食事を終えた私は、再び先生の車に乗せられて家路を急ぐ。
「あの、ご馳走様でした。払ってもらっちゃって済みません」
「お構いなく」
「だって先生、何も食べてないのに私だけ……」
「俺は必要ない」
車内の薄明かりに青白く輝く先生の顔を、まじまじと見つめてしまう。
食事は必要ない、人間の食事はって事?
「お腹、空いてないんですか?」こんな事を聞くなんて、地雷を踏んだかもしれない。
先生が一瞬、ピタリと動きを止めたように見えた。
ここはもう思い切って、私の血、欲しいですかって聞いてみる?
「新堂先生?」一向に答える気配のない彼に呼びかける。
「ああ。そんな事より、聞いてもいいか?」
「何ですか」
「なぜ君は、自らトラブルに巻き込まれるような行動を取る?理解に苦しむ!」
「別に、そんなつもりありませんけど!」
私は単に困っている人を助けたくて、悪人を倒したいだけです!
「例えそうだとして、先生には関係ないでしょ」どうして私に関わるの?
「ああそうだ。そのはずだった」
こう答えた後、しばしの沈黙が流れる。先生は左右の安全確認もせずに、信号のない交差点を通過。通り過ぎた直後(!)横から車が飛び出して来た。あと数秒遅かったら、ぶつかっていた。
「危な…………っ!」
文句を言おうとした時、先生が口を開いた。「特定の人間の命を守ろうなどと思った事は、これまで一度だってないんだ」
何それ?「医者なのに?」不思議に思ってつい聞いてしまう。
「知ってるか?医者は物事が起こった後に動くんだ。警察が事件が起こってから動くようにね。事前に命を守ったりはしない」
「ああ、はいはい!」私、今バカにされた?
「思ったよりもずっと厄介だ。だがそれは、相手が君だからだろうな」
「どういう意味よ!」
この間から厄介厄介って、人の事厄介者呼ばわりして。ムカつく!
「君を追跡するのはかなり難しかった。そんな人間も初めてだ」小声で呟く。
「追跡?今、追跡って言った?」私はこの人につけられていたっていうの?
先生は何も言わずに私を見つめた。
段々ぼうっとしてきて、どうでも良くなる。
それを振り切って質問する。「それは、私の心が読めないから?」
「そうだ」先生はあっさり認めた。「君の周囲の人間に探りを入れて、そこから推理するしかない。今だって……」
急に話すのをやめてしまった。突然湧き上がった怒りからか、表情が歪んで行く。
どうしたんだろう?落ち着いてくれるのをひたすら待つしかない。
やがて先生が口を開いた。「あのガキ共の考えている事が見えたんだよ」
「それは?」ここは話を合わせよう。
「それを、言わせるのか?」散々私が言ったセリフを、今度は先生が口にした。
この流れで行けば、それは間違いなく卑猥な内容だろう。先生は私が乱暴されかけているのを知ったという事だ。
他人の心を読んで私を追跡していたとか、私が乱暴される事を予知したとか、信じられない話だらけだけど、今の先生の様子を見ていたら、そんなの問題じゃなくなった。
私をすごく心配してくれている事が伝わってきたから。
この人は嘘をついてはいない。なぜかそう思えた。
「あのね、新堂先生。私、本当に平気なの。とても鍛えられてるから、その辺の不良達なんか簡単に……」こんなコメントは逆効果だったらしい。
「そういう考えが厄介だと言ってるんだ。おまえのような小娘が!どうして大人しくできない?もう少し命を大事にしろ」
小娘って!……またバカにされた?間違ってはいないけど!
