私達は両親と別れ、イタリアからロシアの邸宅へ戻った。
「寒くないか?」空港を出たことろで、先生が気遣わしげに聞いてくれる。
「寒~いっ!私、結構寒さに強くなったと思ってたんだけどなぁ……っ」
犬が濡れた体を振るように、一頻りブルッと震える。
「原因の一つにはあの病だ。例の内分泌の役目は、体を活動的にする事。過剰に分泌されれば寒さにも強くなる」
彼といるお陰で寒さに強くなった訳じゃなかったらしい。必要以上にエネルギーを燃焼させていたってだけ。それでぐったりしてただなんて、バカみたい。全く変な病気!
だから食欲だってあるし全然元気だったんだ。興奮しすぎて寝付けないのが玉に瑕って?
「もぉ~。そんでもってまた冬って……。もうイヤっ!」
おふざけで彼の腕を親指と人差し指でピンと弾いてみた。……いったぁ~い!
「おい、何してる?」蚊でも止まったくらいにしか感じていないらしい。
「何でもないです!」
もはや夏でも冬でもエッチは厳禁な訳だけど。もうすぐレス歴一年よ?
こんな事を考えていたのが分かったように先生が言う。「何を興奮してるんだ?」
できればご一緒しませんか?常に冷静沈着な新堂先生!
「あ~あ!バカバカしい」
こんな事を暴露したら、また自制心がどうとか言われちゃうじゃない?
「何がバカバカしいって?」彼が不思議そうにしている。
「どうやったらあなたを打ち負かせるか考えてたの。ね?バカでしょ」
「打ち負かす?なぜだ」
この意味なんて分かる訳がない。「負けず嫌いだから?」
下らないと思ったのか、彼はこれ以上聞いてこなかった。
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いろいろあったけれど、私はとうとう二十を迎える事ができた。ようやく大人の仲間入りだ。
「お酒もタバコも解禁ね。どっちから試そっかなぁ~」
ウキウキ気分もすぐに封印されるだろう、と思った矢先に「煙草は絶対にダメだ」と彼。
ほぉ~ら来た。
「じゃあ、お酒はいいのね?ワインとウオッカ、どっちがいいかな」透かさず続ける。
「どうしてもならワインにしろ」
やった!お許しが出た。「できれば赤な?」先生が茶目っ気たっぷりに付け加えた。
つまり自分は〝ブラッド〟で乾杯って?
先生の手にする深緑色のボトルが、ポコポコという音を立てながら真っ赤なワインをグラスに満たして行く。もう一つには、すでに深紅の液体が注がれている。
「ちゃんとワイン、用意してあったんじゃない。さすが先生!」
私は先に注いであった方に手を伸ばす。
「ユイのはこっちだ」
瞬時に、たった今注いだばかりのグラスが私の手に納まる。
「あ、ありがと……」
呆気に取られながらも、先生のと見比べて微妙な色の違いを感じ取った。
自分のグラスを手にソファーに向かう先生を追いながら言ってみる。「そっち、飲んでみたいな~!」ここは無邪気に行こう。先生のグラスを指差して。
久しぶりに彼が固まった。
今だ!と、その隙に奪い取る事に成功したはずなのに、いつの間にか私の手には自分のグラスが戻っている。
目にも留まらぬ早さですり代えられていた模様。う~ん、こんな事、前にもあったような……。
「ああん!彫刻は動いちゃダメでしょ?」
私の言い分を無視して、先生が高らかに言う。「さあ。乾杯しよう」
その血と思われる液体を前に、彼の瞳が黒く光った。
私の心臓が一度だけドキンと強く打つのを感じる。
黒い瞳を久しぶりに見たけれど、これだけはどうしても慣れない。この瞳と牙が、唯一彼を恐ろしく見せるものだから。
気づくと、彼のグラスはあっという間に空になっていた。
「ユイも飲んでみたら?初のアルコール。悪酔いしそうだったらすぐに止めるからな?」
例のモノの味見を諦めて、自分のグラスを見つめる。
「悪酔いってどんなの?」
先生の真似をして、一気に飲み干した。
冷えていて味が良く分からない。でも後味はとても酸っぱくて渋い……。
「おいおい、そんな飲み方はないだろ。もっと味わって飲まないと」
「あら。私は先生のお手本を真似たのよ?あなたこそ味わった?」
「ユイ。本当は今、俺のこと怖いと思ったんだろ」
図星を突かれて、あからさまにビックリしてしまう。「なっ!何でそう思うの?」
「俺の耳は視力以上にいいんだ。何しろ心の声まで聞こえるくらいだから!隠してもムダだ。おまえの心音が飛び跳ねたのは、はっきり聞こえた」
心音や呼吸音ならば、二階にいても聞こえるとの事。恐れ入ります!
