男がいる書斎の扉を開けたとき、アインズは感情抑制が発動しかねないほどの動揺に襲われた。
発動しなかったのが災いして体が小刻みにわなわなと震え始めた。
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その前日、お屋敷の若旦那様はソリュシャンお嬢様と一緒にエ・ランテルの街に繰り出しました。お屋敷の食事はとっても美味しいけれど気分転換にお昼を食べに出掛けたのです。
一悶着ありましたが、エ・ランテルで一等高級な宿屋「黄金の輝き亭」でのランチは一流のコックを擁すると言うだけあって急激に舌が肥えつつある若旦那様も大変満足なさいました。帰り道に「紫の秘薬館」なる店ではどのような秘薬を売っているのかと興味をそそられ、ソリュシャンお嬢様から肘打ちを受けて悶絶したのは当然の報いです。ちなみに若返りの秘薬を売っています。別名を「春」と呼びます。
楽しい一時を過ごしてきました。ところが帰宅するとアルベド様が先ほどまでいらしていたとメイドから告げられました。まだ昼日中、かつてなかったことです。これには大いに悔やみました。
お兄様があんなちびっ子仮面を構うからですとソリュシャンお嬢様は辛辣です。
幸運なことに明日訪れるから必ず在宅でいるようにとの言付けがありました。全裸待機です。それなら今夜は問題なしねとソリュシャンお嬢様は摘まみ食い決行。予定がわかっていると助かります。明日は出来ないのですからその分多めに。
他方、ナザリックが誇る知謀の悪魔デミウルゴス様はナザリック第10階層の最古図書館で思案していました。彼の男の教育方針についてです。アインズ様のお役に立てるため高度な教育を施す許可は既にアインズ様から得ています。
教育を施すことは決まったのですが現地の書物はとてもレベルが低いのです。そのため最古図書館から適切な書物を選び与えて自主学習させようと思ったのですが、書物に用いられているのは全て神聖文字です。彼は読み書き出来ません。直々に教える暇はありません。現在のデミウルゴス様は魔王ロールの真っ最中で、こうして書物を選ぶ時間さえ惜しい身の上です。
ソリュシャンに任せますか、と思ったところで珍しくシャルティア様が最古図書館に遊びに来ました。現在のシャルティア様はいつぞやの失態が尾を引いてちょっと暇なのです。
軽く近況を話し合ったところ、シャルティア様が文字習得の先生役に強く立候補しました。デミウルゴス様はシャルティア様の心境がとてもよくわかってしまいました。
シャルティア様はちょっとあれなのです。ご本人もちょっとそんな自覚があります。そのため知的なお仕事に強い憧れを持っているのです。
読み書きを教えるくらいシャルティアでも問題ないでしょうとデミウルゴス様はゴーサインを出してしまいました。
そして我らが偉大なるアインズ様は、魔導王と漆黒の英雄の一人二役で忙しい毎日を送っています。影武者がいい仕事をしていますが忙しいものは忙しいのです。最近はずっと魔導王で、たまには冒険者のモモンになって骨休めしたいなあと思いました。骨だから骨休めなのではなく、骨休めという言葉があるのです。
いつだったかナーベラルの矯正を任せた男がデミウルゴスが感心するほど頭がよいと聞き、ちょっぴりびびりました。帝国の皇帝ジルクニフも優秀な頭脳を持っており、この世界はイケメンほど頭がいいのかと思ったものです。それはそれとして話していて気疲れしない相手なのは確かです。過度な忠誠心もなく、同性の気安さもあり、出来れば時々一緒にお茶でもして茶飲み話につきあって欲しいと思うくらいです。
そうして久々モモンとなり定宿としている黄金の輝き亭に戻ると、昼に彼の男とソリュシャンがお昼に来ていたと宿の雇人から聞きました。
これも何かの縁と思い、翌日の夕刻に訪れてみることに決めました。パートナーのナーベに伝えると心持ち嬉しそうです。姉妹のソリュシャンと会えるのが嬉しいのかも知れません。
アポイントメントはどうしようかとちょっと考えましたが面倒だからまあいいやとサプライズで行くことにしました。
様々な意図がもつれた糸のように絡まりつつ迎えた翌日の夕刻。モモンはナーベを伴いエ・ランテルでアインズ様の居館に次ぐ大きさを誇るお屋敷へ足を運んだ。その様子をこっそり見ていたちびっ子仮面が絶望に膝を折って動けなくなったのは今は全く関係ない。
空には夕日の残光。
