アパートに着いて車から降りる。
「お母さん、いるかな」
「いるよ」彼が即答する。これは便利だ。確認する手間が省ける。
いつもはしない玄関のチャイムを鳴らして待つ。私まで緊張してきたじゃない!
「は~い」母の声がしてドアが開く。「まあユイ。何なの、鍵でも忘れてった?」
「ううん。違うの。ちょっと話があって」チラリと後ろの新堂先生に目を向ける。
「まあ!新堂先生いらしたのね。上がって行ってくださいな」
「ありがとうございます。失礼します」とても礼儀正しく彼が答えた。
大して広くもない、二DKの借り住まい。先生を居間に通し、母がお茶を入れに行く。
二人になったのを見計らい、小声で打ち合わせする。
「ねえ先生、お母さんも話があるって言うけど、私達、先に話してもいいかな」
「ああ。むしろその方が、ミサコさんも切り出しやすいだろう」
「内容が分かってる人はいいよね~!」一人ムッとする私。
「あらユイ。何だかご機嫌斜め?一体何の話なの。まさか先生に何か失礼な事でも!」
こうやっていつも母は先走る。
でも今日は、先生がしっかり軌道修正してくれるもん!
「違いますよ。ミサコさん、実は私の方から報告をさせていただきたくて、会わせてほしいとお願いしたんです。突然お邪魔して申し訳ありません」
「いいえ!全然。とても嬉しいお客様だわ。さあ、お茶でも召し上がれ」
本当なのだろう。目がキラキラ輝いている。まるで恋する乙女のよう……ってお母さん!ダメよ?この人は私のものなんだからね?
「改めまして。実は私は、ユイさんとお付き合いをさせていただいています」
「まあ…………」母が私をジロリと見る。
私は上目遣いで母を見ながら小刻みに頷く。
「本来ならば、もっと早くにお伝えすべきでした。申し訳ありません」
「やめてください、新堂先生!謝っていただく事ではありませんから!」
母が頭を下げる先生を慌てて止める。
「在学時も時々、娘を送ってくださっていましたね。あの時から?」
「いいえ。仲良くさせてはいただいていました。ですが真剣にお付き合いを始めたのは、ユイさんが卒業してからです」
「でも先生、国のお母様がご病気だったとか」
「はい。母は高齢でして。私の将来を心配しているのです。自分としても、そんな事を考えるようになりました。そこでユイさんの存在が、私の中で大きくなり始めたのです」
上手い!当然よ。この人が私以外の人間に語るほとんどは、偽りの経歴なんだから。
母はこういう情が絡んだ話にはめっぽう弱い。これはもう九割方成功だ。
「ユイが先生の事を、深く想っている事には、気づいていました」
先生がいなくなってからの私を思い出したのだろう。母は悲しげな顔をした。
けれどやがて、新堂先生に負けないくらいの眩しい笑みを浮かべて言った。
「そうですか。良かったわね、ユイ。あなたの想いが通じたって事でしょ?」
何だかこそばゆい感じだ……。
でもここは素直にならないと。「うん、そうなの」ぎこちなく笑いながら答えた。
それを見届けた後、先生が本題に入る。
「身分的にも、中途半端な事はしたくありません。先程、ユイさんと将来について話し合って決めました。ミサコさん、本当に急で申し訳ありませんが、ユイさんと私の婚約を、認めていただけませんか?」
これまでにない神々しさを醸し出している先生を、私は眩しくて直視できない。
でも母は食い入るように見ている。まるで全てを見透かすように。彼もそれを感じているかもしれない。先生は母から一時も視線を離さなかった。
ああ、ドキドキする。心臓が破裂しそう!
「おっ、お母さん、私からもお願いします……っ」自分の声とは思えない程に声は震えた。
だってお母さんたら、にこりともしないで固まっているんだもの。何とか言って!
ふと母が私の左手に目を落とした。中指では例の指輪が輝いている。
「ステキな指輪ね。先生からいただいたの?」
「うん。エンゲージリング……だよ」場所が合ってないけど。どうかそこはスルーして!
