三学期が始まった。
再び辺りは一面雪に覆われている。今日も底冷えする一日になりそう。
雪のちらつく朝、母に学校まで乗せて行ってもらう。
「行って来ま~す」
「行ってらっしゃい。無理しないようにね。先生が学校にいてくださって本当に大助かりだわ」
「ええそうね!放課後に病院に連れて行かなくて済むものね!」
お母さん、そいういうの嫌味っていうのよ?
あのデートの日、私がケガをして帰った事に母はあまり驚かなかった。着ていた服は血塗れだったのに!それは、私がケガをするのが日常だったからなんだけど(キハラとの訓練の影響で!)。
転んだ時に、運悪く伸びていた枯れ枝に突き刺さったと説明した。本当は結構深い傷みたいだけど、傷の状態まで確認される事はないから。
先生は本当の事を言えと譲らなかった。でもこれだけは従えない。そんな事を話したら、母が大騒ぎするのは目に見えているもの。
こんな訳で、朝の医務室への訪問が日課になってしまった。
「痛みは?」患部を確認しながら、先生が聞いてくる。
「動かすと痛いけど、大丈夫よ」
「念のため体育は見学して。無理はしないようにね」
消毒して薬を塗って、患部にガーゼを当てる。とても慎重な手つき。自分の肌が私に当たらないように気を遣っているみたい。
その瞳は苦悶に満ちていても、なお神々しい。
「ねえ新堂先生。大丈夫よ?そんなに丁寧にしなくても」
「丁寧?普通にしてるけどな」
これはウソだ。学校ではあまり軽口を叩かないようにしてるから黙っていたけれど。
あれ以来、新堂先生はあまり笑わなくなった。わざとバカな事を言ってみても、すぐに流されて終わってしまう。
こうやって治療する時以外は、会ってもくれない。
「先生……もう、前みたいに、会ってくれないの?」
「ユイ、ここは学校だぞ。誰か聞いてたら困るだろ。そういう話はするな」
「でも!ここでしか会えないんだもの。ここでするしかないでしょ?」
「ほら、授業が始まる。行きなさい」何の感情もない声。
急かされて鞄を持たされる。有無を言わさない感じだ。「はーい……」
仕方なく部屋を出て教室に向かうのだった。そんなに気にしなくていいのに!
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ひと月が経って、私のケガもすっかり良くなった。
二月は私の誕生月。先生にお祝いしてもらおうかな、なんて事を考えてニヤケながら学校へ行くも、私の心は一気に奈落の底に沈んだ。
「新堂先生は、故郷のお母様がご病気のため、しばらく帰国する事になった」
教壇の前で担任が説明する。教室内がざわついて、あちこちで落胆の声が漏れる。
これがウソだと、私にだけは分かった。
だって彼の母親が生きているはずがない。それを知っているのは私だけ。口外する訳にも行かなくて一人悶々とする。
俯いて拳を握る私に気づいて、多香子が声をかけてくれる。
「ユイ、そう落ち込まないでさ。ね?きっとすぐに戻って来るよ」
「だけど、あんたに何も言ってなかったのは驚きだねぇ。よっぽど急な事だったんだよ」
友人達の慰めの言葉は全く耳に入らない。
どうして?なんにも言わずにいなくなるなんて…………酷いじゃない!
思えば予感はいくつもあった。あの日から彼はどこかよそよそしくなったし、距離を取られているのには気づいていた。
それでも律儀に私のケガの治療を最後までしてくれて……。
「ホンっトに、バカの付くほど真面目なんだから……!」
それからの私は、まるで魂の抜け殻のようだった。
元々私には受験勉強は必要ないから、クラスメイト達が鬼気迫る様子で勉学に励むのを、ただぼんやり見ていればいい。
この雪に閉ざされた片田舎では、どこに行く当ても手段もなく、やる事もない。
「ユイ?ユイ!たまにはどこかに出かけたら?お友達でも誘って。ねえったら」
「お友達は皆、受験勉強で忙しいの!ほっといて。そういう気分じゃないし」
「もう……。困った子ね、全く」
母の嘆く声が部屋の外で聞こえる。こんな光景も何度目だろう。
「お母さんは仕事に行くわよ?」
ええどうぞ!
どんな状況でも、時間は同じように流れて行く。
いつの間にか卒業シーズンに突入していた。
小さな町だから、どこの家の子が卒業生でどこへ進学するだとか就職するだとか、全部知れ渡っている。本当にいい迷惑だ!
卒業生の私は、ひと度外に出れば誰かしらに声をかけられる。
「あらユイちゃん、卒業おめでとう。これからどうするの?お母さんと同じ道に進むんでしょ?」
近所のおばさんだ。母と仲が良くて、しょっちゅう立ち話で盛り上がっているのを見かける。
きっと母が、この人に私の事を散々愚痴ってでもいるのだろう。
進路を何も決めていない私に、外からもプレッシャーを掛けようって訳ね。
それにしても、母と同じ道だけはあり得ない。私には裁縫の才能は皆無なので?
