ひとりぼっちの日々が続く。
母はオヤジの葬儀へ行っているし、キハラもそっちへ向かった。キハラは私を連れて行きたかったみたいだったけれど、私は残った。
どうしてもここを離れたくなかったのだ。
もしかしたら、先生が戻ってくるかもしれないから、なんて……未だに未練タラタラのどうしようもない私。
あれ以来、例の声も聞こえなくなってしまった。
「私ったら、また引き籠りに逆戻りじゃない。さすがに、どっか行こっかなぁ」
免許を取って、せっかくマイカー(中古だけど)まで手に入れたっていうのに。それも真っ赤なBMW!こんな田舎では超目立つ。
本当はオープンにしたかったけどやめた。さらに目立つからって理由でやめた訳じゃない。
ここの気候を考えたら誰だって勧めない。雨ばっかりで使い物にならないもの!
重い腰を上げて外に出る。
「なんだかすっきりしない天気ね!」空を見上げると、分厚い雲に覆われていた。
構わず車に乗り込み軽く走らせて行くと、ものの数分で案の定パラパラ降って来た。
梅雨明けはこの地には無縁?当に梅雨明けは発表されていたはずだけど!
また気分良く(!)海にダイブする事も考えた。けれどキハラの鬼の形相を思い出してやめた。単なるストレス解消の一つなのに。あんな事でユイさんは死にません!
……死なない、か。不死身の彼が頭に浮かんで、大きなため息が口から出た。
ж
母が戻って来て、またいつもの生活が始まる。
でも前と違うのは、私は引き籠ってはいないところ。今の私は、雨が降ろうが雪が降ろうが、一人でどこへでも行けるのだ。車の有り難みをひしひしと感じる。
「また出かけるの?あなた最近、一体どこへ行ってるの」
「別に。ただのドライブよ。運転の腕、磨いてるの!じゃ、行ってきま~す」
本当は今、新堂先生が連れて行ってくれたあの草原を探している。今なら何かの花が咲いているかもしれない。きっとキレイだろうな、そう思ったから。
けれどこれが簡単じゃない。それらしき山までは行けるけれど、その後に彼がどう進んであの場所に行ったのかが分からない。
上空から覗けば一発なんだけど……そうだ!ドローンとか飛ばしてみちゃう?
こうして何日も費やして何度も往復して、ついに目的地に辿り着く事ができた。
「この距離を数分って、どういう事よ!」藪を掻き分けながら悪態をつく。
目的の草原までは、車を停めた場所から八キロはあった。それは私の高校までと同じくらいで、自転車で三、四十分はかかるって事。つまり歩いたら一時間以上は必要。
「なんてね。人間じゃないんだから、別におかしくないか~!」
何しろあの人は、瞬間移動だってしてたじゃない?学校でのトラック事故の時に。
今となっては、本当に彼は幻だったのかもと思い始める始末。
だって考えれば考える程、何もかもが信じがたい。人の頭の中が読めるとか、指先があんなふうに皮膚に突き刺さるとか?
首筋に触れてあの事を思い出す。これのせいで先生は去った。
またもや無意識にため息をついていた。
「ああん!んもう!」こんな自分に嫌気が差してきた。こんな事じゃいけない!
せっかくここに来れたんだ、この壮大な自然のあらゆる気配を感じ取ってみよう。
何しろ思った通りにここは以前とは別世界なんだから!生憎今日も曇り空だけど、まだ降り出す気配はない。私はもう一度周囲を見渡してから、目を閉じて神経を研ぎ澄ましてみた。
青々とした草に混じって、小さな花が咲き乱れている。緑の木々の匂いに混じって漂う、甘い香り。鳥や虫の鳴き声。五感をフル回転させて、全てを感じ取る。
どのくらいそうしてただろう、ふいに生き物達の声が消えた。
そしてまたあの幻聴が聞こえたのだ。
「ユイ」心の奥底まで響くような、透き通った声。
久しぶりだ。これって、何かが起こる前触れ?
反射的に声がした方を振り返る。
「きゃ……っ!」私は思わず短い悲鳴を上げてしまった。
「驚かせて済まない……ユイ、元気だったか?」
そこにいたのは、夢にまで見た新堂先生だったんだもの!目の下にくっきりとクマを刻んで。
ああダメだ、今度は幻覚まで見えているみたい。それとも私、夢でも見てる?
