その晩、初めて新堂先生の夢を見た。
夢の中はとても暗くて、遠くにいる先生の光り輝く顔の他には何も見えない。彼はふいに私に背を向けて、さらに遠ざかる。
呼びかけても聞こえないのか、無視される。
私は全速力で走り出す。でもどんなに走っても追いつけない。待ってよ、新堂先生……!
へとへとになって、真夜中に目が覚めた。
元々悪夢はしょっちゅう見ていたから、疲れて起きるのは日常茶飯事だけど。だからって全く意味不明の夢で混乱するばかりだ。私ったら、あの人の事考え過ぎ?
あの事故から数週間というもの、こんな新堂先生の夢を毎晩見ている。
その上学校でも、かなり居心地の悪い生活を送る羽目になっていて、気が休まらない。
幸いあの現場に居合わせたのが少数だったため、この事故については噂話程度で済んでいるけれど、私が助けたあの下級生の親達が、大袈裟に騒ぎ立てて大変だった。
加えて当の彼女達は今や、私の配下と成り下がっている。
それはこんな具合に。
「朝霧先輩!こんにちは!何だか元気ないですね。私達にできる事ありませんか?」
「ないわ。勉強、頑張って。ああそうだ、向こうで煙草吹かしてるヤツがいたから、注意して来てくれると助かるかな」
こんな指示を出したのは、今日が初めてじゃない。本当は誰が煙草を吸おうと別にどうでもいいんだけど。だって、何か言わないといつまでも纏わり付いて来るんだもの!
どうせなら、風紀委員のお手伝いでもさせようって寸法。
「ユイ~!こんな所にいた。またあの子達?飽きないわねぇ」多香子がやって来た。
「ホント!いい加減飽きてくる頃でしょうに。で、何?」
「知子がね、新堂先生にお弁当渡しに行くんだって!面白そうだから、見物しに行かない?」
「私はいいや」即答した。何だか今は、あの人と関わりたくない。
疲れてるのかな。あの子達が言うように?
「え~っ?いいじゃん、行こうよ!ね?どうせなら味気ない昼休みを楽しく!ねえって!」
抵抗する気力さえなく、私は多香子に引っ張られて医務室へと連行された。
半開きになったドアから中を覗く多香子に続いて、チラッと目を向ける。
「失礼しま~す!知~子っ、応援に来たよ」
「やっだぁ~、応援だなんて!誰も頼んでないからっ。恥かしいじゃん……」
珍しく知子が顔を赤らめてるじゃない!これは案外見ものかも?
新堂先生の机には、知子が渡したと思われるお弁当が置かれている。
「あら~?受け取ってもらえたのね、やったじゃない」多香子はさらに冷かす。
「やめてよ、もうっ!さ、用が済んだから行くよ!」
デスクに肘を乗せた姿勢で、白衣姿の新堂先生は二人のやり取りを見ていた。私には一切視線を移す事もなく。私は完全に無視されている模様。
知子は多香子を引き摺るようにして連れ出し、廊下で何やら騒いでいる。そのまま声が遠ざかって、どうやら私は取り残されたらしい。
ドアはまだ半開きで、私は中途半端な場所に突っ立ったままだ。
「やれやれ」
部屋から吐き捨てるようなため息が聞こえたかと思うと、ドサリと何かが落ちる音がした。
目を向けると、さっき受け取ったお弁当の中身を、ゴミ箱に捨てる音だった。
「ちょっと!何してるの?」
私は思わず部屋に乗り込んで声を張り上げた。
だってそれは、知子の想いが詰まった……!心の中でさえ声にならない。
「覗き見とは、褒められた行動じゃないな。まだいたのか」
「いて悪かったわね。どうしてそんな事するの?食べてあげてよ!でなきゃ何で受け取るのよ!」
「もらった物をどうしようが、俺の勝手じゃないか?」
平然とこんな事を言って退ける。この人のどこが優しいの?皆の目は節穴だ。
「俺には必要ないんだよ。……こういう類の物はね」
それはつまり、一生徒の手作り弁当なんてって意味か。サイっテイ!
さらにもう一つお弁当の包みを取り出し、同じ作業を始めようとしたところで手を止める。
「ああそうだ。君、昼食はもう済んだのか?」
「まだだけど」
「良かったらこれ、食べるか?」誰かからもらったお弁当を差し出してくる。
「いりません!失礼します!」
私の声は廊下まで響き渡っていたに違いない。怒り心頭で廊下をズンズン歩いて行く。
どうかしてる。あいつはきっと人間じゃない。そうよ……人間じゃ、ない?なんてまさかね。
私はそこまで空想大好き少女じゃありません!