私の願いが通じたらしく、母はお祝いの言葉を口にした。「おめでとう、ユイ」
確かこの宝石は、不安を消し去る効果があるんだった。
「新堂先生、娘の事、どうかよろしくお願いします」母は先生に向かって、三つ指を付いて深々と頭を下げた。
「お任せください。一生、幸せにします。こちらこそどうぞよろしく」
一生、幸せにする。一生……。
普通は感極まるシーンだ。でも私はこの一言に引っ掛かって素直に喜べない。
「さあ。それじゃ、お母さんからもユイに報告よ。その前に先生、お茶、召し上がって」
「ええ、ありがとうございます」横に座る先生が、チラッと私に目を向ける。
何?さあ、飲んでもらいましょうか?家の泥水!
「私にお構いなく、お話を続けてください」彼は湯飲みを手に持ちながら言う。
その後、彼が本当に飲んだのかは不明だ。
「何よ報告って?お母さん」
「あのね。お父さんが亡くなってすぐに何だけど。お母さん、再婚する事にしたの」
少女のように頬を染めながら母が言った。
「……はぁ~?!」ついヤクザ映画に出てくる
マズい。一度咳払いして誤魔化してから確認する。
「再婚って、どこの誰と!この町の人?仕事関係の人?私の知ってる人?」
横で新堂先生が、落ち着け、と小声で諭してくる。そんな事言ったって!ムリでしょ!
「いつから付き合ってるの?ねえってば!」
私は興奮のあまり、飲みきってしまった自分の湯飲みを覗いて落胆。
先生がそっと自分のを差し出してくれたので、それを奪って喉を潤す。
……ああ、策略に嵌まっちゃったじゃない、彼の泥水なのに!
「ユイ。落ち着いてくれないかしら。お母さんはさっき、ちゃんと落ち着いて聞いてあげたわよ?」
そう、だけど……。「ごめんなさい」
「許してあげてください。それだけお母さんの事が心配なんですよ」
新堂先生のフォローが身に沁みる。
何でも、母のお相手はイタリア人のようで、さらに驚く。
「仕事先の知り合いでね。日本の和装をとても気に入ってくださって。向こうで広めたいって言うのよ。それでね、私も向こうに行く事になりそうで……」
「ってお母さん、イタリア語できないじゃない」
「勉強してるわ。イル・ミオ・ノーメ・エ・ミ、サ、コ!」
開いた口が塞がらないとはこの事だ。母は英語すらまともに話せないのに。愛の力って本当に偉大なんだなぁ。
「本当はユイに教えてもらいたかったけど。再婚の話をしない事には不自然でしょ」
そうだったんだ……全然知らなかった。
「それでお母さん、イタリアに行くの?」
「迷っていたわ。あなたを置いて行けないから。でも、こんなステキな展開になっているとはね」
母がウインクしてくる。初めて見た……。すでにイタリア人被れしてる!
「タイミングとしては申し分ないですね。ちょうど私達もロシアへと思っているんですよ。なあユイ?」先生が話を進めた。
こんなにトントン拍子でいいワケ?「う、うん」
「あら!それじゃ先生のご両親に会うのね?」本当はいないけど。一応頷く。
「あなた、絶対に失礼な事しちゃいけませんよ?さっきみたいな言葉遣いとか!」
ヤクザの姐御の事か。ちなみにロシア語でそれ、どうやるの?
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こうして、私達親子は別々に暮らす事になった。
何はともあれ、母が幸せそうで何よりだ。私も心置きなく先生と一緒にいられるし!
母がイタリアへ発ってから、私達はロシアへ向かった。当然、真夜中のフライトで。
「ミサコさんが教えてもらいたかったと言っていたが、イタリア語も話せるのか?」
機内で先生が聞いて来る。
「できるよ。言ってなかったっけ?あとフランス語とドイツ語もね!何で?」わざと素っ気なく言ってみる。こっちだって、たまにはあなたを驚かせたいのよ?
