数日後。用事があってクラスメイトと職員室へ出向くと、角の席に新堂先生がいた。
「ちょっとちょっと!新堂先生、朝霧さんの事見てるよ!」
横でクラスメイトの女子が騒ぐ。私は見ないようにしてるっていうのに。
「そんなのいいから。早く今日の課題受け取って戻ろうよ」
新堂先生を見て、目がハートになっている彼女を引き摺って目的を達成すると、またも耳打ちされる。
「ねえ、まだ見てるよ!」
「……どんな感じ?怒ってる?」思わず聞かずにはいられなかった。
「ううん。何よ、怒らせるような事したワケ?やぁっだ~!」
勢い良く背中を叩かれて、大袈裟によろめいてみる。
この時、微かに新堂先生が腰を浮かせたように見えた。
なぜこんな事に反応したの?……なぁんて、そんなはずないか。気のせいだろう。
「何かさ。私、嫌われてるみたいなの」小声で彼女に打ち明けてみる。
「先生は私達を分け隔てなく見てくれるとっても優しい人よ。嫌うだなんて!」
全っ然信じてない!この子もダメか……。
「おお!君らちょうど良かった。どっちか、一緒に来て手伝ってくれないか」
次の授業を担当する教師が、私達に向かって手招きしている。
私が課題のプリントの山を持っていたので、彼女が手伝う事になった。
「んもう!これ、意外と重いんだからね?」
職員室を出て悪態を突いてると、背後から声がかかった。
「君。朝霧ユイさんだね」
ドキッとして振り返ると、そこにいたのは新堂先生その人。全く気配がなかったんですけど!
その顔を見ると、確かに今日は怒っていない。そして瞳は明るいブラウン。
「転んだりしたら危ない。私が運んであげよう。貸して」
私の手からプリントの山を器用に受け取って(奪って)微笑む。
こんな展開に、もう呆気に取られるしかない。
先生はさっさと廊下を進んで行く。慌てて後を追った。
「あの!自分でできます。私、転んだりしないので」これでも運動神経はいい方なので!
「さっき、よろめいていたじゃないか」
やっぱり見てたんだ。あれは演技ですって教えてやった方がいいかしら?
軽快に歩く先生の斜め後ろから、恐る恐るついて行く。
背が高くて足も長い先生は、私に歩調を合わせようとしたのか、急にペースが落ちた。それが逆にゆっくりすぎて、後ろからちょこちょこと歩く私。
そんな私を、先生がチラリと横目で見てきた。
目の下のクマは、前よりも目立たなくなっている。
「どうかしたかな?」穏やかで心地良い声が言った。
目が眩む程に美しい顔。非の打ち所のない唇が、屈託のない笑顔を作る。
「君とは二度程対面しているが、挨拶が遅れて申し訳なかった。私は新堂和矢だ。すでに知っていると思うが、ここの学校の校医だ。よろしくね」
私の事、ちゃんと認識していたのか。それにしても今日は何て礼儀正しいの?まるで別人!
ついて行けなくて、口を開けたままポカンとしてしまう。
「朝霧さん?」先生は私の名前を呼んだ。
「え?あっ、はい!」反射的に返事を返したけれど、驚きでいっぱいだ。
「今の、聞いてくれていたのかな」
「あ、あの、どうして私の名前を……?」
「転入生のリサーチでは、生徒達には負けないよ」こんな軽いジョークまで飛び出す始末。
新堂先生はとても魅力的に声を上げて笑った。
今なら聞けるかもしれない。私は思い切って質問した。
「あの、先生って、カラコン入れてるんですか?」
ふいに立ち止まり、先生が勢い良く振り返る。そんな動きにも(押さえてもいないのに)手にしているプリントは、一枚たりとも捲れ上がったりしない。
「カラコン、とは?」
今どきカラコンを知らない人がいる?
「カラーコンタクトレンズですよ。ほら、先生の瞳の色、違う時があるからそうかなって」
予想外の質問だったらしく、先生は戸惑っているようだった。
「あっ!あの、すみませんっ……余計な事聞いて。ちょっと気になっただけなんで」
先生は肩を竦めると、再び前を向いて歩き始めた。
私達を一目見るなり、周囲からは悲鳴のようなブーイングのような声が、あちこちで湧き起こる。学校一注目株の新堂先生と、同じく今一番注目株の転校生のツーショット。
金メダルを取った選手の凱旋パレードさながらに、手でも振ってみちゃう?
