※この作品はR-18です。

アルベドのお食事   作:dolph

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G-Shock

 インクの染みは強敵であった。

 不幸な事にペン回しに使ったペンはナザリック製だったのだ。書いた字に水が掛かっても滲まない。インクが乗りにくい羊皮紙にもしっかり定着する。つまりはインク汚れがとっても落ちにくい。

 折悪しく馬車には掃除道具を積んでなかった。

 いっそ帝都に戻った方が早かったろうが、馬車を汚しちゃったので帰ってきましたなんて馬鹿そのもの。

 馬鹿扱いされても構わない男が一人。断固拒否する女が三人。中立の女が一人。多数決により、とても頑張って汚れを落とすことになった。

 一番頑張らされたのは元凶のルプスレギナである。

 

 ルプスレギナが染み抜きを頑張ってる間にソリュシャンは見せつけるようにして愛しのお兄様と睦み合う。ソリュシャンが満足したらシェーダにミラも。

 ルプスレギナが切れそうになりながらも頑張った甲斐あって、インクの染みは綺麗に消えた。ルプスレギナはルプスレギナであってもプレアデスの次女。メイドとしてのお仕事は一流なのだ。

 

 どうせ到着が一日遅れるのだからと、明くる日の出発は昼も過ぎてからになった。

 一同が馬車に乗り込み、ミラが御者台に上る。順調に出発したかに見えたが、やはり一流のメイドでもあるソリュシャンの目が光った。

 

「ルプー、ここにまだ残ってるわよ」

「えぇー……」

 

 洗剤がなかったため、熱湯を使ったり匂いの薄い香油を使ったりと色々工夫して染み抜きしたのにソファの陰に小さな黒点が残っていた。

 

「仕方ないわね」

 

 ソリュシャンが人差し指で黒点に触れる。三秒後、インクの染みは綺麗になくなっていた。何でも溶かしちゃうスライムスキルによってインクの成分だけを溶解したのだ。

 ルプスレギナは大きく目を見開いて、ソリュシャンの顔と、昨日とっても頑張って染み抜きをした馬車の天井と床と壁とソファと山と積まれたチェストを見た。

 

「ソーちゃぁぁぁぁあああぁぁぁああああん!!」

 

 ルプスレギナの慟哭はまったくもって筋が通っている。

 ソリュシャンは姉の苦難にすら愉悦する悪い女だった。

 

『ルプーが頑張ったのは俺がよく見ていたよ。ルプーは偉い。ルプーがいるからこそ俺たちは綺麗な馬車で快適な旅が出来るんだ。ルプー、ありがとう。さすがルプーだ。ソリュシャンはルプーを口実にして休みたかったんだ。やり方は良くなかったけどルプーに感謝してるよ。だから今度はルプーの番だ。エ・ランテルに着くまでまだ一晩はあるから、ゆっくり休んでくれ。もちろん俺に出来ることなら何でも言ってくれていい』

 

 ルプスレギナはおにーさんにたくさん機嫌をとってもらって、昨日の復讐をするかのようにソリュシャンの隣でいちゃいちゃべたべた。

 到着を一日遅らせた事により、時間には相当の余裕がある。

 結局はソリュシャンもシェーダも混じって、一番回数を多くしてもらえたルプスレギナは満足したようである。

 その間、ひたすら馬車を走らせていたミラは、夜半に御者台に上がってきたご主人様から可愛がられた。

 

 

 

 

 

 

 一同が久し振りに見るエ・ランテルの町並みは以前にも増して活気があった。住人たちが警邏のデスナイトや自分たちとは違う異種族に慣れたのもあるだろうが、単純に道行く人の数が多い。よく晴れているのでたまたま人の出が多い、と言うわけではないだろう。エ・ランテルの住人が増えていると思われる。

 

 魔導国の領地で人間が住むのは、エ・ランテルの他にカルネ村がある。カルネ村の住人がエ・ランテルを訪問することはよくあるだろうが、定住はない。現在、猛烈な勢いで発展開発中のカルネ村だ。人を出すどころか積極的に引き入れるべきである。

 となると、外から人が流入したことになる。王国の冒険者にエ・ランテルでの滞在を許すくらいなのだから、人の移動にはとても寛容なのだ。さすがのアインズ様である。

 エ・ランテルがそろそろ亡国になりそうな王国の一都市から魔導国の首都になった時、相当の人間が逃げ出したようである。お骨が怖い、と言うわけだ。今やエ・ランテルの活気は周囲に知れ渡り、同時にアインズ様の慈悲深さも理解され、逃げ出した者達が戻ってきているのだろう。