「いやん、エッチ!」
こんな事を言って胸に手を当てるも、またドキドキし始める。
「ワインは度数が高い。もっと低いものから勧めるべきだったな」後悔しているかのような顔になって彼が言う。
「このドキドキは、アルコールのせいじゃないもんっ」
「なら、やっぱり俺が怖いって事になるが?」
もう言い逃れは諦めた。「ねえ。どうして今になって、私の前で堂々と飲んだの?」
「おかしいな、前にも飲んでたけどな」とぼけてこんな事を言い出す。
「先生!もう酔ったの?そっちこそ禁止よ!」
こんな言い合いをしているうちに、段々体がポカポカして気分が良くなってくる。
私は火照り出した体を彼に寄せた。「ん~……気持ちいい~」
「だからゆっくり飲めって言ったんだ。大丈夫か?」
私は答えもせずに意味もなく笑い出す。今度はなぜか、笑いが止まらないのだ。
でも彼は不審がる事もなく、一緒になって笑っていた。とても幸せそうに。
「ねえ。先生は私の血、飲んだ事あるよね?ほら、学校の血液検査で」
ひんやり感が薄れつつある彼の体に寄り掛かりながら話す。
前に、純粋な血という意味ではないと言っていたけれど、そういえばあったはずだ。
「いや。ないよ」
「え?だって…………」驚いて体を起こして彼を見上げる。
「あの時、採血は済ませたと言ったが、あれは嘘なんだ。本当はユイのだけしていない。正直言うと……できなかったんだ」
「できなかった?」私が注射嫌いだからってワケじゃ、ないよね。
先生は頷いてから教えてくれた。
「もしあそこで、おまえの血を少しでも味わっていたら、きっと襲ってただろうな」
「我慢できなくてって事?」
彼の瞳はブラウンに戻っている。
「大丈夫、もう平気だよ。こんなの比べ物にならないくらいに、今この瞬間もユイの血はとても魅力的でいい香りを放っているというのに!」空になったグラスを手に言う。
「ホントに?いい匂い?」
「ああ」
この時浮かべた先生の笑顔は、不思議な事にとても安心できる顔だった。なぜ不思議かって、血の話題を前に、ヴァンパイアがこんな顔をするって誰が思う?
「これは、絶対に守らないといけないものだ」今度は強い意志を込めた瞳を私に向ける。
私も微笑み返した。「うん。嬉しい。ありがとう、先生」
「血ってそんなにいろんな味があるんだ」
舐めた事くらいはある。あの鉄みたいな少ししょっぱい、ねっとりしたシロモノ。とても美味しいとは思えない。
自分の青い血管が見えている手首を見下ろしていると、先生に釘を刺された。
「……おい、ダメだからな?」
「味見しようと思ってるって?!ないない!」そんな事したら確実に悪酔いって言われちゃう。
「そんなのより、何かつまみでも食べたらどうだ」彼が提案する。
私はそっちの案に賛成して、キッチンに戻り冷蔵庫を開けた。
中にはいつものように、一通りの食材が収められている。卵に牛乳、ウインナー、チーズ。ところが、野菜室にはなぜか大量のバナナ。
「ちょっと先生?何、このバナナ!ウチで猿でも飼ってたっけ?」
「何を言ってる。全部おまえのだよ。バナナは栄養価が高いからいいんだぞ?」
「残念でした!ユイさんはバナナ嫌いなの。今回は読みが外れたわね~」
「好き嫌いなんてどうでもいい。栄養があるから食べろ」
どうしてそうなるの?