そうこうするうちに、あっという間に教室に辿り着く。
「ここだね。教卓に置いておけばいいかな」先生が辺りを見回して私に告げる。
「はい!ありがとうございました」ペコリと頭を下げてお礼を言う。
私が顔を上げると、それじゃ、と軽く手を上げて、先生は颯爽と教室を出て行った。
まばらに集まり始めていた生徒達は、私に負けないくらいポカンと口を開けていた。
新堂和矢。この人はきっと、二重人格なんだ。そうに違いない!
ж
今、学校の敷地内の一角では工事が行なわれている。プールの改修工事だ。
この学校にはプールがある。小中学校ならまだしも、高校生にもなって水遊びとは!泳ぎが大の苦手の私には大迷惑な話だ。いっそ、改修じゃなくて撤去してほしい。
本格的な雪の季節がやって来る前に終わらせるはずだったらしいけど、未だに道半ばって感じ。それってどうなの?契約違反じゃないの!
この日は昼頃から雨が雪に変わって、帰る頃には一面銀世界に早変わり。
「ユイ~、まさか今日もチャリンコで来たなんて言わないよね?」
帰り支度を済ませた多香子が、横の私に疑惑の目を向ける。
「大丈夫。押して帰るから」
「何てこと!」天を仰いで大袈裟に嘆く。
仕方ないでしょ、そっちと違って、家の方角はバスも走っていない田舎なんだから!
「ホンットに気をつけて帰んなよ?雪、甘く見ちゃダメだからね?」
「はいはい!多香子こそ早く帰ってね。受験勉強、大変なんでしょ」
「そ~なの!じゃ、お先っ!」
教室のほとんどがすでに帰った後。高校三年生にとっては受験勉強がメイン。私は違うけど。だって進学する気ないもの。別に頭が足りない訳じゃなく、経済的問題なので念のため。
一人重い腰を上げて立ち上がる。窓際に寄って、曇ったガラスを擦って外を確認する。
雪がしんしんと降る中でも、工事車両が行き来している。今さら急ピッチで進めても、もう手遅れだと思うけど?
校庭に出て、自転車を取りに裏に回ろうとした時、少し先で輪になった下級生女子の集まりに、トラックが猛スピードで突っ込もうとしているのが見えた。
「ウソでしょ?!何でスピード落とさないの……って、スリップしてる?」
下校途中の生徒数人が、その様子を凍りついて見つめている。
私は必死に考えた。トラックの軌道を変えるのは無理だ。だったら、あの子達を何とかするしかない!「キハラ、私に力を貸して……!」
そう呟いて拳を固く握り締め、私は迷う事無く彼女達に突進した。
トラックが目前に迫る中、どうにか彼女達を残らず軌道から外す事に成功。さて脱出、そう思ったけれど、自慢の脚力が使い物にならない。
この雪は、私までスリップさせるつもりのようだ。万事休す、か……。
半ば諦めて顔を上げた時、トラックの向こう側に、凍りつくもう一人の人影が見えた。
この距離でもそれが誰かはすぐに分かった。透き通るような肌の男性なんて、あの人しか思いつかない。
私は迫り来るトラックに防御の体勢を取る事も忘れて、ただ新堂先生だけを見つめた。
だって仕方ないでしょ?目が離せないんだから。
次の瞬間、私の体が宙を舞った。トラックに撥ねられた訳じゃない。そんな衝撃は体のどこにも伝わって来なかった。
私は今、何か冷たいものに包まれて凍えそうになっている。
もしかして、衝撃を感じる前に死んだとか?