 エ・ランテルは王国と帝国との境目にあるため、近隣の帝国領から人が入っている可能性もある。

 それ以外に考えられるのは、王国からの移民。豊かな生活が欲しいのは人の常。エ・ランテルの噂を耳にすれば苦しい現在を捨て新たな生活を夢見てもおかしくない。尤も、王国における農民以下の者達に移動の自由はないので残すのも残されるのも非情に苦しい道を余儀なくされるのは確実だろう。

 

 そんな事を考えながら、男が一番注視しているのはパン屋である。

 果たして、ウィットニーさんのパン屋さんは、閉まっていた。冒険者稼業に戻ってしまったと言う風の噂は本当だったのか。それともたまたま閉まっているだけなのか。

 お屋敷に着いて諸々を終えたら早速訪問することを心に刻み、六頭立ての立派な馬車が大きなお屋敷に立派な門を通り抜けた。

 

 馬車が屋敷の前に止まると、両開きの扉が開いて次から次へとメイドたちを吐き出す。メイドたちは二重三重に整列し、正面に立つのは繊細な刺繍をエプロンに施した見目麗しい二人のメイド。ナザリックから派遣されたメイド教官である。

 エ・ランテルのお屋敷はアルベド様のお食事処であると同時にメイド研修所でもあるのだ。

 

「お戻りを一日千秋の思いでお待ちしておりました」

 

 馬車から降りた一同へ、メイド教官の口上に合わせてメイドたちが恭しく頭を下げる。教育の成果は上々であるようだ。

 

「……がお待ちになっております」

 

 メイド教官の一人がソリュシャンお嬢様にした耳打ちを、若旦那様はちゃんと聞き逃した。興味がないことは耳に入らないようになっている。

 

「荷物は任せましょう。お兄様、ご紹介したい者がおります。書斎に通してあるそうですのでまずはそちらへ」

 

 ソリュシャンお嬢様の先導で若旦那様が姿を消してから、メイドたちが起動するまでたっぷり百秒が経過した。何とか動き出しても頬を染めて隣の者たちと囁きあう。

 若旦那様が帝都に左遷されて以降に研修を始めたメイドも多い。初めて見る美貌はほとんど物理的な力となって彼女たちの体を弛緩させてしまっている。

 

「荷物を運び終えたら歓迎パーティーの準備をすると言っていたでしょう! それともあなた達は若旦那様とお嬢様を歓迎したくないのかしら?」

 

 メイド教官が檄を飛ばす。

 メイドたちは慌てて動き出した。

 

 

 

 

 

 

 久し振りの書斎は最後に見たのと変わらない。アインズ様が設計して加護の魔法まで掛けてくれたのだから、何があろうと崩壊することはない、はずである。

 そこに、男が初めて見る姿があった。

 

「おっそーい! 昨日来るって言ってたから昨日から待ってたのにぃ!」

「おおー、久し振りじゃないっすかーっ!」

「ルプーひさしぶりぃ。ソリュシャンは冬の前に会ったよねぇ」

「もうそんなに経ったかしら? なんだかあっという間だった気がするわ」

「あの時はお土産ありがとー! ねぇねぇ、それがそうなんだよね?」

 

 小柄な人物は少女だった。挨拶もそこそこにソリュシャンとルプスレギナと盛り上がっている。

 傾世の美女である二人の隣に立っても見劣りしない美しい少女だ。ピンクブロンドの髪をシニョンにまとめ、ぱっちりとした大きな目が印象に残る。

 彼女は二人の陰からちらと男を伺う。ソリュシャンが体をずらして男の姿を隠し、微笑を湛えた美顔に険を走らせた。

 

「それなんて言っちゃ駄目。お兄様はアルベド様の相談役を仰せつかってるのよ」

「あー見えて結構偉くなっちゃったんすよね」

「そーなんだぁ。ごめんね?」

「構いませんよ。三人で話したいことがあるみたいだけど、先に紹介してもらえるかな?」

「はーい! えぇっと、コホン! お初に御目文字いたします。戦闘メイド「プレアデス」の一を拝命しておりますエントマ・ヴァシリッサ・ゼータと申します。この度、アルベド様の相談役殿にお目見えしようと思いまして、アインズ様のお許しを得てエ・ランテルを訪問いたしました」