「なんてな。この俺が一番、おまえを危険に晒しているというのに。今のコメントは矛盾していた。だが、……本心なんだ」
「危険に晒してるの?あなたが私を」
ふと窓の外を見ると、あり得ないくらいのスピードで景色が流れている。
「ヤダ、先生ったら何キロ出してるの!」スピードメーターは二百の値を示している。
「それがどうかしたか」
「どうかしたか、じゃないです!危ないじゃないですか!」
ああ、そういう事か。こうやって私を危険に晒してる。……なぁんだ。途端にこの人の正体について自信がなくなる。
私はついに黙り込んだ。
「そんなに怖いか?早く帰らないと、ミサコさんが心配するだろ」
「ミサコさん?私のお母さんと、名前で呼ぶような仲なの!?」
「一応、この町のドクターなんでね。住人のほとんどと顔見知りだ」
「はあぁ……」ため息のような返事が、無意識に口から漏れた。
少しは心穏やかに過ごす時間をください、お願いだから……!
行きはあっという間だったのに、帰り道がこんなに遠いなんて。一緒にいる人の問題?
「ユイ。大丈夫か?」
「少し疲れたみたい」もう黙っていよう。神経が持たない。持久力には自信あるはずなんだけど?この人の前ではそうじゃないらしい。
私はまたも大きなため息を吐き出した。
「まさか、今頃ショック状態が襲って来たとか」好奇心でいっぱいの目だ。
「やめてください。違いますから」
先生はお得意のハハッ!という乾いた笑いを一つ零す。
でも次の瞬間には、真剣な声で言った。「とにかく無事で良かった」心からそう思っている事が分かる。
そう言われて思い出す。自分が助けてもらった(一応!)のにまだお礼を言っていない事を。
「あの、新堂先生」
「何だ。本当に気分でも悪いか?」
「いいえ。その……、まだお礼言ってなかったと思って。助けてくれて、ありがとうございました」
「そんな事はいい。頼むから俺にウソはつくな。特に体調面ではね」
「それはもちろんです。だって、校医の先生だし?」
本当に私の考えている事だけ分からないんだ。変なの!
だけど、この人は根っからの医者だ。真面目すぎるくらいの。今、そう思った。
「助けてもらったの二回目ね」トラック事故を思い起こす。「あの時も、私を追跡してたとか?」
返事はない。私は続ける。「私の事、どうして守ろうとしてくれるの?」
「おまえはとても、魅力的なんだ」
そんなあなたの声の方が、ずっとず~っと魅力的だと思うけど?だから、すぐに催眠状態になってしまう。
「それは私自身じゃなくて、血が、でしょ?」
先生は明らかにギクリとした。瞬きもせずに彫刻のように固まる。
気にせず話を続けた。「これは私の妄想だから、適当に流して聞いてくださいね」
まずは当たり障りなく。順を追って説明しよう。
「前に一緒に暮らしていたある人が、私の事を心配して来てくれたんです。でも、その人の姿が急に見えなくなって。その人は私に、新堂先生には近づくなと警告を残して行きました」
「その警告は正しいよ」
「破らせてるのはそっちでしょ!どうして私に関わろうとするの?自分は危険だって言っておきながら……」
「俺だってどうしようもないんだ…………!」
彼の声が変わった。とても悲痛な叫びに。
「俺だって分かってる。君に深く関わるのは間違ってると。だが、どうしても抗いがたい魅力に、引き寄せられてしまう。人間だった頃さえ感じなかった感情が……」
「人間だった、頃?」さり気なく言ったわね!つまり今は、人間じゃないって事になる。
「ああ、また口が滑った」さも悔しそうに呟く。
「先生。もういいよ。大体分かってるから」
「何を分かってるっていうんだ」
「人間じゃ、ないんでしょ?私の中ではもう、あなたはヴァンパイアって事になってるから」
彼は心底驚いた顔で私を見つめた。
「思っていたよりも遥かに、君の観察眼は鋭いな」
こう言った後は、彼の表情は緩やかになっていた。どうやら観念したらしい。