ж
数日後、全校生徒に健康診断が実施された。
学校行事では珍しく血液検査もあるという。何でも新堂先生が赴任してから始まった事のようで。どうしてそんな、面倒な仕事をわざわざ始めたのか気が知れない。
寄りに寄って私の大の苦手な注射を!ああ、どうしよう……。
「ユイったら、いつも以上に顔色悪いけど、大丈夫?ちょうど今日は健康診断だから、良く診てもらうといいよ」多香子が心配そうに私を見て言う。
「ねえ。それって、全部あの先生が一人でするの?」
「そうだよ!女子は皆、この日を待ちわびてるよ」
何しろ、一対一になれる貴重な日って?私にとっては恐怖でしかない。新堂先生も、採血も!
「ああ、本気で気分悪くなってきた。私、帰ろっかなぁ……」
「ユイ!今帰っても、先生はここにいるんだよ?意味ないじゃん」
「別に診てもらうほど悪くないよ」
「ダメダメ!さ、行くよ」
どうして皆、こんなに嬉しそうなんだろう。マジで目が回る……。
そんな事を思った時には、私は本当に床にバッタリと倒れていたらしい。
目が覚めた時には、医務室のベッドに寝かされていた。
「気がついたかな?」滑らかな声が、私をまどろみから覚醒させた。
「うわっ!何で?!」
白衣を着た彫刻が、私に覆い被さろうとしているのかと思った。いつも通りの完璧な美形が今、すぐ目の前にある。
「急に起き上がらない方がいい。また、めまいが起こるぞ」
新堂先生が私をベッドに留めて言う。その手は服の上からでも感じられるくらい、とてもひんやりしている。
めまい、そうだ、私は注射が怖くて気を失ったんだ。
何て子供染みてるの!恥かしくて堪らない。皆に何て説明すれば?
「心配するな。君は元々色白だから、説明などどうとでもなる。貧血で倒れたと言ってあるよ」
まるで心を読んだかのように、こんな事を言ってくる。
「まさか、注射が怖くて卒倒する女子生徒が、本当にいるとはな!医者をしていて初めてお目にかかったよ」
返す言葉もなく黙り込む私を気にも留めずに、先生が続ける。「少しは気分が良くなったかな?朝霧ユイさん」
「あ、あの……それで私の採血は?」
「もう済んでるよ。気を失っている間にさせてもらった。感謝してほしいね」
「ありがとうございます」
「今日は素直だな!」
「そっちこそ」蚊の鳴くような声で言い返した。きっと聞こえなかったはず。
ところが先生は答えた。
「君には、本当に失礼な態度ばかり取ってしまって……済まない。だが、こうした方がいいんだ、本当に……」それも奇妙な事にとても自信なさげに!
「意味が分かりません!」
「俺達は親しくならない方がいいって事だよ」
「親しくって、別にそんな気なんかありませんけど!」
「ああ分かってる。こっちの話だ」
それも意味が分からない。先生が私と親しくなりたいと思っていて、でも無理に拒んでるとでも?どういう事よ!
「ある意味、後悔してるんだ」
「何を?私をトラック事故から助けた事?」
「そんな事じゃない。それにあれは偶然だ。たまたま近くにいたから」
そんなウソはもういい。私は無視して続けた。「私が邪魔なら、あの時見殺しにしておけば良かったじゃない。目障りなんでしょ?私の事!」
言えた。ついに!これまでの数々の不快極まりない出来事。私を悩ませた彼の言動。
〝目障り〟この一言がその全てを表している!何て簡単な答えだろう。
けれど、新堂先生は驚いた目で私を見つめるばかりで、何も言わない。
瞳の色が一瞬だけ暗くなった気がした。
やがて口を開いた。
「まるで分かってないな」こう言った先生は、間違いなく怒っている。
そう思ったのは瞳の色だ。不快感を伴う時はより暗くなり、気持ちが明るい時は明るいブラウンになる。これまでの状況を見るにそうだ。でもそんな事ってある?
「今日はもう帰りなさい。母親に連絡を入れておいた。時期に迎えに来る」
気分を害したのか、その後新堂先生は何も話さなくなった。
約三十分後に、母が到着した。
パタパタとスリッパで廊下を駆ける音が響き、血相を変えた母が現れた。
「まあユイ!大丈夫?最近あまり眠れてないって言ってたし。心配してたのよ」
「そうなんですか?」新堂先生が私をチラリと見た後に言った。
「ええ。この子ったら、悩み事があっても何も言わないから。新しい学校で上手く行ってないんじゃないかって、もう心配で心配で!」
「お母さん!心配し過ぎ!悩みなんてない。単に注射が……怖かっただけよ」
ここで見栄を張っても仕方がない。私は本当の事を打ち明ける。採血を前に卒倒した事を。
「まあ……。あなた、まだそんな?実は前にもあったんですよ、こういう事が」
それは事実ではあるけれど、今ここで暴露する話でもないでしょ!
「おや、そうだったんですか」新堂先生は愉快そうに続きを促す。
「いいから!そんな事はっ!帰る!」
慌てて母を引っ張って医務室を後にしたのだった。
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この騒動から一週間経ち、めっきり私への扱いは病弱な新入りに取って代わった。
「ユイ、新堂先生が呼んでるってさ。早く行きな。悪いけど私達、先帰るね。お大事に!」知子が入り口で叫んだ。
「ああ、ちょっと待ってよ!ついて来てよっ、先生のとこ、行きたくないの?」
まさか知子、お弁当捨てられた事に気づいたんじゃ……。それで先生を嫌いになったとか?
