17.4kになったので後書きに本話を一行でまとめました
アウラがいつもより遅い起床となったのは、いぎたない男を起こすのに手間取ったからだ。
いつぞやは散々苦労して結局シクススの世話になった。シクススに倣って平手打ちを決めようと思ったが、ルプスレギナが言っていたようにこの顔は殴りにくい。自分が提案したボディに行こうも、昨夜を思い出せばやり辛い。
考えた末に、顔へ水を掛け一発で起こすことに成功。しかも、色々なシミがついたシーツの証拠隠滅まで出来る一石二鳥のクレバーな解決策。
それでもなんだかんだと時間を取られて出遅れてしまったため、お仕事前に第二階層へ赴いたのは空振りとなってしまった。
その頃、アウラの寝坊の原因となった男は、シズから直視し難い現実を突き付けられていた。
「お前は音痴過ぎる」
「恥ずかしながらそのようで」
第九階層のシズの部屋で二人は向かい合っていた。
可愛いもの好きなシズらしく、壁紙はカラフルな花柄。室内の調度は白や薄ピンクが多い。部屋の一角にはシズの武装整備のために無骨な道具が並ぶ作業台があるのがとてもアンビバレントである。
昨日の約束通り、男は朝からシズを訪ねていた。明細不明の借りを返すために、今日は一日シズに付き合わなければならないのだ。
「わかってない」
「何がわかってないのでしょう?」
音痴の自覚がある男だ。忸怩たる思いでシズの言葉を肯定したのだが、シズは大仰に頭を振った。
「お前の声はいい」
「ありがとうございます」
「だけど音痴過ぎる。その声であの歌声は冒涜的。太古の時代に闇の深淵に封じられた冒涜的存在を呼び起こしかねない」
「そ、そこまで……ですか……」
この男、音楽の快不快はわかる。音の高低もわかる。しかし、それらを再現しようとすると奇天烈なものに成り下がってしまう。音感が鈍い上に、歌の経験がほぼ皆無なのだ。
長く火傷を負っていた男だ。幸いにも喉は焼けなかったので発声に不自由はなかったが、唇が爛れていたため、発音には不明瞭なところがあった。ラナー以外では何を話しているのか聞き取るのに苦労したかも知れない。
つまりは全てラナーのせいである。
ちなみにシズの「お前」呼びだが、最初は「相談役殿」と呼んだ。しかし、シズからはお前と呼ばれ続けていた男である。今更相談役と呼ばれるのはなんともこそばゆい。
『アルベド様のお立場を考慮してくださるなら何と呼んでくれても構いません』
と言ったところ、お前呼ばわりに戻った。
「だけどリズム感はいいと思う。リファラとキャレットもそう言っていた」
「……ありがとうございます」
スパリゾートナザリックで鼻歌を聞かれた時のことだ。
リラックスすれば鼻歌が出てくるくらいなので、音楽が嫌いなわけではない。むしろ好きな部類だろう。再現が冒涜的で致命的な事態を引き起こしかねないというだけで。
「だけど、今から歌の訓練をしても歌えるようになるとは思えない」
「……そうですね」
シズは発言する度に逆接の接続詞をつける。褒められているのかけなされているのかわからない。
シズとしては事実を羅列しているだけであるが、真実は時として人を傷つけるのだ。
「だけど、お前がやたら器用なのは知っている。だから歌は捨てて器用さを活かすべき」
「……つまり楽器をやれと?」
「その通り」
火傷が癒えて声は良くなった。しかしこれまでの経緯から、音感が冒涜的な致命的である。けども、リズム感は確かなものがある。手指の器用さは、アルベドを筆頭に様々な者たちが折り紙を出すだろう。
リズム感があって器用である。ならば楽器を使えばよい。
喉を楽器とする歌は、本人の音感のなさから冒涜的存在を呼び覚ます可能性があるので封印しなければならないが、楽器であれば指定通りに弾けば音の再現が誰であっても可能なのだ。
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「という訳でこいつ、じゃなくて相談役殿に楽器を習わせることにした」
