千々に砕かれ、恐怖と絶望の炉にくべられた意識が浮上してきた。
二度と戻らないはずだった。何故意識があるのか。死んだのではなかったか。生きているのか。まさか生き返らされたのか。一体何の為に。何をさせるために。
意識が戻り、最初に感じたのは骨身に凍みる冷たさ。何物をも拒否する硬さ。冷たい石床に転がされていると気が付いた。
顔がどうなっているか気になった。密かな自慢で誇りにしている顔だ。王国の黄金に、けして引けをとらないと自負している。
そう思った瞬間に、どうなったか思い出した。
意識より先に顔を砕かれた。
顔を砕かれて、体を粉々にされて、何もかも砕け散って。
なにもわからなくなった。
きっと、死んでしまった。
体が震えるのは体が冷えたからだけではない。恐怖を思い出した。自分に救いはないと知った絶望が心を縛る。
呼吸は浅く荒く、次いで悍ましい臭いが鼻を突く。
汚臭はほとんど物理的な力となって鼻柱を殴りつけてくる。
こみ上げる悪心に、目を開いてしまった。
自分は汚液の中に倒れていた。
半ば乾きつつある黒い液体は、自分を中心に広がっている。
気付いてはならないことを、直感的に気付いた。
これは、自分が、自分の体から、流れ出たものなのだと。
「ぅ……ゲェ………………」
空っぽの胃からは何も吐き出せない。
苦しくて辛くて、凍えていたことすら忘れてしまって、胃液と僅かな唾液を吐き出した。
吐瀉物は少なかった。
自分の肉体から流れ出た汚液に比べればほんの少し。
汚液は腐敗液。
自分の体から流れ出た腐敗液。
死んでいた自分の体は腐り果て、悍ましい悪臭を放って溶けかけていた。
自らの腐敗液の中で、生き返らされたのだ。
「無事に蘇生できましたね。立たせなさい」
「かしこまりました」
「あぐぅ……」
腕が痛み、視界が広がる。
手を掴まれて立たされたらしい。
何が自分の手を掴んでいるのかはわからない。恐ろしくて確認できない。
それよりももっと恐ろしいモノが目の前にいる。
一見すると細身な男。
肌が浅黒く、耳が尖っている。ここまでならダークエルフの特徴と一緒だが、そんな可愛いものではない。
赤い縞模様の服と、理知的な風貌は。そこに隠れているモノを知っている。
「………………やるだ、ばおと?」
「意識もはっきりしているようですね。連れてきなさい」
「はっ、かしこまりました」
仮面を被っていた。今は外している。だが見違えるわけがない。あの恐ろしい怪物を。あの恐怖を。苦しさを。絶望を。突きつけられた終焉は。私は殺されたのだ。
どうして仮面を外しているのか。
顔を見せ、名を当てられ、平然としているのは何故か。
決まってる。
自分は、もう、ここから、出られない。
連れ回され、見たくないモノを見せられた。
いつしか、頬を涙が濡らし始めた。
始めこそ、自分の民の苦しさを思って涙した。
どうして彼らを、彼女らを助けられないのか。どうしてこんな目に合っているのか。自分の弱さに涙した。
次第に涙の意味が変わっていった。
恐ろしさの余りに呼吸が出来なくなった。
気付いてしまったのだ。
これが、自分が辿る運命なのだと。
自分も同じ目に合うのだと。
「人間にしては中々見栄えがします。折角なので慰み者に使うことにしました」
ここでは、人間は、人間の形をした羊だった。羊のように毛を刈り取られ、皮を剥がれ、腑分けされて解体されて。
自分もその中へ放り込まれる。
涙は止まなかった。
「絶望と恐怖に涙を流せるのは今のうちだけです」
からかうような含み笑いを聞いて、堰が切れた。
「精々身綺麗にしておきなさい。そうすれば扱いが良くなるかも知れませんよ? 私の預かり知らぬことになりますがね」
腐臭を放つドレスを着たまま、声を上げて子供のように泣き出した。
泣いてる間は、地獄に戻らないと信じて。
▼
「それでは行って参ります。あなた達なら心配ないでしょうけど、私とお兄様が戻るまでしっかりとお屋敷を維持するように」
「お任せください、ソリュシャンお嬢様」
メイド教官と多数のメイド見習い達に見送られ、ソリュシャンは馬車に乗り込んだ。