この際それでもいい。これが夢だとしても。だって最近は、夢でさえ彼に会えた試しがないんだから。
「……先生っ、会いたかったぁっ!」すぐさま彼に抱きつく。幻覚なら消えるはず。
でも彼は消えない。ひんやりした体に、私のこの手はしっかりと触れている。とても気持ちいい。
そして、懐かしい心を惑わすような匂いに包まれる。ああ……こんなに凄かった?この人の香りって!
それにしても、何てリアルな夢だろう。
「良くここまで自力で辿り着けたな」先生はそっと体を離して、私の顔を見下ろす。
上を見上げて答える。「どう?参った?」
「ああ、参ったよ」そう答えて、蕩けるような笑顔を向けてくる。
久しぶり。本当に。半年振りくらいの先生の笑顔は、当然私を骨抜きにする。
問いただしたい事が山のようにあったけれど、もうどうでもいい。だって彼は今、私の隣りでこんなに素敵な姿で微笑んでいるのだから。例え夢でも。
先生がそっと左手を動かし、私の右の首元に触れた。
「痕が、残ってしまったな……」
「これがなかったら、私は新堂先生の存在を現実だって思えなくなってたわ」
先生は何も言わない。
「忘れられる訳ない。先生ほど好きになった人なんていないもの。でも、いろんな事が信じられなくなってくの。時間が私から記憶を奪ってくのよ……!」
「……だから、死のうとしたのか?」
「何の事?まさかあのダイブの?イヤだ!違うから。誓って違うから」
どうして先生が知っているの?
「なぜ知ってるのかって?」悪戯っぽい笑みも懐かしい。
「心、読んだわね?」負けずに返す。
「ユイの師匠に会いに行ったんだ」
「キハラに?!何で?」
彼は今までの事を話してくれた。どうしても私の事が気になって、この町の近くに来た事。そこで町の人の考えを読んだら、私が酷く落ち込んでいる事が分かった。
そのうちにキハラがまた現れた。すぐに彼の考えを読んだ。それがたまたま、私がダイブした日で、キハラは私の死を想像していた。
「俺がおまえを死に追いやったと思った。ユイの事だから、すぐに立ち直って元気に暮らしてると思っていたんだが……」彼は苦しげに顔を歪めた。
「だが、どうしても信じられず、ミサコさんに確認しようとしたんだ」
「もしかして!あの電話って、担任教師のふりしてあなたが?」
「申し訳ない。取り乱していて、いい案が浮かばなかった。手っ取り早く知りたかったんだ」
そうしたらキハラが出て、母は葬儀に行ったと聞かされて?「私のお葬式に行ったと」不謹慎かもしれないけれど、私は笑ってしまった。
「その先はもう、勝手な妄想が続く。俺も筋金入りのマイナス思考だな」
「でも、それでキハラに会いにって、どうして?」
「おまえを不幸にしたら許さないと言われていたから。どうせならこちらから出向いて、ケジメをつけてもらおうと」
「……どういう意味?まさか殺してくれとでも頼んだの!」
そこで信じられない事に、彼は首を縦に動かした。
目の錯覚かもしれない。だってヴァンパイアが人間に殺してくれなんて?自分、不死身なのよ、分かってる?
「あなたって…………」私は思わず絶句する。
「俺が何だって?」
「どこまで真面目なのかなって呆れたのよ」真面目すぎて損するタイプね、確実に。
「で、実際のところ、人間はあなたを殺せるの?」だって興味あるじゃない?太陽の光も十字架も効かないなら、どうやってやるのか。
こんなブラックな質問に、幸い彼は真面目に答えてくれた。
「その昔、俺を生み出したヴァンパイアが言っていた。自分に激しい恨みを抱いた者が
激しい恨み。先生に捨てられて私が死んだとすれば、当然キハラはブチ切れるだろうから、案外、見当違いではないか。
「誤解が解けて、本当に良かったわ……」心から思った。
例え師匠でも、新堂先生を殺したとしたら私はきっと許せないから。
「説教されたよ。この存在と成り果ててから初めての事だ。振るのはお前の勝手だが、きちんと落とし前は付けて行けとな。黙って消えるなど、言語道断だそうだ」
「全くその通りじゃない」ヴァンパイア相手に、あの人も良く言えたものだわ!