「左様でございましたか」
ナザリック第九階層にある音楽室である。
音楽ホールに隣接する音楽室には大小様々な楽器が並び、壁の一面には高い天井にまで届く本棚に何かしらの書籍がびっちりと詰まっている。
広い割に人は少ない。数人の楽団員が本棚の前で物色したり、楽器の整備をしているだけだ。
音楽室は、楽器や譜面の保管や、楽団員全体のミーティングや音の合わせに使用する場所であって、楽器を練習する場所ではない。もしも音楽室で全員が練習したら、ヴァイオリン奏者の隣で別のヴァイオリン奏者が違う曲を弾いて、その隣でシンバルとチェロが鳴り響いてうるさくて仕方ない。練習室は別にある。
「それではどのような楽器を始めるのでしょうか?」
「と、言われましても」
音楽室の主は指揮者にして楽団長である。帝都でのアインズ様の祝勝会では仮面をつけていたが、今は素顔を晒している。楽団長のお顔は黒猫であった。
アウラと同じくらいの背丈をした可愛いにゃんこだ。シズが早速頭を撫でている。会話の途中にゴロゴロと喉を鳴らすのがまた可愛らしい。
黒猫楽団長の可愛さはさておき、そのようなことを聞かれても楽器を始めると聞かされたばかりの男である。そもそも楽器の種類を知らない。
知識としては辞書から得ているが、実物を見るのは帝都での祝勝会を除くとこれが初めてなのだ。
「私の周りに楽器を使う者はおりません。一人で弾いても様になる楽器が望ましいです」
楽団員たちはオーケストラの構成員だ。つまりは合奏が基本となる。
楽器とは様々で、それぞれ単独で弾いても様になるものであるが、当然のことながら独奏向きと合奏向きがある。
「そうしますと、ピアノが最初の候補になります」
「ピアノ、ですか」
音楽室の中央にでかいピアノがででんと鎮座していた。黒いボディは隈なく磨き上げられ、近付けば鏡のように顔が映る。黒いボディの中に並ぶ白と黒の鍵盤は、ここから新しい世界が始まると言っているかのようだ。
「ん。ピアノなら良い」
シズがゴーサインを出した。
黒猫楽団長も男の長い指を見て、これならと思っている。
しかし、問題点があった。
「大きいですね。持ち運びには苦労しそうです」
得てして鍵盤楽器は大きいのだ。
「左様ですか。それでは持ち運びが可能な鍵盤楽器と言いますと、手風琴(アコーディオン)なら如何でしょうか?」
手風琴は鍵盤楽器の一種で、手で蛇腹状の筐体を操作することによって空気を送って音を鳴らす。左右にはボタン鍵盤と鍵盤がついている。
重さは物によりけりだが、重いものでも持ち運ぶのは十分可能である。
しかし、待ったが掛かった。
「アコーディオンは可愛い。でも今回はカッコいいのが良い」
今日の主役はシズちゃんである。シズちゃんがノーと言うのならノーなのだ。
鍵盤楽器ではなく打楽器の類になるが、木琴や鉄琴なら持ち運びは可能だろう。しかし、どちらも伴奏楽器として使用される事が多い。独奏にはやや不向きである。
こうして鍵盤楽器は全滅した。
「それなら管楽器は如何でしょう? 様々なものを取り揃えてあります」
管楽器は楽器内部に息を吹き込んで音を鳴らす楽器の総称だ。
黒猫楽団長の言う通りに様々な種類があり、音域も広い。柔らかな音色の木管楽器。力強い音色の金管楽器。どれも甲乙つけられない。
「顔が隠れるのはダメ。それにほっぺが膨らむ」
しかし、一発で却下された。
シズ的には、折角顔がいいのだから僅かでも隠れてしまうのは勿体ないと思うのだ。全ての管楽器奏者に喧嘩を売るが如きだが、あの顔がぷくーっと頬を膨らませるのは避けたいとも思っている。
「そうなりますと……」
打楽器はまず不可。叩いて音を鳴らすのはとても楽しいし、奏者はリズムに浸れるが、独奏には向いてない。
音楽室に揃えてある楽器でシズの要望を満たすのは、
「弦楽器ですね。こちらも様々な種類がございます。単独で弾かれるのでしたら、中低音域を担当するものは除外しましょう」