「凄いな。やっぱりユイは優秀だ」
「先生だってできるんでしょ?ドクターはドイツ語使うんじゃなかった?英語とフランス語は似てるし」
「ドイツ語は医学用語だけだよ。その昔大学で講義を受けはしたが、忘れた」
「何百年前だっけ?」とぼけて聞いてみる。
「百八十年くらいだ。何百年も経ってない」どこか必死に訴えてくる先生。
同じようなモンじゃない!そこって、こだわるとこ?
「俺は優秀じゃないって言ったろ」
「またまたぁ~!そうやって拗ねないの!何て言ったって、あなたは今や優秀なお医者先生なんだから……どうかした?」
急に黙り込んだ先生。静かに私を見つめているその視線が、何だか引っ掛かった。
「ユイといると、自分が人間のように思えてくるなと思って。あの頃を、思い出すよ」
「人間だった頃を?」
「ああ。あまり、いい思い出はないけどな」
「だったら、ロシアに行くのも、本当は気が進まないんじゃ……」私は急に不安になる。
「いや。ユイとならいいんだ。むしろ行ってみたい。何だか新鮮な気がする」
先生は嬉しそうに続けた。「今の時期は過ごしやすくていいぞ。向こうの夏はな!」
どんな展開になるのかとヒヤヒヤだったけど、この笑顔を見てほっとした。
彼の宣言どおり、ロシアの夏は快適だった。
彼はこっちにも家を持っていた(それも日本のと違ってドデカい屋敷!)。パッと見は古いお城だけど、ここもヴァンパイアの館って感じはしない。
中に至っては、キレイにリフォームが施されていて、とても住みやすそう。
「ねえ先生。何でこんなに大きな家が必要なの?」一人なのに?
「見栄かな」
「は?」
文字通り目が点の私を、彼はおかしそうに笑った。えくぼができている。
彫刻にえくぼが?「新堂先生……そのうち、ホントに人間に戻るんじゃない?」
「かもな!」彼はとても楽しそうだ。
私が仲間になるより、自分が人間に戻りたいというの?
私達が行動するのは大抵夜だ。そうは言っても月明かりの中で見る彼は、やはりこの世の者ではない感じ。一緒にいるのに、自分だけが取り残されている気がする。
今にもその姿が、闇に消えてしまうんじゃないかと。
「どうした?」
月明かりを浴びる敷地内の庭園にて、私の不安そうな顔を見つめて先生が聞いてくる。
「私、とても怖いの」
「珍しいな。そんな感想。ようやく俺を恐れてくれたか」
「怖がられて嬉しい?」やや不機嫌になって聞く。
「若干」意地悪な笑みで答える彼。
「残念だけど、怖いのはあなたじゃないよ」
「では何を恐れている?」
「本当はこの幸せな今を、楽しむべきなんだけど。私にはできそうもない。先の事がどうしても気になって、不安で……」
「先の事って?また例の話か」ややうんざり気味に彼が言った。
「そうじゃない。そんな先の事じゃなくて。何だか先生が、次の瞬間には消えてなくなってそうで。そうなったら、私は一人取り残されてしまう!」
「またそれか」
吐き出すようにそう呟いた後、彼が私の方に体を向けた。
「一体何度言えば、信じてもらえるんだろうな。……きっと、無理なのかもしれない」
「先生、置いてかないで……!」
震え出す私をそっと抱きしめてくれる。蒸し暑いこの季節だと、かなり快適。
「置いて行ったりしないよ。する訳ないだろ?ようやく手に入れた愛しい人を」
彼が私の左手を取り、指輪の嵌まった中指の先端にキスを落とす。
途端に魔力が掛かったのか、私はまたも自分から積極的になってしまった。
逆プロポーズに継ぎ第二弾!
