先生の姿が消えると、私は早速室内を見て回る事にした。
「主の居ぬ間に、探検開始と行こうじゃない?」
家の中は至って普通だ。使わないはずのベッドもキッチンもちゃんとある。冷蔵庫も(空っぽだけど)ある。建物自体は白で統一されていて、インテリアは黒。センスのいい男性の部屋って感じ。
天井が高くてとても明るい。外は薄暗い森の中だというのに、それを感じさせない。
一通り見て回って、ピアノの椅子に収まった。
昔、母にちょっとだけ教わった事がある〝エリーゼのために〟を弾いてみる。
「あれ?こうじゃなかったっけ?え~っとぉ」
どうも上手く行かない。音が違う気がする。小学生の時以来だから全然覚えてない!
首を傾げながらたどたどしく弾いていた私に、どこからか拍手が送られた。
「上手いじゃないか、ユイも」
も?あなたと同レベルな訳ないでしょ!
「新堂先生!お帰りなさい。それ、世間じゃお世辞じゃなくてウソっていうのよ?」
「そんなはずは!」
わざと驚いた顔を作って、先生が笑いながら部屋に入って来た。
手には、古びた小さな箱を持っている。
「どこ行ってたの?」
「ユイに大事な物を渡さないとね」手にした箱を私の前に差し出し、フタを開ける。
そこにあったのは、真ん中に青緑の透き通った石が付いたリング。二重螺旋構造のダイヤモンドバンドが、眩い光を発している。
「……指輪!一体どこから」
古めかしい箱からして、今買って来た物ではないはずだけど。
「これはユイにこそ相応しい。きっとおまえを守ってくれるはずだ」
先生はそれを厳かに箱から取り出すと、私の左手を取って中指に嵌めた。
「えっ、先生、そこ?」
一応、婚約指輪、だよね?薬指にするものだと思うけど。ロシアでは違うの?
私の疑問に答えるように、先生は私の中指と薬指をそっと手の平に置いて言った。
「正式に婚約指輪を着ける指というのは、決まっていないそうだよ。一般的にはここだけど、ユイにはこの指にしてほしい」
「先生がそこまで言うなら……私はどこでもいいけど」
こう答えはしたけれど、ちょっぴり不満が募る。だって寄りによってこの指?
私はこの左手の中指が嫌いだ。
中学の時に骨折したんだけど、治療が遅れたせいで今でも第一関節が折れ曲がっているから。見た目はサイアクだし、力を入れても指先は動かせない。つまり、使い物にならないって事!
でもいい。先生がそう言うなら。サイズは中指でも若干緩い気がするけど。
あまりに急だったし、私のサイズを確認する時間がなかったのよ。何しろ自分だってこんな展開になって驚いてるくらいだもの!
他の誰かのために作ったものだったなんて事、ないよね?どこか疑ってしまう。
「少々大き目だな。申し訳ないが、サイズ直しができないんだ。特殊な金属なのでね」
「特殊?石も変わった色してるけど、金属も特殊なの」
「多少緩いが、抜ける事はないから安心して」質問に対しての答えはなく、先生はこれだけ言う。
緩いのに抜けない?どういう事?
試しにそれを引き抜こうと指を掛けるけれど、なぜか抜けない。「んなっ、何で?!」
「どうしても外したい時は言ってくれ。いつでも外してやるから」
「っ!外したいワケないじゃない!むしろこれなら、絶対に失くさなくて済むね」
若干の謎は、今は胸に留めておこう。
どんなものであれ、これは先生の愛の証なのだから。
改めて指に収まったリングを眺める。
不思議な宝石。まるで先生の瞳のように、私を吸い込んでしまいそうな煌きを放っている。
「これ、何て石?」
「グランディディエライト」
「グラン、何て?」聞いた事もない。一度では覚えられないかも。
何でもかなり希少な宝石なのだとか。それってまるで私の血みたいじゃない?
「それの石言葉は、新たな挑戦。不安や恐怖、悲しみといった不の感情を浄化してくれるそうだ」
そして、幸福がより多く訪れる場所へ導いてくれる、との事。
「最高じゃない!それってつまり……」私を先生と同じ存在に、転生させてくれるって事よね?
私の考えていた事が分かったのか、彼はふいに黙った。
「先生?私の幸福は、あなたと一緒にいないと訪れないんだからね」念押しのように付け加える。
「ユイの人生はこれからだ。死ぬまで一緒にいられる。まだまだ先だ」
「死ぬのは私だけよ。先生はずっと生きてるのに。それも若いままで!」
自分だけが年を取る。今はまだいいけれど、先生の年を越えたら?私だけおばあちゃんになったら。それでも、この人は一緒にいてくれるのだろう。
親子に見られても孫に見られても、平気だっていうの?