「ああ。そうだ。だからこうして、落とし前を付けに来た」
それってどういう意味……?ここできっぱり別れ話?どうしよう、どうしよう!
知らずのうちに、私の頬を涙の粒がいくつも零れ落ちていた。
それを先生の指先が躊躇いがちに拭ってくれる。
「なぜ泣いている?何を、考えているんだ……?」そう尋ねる彼はとても不安そうな顔。
見たくないのに目が離せない。
先生の煌く瞳に抗うように、何とか声を絞り出す。「そっちこそ、何考えてるのよ。どうして……私がここにいるって分かったの?」
セリフとは裏腹に、聞こえてきたのは涙声で情けない自分の声。
ああ、もっと毅然とした声を出したかった。
「ミサコさんに会った。最近良くどこかへ出かけてるって聞いた。ある場所を探してるって事になれば、ここだろうと」
「そう」お母さんに会ったのか……。母はどう思っただろう。先生が私に会いに来た事を知って?
そこで思い出す。この人は故郷の母親の所に帰った事になっているのを。
「そういえば先生、ロシアに、帰ってたの?」どこまでが本当の話?
「いいや。それよりも、さっきの続きだ。ユイ、なぜ泣いたのか教えてくれ」
話を戻されてしまった。何とか話題を反らしたのに!
またも先生から目が離せなくなる。やっぱりこれは魔力なのかも。瞳は黒くはないけれど、暗めのブラウンだ。ボーっとなってこの瞳に吸い込まれそう……!
私はもう一度気持ちを奮い立たせる。
「先生ったらウソばっかりなんだもん。一体何が真実なの?」真実は一つもないの?
意外そうな顔で私を見つめている。
「私だってあなたの考えてる事は分からないのよ?言ってくれなきゃ分かんないの!」
次第に興奮する私の肩に、そっと手を乗せてくる。
「なのに、国の母親がどうとか下手なウソついて!なんにも言わずにいなくなって……。今日でお別れって言いに来たとしても、せめて先生が何考えてるのか、今度はちゃんと教えてって!」
最後の言葉は、嗚咽に紛れてきちんと言えていなかった。
彼は静かに私が落ち着くのを待ってくれた。優しく背中を擦りながら。
「ユイ。俺が前に言った事、忘れてしまったか?」
「どれの事?」忘れる訳ない。全部覚えてるはず、他ならぬあなたの言葉なら。
「諦めろって言ったろ。ユイに近づかないようにするなんて無理だって」
「どうせ地獄に落ちるなら、とことんって?」
ちゃんと覚えてたな、と先生が笑う。
やっぱりこの人の笑みは神々しい。誰が見ても悪魔どころか天使だ。
「ユイに向かって口にしている言葉に嘘はないよ。信じてくれないかもしれないが」
「そうよ!信じられる訳ない!なら何で、いなくなったの……?」
先生の表情から笑顔が消えた。辛そうな顔で私を真っ直ぐに見る。
「自分が許せなかった。せっかく手に入れたこの世で最も大切なものを、自らの手で壊してしまう恐怖に怯えた。自分の、未熟さゆえに」ここまで言うと、先生は私から目を反らした。
「俺はユイにはふさわしくない。それは始めから分かっていた事……。こんなモンスターの身勝手な欲望のために、人間のおまえが犠牲になる必要はない」
「犠牲だなんて!勝手に決めないで。それに先生は、善人ぶるのは諦めたとも言ってたわ」
「おまえの血は……いや、存在自体が俺を狂気にさせるんだ。考えなど一貫しない」
猫にまたたび?私の魅力で大人の男が狂う姿も、なかなかいいかも……なんて?
変な妄想に駆られていて、彼にじっと見つめられているのに気づかなかった。
「な、なんでもない!」私の心、読まれなくて良かった……。
「分かるか?つまり、これからだっておまえは、常に危険に晒されるって事なんだ」
「でも先生は、私の血が流れる様子を見ても、冷静に処置してくれたわ」
結構な流血沙汰だったのに。私自身が取り乱したくらいだもの。
「百年以上医者をやってる経験からだ。医者としてならば自信はある。だが……」
はっきりしない。結局のところどっちなの?別れるの、別れないの!
「それで?地獄に落ちる気あるの?ないの?どっちよ!」イラついてこんな聞き方をしてしまう。
「私は一人だって行くけど?」
だって天国はきっと私には退屈すぎる。キハラだって地獄に行くだろうし?