 

 甘ったるい話し方から一転、エントマは丁寧な口調で一礼した。

 プレアデスの一人なのだからエントマの衣装もメイド服なのだろうが、他のメイドたちのメイド服とは雰囲気がだいぶ違う。袖が大きく膨らんで手を見せない反面、スカート部は前面が膝までで細い足を覗かせる。

 左手は荷物を持っているので、右手だけでスカートを摘み少しだけ膝を折る。ナザリックのメイドに相応しい綺麗な所作だった。

 

「丁重なご挨拶、痛み入ります。私はアルベド様から給仕係と相談役を仰せつかっております。以降、お見知りおきを。エントマさんと呼んでも構いませんか?」

「いいよぉ」

 

 エントマの声には喜色が滲んでいる。ソリュシャンたちと話している時も楽しそうな声だった。

 代わりに、表情が全く変わらない。男が見る限り瞬きすらしていない。仮面だろうかとあたりをつける。仮面だろうと素顔だろうと大したことではない。にこやかに右手を差し出した。

 

「うっ! いい匂いするぅ…………」

 

 右手を差し出されたエントマは、一歩引いた。

 左手に持ってる大きな袋に右手を突っ込み、自身の顎へ何度か運んだ。

 大きな袋である。底の方だけ膨らんでいるようなことはなく、中には何かしらが開口部あたりまでみっちり詰まっているらしい。

 

 ソリュシャンとルプスレギナは異口同音にうっと呻いて一歩引いた。

 ソリュシャンの専従メイドとして同行しているシェーダは青い顔で壁を見つめる。ご主人様の荷物を運んできたミラは次の命令を待っている。

 

「それじゃ、ちょっとだけぇ……」

 

 エントマは男が差し出した手に、言葉通りにちょっとだけ触れて引っ込めてしまった。握手と言うよりタッチである。

 エントマは男の手が触れた自分の手をじっと見る。またも左手の袋に右手を突っ込んで顎に運んだ。

 ソリュシャンとルプスレギナはうぅっと呻いて二歩引いた。

 

「エンちゃあん………。なんで、もってきちゃったんすかぁ……」

「絶対に袋の口を開けないで絶対よ振りじゃないから絶対に開けないで」

「二人ともどうしてそんなにいやがるのぉ? 美味しいのにぃ」

「美味しいものなんですか?」

 

 バカが引っ掛かってしまった!

 

 男はジャケットの内ポケットから取り出した狩り場直行君の片割れを机の上に設置して、三人の会話を耳ざとく聞き止めた。

 男の言葉に、ソリュシャンとルプスレギナが弾かれたように振り向く。二人は全力で首を左右に振った。真剣さが伝わるように男が見たこともないほどの真顔をしている。しかし、二人の必死は届かない。受け取り側が壊れている。

 

「美味しいよぉ? なぁに、気になるのぉ?」

「はい、とっても」

「そっかぁ」

 

 表情こそ変わらないものの、エントマの声は感情豊かだ。

 自分の言葉を肯定されて、けども嬉しいと言うよりどこかしら面白がるような響きがある。

 

「それじゃあ、一つだけわけてあげるねぇ」

「ひっ……」

 

 小さな悲鳴は誰のものか。

 エントマが袋に右手を突っ込んで、中の物を取り出した。

 

 大きさは親指大。上から見れば楕円に近く、厚さは薄くて扁平な形をしている。

 全体的に茶黒い光を放っている。

 表が特にツヤツヤとして、裏は幾つもの節目がある。その裏から六本の細長い棒が中央部から突き出し、棒は中程で折れ曲がっている。棒はそれぞれ忙しなく宙を掻いている。

 前と後ろがある。

 表の後方は真ん中で二つに別れている殻で覆われている。

 前からは裏面から突き出る棒より細くて短い棒が二本突き出している。こちらも止まることなく前後左右に動いている。

 

「げ……」

 

 これにはさすがに男も呻いた。エントマが取り出したのは、生きてる昆虫だったのだ。

 

「エントマさんはこれを食べてたんですか? 衛生面は大丈夫なんですか?」

 

 長く不自由な生活を送ってきた経験から、衛生面は特に気にする男である。不衛生から病が発生すると知っているし、匂いだって気になる。

 そこかよ! とソリュシャンとルプスレギナは突っ込みたかったのだが、二人は手を握り合って三歩引いていた。

 シェーダとミラは最初から壁際に退避済みだ。

 