私は作り笑いで誤魔化して、すぐさまその場から逃げ去った。
こんな私についに痺れを切らし、母がキハラを呼び出した。
「この際、トレーニング?とやらでも構わないから、ユイを外に連れ出してちょうだい」
状況を把握したキハラは、有無を言わさず私を部屋から引っ張り出して、鈍り切った体に鞭を打った(あくまでこれはただの表現なので念のため……)。
「キハラ?何で来たの。ダメじゃない!私に構ってる暇なんかないでしょ」
「今はお陰様で妻も安定期に入っています。ご心配なく。それよりも問題は……」
私を見下ろして、キハラが静かに言った。ここまでは。
「これは何の真似だ?こんな
落ちた。雷が!それでもまだ私は、どこか他人事で聞いていた。
「ユイ!お前に言ってるんだぞ。もういい。来い!」
「ちょっと……そんなに引っ張らないでよ」
腕を掴まれて町の道場に連れて行かれる。
いきなり現れた私達に、稽古中のチビっ子柔道家達が呆気にとられている。
あれよあれよという間に道着に着替えさせられ、畳の上にいる私。
「手加減しないぞ。きちんと受け身を取れ。ケガをしたくなければな」
これが脅しじゃない事は、キハラの目を見れば分かる。これはヤバいかも……。
恐怖が襲ってくるけれど、もう逃げる事は不可能。私は観念した。
その後は散々だ。後ろから小学生達の弱い者イジメはやめろ!コールが響いてくる。
弱い者?それ、私の事?畳の上でバッタリと倒された自分。よろよろと立ち上がってはまたも呆気なく倒される。何度も何度も何度も!
悔しい。ムカつく。こんな倒されてばかりなんて。例え相手がキハラでも!
急激に怒りが込み上げてきた。
「あんた達、誰に言ってるの?良く見てなさい!」
「ようやくお目覚めのようだな、我が弟子よ」キハラがほんの少し笑った。
ここは柔道場かもしれないけれど、はなから私達は柔道をしているつもりはない。
私は得意の左ストレートを突き出す。避けられるのは計算のうち。その隙に懐に潜り込み、一気に背負い投げた。
けれど師匠がそう簡単に投げられるはずがない。反対に押し潰されそうになる。
言っとくけど、例え体格差が歴然でも投げられるのよ?相手がキハラでなければ……。
でもその前に。
ダメだ、体力が持たない……!すでに疲労困憊で動きが鈍くなっている。
「今日はここまでだ」押さえつけた私が動かなくなったのを確認して、キハラが言った。
「私、まだ参った、してないけど……!」
「減らず口だけは上等だな。ならばもっと体力をつけろ。こんなザマでは、まともに闘えない事が分かったはずだ」
「ごもっともです……」
この二ヶ月、怠惰な生活を送っていた事に、改めて気づく。
そうよ。あったじゃない!私のやるべき事が。時間があってもあっても足りない程に、トレーニングを積んで積んで強くなる。
どうしてそこまで強くなる事にこだわるかって?
そんなのは決まっている。負けたくないから、それ以外にある?
それ以来私は、黙々と基礎トレーニングに励んだ。早朝からのランニングに、筋トレ、例の柔道場に通って、小学生達相手に乱取り稽古(これはお遊びだけど)。
ムダに費やした時間を取り戻すべく、無心で体を動かした。あともう一つ重要な事、教習所へ通って車の運転免許(これがないと、ここではやって行けないから!)も取得。
そうこうするうちに、卒業からもう三ヶ月が過ぎていた。
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「ユイお嬢さん。ようやく体力が戻られましたね」
「ありがとう、キハラ。あなたが来てくれたお陰よ」
「お役に立てて何よりです。しかし、新堂先生と一体、何があったのです?」
私の精神状態が安定したと確信が持てたのか、ついにキハラがタブーの話題に迫った。
話すべきか。やめておくべきか。悩んだ挙句、師匠には包み隠さず話す事にした。
「とてもいい感じだったの、私達。……でも。ちょっとした事故で、先生が私にケガをさせてしまって。それを気にして、私から去って行ったんじゃないかな」
たったこれだけの説明でも、キハラは状況を理解してくれたようだ。
根掘り葉掘り聞かれなくて良かった。
「これで良かったんですよ。これが本来のあるべき環境です」
「どうして?あんなにいい先生だったのに、優秀なお医者さんだったのに、町の皆はまるで何もなかったように……!こんなものなの?」
「こんなものです。あなただけは、まだ彼の魔力に掛かっているのでしょう」
「変じゃない?どうして消えないの?私だけ!」苦しい。こんなに苦しいのよ!
それは、彼の掛けた魔力なんかじゃないからよ。キハラだってきっと分かっているはず!
