昨日の出来事が夢じゃないと証明される瞬間が、もうすぐやって来る。
待ちきれずに自室の窓から外を覗くと、もうそこに黒のベンツは停まっていた。
「夢じゃなかった!」
私はウキウキが止まらず、気もそぞろで着替えをして朝食を摂り、バタバタと支度をした。
先生が車の中で待っている。私の方は見てないから、まだ気づいていないのだろう。
たまにはこっちが驚かせてやろう!
そっと近づいて勢い良くドアを開けてみる。
けれど全く驚いた様子はなく、それどころか向けられた笑顔があまりに完璧で、逆にこっちがたじろいでしまった。やっぱりこうなるのか……。
それにしても先生?出発する前から、私をどうする気?
「おはよう。早過ぎたかな。待ち合わせの時間より三十分も早く着いてしまった」
「全っ然。大丈夫よ。本当に夢じゃなかったんだって、三十分早く気づけたもの!」
そう返しながら、目どころか体ごと彼に釘付けになる。
「まだ言ってるのか?夢なんかじゃないって言ったろ」
「どうにも信用できなくって!」案外疑り深いのよ、私。
「それはそうと、俺の事は気にせず、もっとゆっくりでいいよ」
「大丈夫。私、身支度早いから問題ないわ」
普段から大してメイクもしない。この国で出回っているイエロー系のファンデーションは、私の白すぎる肌の色に合わないし。母も無頓着な方だからか、そもそもあまり興味がない。
「どうした?乗らないのか」まだドアの前で立ち尽くす私に不安そうだ。
「体調が良くないとか?」
「ううん。違うの。元気いっぱいよ」こう答えて、気を取り直して乗り込んだ。
そんな先生の視線は、私の目の下のクマに釘付けだ。
このクマだけでも消してくれば良かったか。元気いっぱい、という言葉が空回りしている気がする……。
「疲れてるみたいだが。本当に大丈夫か?」
案の定、心配されてしまった。
「眠れなかったの。それだけよ」わざと素っ気なく答える。この話はもう終わらせて!
私の願いが通じたのか、彼は言った。「そうか。それなら俺もだ」
「まあ、先生よりは眠ったかな」
一瞬の間があって、その後私達は同時に吹き出した。
エンジンを掛けて車を走らせた彼に尋ねる。「それで今日はどうする?」
私のワクワクした顔が気に入ったのか、彼はしばらく見入っていた。車はもう走り出しているので、当然その間は前方不注意となる。
「なあ。ユイは、卒業して何かやりたい事とかないのか?」
未だ無職、大学にも行っていないプーの私に探りを入れてくる。
「あるにはあったけど……」
「けど?」
家がヤクザのせいか、私は悪を取り締まる側になりたいと子供の頃から思っていた。
けれど家庭環境を調べられたら、例え私が首席合格を果たしても落とされるのは間違いない。
「いいの!もう諦めた。今は……特にないかな」
「それじゃ困るだろ。ユイの人生はこれからだぞ?」
「あ~、なら!都会に出て、街のパトロールでも始めよっかな!」
「…………それはダメだ」先生は言いにくそうに反対する。
「どうしてよ」
「危ない事はダメだ」今度はきっぱり。
「危なくないったら。まだ私の強さを認めてくれないの?」
崖からダイブしたのに?
さすがにこれは刺激材料として十分過ぎたから、口には出さなかったけれど。
「よし、決めた!今日のデートプラン」いい事思いついた!
「どういうの?」
「先生と勝負する、のは、たぶん無理だから……その辺の道場、破りに行こう!どう?」
「それ、おまえは楽しめるのか」
「どうだろ。相手の強さによるかな」
もう体力・筋力は以前と同じくらいの水準に戻った。私はそう簡単には負けない。
今ならキハラにだって一度くらいは勝てる?……それは無理か。
「ユイは相変わらず勇ましいな!そんなの見せてくれなくても、おまえの強さはちゃんと知っているよ」美しいひんやりした指先が、私の頬に軽く触れる。
「だったら何で?危険だなんて」
「俺がそう感じるのは、ユイを大事に思い過ぎてるからかな」
「なら、箱に詰めて飾っとく?」
「いやダメだ。それじゃユイらしくない。もっといいプランがあるんじゃないかな」魅惑的な表情でこんな事を言う先生。
ああ、また。クラクラする。
「……うん。そうね。じゃあ新堂先生のプラン、聞かせて?」
そうして彼が向かった先は、町の外れに広がる森だ。
進んだ小道の先には、小ぢんまりとした平屋の白い洋風の家が建っていた。
「我が家に招待するよ。配達業者以外では、ユイが初めてのお客かな。ようこそ」
「それホント?私が第一号?」三年も住んでいて?