一緒に暮らすようになって、買物にはいつも先生が付き合ってくれていた。けれど私が病気になってからは、先生がいつの間にか揃えておいてくれるようになった。
でもこんな大量のバナナには初めてお目にかかった。一体、誰に何を吹き込まれたんだか!
「ねえ、前みたいに私が食べたいもの買いに行っちゃ、ダメ?」
「そういう手間は省いた方がいいと思って」
「手間じゃないよ。一緒にお買い物、楽しいもん!」
「何も食さないヴァンパイアと買いに行くのが楽しいのか?」
「だからっ!一緒にいるだけで楽しいんです!」
冷蔵庫からチーズを取り出してソファに戻ると、いつの間にか彼のグラスには、再び並々と赤の液体が注がれていた。
「っ!……どっから持って来たの?」ちょぴりゾッとして小声で聞く。
答えは一言。「内緒だ」
彼は空になった私のグラスにもワインを注いでくれた。
「二杯目のお許し、出たみたいね」
「今のところはな」肩を一度大きく上下して言う。
「こうして先生がここで食事できたら、夜に出かける必要なくなるよね」そうすれば、一晩中一緒にいられる。どうせ私は寝てしまうけど……。
「それは難しいな。この程度の量では満たす事はできないんだ」
このコメントに、思わず黙り込んだ。一度に何人分が必要なのか想像してしまったから。
「また怖がらせたな。済まない」
私は慌てて首を振った。
気を取り直して、今度はゆっくりとワインを味わう。とても美味しいとは言えない味を。
「ユイには、甘いジュースの方がいいんじゃないか?」しかめっ面の私に言ってくる。
「そうかも……。新堂先生は、ワイン、好きだった?」
「ああ。良く飲んだよ。大概はヤケ酒ってヤツだがね。安いヤツさ。きっと今の方が断然品質がいいんだろうな。香りが全然違うから分かるよ」
「味わえなくて残念ね」
香りだけでも分かるなら飲めばいいのに。どうせ胃の中で消えてなくなるんだし?
彼と一緒にしたい事は山ほどある。でもそれは叶わぬ夢ばかりだ。こうして一緒にいられるだけで十分なのに、どんどん高望みしてしまう。人間って、強欲な生き物だなぁ。
こんな私達、人間とヴァンパイアの日常はとても奇妙だ。
彼には気配というものがない。さらには、物音一つ立てずに動く事は朝飯前。気がつくといないし、知らないうちに戻っている。
だから私はいつだって、素の彼にはこの上なく驚かされる。
「新堂先生っ、お願いだから足音立てて近づいて来てくれない?このままじゃ心臓が持たない!」
彼が近づく時、唯一感じるのは寒気。
でもこれが厄介で、新堂先生のせいなのか体調の問題なのか、はたまた本当に霊的なものがいたり(!)するのか判別がつかない。
「済まない。ユイといると、素のままの自分でいられるから、つい。気をつけるよ」
「あ~あ。こんな事言わなくて済むように、もっと鍛えなきゃ」
これでも私は、人並み以上に気配や殺気には敏感な方のはずなのだ。キハラからそんな訓練も受けてきたから。
それなのにこの人を相手にすると、たちまち自分はただの人になる!
「何を鍛えるって?」
「こっちの話!まあ……ある程度はいいけど。暗闇からいきなり出て来るのだけは勘弁してね」
最近、自然体で接してくる先生。心を許してくれている証拠だし、本当はすごく嬉しい。
だけど困る。お化け屋敷の類は苦手なの!
彼がいきなり消える時(そんなに長い時間じゃない)だって、こっちには何の心の準備もできていないんだから。
朝食を摂っている最中に、新聞がパサリとテーブルに落ちる音で顔を上げる。
「先生?さっきまでそこで新聞読んでたのに……」
気づくとダイニングに一人取り残された私。部屋を見回すも彼の姿は見当たらず。
「新堂先生!どこ?」少し大きめの声で呼んでみる。
「そんな大声を出さなくても聞こえてるよ」
姿がないのに声だけ返ってきたりする。
「かくれんぼなんてやらないわよ?子供じゃないんだから」どういうつもり?