夜通し語り合うのはあちらの体力やこちらの都合で難しいが、前回訪問時以上の時間がとれるのは間違いない。屋敷にこもっている男が喜ぶであろう土産話もいっぱいある。意気揚々と屋敷の門を潜った。出迎えはきちんとあったが何だか慌ただしい。怪訝に思っていると、現地で雇ったメイドではなくナザリックの一般メイドが些か慌てた様子で現れた。どうにも顔色が悪い。何かあったのかと尋ねても口ごもる。
今のアインズは金属鎧フル装備の漆黒の英雄モモンであるため、モモンには話しがたいことなのかも知れない。
とりあえず屋敷のお嬢様と若旦那様に挨拶したいと告げればメイドの緊張はいや増して、他のメイド達を遠ざけて自ら案内を買ってでた。
案内されたのは若旦那様の書斎。
こちらですと告げるも扉を開こうとしない。ナーベがモモン様のお手を煩わせるのかと視線をきつくするがメイドは顔を白くして固まるばかり。
扉の前に立っても不自然なほど物音が聞こえてこない。立派なお屋敷にふさわしく重厚な扉であるが不自然すぎる。まるで魔法で音を消しているような。
メイドの緊張。
不自然な現状。
アインズの警戒を駆り立てるのに十分すぎた。
「何かが起こっているのかも知れない。ナーベラル、警戒せよ」
「はっ」
現地で雇ったメイドが周囲にいないことを確認し、魔法で創った金属鎧を解除。
魔導王であり偉大なる死の支配者アインズ・ウール・ゴウンの姿となってアインズは書斎の扉を開いた。
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「この子は私のなんだから離しなさい!」
「これからわたしと勉強するんでありんす!」
「そんなの私が教えるわよ!」
「守護者統括様は忙しいでありんしょう!」
「ともかくこれから私はご飯なの!」
「夜は吸血鬼の時間でありんす!」
(……………………うわあ)
アルベドとシャルティアが綱引きをしていた。綱は男の腕である。顔面蒼白で目はうつろ。引かれる度にがっくんがっくんと首が揺れる。部屋の隅ではソリュシャンがプルプルしていた。
デミウルゴスから言われたでありんす!、余計なことをしてくれて!、さっさと離して帰りなんし!、帰るのはそっちでしょう!?、わたしが先に来たでありんす!、私は昨日から来るって言ってたわ!、そんなの知るか色ぼけババア!、なんですってこの偽乳小娘!、あ゛?、あ゛あ゛?、吐いた唾飲めんぞこの大口ゴリラ!!、んだとこのヤツメウナギ!!
(美女と美少女から取り合いされてるのに全く羨ましくないな。もしも俺が人間のままだったらあんな風に取り合いされてたのか? ヤバいな死ぬわこれ。モテる男が辛いってのはほんとだったんだな。食欲的な意味だけど。ってかそろそろ不味いぞ。あいつの腕がプチプチ言ってるし肩とか肘とか思い切り伸びてるな。お前らいい加減俺が来たことに気づけ!)
「オッホン!」
「「アインズ様!?」」
腕を引きながら同時に振り向く二人。
ブツンと鳴って倒れる男。舞う血飛沫。アルベドとシャルティアへ降り注ぐ。そして発動する血の狂乱。ちいいいぃいいおいしいいいいぃいい!
「うおおお!? アルベド取り押さえろ! ナーベラルは援護! ソリュシャンはそいつを回収すぐに回復させろ!」
この世界において異端とも呼べる100レベル三人ぷらすアルファによる乱闘。前もってシャルティアが静寂の魔道具を使用していなければエ・ランテル中に鳴り響いていたことでしょう。
狂乱したシャルティアが狙ったのはあくまでも男の血でありアインズ様へ引く弓はなし。アルベドが優秀な前衛であることもあって、お屋敷が崩壊することもなくシャルティアの沈静化に成功。
但し若旦那様の書斎はえらいことになりました。
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何とか平穏が戻った書斎では、アインズの前にアルベドとシャルティアがひれ伏していた。
「アルベドよ、うまい食事を楽しみたいのはよくわかる。私は食事をとれないが食事の大切さはわかっているつもりだからな。しかし幾ら美味しいからと言って食べすぎはよくない。ご馳走は偶にだからこそ価値があるんだ。これからは週に一度に抑えるように」
「……はい、かしこまりました」
一週間どころかもう一週間以上食べてないのにいいぃ!、でもアインズ様のお言葉を違えるわけにいかない……。アインズ様は私の健康を思ってお言葉を掛けてくださっている。ああ、アインズ様アインズ様、なんとお優しいお方、愛しいお方。それに比べて意地汚いこの偽乳小娘は!