言葉を発しないキハラの無表情な顔に、我に返る。
大きく深呼吸をした後に言う。「ごめん。困らせた。帰るわ」
「はい」
慰めの言葉なんて期待できない。この男はそんなに優しくないって……分かってるから。もうキハラに頼ってちゃいけないって事も。
ところが、キハラに心の内を打ち明けてから、おかしな事が起こり出した。
私の身に危機が迫ると、ある幻聴が聞こえるようになったのだ。
それは例えば、免許を取ってすぐの事、信号のない交差点に差し掛かった時。
〝危ない!止まれ!〟という声が響いて、咄嗟にブレーキをかけたら横からオートバイが飛び出して来たり。他にもいくつかある。中には分かっているのに警告してくる時もあって、ちょっとイライラする。けれど……この声、どこかで聞いた事のある声なのだ。
とても人間とは思えないような、神々しい……それは新堂先生の声だ。
「マズいよキハラ。私、幻聴が聞こえる程あの人を忘れられないみたい。もはや病気かも」
自嘲気味に打ち明けるも、キハラが真剣な顔で言ってくる。
「ユイお嬢さん。一度、病院に行かれては……」
やめてよ。精神科にかかるなんて一生イヤ!そこは笑い飛ばしてほしかった。
どうしてこんな事になったのだろう?これはもしかして、本当に先生の声だったりする?どこかで私を見ているとか!こんな淡い期待が生まれてしまう。
でも彼は、私の心は読めないはず。こればっかりはあり得ないのだ。
こんな事が続いて、私のイライラはピークに達した。
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私は今、崖の上に立っている。頭の中ではあの声が鳴り響く。
〝バカな真似はよせ!死ぬ気か!〟
「死ぬ気なんてありません!飛び込みは得意なの。泳げないけど?」
本当にそんな気はなかった。泳げなくても、私はカナヅチじゃない。
ただ鬱憤を晴らしたかっただけ。どんより蒸し暑い梅雨のこの場所は、真冬以上に不快だから。
〝ん?あれは……ユイお嬢さん?〟
私が崖の先端に立っているのを、偶然キハラが目撃していたらしい。
彼は知っている。私が泳げないのを。
前にも同じ事をした事がある。飛び込むのだけは好きで、水面に一直線にまるで高飛び込みの選手さながらに華麗に行くけれど、その後浮いてこない。みたいな?
〝バカ野郎!!!〟
こんな捨て台詞が聞こえるようだ。案の定、飛び込んだ私はキハラに助けられた。
「ユイ!お前……、自殺でもするつもりだったか?俺が偶然見つけてなければ……」
さすがのキハラも声にならない声を出す。
激しく咳き込みながら、私は答える。「なん、何で、死ななきゃ、なら……ないの!そんな、つもり、ある訳、ないでしょ……」
キハラは私を抱きしめた。強く強く。海水を飲みすぎて、まだ息が苦しい。
私はそのまま意識を手放した。
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耳元で聞こえてくるのは母の声だ。
「この子は連れて行かないわ。こんな状態だもの、どっちにしろ無理でしょ。キハラ、あなたが付いててあげて」
「しかし。ボスの葬儀ですよ?自分が参列しない訳には……」
「キハラ。お願い。ユイが目を覚ますまででいいわ。ここにいてくれないかしら」
母のこんな切な願いを断れるはずがない。
キハラはいつもの調子で、かしこまりましたと短く答えた。
何?ボスの葬儀って。あのバカ親父が、死んだの?
夢なのか現実なのか分からない状態で、聞こえてくる会話を何とか分析する。
その後、どのくらい経ったか分からない。私は目を開けた。
「キ、ハラ……?」何て声?自分の声とは思えないくらい、しゃがれて酷い状態だ。
「お嬢さん!目が覚めたんですね、良かったです」
「お母さんは……」辺りを見回す。良かった、病院じゃなくてアパートだ。
「用事で出かけています。あなたには留守番をしてほしいそうです」
それって本当にお葬式のため?まだちゃんと声が出ない。
「ユイお嬢さん、もう少しお休みください。自分はしばらくここにいますから」
キハラ……。布団から手を出してキハラに触れる。それに気づいて握ってくれる。
落ち着く。ゴツゴツした男らしい大きな手。あの人とは正反対の熱い手。
ふいに手が振り解かれる。電話が鳴っているんだ。
キハラがそれに出る。
「はい。そうです。出かけています。葬儀があるので。それ以上は自分の口からは……」
ぼんやりとこんな会話を耳にする。
電話を終えた彼に聞く。「誰?」
「あなたの高校の、何て言いましたっけ、担任だった先生でした」
「担任?何て?」
「それがあなたの事ではなく、母上様の事を聞かれました。今どこにいるのかと」
どうしてなのか分からないけれど、もしかして町民からお香典でも集める気かも。
それほど深くは考えなかった。
「それより。ユイお嬢さん。あなたの勇敢さは認めます。ですが、もう二度とこんな真似はやめてください。いいですね?」
これは師匠じゃない方の付き人キハラの言葉。効力なんてないもんね!