なぜだか、新堂先生に黄色い歓声を上げる女子がいない。あの事故の後に誰かが、「はい、解散!」と号令をかけたとか?
それにしても、何で私があの人に呼ばれるの?全くこの学校は謎が多い。
「失礼します……」
医務室のドアを軽くノックした後に声をかけて、警戒しながら中を覗く。
「やあユイ。来たか。ちょっと付き合ってくれ」
先生は私を確認すると、鞄を手にして立ち上がった。その表情からは何も読み取れず。
「付き合うって、何にですか?何で私が?」
「いいからいいから」
有無を言わさず私の手を掴むと(今日も氷みたいに冷たい!)、廊下に出て医務室に鍵を掛けた。
そのまま校庭に連れ出され、ピカピカの黒ベンツの前に辿り着く。
「さあ、乗って」助手席のドアを開けて、私が乗り込むのを待っている。
「これ、新堂先生の車?」
言葉は発せず、軽く肩を竦めて肯定の意を示す先生。
ついて来てしまったからには、やっぱ乗るしかないよね……。幸い誰にも見られていないようだし。と思いつつもまだ悩む。
「外車がそんなに珍しいか?」ドアの前で立ったままの私に言ってくる。
若干バカにされた感じで。
「そんな訳!」ないじゃない?だってウチのオヤジはヤクザよ。ベンツはヤクザの代名詞でしょ!
こんな心の声が聞こえたように、先生はハハッ!と乾いた笑いを発した。
こんな言い合いをしたせいで、勢いで助手席に乗り込んでしまった。
しばらくすると、新堂先生はカーステレオを鳴らした。クラシックが車内の張り詰めた空気を少しだけ和やかにしてくれる。
「モーツァルトですね」
「正解だ。好きか?」
「別に!」だってこの曲、有名でしょ。誰だって知ってる。アイネ・クライネ・ナハトムジーク。
「まあ有名どころなのは間違いないな」またも私の心を読んだような回答が飛び出す。
「ずいぶん人の心を読むのが得意なのね。新堂先生は」
「いつもはね」
完璧な真っ白い歯を覗かせながら、先生はにっこり微笑んだ。
いつもは?その答え方、あってる?
少々の疑問を感じつつも、どこへ向かっているのかが気になって仕方がない。
「それで、どこへ行くつもりですか」
「別にどこも。ドライブしようじゃないか」
「はぁ?あなたと私で?この前自分で言った事、お忘れですか?先生!」
この行為は一体何?どう見てもデートだ。誘ったのはそっちだからね?
「覚えてるよ。親しくならない方がいいって言った事だろ。良く考えろ。それは、なりたくないって意味じゃない」
「屁理屈!」小声で罵る。
「親しくならない方が、君のためって事だよ」もう一度そう言った後、やや間を置いて続けた。
「だが。君と距離を置こうとしている自分が、無意味に思えてしまったんだよ、朝霧ユイ」
最後の言葉を口にした時、先生の瞳は目を奪われるくらい真剣で、声には熱が込められていた。
私は息をするのも忘れて呆然となって、ハンドルを握る彼をただ見つめる。
彼の方もじっと私を見ている。……あれ、ちょっと待って?前、見てないじゃない!
「先生!前!ちゃんと見て運転してください!」
「問題ないよ」先生はまたハハッ!と乾いた笑いを一つ零す。
問題大ありでしょ!心配になった私は、ドライバーよりも前方確認に精を出す羽目になった。
「朝霧ユイ。もう諦めろ。どうせ地獄に落ちるなら、俺はとことん落ちてやる事に決めたんだ」
「何を言ってるのか分かりません!事故を起こして、私を道連れにする気なら……」
「そう騒ぎ立てるな。そんな事は微塵も考えてない。ちゃんと安全運転を心がけてる」
どこがよ!彼の視線はまだ助手席の私にある。
明るいブラウンの瞳。今にも吸い込まれそうな……。
「先日、たっぷり精力つけさせてもらったのでね。お陰で絶好調だ」
「分厚いステーキでも召し上がったんですか!」
「…………まあ、そんなところだ」
結局ドライブは、町外れの海岸線まで行って、グルリと一周して帰って来た。
アパートの前に着くと、一台の見覚えのある白ベンツが停まっていた。それが意味するのは……。
「客人のようだな。この辺でそろそろ、ユイを解放するか」
先生はそう言って静かに車を停め、運転席から手を伸ばして助手席のドアを開けてくれた。
「また明日、学校で」
「先生、明日も学校に来る日?」
先生が頷いたのを見て、なぜだかとても心が躍った。
変なの。自分が新堂先生に会いたいと思っているなんて!?