「プライベートでの付き合いは全くないんでね」知っているだろうと言いたげな口調だ。
「第一号、嬉しい!」
私の返事に満足して微笑んだ彼は、私の背に手を当てて中へと促した。
目の前の家は全然想像と違った。ヴァンパイアの家って、もっと暗くて湿っぽくて、お化け屋敷みたいなのを想像していたのに。まるでモデルルームのようにお洒落だ。
「あれは、ピアノ?」
リビングの奥の窓際に、ひと際目立つ白いグランドピアノがあった。
「先生、弾けるの?」目の前まで進んでから、先生を振り返って尋ねる。
「ああ。聞きたいか?」彼は悪戯っぽい目つきで言う。
この目、結構好きかも。「うん!聞きたい!」
彼はゆったりとした足取りでピアノの前に来ると、椅子を引いて腰を降ろした。
一度私の方を見た後、そっと鍵盤に手を乗せる。
聞こえてきたメロディは、先生の車に初めて乗せてもらった日に車内で流れていた、あのモーツァルトの曲だった。楽譜を見ている様子もないのに完璧に(たぶん)弾いている。
「上手過ぎ!ピアニストでもやってけそうね……」あまりの腕に舌を巻く。
「俺はロシアで生まれ、転生するまでサンクト・ペテルブルグで暮らしていた。母がこの楽器を好きだったと父から聞いて始めたんだ。母は俺を産んですぐに死んでしまってね」
彼が弾きながら生い立ちを話してくれた。
私はソファーの肘掛にちょこんと座って、先生の手元をひたすら凝視する。
「辛い時や悲しい時、良く弾く。音楽は唯一心を癒してくれるから。おまえに出会うまではね」
「それって、今は私が先生を癒してるって事?」なら、嬉しいんだけど。
私の疑問に答えるように、先生は軽くウインクを飛ばした。
……うっ。今、胸に矢が突き刺さった!これ以上私を虜にしないで。
「四人兄弟の末っ子。これといって優秀でもなく、父は俺に何の期待もしていなかったはずだ」
「新堂先生って、いつ生まれたって?」そういえば肝心な事を聞いていなかった気がする。
「十九世紀だ。詳細には一八一八年。驚いたろ」
「それってナポレオンとかが活躍してた頃だっけ?」
「ナポレオンが皇帝になったのは、俺が生まれる前だがね」
こんな会話をしながらも、彼はピアノを弾き続けている。
「当時のロシアはアレクサンドル一世の統治。まさにサンクト・ペテルブルグが発展し始めた頃だ」
そんな説明を聞いていたら、急にロシア語が話したくなった。
「ヤ・ハチュー・ダイェーハチ・フ・ピェテルブールグ!」
私の口から飛び出した突然のロシア語に、彼はかなり驚いたみたい。
微動だにせずに私の方を凝視している。再会後初の彫刻となる。
演奏が中断されて、室内は静まり返った。
「シトー・ス・ヴァーミ?」
「ユイ、ロシア語できるのか?」彫刻がしゃべった。
「ダー?ニムノーガ!」
驚くなかれ、それだけじゃない。キハラは私に英・仏・独・伊も仕込んでいるのだ。会話だけしかまともにできないけれど。
先生の口から、ネイティブのロシア語が発せられる。とても真似できない美しい話し方。
まるで魔法の言葉か何かみたいに聞こえる。この人はきっと何を語っても美しいのだろう。
「先生は、ロシア語の方が慣れてるみたいね」
「そうでもない。感情を言い表すならば、日本語が適していると自分では思ってる」
「そうなの?」
「済まない、中断してしまったな」ピアノを見て言う。
私は笑顔で首を振って否定した。
「なら、ロシアに行くか?」
さっき私は、いつかロシアに行きたいですとロシア語で言ったんだけど、これに対する答えをくれたようだ。「連れてってくれるの?」
「ああ。ロシア語を話せるのに行った事がないなんてもったいないよ」
「嬉しい!けど、旅費どのくらいかかるかな……。結構必要だよね」
今の私は無職。子供の頃からの貯金だけで賄えるはずはない。母にねだるのも悪いし。
「そっちの心配はいらない。俺が全て負担する」
「でも悪いよ。私が行きたいって言ったんだし」だから、いくらかかるって?