「ヴァンパイアが外科医をやってるって知って、なるほどって思った」
「そうか」
もう先生は反論しなかった。
「人間でない俺は、怖いか?」
この質問には悩んだ。未知の部分が多過ぎて、怖がるべきかまだ判断がつかないっていうか。
「人を助ける仕事をしてるって事は、人を殺さないって事でしょ」私はこれだけ答える。
「例えどんなに礼儀正しいヴァンパイアでも、いつ飢えに負けてしまうか分からない。つまり、理性が働かなくなれば人間など簡単に八つ裂きだ。おまえの事もね、ユイ」
「新堂先生は、その……人を八つ裂きにした事、あるの?」
「あるよ。遠い昔に数え切れない程ね」
ニヤリと笑った先生の唇の端から、怪しく光る鋭い牙がチラリと見えた。
笑った顔はあまり見た事がなかったから、これまでこの例のモノは上手く隠れていたみたい。
「怖がっていいんだぞ?」
「別に!ちょっと犬歯が長いだけでしょ。そういう人だって……いると思うし」
こんな姿を目にしてさえも、この人が計り知れない力で人を引き裂いている映像は、私には見えなかった。先生はいつも穏やかな動きをしているし、強い力があるようにすら見えない。
私は気を取り直して質問を続ける。
「それじゃ、先生は何年生きてるの?確か今、二十七歳でしたよね」
「ああ。どれくらい二十七をやってるかって?」おかしそうに言う。「さあ、どうだろう。忘れてしまったよ」
忘れるくらい生きているんだ。どうにも信じがたい……。
「大抵の人間達は俺と距離を置く。本能的になんだろう。だからこちらも、深くは踏み込まないでいられる。ただ自分のすべき事をしてね」
「それは、医療行為、でしょ?」血を飲む事ではなく、との意味を込めて。
「そうだ。他に何がある?お察しの通り、こんな仕事を続けているのはお零れにありつけるからだ。外科医には血が付きもの。多少血生臭くても違和感はないし、消毒用アルコールで誤魔化せるしな!」
最後の方はジョーク紛いに語る。
この人が、あの恐ろしいモンスターだなんて。やっぱり信じられない。
「でも、大量の血を見て、我を忘れたりとかしないの?」
「それも大昔の話だな。ここ百数十年近くそんな事態になった事はない。仕事の上では」
今彼は仕事の上ではって言った。なら、プライベートでは別って事?
先生は私の方を見る事もなく、ただ前方を(道路を見ているかは謎)見つめている。
私の視線に気づいたのか、こっちを振り向いた。
「やっと怖くなってきたか」
「いいえ」
即答した私を見て、わざとらしく肩を竦めて見せる。「まったく君はどうかしてるな」
私もそう思う。
だって、もしこの人がキハラを葬ったのなら、私には絶対に勝ち目はない。そんな相手と密閉空間に二人っきりでいるんだから。
どうしてもキハラの事を聞き出さなければ。
「新堂先生。あなたもウソ、つかないでくれますか?これだけは……!」
「何だ」
「さっき話した、私に会いに来た人の事です」ついに本題に入る。
急に空気が重くなった気がした。車内の温度が下がったのか、寒気が襲ってくる。
私が震えているのに気づいて、先生がエアコンの温度設定を確認し始めた。
「設定は変えてないが、寒いか?」
「あ……、少し。でも大丈夫です、気分的なものかと……」
「顔色があまり良くない。ムダ話はもうよそう。もうすぐ着く」
待って、これだけは聞き出さないと!「これだけ、教えてください!その、キハラの事……」
先生は私を見つめて固まった。
私にもこの人の考えている事が読めればいいのに。こうやって固まる時は、言いにくい事を隠している時だ。ここでほぼ確信に至る。
震える声でそれを口にする。「キハラを、こ、殺したのね…………?」
この人はなぜか私を助けるけれど、キハラは?ヴァンパイアの気に触るような事をして怒らせて、あっという間に……。
この状況は私にとっては、この世の終わりも同然だ。私の最愛の師匠がやられたなんて!
