色はまだ明るいまま。きっとまた、私に警戒心を持たせようとしているに違いない。
「済まない。怖がらせるつもりはなかったんだ」
「うん、分かってる。そういう全てが、魔力みたいに感じるって事でしょ」
ため息のような返事を返して、彼は悲しげに微笑んだ。
「ならさ、私は?私だって先生を惹きつけてるんでしょ?それって魔力じゃないのかな」
それは紛れもなく、私の類い稀な血のせいなのだが。
「大いにある。魔力どころか、ユイの存在自体が俺にとっては悪魔そのものだよ」
「何だか強そうね、私!」やっと対等になれた感じ?
「俺の身を滅ぼすために、天がおまえを差し向けたんだと思った。あの最初に会った日に」
私もその時の事を思い浮かべた。昼休みの廊下だ。
あの時の異様な視線は絶対に忘れない。あの時、そんな事を思っていたなんて。
「ユイの肌から立ち上る香りときたら!危うく正気を失うところだった。あんな場所で正体がバレたらどうなると思ってる?」
「そんなの知らないわよ。私なんて初対面であんなふうに睨まれて、こっちこそショックだったんだからね?」
「思わず動揺して、生徒から弁当を受け取ってしまったじゃないか」
「それって私のせい?」
私達は真顔でしばらく視線をぶつけ合った。
「おまえに会わなければ受け取ってなかった」
それまだ言う?「いいじゃない、食べてあげればっ!」
「ああ。いざとなったら食べるさ」この回答に興味が湧く。
「食べる事、できるの?」
「ユイだって、どうしても砂を食べなきゃならない時があったら、食べれるだろ」
「後でお腹壊すヤツね。ご愁傷様!」
ようやく先生が笑った。ヴァンパイアは腹は壊さないと言いながら。
「それから、朝霧ユイには近づかないというルールを作った。しかしそうも行かない訳だ」
「そりゃそうでしょ。あなたは校医なんだから?」
「ああ。案の定、クラスメイトを連れて医務室に来た」
「あの時も酷かったよね~?マジで後ろから殴ってやろうかと思ったわ」
「言っておくが、この俺がこんなにも取り乱すのは、百年ぶりぐらいなんだからな?」
「はいはい!」
ヴァンパイアも言い訳するんだ?必死な彼が可愛く見えた。
理由がはっきりした今となっては、あの時の怒りは微塵も残っていない。
「もういいよ。そんな理由があったんじゃ。でも、どうして天が先生を滅ぼそうとするの?」
「もうそろそろ、いいだろって思ってるから、とか?」軽口を叩くように言ってくる。
「何がいいの?」
「不死身ってのは、辛いんだよ」ポツリと言ったこの言葉は、妙に説得力がある。
「一人ぼっちで寂しかったんでしょ?だから私が……」彼の服に掴みかかって訴える。
私が、ずっと一緒にいてあげたいと。
そっと受け止められ、彼の顔が間近に迫る。「今だけで十分だ。一緒にいてくれてありがとう」
今だけじゃなく!と言い返したくても、魔力がそれを阻止する。
ひんやりした吐息が私の顔に当たる。その何とも言えない香りといったら!甘くて心地の良いそれが、私の中の何かを掻き立てる。
「新堂先生……、お願いが……」朦朧としながら訴える。
「だから、それはできないよ」至近距離を保ったまま先生が言う。
「違うの!……して?……私にキスして!先生からのキスが、どうしても欲しい」
自分からさらに顔を近づけて、その香りを貪るように嗅ぐ。ああ堪らない、もうダメ!