「この話は前にした。選択肢が残されているのに、ユイをこちらの世界に引き込む事はできない」
「何でよ!私がいいって言ってるじゃない。選択するのは私でしょ?」
やっぱりこの話では対立するのか。
なら、私達の結婚って何?私は指輪を見つめる。
「どうやら、話が折り合わないようだ。それ、返せ」
「イヤ!何言ってるの?それとこれとは話が別!さ、先生、お母さんの所に行くわよ」
私は催眠術を掛けられる前に、彼の腕を掴んで外に連れ出した。
「待てよユイ。もっときちんと話し合った方が良さそうだ」やんわり、だけど威厳を持って先生が私を引き止めた。
振り返る私を、テラスのベンチに誘導し座らせる。
「話し合うって何をよ」もうこれ以上対立したくない。せっかくの幸せ気分が台無しだ。
不機嫌になった私を見て、先生が小さくため息をつく。
「きっと、簡単に考えてるんだろうな」
「何を?」
「人間がヴァンパイアに転生するのは、そう簡単な事じゃないんだ」
「だって、噛まれたらなるんでしょ?映画とかではそうよ」どんどん仲間が増えて、人間が窮地に立たされるってね。
「考えてみろ。もしそうなら、この世界はヴァンパイアだらけだ」それもそうだ。
「でも、先生みたいな善良なヴァンパイアなら、手当たり次第噛んだりしないでしょ?」
「善良な奴等ばかりならばな」
どうやらそうではないらしい。もしそうなら、邪悪な存在なんて言われる訳がない。
数秒の間があって、彼が話し始めた。
「する側もされる側も、相当の試練が待ち受ける。必要なだけの自制心を持つヴァンパイアはそう多くはない。俺を転生させた男は、病的な程ストイックな人物だった」先生は慎重に言葉を選んでいるようだった。
「その人は、今どうしてるの?」
「もういない。自ら業火に飲み込まれて消えた」
「えっ、でも!恨みを持った人の手でないと滅ぼせないんでしょ?」
「自分を心の底から恨んでいたのさ。俺の目の前で、彼は消滅したよ」
目の前で……。いわゆる生みの親が。きっととても辛かったに違いない。
けれど彼は飄々としていた。
「寂しく、なかったの?」
「寂しかったさ。なぜ俺を置いて行ってしまったんだと、始めは憎んだよ」
当然だ、私は小さく頷いた。
「その後人里離れた山奥で半世紀くらい暮らしただろうか。だがあまりの孤独に耐え切れず、街に出た。人と関わるために様々な研究を重ねた。どうすれば人間らしく見えるかのね」
「あなたって、元々お医者さんだったの?」
「ああ。免許は持っていた。だが以前も話したが、それほど優秀でもなかった。上の三人の兄はそれは優秀で、役人や軍人となり活躍していた。残る俺は、兄達に見劣りしない医者への道しか与えられなかった」
「いやだった?その、お医者さんになる事」
「全然気乗りしなかったね。赤の他人を助けたいなどと思った事もない。儲かる医者もいるが、俺がそこまで優秀とは思えないしな!」
遠くを見ていた先生が、急に私の方を見た。
「だが今は感謝してる。お陰でユイに出会えた。校医としてあの学校にいたから」
「そうね」私も微笑んだ。
彼がそっと私の手を握る。ひんやり冷たくて気持ちいい。
「人間の世界に紛れるのにも役に立った。血が身近にある点でもね」
「話が逸れたが……とにかく、選択の余地が残されている人間を手に掛ける事は絶対にない。ユイにこんな過酷な試練を与えるつもりなど、絶対にね」
選択の余地?その過酷な試練、というのがどれだけのものか想像もつかない。
「ねえ?だからその、過酷ってどんなふうに?」
「そうだな、簡単に言えば、とにかく痛みと熱に苦しめられるってとこか」
痛みか……予想はしていた。
それ以上語らない彼に、もっと突っ込んで聞きたかった。
けれど、先生のあまりに辛そうな顔を見て、私はあえて話題を変えた。
「先生は、どうして選ばれたのかな」
「俺は二十七の時、列車事故に巻き込まれて生死を彷徨った。父親は早々に見切りをつけ去って行った。実際、手の施しようはなかったんだ」
事故……。この人の人生は辛い事ばっかりだったの?そんな事って悲しすぎる。
「心臓が止まる寸前に、俺が目に留まったらしい。あの時大勢の犠牲者が出たのに、なぜその中で自分が選ばれたのかは今でも分からない」
「それは!新堂先生に可能性を見い出したからよ。その、ヴァンパイアが」
「可能性?」興味深げに聞き返してくる。
「そう。いろんな逆境に負けない強さとか。素質とか?」
そうあってほしい。だって、そうでなければ聞いた限り先生の人生は散々だもの。
「ありがとう、ユイ。気を遣ってくれたんだな」
「違うわ、本当にそう思ったのよ!」
彼がまたも神々しい笑みを浮かべた。これよ、きっとこれに魅了されたんだ。
「心臓が止まってしまえば転生させる事はできない。弱りすぎると持ち応えられずに失敗するから。そのギリギリの状況でやる事が重要なんだ」
「なら運が良かったのよ、先生は。この人なら持ち応えられるって思われたとか」
「運が良かった、か。別に望んでいた訳ではないが。こんなにイイ男にもなれたしな」
え?どういう事?「前からいい男なんじゃないの?」
「覚えている限り、違うと思うよ。女性にもてるタイプじゃなかったね。ユイが良く言う、クラクラさせる?事もできなかったし」悪戯っぽく囁く。
「ヴァンパイアの毒が美しくさせるとか?なら、私も……」勝手に妄想して夢は膨らむ。
「ああ。もしユイがなったら、絶世の美女になるな。だが今だって美しい。これ以上望んだらバチが当たるよ」
「そう言ってくれるのは先生だけよ。恋は盲目、になってるんだから」
先生がそっと私の顔に手を触れた。
「そんな事ないよ。真実だ。どこを取っても、これは整形の必要のない顔だな」
「ふふ!先生ったら、美容整形まで手掛けてるの?手広くやってるのね~!」
こんな軽口を叩きながら思う。この人の美しさには、どうあっても敵わないと。
こうして、私達の婚約は立ち消えになる事もなく(ああ良かった!)、母へ報告するため、早速二人でアパートに向かう事となった。
「どうやらミサコさんからも、ユイに話があるようだよ」
「え?お母さんから私に?」
車内で彼が教えてくれた。母の考えが読めたらしい。
でもそれ以上は教えてくれない。直接聞いた方がいい、ですって!ずるい、自分ばっかりお見通しなんて?