「それは大丈夫! エ・ランテルに行くって言ったら恐怖公がいっぱい召喚してくれたのぉ」

 

 ソリュシャン以上に人肉が大好きなエントマである。そんなエントマが人間がたくさんいるエ・ランテルに来てしまうと不慮の事態が起こりかねない。

 だけどもお腹いっぱいだったら我慢できる。

 エントマをお腹いっぱいにさせておくべく、恐怖公が泣く泣く眷族を提供したのである。

 

「どうしても不衛生な印象があったのですが、それなら問題なさそうですね」

「ないよぉ。どうぞ召し上がれ♪」

 

 エントマの手から男の手に移る。

 茶黒い昆虫は頻りに六本の足を振るが所詮は小さな虫である。人間の力に抗えるわけがない。

 

 ソリュシャンとルプスレギナが両手で口を押さえて血の気の失せた顔で見守る中、男は顔を上向かせた。

 昆虫を受け取った右手を顔の上に掲げ、口を大きく開いて手を離した。

 

「あ」

 

 男の間の抜けた声が響いた。

 

 

 

 彼女は召喚されたばかりの召喚虫である。

 名前はまだない。つく予定もない。自我も薄い。確たる意思もない。

 彼女を支えるのは召喚時に刻まれた本能だけ。

 その中で最も根源的なもの。すなわち生の渇望。

 生きよと言う大いなる声が、彼女を突き動かした。

 それは死からの逃避、生への飛翔である。

 

 大抵の昆虫は飛ぶための翅を持っているのだ。

 

 

 

 コックローチ フライ。

 

 

 

「「「「キャーーーーーーーーーーーーーっ!!」」」」

 

 男とエントマ以外の全員が叫んだ。

 

「よっと」

 

 エントマが危うげなく飛んできた昆虫を捕まえた。

 彼女の逃避行は一秒の半分も満たない内に終了してしまった。

 

「飛ぶんだからちゃんと口に入れないとダメェ」

「そうみたいですね」

 

 男は苦笑して誤魔化しながら、再度エントマから昆虫を受け取る。

 そこからどうなったか、女たちは固く目を瞑って壁を向いていたのでわからない。

 おそらくは十数秒が経過して、男のうめき声が耳に届いた。

 

「お兄様! すぐに吐き出してください!」

「すぐに回復魔法掛けるっす!」

「うぅ……」

 

 駆け寄ってきた二人を手で制し、男は二度三度咳き込んだ。喉を鳴らし、口の中に指を突っ込む。

 唾液に濡れた指が摘んだのは、茶黒くて細長い棒だった。

 

「喉に足が引っ掛かった」

「ひいいいぃいぃいっぃいいっ!!」

 

 ルプスレギナが奇声を叫びながら全力で壁際に飛び退く。

 ソリュシャンはその場で尻もちを着いてしまった。青ざめたシェーダが何とか立ち上がらせ、ルプスレギナの隣にまで退避する。

 

「ホントに食べたぁ! どう? 美味しかったぁ?」

 

 エントマの嬉しそうな声は男が本当に何かを食べたらしいと言っているようだが、ソリュシャン以下はその場を見ていない。見ていないから不定である。食べたのか食べてないのかは確率の霧に包まれて定かではない。

 むしろ食べていない可能性が高い。見ていないということは存在していないも同然なのだからきっと食べていないに違いない。口から出てきた棒状の何かは転移トラップか手品だ。器用な男なのだからそれくらい軽いはず。

 

「うーん、評価が難しいですね。中身は濃厚だったので悪くはないと思いますが味付けが何もしてなかったですから。それと体皮が硬くて食べにくいです」

「えー? それって顎が弱いだけだよぉ!」

「顎じゃなくて歯の形です。人の歯は噛み切るよりすり潰すのに適した形をしてるんです」

「そーなのぉ?」

「そうなんですよ。ほら。体皮も硬いと言うより噛み切りにくいって言ったほうが正確ですね。油でカラッと揚げたら食べやすくなるはずです。そこに塩でも振ったらもっと美味しくなると思いますよ?」

「でも火を通しちゃうより生のほうがいいよぉ」

「油温を上げて短時間なら中は生のままです。表面だけカリカリ。美味しそうと思いませんか?」

「屋敷の調理器具では絶対にしないでください!!」

 