「本当にいいのか?それで。おまえは恐怖というものを、本当に感じないらしい」
彼は豪快に笑い出した。
吹っ切れたみたい。良かった。
「そんな小心者だったら、そもそもこんな場所に一人で来てないから」
「だな」
私達は顔を見合わせて笑う。
「では改めて。ユイ、俺ともう少し、付き合ってくれるか」
「もう少しと言わず、いつまででも。私はそう願ってるわ、心から」
「ありがとう」
彼が私を抱き寄せる。とても慎重に、それでいて情熱的に。私も今回は慎重に彼に身を委ねた。繊細な新堂先生を刺激しないように。
「……この夢、ずっとずっと、覚めないでほしいな」彼の服を握り締めて顔を見上げる。
「夢?夢なんかじゃないよ。そもそも俺は、夢は見ないからな」
そうであってほしい。
でもまあ、覚めるまでは楽しもう。私は楽観的に考える事にした。
草原からの帰り道、新堂先生は私のBMWの助手席に落ち着いた。
「ユイが運転してるのって、変な感じだな」
「そう?実は私ね、免許取る前から運転できたの」
実家の敷地はムダに広くて、そこで家の車を乗り回していたから。運転を教えてくれたのはもちろんキハラ。公道に出ないようきつく言われてはいたけれど。
あの人はダークだけど、法律はちゃんと守る。それって何だか滑稽でしょ。ヤクザなのに!
「しかし派手な車買ったな!」
お陰で追跡しやすかった、と先生が付け加える。目立つ車は人の目に止まりやすい。だから記憶にも残りやすいという事のようだ。
「あら。今分かった?それが狙いよ」当然のように言ってみた。
「それはそれは!」
「ところで先生の車は?まさか歩いて来たとか言わないよね!」
「そのまさかだ。本来、車など必要ないんだが。いろいろと気を遣ってるんだよ」
そうよね!八キロの山道も数分だし、数百メートルなんて一瞬だし?
「空でも飛んで来ちゃうとか?」もうこの際、そのくらいしてほしい。
「さすがにそれはどうかな。でも見えるかもね、飛んでいるようになら」
してくれた説明によれば、木々の先端から先端に飛び移って走ればって事らしい。あなたは鳥?「今度是非見せてね!」
アパートに近づいた頃に確認する。「お母さんに会う?きっと今の時間だと……」
「挨拶だけして帰るよ」
彼はすでに母の心を読んだらしい。夕食に誘われる事を。
「泥団子、食べてかないの?」
「また今度」
私達にしか分からないジョークで車内が笑いに包まれる。
「泊まってけばいいのに」
「こんなに急じゃミサコさんに悪いよ。また明日な」
「また明日、会えるのね!」
「もちろん。何時がいいかな。迎えに来るよ。明日は俺のベンツでどこか行こう」
「うん!じゃ~六時!」
「やけに早いな。もっと眠った方がいい。八時は?」
早く会いたかったのに。あなたなんて眠らないんでしょ?一晩中でも一緒にいたいくらい。
別れるのが惜しい。
別れてしまったら、この夢が覚めてしまいそうで。
「分かった。いいよ、八時で」
私の答えに、先生は優しい眼差しを向けて頷いた。
母が私の車の音に気づいたらしく、エプロン姿でアパートから出てきた。
「ユイ!お帰りなさい。新堂先生、娘に付き合っていただいて済みません」
「いいえ、こちらこそ。では、少々用事がありますので、私はこれで」
夕飯のお誘いを受ける前に先手を打つ先生。
私達はこっそり目を合わせて笑った。
「あらぁ、残念……。お夕飯召し上がっていただきたかったわ」
残念がる母に例の神々しい笑みを投げかけ、先生は徒歩で去って行く。
「ユイ、何ぼうっとしてるの?送って差し上げなさい。歩いて帰るなんて!車はどうしたのかしら?」
この土地は交通の便が発達していないから、皆マイカーで動く。隣近所ならまだしも、先生の家は結構遠いはずだ。
「あ、あのね!車、修理中みたいよ。あと、最近運動不足だから歩くってさ!」
勝手にいい訳を作ってみる。我ながらいい感じで説得力あるじゃない?……ないか。
単純な母は、あらそうなの、とすでに興味を失っている様子。あっさり納得してもらえるとは思わなかった。
こういうところはドライで助かる!