「だが、ユイがきちんと分かってくれて良かった」
「何のこと?」それが何の事かは分かっていたけれど、あえてとぼけた。
言っときますけど、私はまだ諦めてないからね?あなたと、永遠に一緒にいる事を。
「いや。今はいい。それより、本当に大丈夫かな、俺で」
「どうしたのよ、いつもの自信はどこへ行ったの?新堂大先生!」
「だって俺達、十も離れてるんだぞ?それにミサコさんにしてみれば、いきなりだろ」
「平気よ。この町で新堂先生って言ったら神様みたいな存在だもん。逆にお母さん、ウチの娘でいいのかって恐縮すると思うよ」
先生は笑った。綺麗な笑みだ。とてもこの世のものとは思えない。本当に神様みたい。
「こんな体験は初めてなんで、緊張するよ」ハンドルを握り直して言う。
「全っ然見えませんけど!」
至っていつも通りの、非の打ち所のないイケメンだもの?
「だけど、本当にお相手いなかったの?先生、あんなにモテるのに」
彼の周りはいつでも女子の黄色い声で満たされていた。レストランでも町中でも。
「それはユイみたいに、結婚を申し込んで来る女の事か?」
そうそういないか!そんなヤツ……。
でも、この指輪を贈ろうとした相手は……?左手中指を見下ろして思う。
「ねえ先生、結婚を約束した人とか、本当に……いなかったの?」
「おまえと出会うまで、俺の人生は闇夜のようなものだった」
「何よ、急に。答えになってないけど?」
「いいから聞いてくれ。これまでの人生なんて暗黒の世界だ。そうはいっても、いくらかの星は存在していた事もある」
「星って女の人でしょ」分かり易すぎ!別にそんな例えなんかいらないのに。
「諸々さ。まあ聞け。ところがその星達が霞む程にユイという流星は強く輝き、辺りを煌々と燃え上がらせた」
「あらステキ」つい軽く流してしまう。
こんな歯の浮くようなセリフを、まともに聞いていられる程の経験がない。
先生は続けた。「もしそれが、地平線の向こうへ消えてしまったら?辺りはまた暗闇に戻るだろう。だが俺の目はおまえの輝きに眩んだままで、今まで見えていた星が一つも見えなくなる。自分が存在する意味さえも……見えなくなるんだ」
「それでも、目はいずれ慣れるでしょ」また揚げ足を取ってしまった。
すると彼が私の方を見て訴えた。「それが慣れないから困ってるんじゃないか」
「それは変ね。まるで人間みたいよ?」
「そうじゃない。人間だから慣れるんだ。ユイはきっとそうだ」
「私はあなたという星を失っても、いずれ慣れると?」
先生は答えなかったけれど、そう思ってるんだろう。
「先生?またいなくなったりしたら、キハラに告げ口するからね」
「いなくなる?そう思うのか。ついさっき婚約したって言うのに!」
「そんな文学的な美しい言葉で私を惑わして、消えてしまうかもしれないわ」
「自分の存在意義を失うと分かっているのに?」
「分かんないっ!でもそんな気がしたの!」
私は指に嵌まった美しい宝石を見つめた。
彼がそっとその上に手を重ねてくる。
「これからきちんと落とし前を付けに行くんだ。そんな事はあり得ない。もうとっくに地獄に落ちる覚悟はできたよ」
「落とし前だなんて。ヤクザみたいよ?先生」
おどけたセリフを口にしながらも、真偽を確めるべく彼の表情を観察する。
でも失敗だった。例の魔力で、私はたちまち骨抜きにされたのだから。