「シャルティア、デミウルゴスから報告を受けている。あの者に日本語の読み書きを教えるそうだな。お前が自分に出来ることを率先してやろうという姿勢はとても尊いものだ。しかし無理強いはよくないぞ。嫌々やらせるより伸び伸びと学ばせた方が成果が高いとやまいこさんも言っていたからな」
「あ゛い゛…………、ぼうじわ゛けごじゃい゛う゛ぁぜん…………」
何言ってるか全然わかんない……。すっごく泣いてるから反省してるのはわかるんだが、そんなに教師役がやりたかったのかな?、あーシャルティアだからなあ、皆からおバカ扱いされてたの割と気にしてたのかも。俺もそんなこと思っちゃったことあるし。
「コホン、ひとまず勉強は明日からにして、今日みたいなことになると困るから必ずソリュシャンに付き添ってもらうように」
「あ゛い……」
「それでは今夜はここまで。私は折角だからエ・ランテルの館で執務に戻る」
男との会話は諦めざるを得なかった。ソリュシャンから無事に回復したと報告があったがめっちゃ気まずい。自分のせいでというか自分の部下のせいで半死半生の目に合わせてしまったのだ。さすがに顔を合わせ辛い。ほとぼりが冷めるというのも変な言い方だが、茶飲み話はしばらく我慢するしかない。
「アインズ様、私はどういたしましょうか?」
「ナーベラルか。黄金の輝き亭に戻ってもいいが、一人で戻るのも不自然だな。明日になったら迎えに来るから今夜はここに泊まるといい」
「はっ、かしこまりました」
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客室に案内され冒険者姿を解いたナーベラルは、男の寝室の前で固まっては行ったり来たりを繰り返していた。
扉を叩くべきか否か。
今夜一晩世話になる、先ほどの怪我は大丈夫か、前回会ったときから今日までの間に何か変わったことはなかったか。
どう言う名目で扉を叩くのがよいのか。それとも叩くべきではなく客室に戻るべきか。大体ソリュシャンはどこにいる。折角会いに来たのに顔も見せないなんて。
扉を叩こうと持ち上がった腕はその度に下ろされて、逡巡に眉間のしわが深くなっていく。
「あら? 何してるのかしら?」
「ソリュシャン!」
内側から扉が開き、出てきたのは探し人。否、探しスライム。
わざとらしく目を瞬かせたソリュシャンは、ナーベラルの姿をふーんと上から下まで下から上まで。
なるほどなるほどとしたり顔。
「心配しなくてもお兄様のお体は何の問題もないわ。今はお目覚めになってぼんやりしているところよ。で、ナーベラルは何しに来たの?」
「何しにって……別に……なんでもないわ」
「あらそうなの? アルベド様とシャルティア様はお帰りになって、アインズ様は知っての通り執務に戻られたわ。私はもう少しお兄様と一緒にいたかったのだけど、あんなことがあったばかりだから今夜はお一人で休んでもらおうと思ったところよ」
「……そう」
「今はお兄様はお一人よ」
「…………だから何?」
「お体には何の問題もないわ。アインズ様がくださったポーションのおかげでむしろ調子がいいみたい」
「………………」
「私はもう部屋に戻るわ」
「……おやすみなさい」
去り際に、ソリュシャンはナーベラルへそっと耳打ちした。
お楽しみに。
意味が浸透すると同時にナーベラルはうなじまで赤く染め、何かはわからないが何かを言ってやろうと振り返ったが、既にソリュシャンの背中は遠くになっていた。
数度深呼吸して、ナーベラルはドアをノックした。
どうぞと聞こえ、ドアを開いた。
中に入った。
ソリュシャンはご機嫌である。
アルベド様のお食事が週に一度と決められたのだ。
食事と食事の間の一週間はフリーダム万歳!
超勝ち組が持てる余裕でもって、愛しい姉妹へ一晩譲ることに何の躊躇いもなかった。
シャルティアがなんか濃かったので甘めにいこうかと