ヴァイオリンより大きいビオラ、更に大きく床に立てて引くチェロ、それより更に大きく人の背丈を越えるコントラバスは、大きくなるに連れて音域が低くなる。どれもベース音を担当することが多く、どちらかと言えば合奏向きだ。
「弦楽器でしたらヴァイオリンが筆頭に来ます。高音域の表現力が特に豊かで、情感溢れる旋律を奏でることが出来ます。無伴奏の曲も多いため、独奏との条件にも当てはまります。見ての通りの大きさですから持ち運びに問題はありません」
「ん。ヴァイオリンなら良い」
ピアノに続いて二度目のシズちゃんゴーサイン。黒猫楽団長も頷いている。
ヴァイオリンに決まりかと思われたが、当の男が首を傾げた。
「ヴァイオリンは、確か弓を使って弾くのですよね? 一度に一本の弦を弾くのでは和音が出せないのではないですか?」
単音を奏でるだけでは少々面白くないと思うのだ。
しかし、黒猫楽団長は否と唱える。
「ヴァイオリンでも和音を奏でることが出来ます。ヴァイオリンでは和音のことを重音と呼びます」
「それではもう一つ。無伴奏の曲も多いと仰ったのは、伴奏がある曲の方が多いと言うことでしょうか?」
「確かに伴奏曲の方が豊かではあります。他の楽器と組み合わせることによってより多彩な表現が可能となるのです」
「じゃあヴァイオリンで良い」
「じゃあってなんですかじゃあって。練習するのは私になるんですから、私の意見を聞いてくれてもいいじゃないですか」
「覚えてないようだからもう一度言っておく。これは貸しの清算。反対意見を却下する権限が私にはある」
「お言葉ですが、楽器の演奏技術が今日一日でどうにかなるとは思えません。明日以降も練習を続けるかどうかは私の意思次第なんですよ?」
「むぅ……、ずるい」
「何がずるいんですか、何が」
くだらない言い争いを始めた二人を於いて、黒猫楽団長は考えた。
弦楽器、持ち運びが容易、顔が隠れない、可愛いよりカッコいい、無伴奏曲が多い独奏向きの楽器は他にもある。その楽器に習熟した楽団員がいないので候補に上げなかった。ナザリックオーケストラには組み込まれていない楽器なのだ。ナザリックに限らず、オーケストラに使用されることは稀な楽器だ。他の楽器に比べると音量が小さいため、音響バランスをとるのが難しいのである。
けれども、全くの初心者に指導する程度ならば、特に習熟していなくとも可能だろう。
「わかりました」
二人は言い争いを止め、黒猫楽団長のつぶらなお目々に目を向けた。
「こちらにしましょう」
これまでと違って断定的な言葉である。日々の業務を邪魔されて、いささか疲れてきたのかも知れない。
黒猫楽団長が持ってきたのは黒いハードケース。弦楽器であるらしく、ボディは女性的な丸みを帯びてそこからネックが伸びている。大きさはビオラより大きく、チェロより小さい。
留め具を外してパカリと開いて現れたのは、弦が六本ある楽器だった。
「クラシックギターです。ギターでしたら無伴奏の曲が豊富です。小さなオーケストラと呼ばれるくらいですので表現力も非常に多彩です。少々お待ち下さい。担当の者を呼んでまいります」
「楽団長が指導してくださるのではないのですか?」
「私は指揮者ですので」
言うなり、黒猫楽団長は行ってしまった。
「む。まあ、ギターなら良し」
シズちゃんの合格点も貰えたようだ。
ケースに収まったままのギターの弦をポロンポロンと鳴らしている。
やや待たされ、黒猫楽団長が連れてきたのは真っ赤な髪を靡かせる若い女性だった。何故か目を伏せている。
女性の肌は真っ白だが頬には僅かに赤みが差しているので、アンデッドではないようだ。代わりに頭部には一対の短い角が生えている。悪魔であるらしい。
「セシルと申します。楽団ではヴァイオリンを担当しております。楽団長より相談役殿にクラシックギターの指導をせよと仰せ仕りました」
鮮やかに青いワンピースドレスをまとったセシルは、シズの向こうを張れるくらいの無表情で一礼した。無愛想は彼女の素なのか、練習の邪魔をされて思うところがあるのか。