ソリュシャンは、聖王国に出張しているエントマたちの陣中見舞いと諸々を終えて、エ・ランテルに戻ってきた。
戻ってきたらすぐさま帝国へ。
帝国では愛しのお兄様が待っている。
ナザリックでのソリュシャンはプレアデスのソリュシャン・イプシロンであるが、エ・ランテルのソリュシャンは商家のソリュシャンお嬢様であって、お兄様と一緒にいなければならないのだ。
ソリュシャンの願望を多分に含んでいるものの、ソリュシャンがエ・ランテルに来たのは、お兄様は自分の遠縁なので確かな身元があると言うことを内外に示すためなので、お兄様がいないエ・ランテルには滞在する意味がない。よって、ソリュシャンお嬢様はお兄様の元へ向かわなければならない。
誰に恥じることのない完璧で立派な理由である。たとえデミウルゴス様であっても論破出来ないことだろう。
「来てくれて嬉しいけど良かったのかしら?」
「構いません。ソリュシャンお嬢様に専従メイドがいない方がおかしいですから」
受け答えするのは、ソリュシャンの前に馬車に乗り込んでいた黒髪のメイドである。
メイド見習い達とは違って、エプロンに施された美しい刺繍はメイド教官の証。
しかし、今までの彼女はエ・ランテルではなく、ナザリックに詰めていた。
「他の二人はどう?」
「変わりありません。お心遣い、いたみいります」
「そんなにかしこまる必要はないわ。私たちはヘロヘロ様に創造された者同士なのだし」
「……恐縮です。それでは早速」
メイドはもう一人の同乗者へ目を向けた。
「こちらはどなたなのですか?」
馬車の中には、ソリュシャンと、ソリュシャンの専従メイドと、もう一人の人物がいた。見てもわからない。そもそも見えないのだ。
「私も詳しいことは知らされていないわ。デミウルゴス様が仰るには、エ・ランテルから帝国へ向かわせるのが重要なのだとか」
「ナザリックの方なのですよね?」
「それもわからないわ。あなた、喋れるんでしょう?」
「………………」
話題の人物は、水を向けられても口を開かない。
ソリュシャンが知る限り、デミウルゴス様から引き合わされて今に至るまで、一度も喋ったことがない。
姿もわからない。
着用者の装備品を隠す魔法のローブを着ているのだ。フード付きのため、顔も見えない。
フードを被っていても、その奥に目の光があるはずなのだが、こちらもない。フードの奥は真っ暗だ。目が見えない、あるいは目がないのかも知れない。
「食事の世話だけしてやればいいそうよ」
「聞いております。準備はしておきましたが」
用意したのはナザリック特製レーションである。
包装を破ってやり、わざわざ手を取って手渡してやると、緩慢な動作で口へ運んだ。
食事を必要とするのだから、アンデッドではないことはわかったが、それだけだ。
ちなみに手も見えなかった。ローブから伸びた手は、黒い手袋に包まれていた。
異様な同乗者を連れての旅路は、翌日の昼過ぎに終わった。
▼
「お兄様!」
帝都のお屋敷では出迎えがあった。
ソリュシャンは馬車から飛び降りて、真っ先に愛しのお兄様に飛びついた。
随分長く離れていた気がする。
お兄様は以前とお変わりなく、と思っていたのに、期待は良い方に裏切られた。
男のくせして艶やかとしか言いようがない美貌はますます磨きが掛かり、いつもぼけっとしてた顔には穏やかな微笑が浮かんで自分が来たことを喜んでくれている。
飛びつき、抱きしめ、抱きしめられ、耳元で、
「会いたかったよ、ソリュシャン。よく来てくれた」
「ああ……、お兄さまぁ……」
ここまで想われているのだから、これはもうゴールイン待った無し。結婚式は帝都で挙げるべきかしら、とソリュシャンは妄想しているのだが実状は割と違う。
ソリュシャンからの課題図書で学んだ台詞の応用である。こう言っておけばひとまず満足するだろうと、その場しのぎの抱擁と囁きであった。
「ソリュシャンお嬢様共々、よろしくお願いいたします」
ソリュシャンの一歩後ろから頭を下げるメイドを見て片眉を上げ、馬車から荷下ろししている御者を見て頬をひくつかせ、漆黒のローブに身を包む謎人物を見て首を傾げた。
「こちらは?」
「……後でご説明します。まずは荷物を片付けませんと」