 シェーダが裏返った声で叫ぶ。

 昆虫食はわからないでもないがどうしてそれを選ぶのか。

 恐怖公がいっぱい召喚してくれるからだとの答えがあるが、そんな事はシェーダの知ったことではなかった。

 

「そう言われるとぉ、ちょっと試してみたいかも?」

「その袋に入っているんですね? 使わない鍋の一つや二つはあるでしょうから早速試してみませんか?」

「いっぱいあるからいいよぉ!」

「動きが速い虫だから苦手な人もいます。だけど動かなくなれば試してみようって人がいるかも知れませんね」

 

 一秒間で体長の40〜50倍の距離を移動する虫である。ほとんど瞬間移動的な速さだ。だけども動かなくなれば恐れるに足らずである。

 二人が悍ましい計画を話し合ってる中、壁際に追い詰められた女たちは「そんなわけあるか!」と心の中で叫んだ。なお、ヴァンパイア・ブライドであるミラは固形物を口にしないので関係ない話である。ミラはひたすら心を無にしていた。

 

「それじゃ調理は外で……、あ」

「んんー? あっ!」

 

 物を手渡しできる距離で話していた二人である。手を伸ばせば届く距離。

 エントマが男の腕に触れジャケットとシャツを捲り、前腕を自身の顎に持っていったのは完全に無意識の行為だった。

 

「ああーーーーーっ! ごめんなさいごめんなさいわざとじゃないからぁ!」

 

 エントマは男の腕をムシャムシャしてしまった。

 間近から漂ういい匂いに惑わされ、いつの間にかお口が幸せになっていた。男の声を聞くまで自分が何をしてしまったのか気が付かなかった。

 これがただの人間であればついうっかりテヘペロで済んだ話。しかし、齧ってしまった男はアルベド様の相談役である。

 相談役になる前からソリュシャンに勝手に食べては駄目と言われているし、そのソリュシャンはお兄様のお嫁さんになると言い張っている。

 それなのに、無意識に食べてしまった。ソリュシャンは怒るだろうし、アルベド様からのお叱りも避けられない。

 

「ホントにわざとじゃないからぁ……。ごめんなさいぃ……」

 

 表情は変わらないのに、声は悲哀に満ちて涙が混じっているかのようだ。心から謝っているのだと伝わってくる。

 謝罪の言葉を聞き、男の胸中にプレアデスたちとの出会いが去来した。

 

 ソリュシャンと初めて会った時、手を溶かされた。突然のことだったのでかなり痛かったのを覚えている。ソリュシャンは謝るでもなく口止めをしてきた。結局はソリュシャンの提案を飲んだわけだが、感謝することもなく「借りにしておいてあげる」と上から目線。

 

 ナーベラルからはハートブローをもらってしまった。あの時、アインズ様がいらっしゃらなければリザレクションのお世話になっていた。アインズ様がいらっしゃっていても、ナーベラルの拳があと指二本分も深く刺さっていたら即死だった。その頃のナーベラルはとてもツンツンしていたので、その件についての謝罪は未だにない。もっと寝かせてからごめんなさいプレイをしてやろうと思いついた。

 

 ルプスレギナは初対面時に全身複雑骨折にさせられた。アルベド様のお言葉があって互いに非を認めあったわけだが、アルベド様のお言葉がなければルプスレギナから謝ることはなかったと思われる。

 

 シズには一方的な非を押し付けられ監禁された。しかも、二度。どう考えてもシズの短絡が悪いのだが、シズは全く悪びれない。それなのにどういうわけか、現在貸しを押し付けられている。

 

 ユリには突然脈絡なく肘打ちを食らって中が破裂した。文字通りに血反吐を吐いた。おっぱいを触ってきたのが悪いと言い張っていたようだが、そもそも触れと言ってきたのはユリである。その後の色々で水に流したが、口止めをしてきたのは減点対象である。

 

 これは一体どういう事だろう。プレアデスの姉妹たちからは例外なく痛い目を合わされている。

 そこへ、エントマである。

 左の前腕を一口二口かじられてしまった。しかし、ソリュシャンと違って鋭い歯で齧っているらしく、痛みは少ない。

 そして、きちんとごめんなさいが出来ている。他の姉妹たちは誰一人出来なかったことが出来ている。

 これについてはその時々の立場が大きい。アルベド様の単なるお食事か、アインズ様も認めた守護者統括相談役とではタイトルの大きさが段違いである。

 そこのところを頭ではわかっている男だが、どうしたって第一印象は大きいのだ。

 