私の想いが伝わったのか、先生は私の顎に指を掛けて持ち上げる。
顔を傾けたその唇が薄く開く。そこからあの甘い吐息が漏れてくる。
私はもう我慢できずに、彼にしがみ付いた。そしてあろう事か自分から唇をくっつけた。
先生が一瞬硬直したのを、唇で感じたけれど止まれない。私は本能のままに、その甘い吐息を貪るように吸い込んだ。
そっと目を開けると、彼が険しい表情で固まっている。何かと必死に戦っているような顔。
次の瞬間、私の首筋に鋭い痛みが走った。
「痛い……っ!」
私達は唇を離してから、また固まった。彼の指先が私の首筋に食い込んでいるらしい。
私の声に反応して、先生は我に返ったようだ。
「済まない、ああ、何て事を……!」
この言葉が耳に届いた時には、すでに先生の姿は見当たらなくなっていた。
右の首筋がズキズキと痛む。左手を押し当ててみると、血が流れている。
「新堂先生!どこ?どこに行ったの!」
「ユイ、大丈夫か?すぐに手当てをする。少しだけ、ほんの少しでいい、時間をくれ」
声だけが耳に届く。まだ姿は見当たらない。
「私なら全然平気よ。ねえ、戻って来て!気にしないでいいから……っ」
「なぜだ!なぜ、そんなふうに言える?俺はたった今、おまえを傷つけたんだぞ?」
声が答える。その声はとても焦っていて、心なしか震えている。
私は円形に刈られた草原の真ん中に、ぽつんと取り残された。座り込んで呆然とする。
一体何があったの?彼は血を吸おうとしたの?
もう一度痛む箇所に触れてみる。まだ血がドクドクと流れ出ている。私は急に怖くなった。このまま血が止まらなかったらどうしよう。
「……イヤ!怖いよ、新堂先生っ!私、どうしたらいいの……?」立ち上がって辺りを見回す。
風が周りの枯れた枝を揺らして音を立てる。その音がさらに不安を煽ってくる。
恐怖に身を竦めて再び座り込んだ時、頭上に影ができた。
「ごめんな、お待たせ。鞄を取りに車に戻ってたんだ。さあ、手当てしよう」
優しい落ち着く声が上から降ってきて、私の耳元に留まる。
「新堂先生!んもう……っ!勝手にいなくならないでよ……」
こんな事があったのに、私は現れた彼に泣きながら抱きついた。
「悪かった。ユイ。手当て、させてくれ。頼むよ」
「……うん」私は体を起こして、指示に従った。
ひんやりした脱脂綿が患部に当てられてヒリッとする。
「少し痛むだろうが、すぐに済むから頑張って」
「血、見ても大丈夫?先生」まだ止まらない血に、不安になって聞いてみる。
「俺の事は気にするな。もう落ち着いた。それより、まだ出血してるな……」
申し訳なさそうにしながらも、手際良く処置をしてくれる。
「痛みはどう?」私の顔を覗いて聞いてくる。
心配させたくないので「そうでもない」と答えたけれど、あっさりこのウソは見抜かれた。
「ユイ。前に言った事、忘れたのか?」
体調の事でウソはつくなって話だったら、ちゃんと覚えてます。
「ごめんなさい……痛いです」
ようやく聞き出せた私の本音に満足したように頷く。その表情は険しいけれど。
やがて血も止まり、ズキズキするけれど何とか落ち着いた。
「本当に申し訳なかった。俺もまだまだ修行が足りないようだ」
「ねえ?何があったのか、教えてくれる?」
「ユイの感触があまりに良くて、一瞬だけ理性が飛んだ」
「私のキス、そんなに良かった?」嬉しくなって尋ねる。
目の前の力なく微笑む愁いを帯びた美しい顔を見つめる。映画のワンシーンにありそう。
「力が、入ってしまった。いつもは完璧に制御できるんだ。なのに!ああ、本当に済まない……。医者がケガをさせるなんて、あってはならない事だ」
「なぁんだ。そんな事か」思わずこんなセリフが口をついて出た。
「そんな事、だと?」
「だって、血を飲もうとした訳じゃないんだもん。とてつもなく魅力的な血を目の前にしてるのに!先生はちゃんと理性を保ってたって事じゃない」
「……おまえは、何も分かってない。そろそろ帰ろう」
名残惜しいけれどそうした方が良さそう。先生の表情が、とても暗くなってしまったから。
この日はもう、彼の笑顔を見る事は叶わなかった。