エ・ランテルでは有名な我が儘お嬢様の荷物である。
力仕事に率先して取りかかるヴァンパイアブライドがいなければ、お屋敷のメイド総出でもいつ終わりになるとも知れなかった。
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細々とした荷物整理はメイド達に任せ、ソリュシャンたちはお屋敷の三階に移動した。
三階にまで来ることを許されているのは、ナザリックの者達だけである。
ソリュシャンの専従メイドはシクススと連れだって別室へ向かい、馬車の御者は目を丸くしたミラが連れて行った。
ナザリックからの賓客を迎えるよう特別な防諜処置と格別なあつらえの応接間に残ったのは、お屋敷の若旦那様。ソリュシャンとの再会の喜びを早々に切り上げたルプスレギナ。ソリュシャンお嬢様なのでお嬢様ルックのソリュシャン。
そして、ソリュシャンがデミウルゴスの命令で連れてきた謎人物である。背格好はナーベラルに近いが、声も容姿もわからないため、性別に種族すら不明だ。
「デミウルゴス様の指示によって連れて参りました。私も詳しいことは聞かされておりません」
「うーん」
「ちゃっちゃと脱がしちゃえばいいんじゃないっすかね?」
「駄目よ。デミウルゴス様がいらっしゃるまではそのままにしておくようにと仰せだったわ」
応接間に集ってソリュシャンが連絡を入れると、間もなくしてデミウルゴスがやってきた。
これでもかと予定が詰まっているデミウルゴスである。時間を無駄にすることがないし、無駄にさせることもない。
三者は跪いて賓客を迎えたのだが、ローブの人物は立ち尽くしたまま。
階層守護者であるデミウルゴス様になんたる非礼とソリュシャンとルプスレギナは視線を鋭くするが、デミウルゴスは笑って許した。
「目も耳も封じてあります。何を言っても聞こえません。見えません」
馬車の乗り降りも、この部屋まで歩いてくるのも、メイドが手を引いていた。
「喋るなとも命じておきました。ここに来るまで何か話したのを聞きましたか?」
「いいえ、その者は一言も口を利きませんでした」
「結構」
デミウルゴスは、ローブの人物の腕を取り、跪く男の前に引き立てた。
カチカチと、硬質なものがぶつかる音がする。
ローブから覗く黒い手袋が小さく震えている。
感情の機微がいまだによくわからない男でも、目の前に立った人物は脅えきっているのではと察しがついた。
唇の端を歪めたデミウルゴスを、男は楽しそうだなと思っただけだったが、もしもアルベドが見たら僅かばかりの謝意を感じ取ったかも知れない。
「貴男のレポートは中々の出来で楽しませてもらいました。これはそのご褒美です」
「おお、ありがとうございます!」
半分はご褒美。もう半分は自分のせいで左遷されてしまったことへのお詫びである。
人間にしては出来ているこの男を、デミウルゴスなりに買っているのだ。ナザリックではアルベドとパンドラズ・アクターとしか出来ない知的な会話が出来るのも重畳。
わざわざご機嫌とりをする謂われはないし、そもそもそんなことに時間を割けるデミウルゴスではないのだが、この後はナザリックに向かってアインズ様と今後の打ち合わせをする予定である。そのついでである。
「アルベドの相談役として正規に取り上げられたそうですね。そちらの御祝いを兼ねています」
「重ね重ね、私めにありがとうございます」
男が深々と頭を下げる一方、ソリュシャンとルプスレギナは嫌な予感がした。
「開けてもよろしいでしょうか?」
「勿論です」
装備品を見えなくする魔法のローブは、襟を留める飾り紐を解くことによって効果を解除することが出来る。
デミウルゴス様のお許しを得て立ち上がり、飾り紐を引っ張った。
フードの奥へも光が届き、輪郭が現れる。
ほっそりとした顔立ちは、女のものではないかと思われた。
「へえ……。失礼しました!」
「構いませんよ。驚いてもらえると私も用意した甲斐がありました」
「恐れ多いお言葉です」
フードを上げると、女はピクリと震えた。
艶のある長い金髪が一番に目に付いた。