自分が殺される恐怖よりも、キハラがこの世からいなくなった恐怖の方が遥かに大きい。ずっと気づかないふりをしていた。そうじゃない、そんな訳ないと。でも、もう誤魔化せない。
生まれて初めて感じるこのとてつもない恐怖に、息までが苦しくなる。
震えているのが、寒さのせいなのか恐怖からなのか、もう分からない。
私の様子がおかしい事に気づいた先生は、車を路肩に寄せて一時停止した。
「ユイ?大丈夫か?」
声をかけられても答える事ができない。ただ小刻みに呼吸を続けるだけ。
「落ち着け。きちんと呼吸しろ。おい、聞こえてるか?ユイ、返事をしろ」
「どうして……?血が、欲しいなら、私のを、飲めばいい……なんで、キハラをっ!」
お腹の底から、どうにか声を絞り出して訴える。
「俺がいつそんな事を言った?体が冷え過ぎだ。おかしいな、ちゃんと暖房入ってるよな……」
私の肩に手を置いて様子を見ながらも、しきりに車のエアコンを操作する。
暑いくらいの車内で、私はなぜか凍えそうになっている。
そして肩に乗せられた先生の手が、さらに冷たく感じる。
「側にいすぎたせいか。申し訳ない……」
ぽつりと先生が呟いた言葉は、すでに私の耳には入っていなかった。
アパートに着くと、先生は私を抱き上げて部屋まで運んでくれた。
驚く母の声が耳元で響く。
「まあ!どうしたの、ユイ!お友達と出かけたんじゃなかった?」
「向こうでバッタリ会って。家の方向が同じだったので私の車で一緒に。とても疲れているようですので、このまま休ませてください。食事はもう済んでいます」
「済みません、新堂先生。娘がご迷惑をおかけしました」
母が深々と頭を下げる姿が、ぼんやりと目に映る。
「いいえ。お気になさらず。少々体温が下がっていますので、十分に体を温めてあげてください」
そして、何かあれば遠慮なく連絡をと言い残して、先生は帰って行った。
母が湯たんぽを持って来てくれたので、布団の中でそれにしがみ付いて暖を取る。ああ……あったかくて落ち着く。
けれど頭はまだ混乱中のまま。
だって、真っ暗な私の部屋に、まだ新堂先生の姿が見えているんだもの。
幻が見える……。私、ヤバいかも。
「済まない。驚かせたよな」その薄闇に浮かぶシルエットがしゃべった。
「っ!!本物?!何でいるの?!」夢かうつつか分からない中、声を張り上げる。
「しっ……。ミサコさんには内緒でここにいるんだ。すぐに帰る。でもこれだけは伝ておかねば、こちらとしても気が気じゃないんでね」
柔らかな笑顔で私を見下ろし、私の肌に触れないよう気を遣って、髪を撫でてくれる。
「君のナイトに、俺は指一本触れていない。今、彼は婚約者のところにいるよ」
「婚約者の?キハラは生きてるの!」
「もちろん。俺が殺したとでも思ったのか」
「だって…………っ!」
声を上げようとしたところで、先生の長い人差し指が私の口を塞いだ。
「言ったろ?もう長らく人を殺めていないと。まあ彼が人でないなら、話は別だが?」
悪戯好きの少年のような笑みを浮かべて話す彼に、不本意にも魅力を感じてしまう。
「キハラは人間よ!だけど、とっても強いんだから……」くらくらしながら訴える。
「ああ、そうか。さあ、もう眠るんだ。また明日な」
「……また、明日?私に明日が……来るんだ」私は殺されないんだ。
「当たり前だ。明日も明後日も、明々後日も、ずーっと来るよ」先生がウインクする。
催眠術にでも掛けられたようにボーっとなって、いつの間にか眠りについたのだった。
翌朝、私はすっきりした気分で朝を迎えた。もう今までのモヤモヤはない。
昨夜、彼がこの部屋で語った事が夢でないという保障はない。彼がここにいたという証拠も。全部自分の勝手な思い込み(願望)かもしれない。
それでも私は、確信を持って言える。キハラは生きていると。
考えてみれば、私の師匠がそうそう倒されるはずがないもの!どうして今まで、こんな簡単な事に気づかなかったの?