「いいんだ。払わせてくれ。金の使い道がなくて困ってたくらいだから」
教えてくれる気はないらしい。使い道に困るなんて。何て羨ましい!
それもそうか。二百年近く医者をやってて食費もいらなければ、どんどん貯まるもの。
「ユイ?」
「あ、うん。ありがと先生。そうしてくれると助かる、けどお母さんに何て言う?」
母は新堂先生と私が付き合っている事は知らないはず。面と向かって言った事はない。
「ああ……そうだな」
しばし考えた末に、先生が口を開いた。「これは、一つの提案として聞いてほしいんだが」
「うん。どういうの?」
「婚約者をロシアの両親に会わせに行く、っていうのはどうかな」
この人は今、サラリととても凄い事を言ったよね?何か、いろいろ順番間違ってないですか?!
でも待って、提案って事は本気で言ったんじゃないって事?
どう答えていいやら分からずに黙りこくる。
案の定、先生が不安そうな顔になる。
「急に困るよな、ごめん、今のは無しに……」
私は慌てて遮った。「無しにしないで!先生がいいなら、その方向でお願いします!」
「ユイ?」先生は良く分かっていないようで、首を傾げている。
返事するの、早すぎたかなぁ。軽く思われた?
「あの……だから私は……!」
「俺的には結構真剣なんだ。ユイには軽く取られたかもしれないが」
先生が自信なさ気に口にする。少し悲しそうな顔で。
ああ、ダメ……、そんな顔しないで!
「私だって!ああん、もうっ!こうなったら、こっちから申し込むわ。新堂先生、私と結婚してくださいっ!」
言ってしまった。今ならありだけど、逆プロポーズを十九世紀の人はどう思うか。
ああ、焦りすぎた。もう、ユイのバカバカ!あの時だって私の大失敗だった。あの初キスの時!何しろ自分から突進したのだから……。それであんな事態になってしまったというのに。
でも、こういうチャンスを逃したら、もっとバカだと思わない?
もう二度と離すモンか!
「その、済まない、少し驚いて……」先生は口を薄く開いたまま、呆然と私を見ている。
やっぱり驚いてたか。「ごめんなんさい…………」どんな顔してればいいの?恥かしすぎる!
「なぜ謝る?本気じゃなかったとか?」
「そうじゃない!そうじゃないけど、先生、呆れたでしょ?私が考えなしにこんな……」
「呆れてなんかない。二十一世紀の女性は積極的だなと思っただけだ。だが考えなしには困るな。もっと良く考えた方がいい」
「訂正!考えなしだなんて。ちゃんと考えての上でよ?私は本気ですからっ!」
一気に捲くし立てて先生の反応を待つ。
やがて無表情だった彼の口元が、緩く弧を描いた。
「もちろん、喜んで受けるよ。ユイのプロポーズを」
「ホント?!やった!」思わず先生に飛びつく。
ひんやりと固い体に予想以上に驚いてしまった。
「大丈夫か?痛くなかった?」先生が心配してくれる。
「私こそ。急にこういう事、しない方がいいのよね?ごめんなさい」
「いいや。前ほど辛くはないんだ。むしろ、こうしておまえの香りを嗅いでいたい」
先生が私を抱きすくめ、首元で息を吸い込む。
このまま時間が止まればいいのに。
「そうと決まれば、ミサコさんに正式に挨拶に行かなくてはな。その前に……」
「何?」
彼は微笑んだだけで何も答えてくれなかった。
少しだけと留守番を頼まれて、一人家に残された。