 総評して、エントマはとってもいい子である。

 

「大して痛みませんし、ルプーに回復してもらうから問題ありませんよ。エントマさんはちゃんと謝れて偉いですね」

 

 ピンクブロンドの頭にぽんと手を置く。

 エントマは背が低いので、丁度よい高さだった。

 

「むぅ……、子供扱いしないでよぉ」

 

 言葉こそ嫌そうだが、甘えた声音だ。頭に乗った手を振り払おうともしない。

 

「あっ」

 

 男の手が頭から離れ、エントマの意思とは無関係に声が漏れる。

 

 男はエントマの主張を受け入れたわけではない。手に伝わる感触が意外だったからだ。

 シニョンにまとめている髪と触覚のような前髪は、整髪料などで固めていると思った。しかし、触れると硬い。毛髪ではなく、顔と同じで仮面の一部らしかった。

 仮面を撫でてもエントマを撫でることにはならない。ちゃんとエントマをナデナデする必要がある。

 

「ふあぁっ……」

 

 ここなら間違いなくエントマの体だろうと思って撫でたのは、胸の下で絞まっている大きな赤い帯の下。

 エントマの下腹である。

 

「どうして、そこ撫でるのぉ?」

「頭を撫でたら硬かったんですよ。こっちは柔らかいですね。服の下はエントマさんの体でしょう?」

「そうだけどぉ……」

 

 甘えた声に艶が出る。

 エントマはアラクノイドだ。蜘蛛の器官があれば人の器官もある。末端が蜘蛛寄りなら中央は人寄りだ。

 

「ひぃっ……!」

 

 良い雰囲気に水を差したのは、誰かの悲鳴だった。

 

 男はナデナデを中断して叫び主を見る。

 四人の女は壁に張り付いて、大きく見開いた目でこちらを注視していた。正確にはこちらの足元。

 彼女らの視線の先には、エントマが持っていた大きな袋が落ちていた。

 ナデナデにびっくりしたエントマは、袋を落としてしまったのだ。

 

 黒い大きな袋は、見ている内にボコボコと暴れ始めた。中で何かが沸いているようだ。湧き出ているのかも知れない。

 内部で一頻り暴れると、袋の口から黒い水が流れ出した。

 

 それは、地獄だった。

 生者の世界に亀裂が入り、死が顕現したかのよう。

 

 細い流れは瞬く間に太くなっていく。

 ところどころで泡立っているように見えるのは、複数が一塊になっていたり周囲より大きなモノが動いているからだ。

 

「マズイ!」

 

 男は咄嗟に書斎の扉を開け放った。

 このままでは書斎が地獄に埋もれてしまう。しかし、屋敷中に広めてやれば必然的に書斎内の地獄は密度が薄くなる。

 男の狙い通りに、死の河は書斎の扉から廊下へ流れ出ていった。

 

「ソリュシャン、ルプー、ミラ。屋敷内を無人にしろ。全員外に出せ。窓もドアもしっかり閉めるよう触れ回れ。特に厨房は完全に封印しろ」

 

 四人の女たちは腰が抜けているのに、こんな時でも男は冷静を保っている。

 

「あ、あ、あの。私はどうしよう?」

「エントマさんは私が出た後で窓をきちんと閉めてください。外に出る時は一階の正面からお願いしますね」

 

 男は卒倒して床に倒れているシェーダを抱き上げると、窓を開け放って飛び降りた。

 直後、エントマが言い付け通りに窓を閉める。

 

「おにぃちゃ〜ん、また後でねぇ!」

 

 無事に着地した男へ、エントマは窓越しに手を振った。

 手が振り返され、エントマは上機嫌に両手を握る。

 

「「「ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!!!!!!!!!!!!」」」

 

 エントマは平気でも、他の女はそうでもない。

 ソリュシャンとルプスレギナとミラは、声になりきらない声で絶叫した。

 絶望と恐怖がふんだんに練り込まれ、死を予兆させる断末魔めいた叫び声だった。




サブタイトルと全く関係ありませんが、C社製のフィーチャーフォン(いわゆるガラケー)を十年以上愛用していました
精密機器メーカーであるC社はデジタルカメラを生産しており、そちらの技術やノウハウを応用してかC社製フィーチャーフォンは他社製よりカメラの性能が良かったように思います

このサブタイトルはあれだと思う方がいるようでしたらGからCに変えようと思います
言うまでもなくC社とは全く関係ありません
コックローチのCです
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