「そんなつもりはない。ゆっくり朝食を摂っててくれ」
「どこにいるの?急にいなくならないでよ!」お願いだから説明してから行って。
「今のは急だった?」この問いには即、「急です!」と返答。
すると、パッと目の前に彼が現れる。さっきと何も変わらない様子で新聞を手にして。
だから私は、手にしたトーストを落としそうになっちゃったりするワケ!それを何の事もなくキャッチして「落ちたよ?」と彼は無邪気に微笑むの。
「あ、ありがと……じゃなくてっ!あなたもしかして面白がってない?私の反応!」
「そんな、滅相もない。ちょっと用事を思い出して席を立っただけだ。次からは、断ってから行くようにするよ」
「ええそうして!それで用事って?ヒゲを剃るのを忘れた、とかいう事もないでしょうに」
「ヒゲか。懐かしいね。あれは案外厄介なんだ。毎日伸びるから!」
「ヴァンパイアはムダ毛ゼロで、羨ましい限りね」
どこもかしこもツルツルの肌。髪はふさふさだけど!
彼が新聞を綺麗に畳んで置いた。今度は自分で置いたのが見えた。こういう動作も、意識してやらないとこうはできないのだろう。
「あれ、もう読み終わったの?早くない?」
「それ、聞くのか、この俺に?」
こんな質問は愚かだった。「ああ……ごめん」超音速読みかぁ。羨ましい事だらけ!
こうして微動だにせず新聞を読みながら、テレビの情報までも余さず吸収するヴァンパイア新堂。
誰もいない部屋でテレビが点いている事があっても、この新堂邸では消してはいけない。屋内のどこにいても、ちゃんと聞いているそうで!最初は大いに戸惑ったものだ。
電気代なんて心配する必要もないくらい、お金も持っている事だし?何の問題もない。
貴重な人間世界の情報は、どんな事も小まめにチェックしたいのだとか。……さては、ここでバナナが体にいいと学んだ訳か。
先生~!私の好き嫌いも学んでぇっ!
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こうして一日はゆっくりと、だけど確実に流れて行く。
新堂先生は週に二、三回仕事に行くけれど(オペの依頼が入った時)、その他はずっと私といてくれる。私はこっちでは仕事もしていないので、特にやる事はない。
大抵はトレーニングをしている。その辺をランニングして(時にはかなり遠くまで)、筋トレしたりアクロバット(!)したり。
もちろんその間はずっと彼が見物。見られていたら気が散るって?いえいえ。彼は気配がないから、熱中するとその場にいる事さえ忘れる。こんなメリットもあったみたい!
時には先生にピアノを教わったりもするんだけど、これが上手く行かない。
彼は、ひとつの事を飽きもせず続けるのが得意のよう。けれど、私はすぐに投げ出すので?
「もう一度だ。ここはこうだ、分かるか?」
「分かんないっ。ああん!だからもういいってば。向いてないのよ、私には」
ピアノを前に彼のレッスンは延々続く。
先生は先生でも、こっちの先生は嫌いだ(医者も嫌いだけど)。
「分かるまで説明する。さあ、もう一度弾いてみて」
「何でそんなに根気強いの?」こんなできの悪い生徒相手に、怒りもせずに穏やかに教えてくれるなんて!匙を投げられても当然なくらい、飲み込みが悪いこの私相手に?
「このくらい普通だろ。おまえが飽きっぽいんだ。で、どうする?もうやめる?」
選択肢を貰えて良かった。「はい、やめます!先生、何か弾いて!」
彼はため息を一つつくと、私と入れ替わってピアノに向かう。白くて滑らかな手が鍵盤に乗ると、ピアノは息を吹き返したように、全く別の音色を奏で始めた。
ヴァンパイアは飽きるという事がないそうだ。永遠に(!)弾き続けられるんだろうなぁ。
こういう違いが、時間という概念を持つか持たないかの差なんだろうと、改めて思い知らされるのだった。