そして、悪態をつく低い声を聞いた。それも聞き覚えのある声。耳元での囁き程度だったけれど間違いない。私の近くには誰もいなかったはずなのに。
何が起きたのか分からなかった。
気がつくと、辺りは静まり返っている。
「大丈夫か、ケガはないか?」その声が今度は私の耳元ではっきり聞こえた。
やっぱり新堂先生だ。
「はい……。どこも」反射的にそう答えて、立ち上がろうとしてはじめて、自分が彼に抱きかかえられているのに気づいた。
「動かないで。ゆっくり呼吸するんだ」私を諌めるように指示を出す。
その何とも心地の良い声に、催眠術にでも掛かったように従ってしまう。
男の人に抱かれているにしては凄く寒い。まるで氷のベッドに寝かされているみたい。
「すぐに救急車が来る。病院へ行くんだ」
「いいです、私、どこもケガしてませんから」
「……そうじゃなく!状況的に、行ってくれないと困るんだ。とにかく、こんなに震えているじゃないか。きちんと処置した方がいい」
どういう意味?そんな事よりもっと重大な疑問があったのに、あまりの寒さで口も利けない。
トラックから降りて来た中年の男の人が、何やら騒ぎ立てながら私を見下ろしていた。
先生の宣言どおり、すぐに救急車のサイレンが聞こえてきた。
周囲に集まった教師や生徒達が見守る中、担架で車内に乗せられる。
「あなたも一緒にお願いします」先生の方を見て、救急隊員が言っている。
「いえ、私は。後からこの生徒の家族を行かせますので」
「状況を知っている方に、同乗いただきたいのですが」
隊員の要請で結局、新堂先生も一緒に来る事になったみたい。
とっても迷惑そうな顔しちゃって!やっぱり私となんて関わりたくなかったって事だ。それなら、なぜ助けたりしたのか。
そう、あんな遠くにいたのに。あの一瞬の間に現れて?
病院に運ばれると、あちこちレントゲンを撮られ、異常がない事が証明されてようやく病室に落ち着く。
「ユイ!ユイ、大丈夫なの?もうあなたって子は!心配したのよ?」
お母さんが駆けつけてくれた。
「ごめん。全然何ともないのよ。皆大袈裟で!ほら、元気でしょ?私!」
笑顔でそう答えたものの、どういう訳か母は納得していない様子。
「あなたの血はとても特殊なの。もし何かあっても、どうしようも……」こう言って、ついに母は泣き崩れた。
私の血液型は本当に稀なもので、国内にも数人いるかどうからしい。母の親族に同じ型だった人がいたみたいだけど、もう大分前に亡くなったそうだ。
不安そうにする母に手を差し伸べたのは、新堂先生だった。
「ご安心ください、娘さんはケガは負っていません。ただ少しショックの症状が出ているだけです」
ショックの症状って?そんなものどこに出てるのよ?反論する気満々で先生を睨む。
「一晩入院して、問題がなければ帰れるよ」
「どうぞよろしくお願いします」母は縋るような目で新堂先生を見て言った。
どうしてこんな事になったのだろう。雪さえ降っていなければ、私はあの場から軽々とジャンプしていた。ただの雪にこんなに手古摺るなんて!キハラが聞いたら何て言うか……。
この時、多香子の言った「雪を甘く見ちゃダメ!」という言葉が、私の中でこだましたのは言うまでもない。
一人になった病室に、白衣を纏った新堂先生が現れた。
「やあ朝霧さん。気分はどうかな?」
「新堂先生、本当に入院は必要?私、帰りたいんですけど」病院も医者も(何よりこの消毒の香りが!)大嫌いなんですけど!
「もし具合が悪くなっても、ここまで来るのは手間だろ?」
母親にとって、とのニュアンスを込めて言われて反論できなくなる。自転車を漕いでここまで来るには距離がありすぎる。つまりそうなったら、母に車で運んでもらうしかないって事。
帰るのは諦めて、最大の疑問点の解明にかかる事にする。
「あの時、新堂先生は向こうの渡り廊下にいましたよね?」
返事はない。
「どうやってあんなに早く移動できたの?どうやったの!」
畳みかけるように問いただすと、ようやく答えが返って来た。「どうやったも何も、私はすぐ隣りにいたんだよ、ユイの」
さり気なく下の名前で呼ばれたけれど、今はそれどころじゃない。
「ウソよ。私の周りには誰もいなかったわ!」
「いいや。いたんだよ。私は、トラックにぶつかる前に君を引っ張っただけだ」
そんなはずはない。あの距離を移動するには、少なくとも二、三分はかかる。ましてや一瞬でなんてあり得ない。例えキハラでも!
「それにしても良かった。ギャラリーが最小限で済んで」
先生が意味の分からない事を言った。
「何が良かったって?」
「……何でもない。さあ、もう休んだ方がいい。少し眠りなさい」
「私、本当にどこも悪くないんで……って、あ、ちょっと!何するのっ」
先生がどこからか注射器を取り出し、華麗な手捌きで私の左腕に注射した。
「ずるい、薬を使うなんて……っ!私は、どこも……」
私の意識はここで途切れた。