「新堂先生、私と……して。婚約したんだからいいよね?」今度はキスのお願いじゃないから。その先の、もっと親密な行為。
私の目を見つめたまま、スローで手を下ろして固まる先生。
「今、何を考えたの?ヴァンパイアも、性欲ってあるの?」
「おまえ、処女だろ?初めての男が人間でないのはどうかな」
そんな事を考えてたのか。
「っ!!そうよ、初めてよっ!それって好きじゃなくてもいいから、まずは人としろって?」
「いや……。そこまでは言ってないが、ユイにはきちんと人間としての人生をだな……」
「そんなの!もう手遅れでしょ。すでに人間の道から外れてる!先生と出会った時点で」
彼が困っている。言いたい事は何となく分かったけれど、そんなの不可能だ。
もう私はこの人以外、目に入らないのだから。入る訳もない。
「先に最初の質問に答えてもらってもいい?ヴァンパイアって、その……したくなるのか」
「率直に言えば、イエスだ。元々の人間の欲求はほとんど全てある。食欲、もね」
月明かりを反射したのか、彼の瞳と、口元から見えた牙がキラリと光る。
彼はいつも牙を見せないよう気を遣っている。だからこの時ばかりは、一瞬殺気を感じてヒヤリとした。でもこれは私に備わる防衛本能がそうさせただけ。ごく一般的な?
決して彼を恐れた訳じゃない。
「俺だってユイを抱きたい。抱き寄せるたびに、その堪らない香りに我を失いそうになる。何しろおまえは、とても魅力的なんだから」
「だったら!迷う事ないわ。お互いそう思ってるなら!」
彼が無表情になって体を離した。
「ダメだ。それだけは。おまえを傷つけたくはない。もう二度と」
「傷つける?また指が私の皮膚に食い込むのを怖がってる?平気よ、そのくらい!これでも散々キハラに痛めつけられてきたんだから!」
「平気じゃないだろ!少なくとも、俺は平気なんかじゃない。俺達は交われない」
「……何でよ。新堂先生にできない事なんてないでしょ?」
「買い被り過ぎた。何でもできるなど。力をコントロールするのがどれだけ大変か、どう説明すればいい?……仕方ない、こうなったら俺の力を見せてやろうじゃないか」
「力?ヴァンパイアの?」
先生に会ってから、それを目の当たりにした事は実際なかったかもしれない。だから私には現実味がなかった。
彼はいつだって慎重すぎるくらい慎重に行動していたというだけ。人間社会に紛れるために。本当は、全然別次元のパワーを持っていたのだ。
ここが日本でなくて良かったと心から思った。広大なロシアで、しかも敷地は私の実家の何倍もある(ほとんど森だけど)。
彼があの脅威のスピードで動き、大木を前にする。私にはただ木に触れただけに見えたのに、その幹は手の形に凹んだ。その凹みは段々深くなり、次の瞬間に大木は折れていた。
仕上げに先生はその倒れ掛かった木を足で払うと、そのまま遠くへと蹴り飛ばした。
「これで分かったろ」
振り返った彼は自信に満ち溢れた顔ではなく、どこか不安そうだった。なぜか、すぐには近づいて来ない。
私は何も言えずに押し黙っていた。
「ユイ……何か言ってくれ。不安でどうにかなりそうだ」
一歩だけ彼が近づいた。私の表情を読み取ろうとしている。
今の自分は一体、どんな顔をしているのだろう?
私にとって最強の存在はキハラだ。こんな光景を目にした今でさえも!
「こういうのは、見慣れてるはずなんだけどね。何ていうか……」口元に手を当てて、戸惑いを少しでも隠そうと無駄な努力をしてみる。
「もしかして、キハラさんもできるとか?」彼が少しだけ余裕を取り戻したようだ。
「見せてもらった事はないけど。できるかもよ、あの人なら!」
「そうだな」
私達に共通の映像が浮かび上がる。キハラの鬼の形相が!
やっと先生が隣りに戻ってくれた。
「それで、俺の言わんとしている事は、伝わったのかな」
「ええ。握力で先生に敵わないって事なら?」私は足元に落ちていたやや太目の枝を手にして、利き手の左手だけで折って見せた。
これでも握力には自信あったのになぁ。その辺のひ弱な男よりは、間違いなく強いんだから。
「ユイって、負けず嫌いだろ」
面白そうに聞いてくるので、頷いて「それもかなりのね」と肩を竦めて答えてあげた。