顎は細く、形がよい。固く閉じられた唇からは血の気が引いて紫がかっている。頬も同様で蒼白だ。しかし、顔立ち自体はとても整っていると思われた。
断言できないのは目元を隠されているから。血染めの赤い布が目を覆い隠している。
視線でデミウルゴスに問うと頷かれたので、結び目を解いて布を外してやった。
ゆっくりと目が開かれる。
瞳の色は新緑。
開かれ切った目は、しっとりと潤みだし輝きだした。
蒼白だった肌には血の気が戻り、頬は薔薇色に染まる。
唇も赤みを取り戻して、薄く開かれた。
あぁ、と小さな、熱い息を吐いた。
ソリュシャンとルプスレギナは、女が一目惚れする瞬間を目撃した。
実を言えば、日常茶飯事とまではいかないものの珍しいことではない。
中身は兎も角として、見た目はとても良い男だ。それこそ美の神が自身の恋人として創造したと言われたら信じてしまいそうになる。
どこで覚えたものか、所作や立ち居振る舞いに品があり、歩く姿すら優美である。
エ・ランテルでは魔導国中枢と人間たちとの架け橋となる要人。帝国では実質的な支配国である魔導国から来た学士、学士と言うよりは公使として扱われている。どちらでも高い身分にあるのに、威圧的なところが全くない穏やかな人物。
これで好感を抱かれないわけがない。
屋敷のメイドたちは、街を歩いて彼の男を目撃した女たちは。
直近では、屋敷に招いた魔法学園の女生徒がそうなった。魔法学園のことなら何でも聞いてください、と三度。魔法学園にいらしたら是非ご案内いたします、と五度。女生徒が連れてきた男子生徒が血の涙を流しそうになっていた。
そのようなことがある度にソリュシャンやルプスレギナは、内心で大きな優越感を味わったものである。
お兄様があなたたちと釣り合うと思って、とせせら笑いながら。
しかし、今、目の前にいる女。
ソリュシャンもルプスレギナも知らないことであるが、異名をローブルの至宝。ローブル聖王国では、彼女の美貌を知らぬ者はない。
文字通り人外の美を誇るプレアデスに匹敵しうる、妬心を堪えて正確に評価すれば、自分達と比べても遜色ない。
プレアデスの姉妹から見ても美しいと思える女が、自分たちの男に一目惚れしていた。
デミウルゴス様がいらっしゃらなければ舌打ちの一つや二つをして、悪態をついたかも知れない。
それどころでは済まないことを、二人はまだ知らなかった。
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ところで、デミウルゴスは智者である。論理というものをわかっている。
ゆえに、無知が罪であることをよくよく知っていた。
シャルティアあたりなら「知らなかったんだから仕方ないでありんしょう?」とのたまうだろう。
例えば、不味い食事をアインズと言う土地から来た者がエ・ランテルを訪れて「昨日のアインズは最悪だったな」なんて言おうものなら死んでも済まない。
ありとあらゆる苦痛を長きにわたって味わう羽目になる。
シャルティアとて「知らなかったで済むか!!」と激怒するのは間違いない。
無知とは、罪なのだ。知らない方が悪い。
この場この時、デミウルゴスは罪を犯した。
▼
「ローブル聖王国の元聖王、カルカ・ベサーレスです。わかっているでしょうが、名を広めてはいけません」
目と耳が開いて、デミウルゴスの声が聞こえているはずだが、カルカは男を見つめたまま。
恋に恋する乙女が幸せな夢を見ているような顔で、潤んだ瞳は男の顔から外れない。
「人間の女ですが、これならあなたに釣り合います」
ソリュシャンとルプスレギナの中で、予感であった嫌なモノが形となって現れた。
「対外的にあなたの妻にするといいでしょう」
跪く二人から、殺意が溢れた。
デミウルゴスは、おやと薄目を開いて宝石の瞳を見せた。
カルカは、半歩進んで男にすり寄った。
「私の……旦那様…………♡」
跪く二人から、ピキピキとかブチブチとか、異音が鳴り出した。
平行していろんな事が進みすぎてる気がします
でもきっとたぶんどうにかなるんだろうと信じてます
でもどうにかってどういうことなんだ!
そろそろ帝国のチョロインをどうにかしないと
でもどうにかって(ry