どちらであれ、そのようなことを気にする男ではない。涼し気な笑みで礼を返し、手を差し伸べた。
「ギターにつきましては中級者の域に留まりますことをご了承ください。基本は抑えてありますので初学者への指導なら問題はありません。ギターを始めるにあたって目標はございますか?」
男の手を握ることなく言葉を続ける。
話してる間ずっと男は手を差し伸べていたので、言葉を終えてから握ってやった。
男の手が僅かに見開かれるが、自分からは離そうとしない。セシルは少しだけ感心したように男を見やってから手を離した。セシルの目は赤かった。
「私は氷の悪魔でございます。不用意に触らないようご注意をお願いします」
「わかりました」
男は差し出した右手を振って苦笑した。耐炎耐氷のブレスレットはジャケットのポケットの中だ。一昨日、デミウルゴス様の階層を退去してからはずっと外したままだった。
ヴァンパイア・ブライドたちの肌は冷たいが、それは人肌に比べて冷たいと言う意味で精々が室温と同程度の体温である。セシルの冷たさはその比でなく、流れる血液すら凍りつく冷たさ。あれだけ冷たいと肌に霜が降りるだろうが、その様子はない。常に冷たいわけではないらしい。
「この曲がいい」
二人が初めましてをしている間、シズが本棚から一冊の楽譜を抜き出して持ってきた。ページを開き、とある楽曲を指し示す。
ずっと無表情だったセシルが眉間に皺を寄せた。
「シズ様、これは上級者向けの曲です」
「でもこれがいい」
「どうしてこの曲を選ばれたのでしょうか?」
「曲名。なんだか楽しそう」
「……………………さようですか」
シズに楽譜が読めるわけがない。ナザリックに常駐しているので様々な音楽を聞いているが、曲と曲名は一致していない。そんなシズが曲を選ぶ基準は曲名だけである。
男も譜面を覗き込む。
五本の線が等間隔に引かれ、線上へ所狭しと黒丸と白丸が無数に打たれ、それぞれが棒や羽を生やしている。
五線の左端にある記号がト音記号と呼ばれるのは知っていたが、逆を言えばそれしか知らない。
ページの上部中央に『Sonatina meridonal(Campo.Allegretto)』とある。英語の文法はいまいちだが、辞書は読み漁った男だ。Sonatinaはソナチネ。meridonalは南方の。Campo.Allegrettoはわからない。英語ではなさそうだ。
どうやら「南のソナチネ」という曲名であるらしい。
ソナチネは、ソナタ形式の器楽曲。小さなソナタでも通じる。そしてソナタとは、器楽曲の一形式。
だからなんだと言われたらわからない。音楽には無縁な男だったので、辞書的な意味しかわからないのだ。
「……それではこちらの曲の練習を始めましょう。ギターを構えてください」
セシルは諦めるか投げるかしたらしい。
ガチ初心者に上級者向けの曲はどうなのだと男が声を伴わずに問いかけるが、見えず聞こえずらしく、ケースからギターを取り出して男へ押し付けた。
いささか投げやりな態度であるが、それなりに指導はするつもりであるらしい。男を椅子に座らせ、足台を持ってきて構え方を教える。
クラシックギターを弾く時は左足を足台に乗せ、浮いた左太股にボディの括れを乗せて構えるのだ。
「相談役殿は右利きですね?」
「どちらでも同じように使えるつもりです」
「では右利きとして始めます。まずは弦の調律からです。私もギターを持ちますから、同じようにしてください」
ギターのチューニングには音叉を使う。セシルが音叉で椅子の足を叩くと、キーンと澄んだ音が響いた。
「この音が440HzのAになります。五弦の開放弦と同じ音です。この音と五弦が同じ音になるようペグを捻って調律してください。正しく調律すれば音叉と五弦が共振します」
いきなり情報量が多かった。
クラシックギターは、ボディの下部からネックの上部まで張られた弦を弾いて音を出す。音は空洞のボディ内部で増幅し、ボディの中央に空いたサウンドホールから音が出る。
弦はネックの上端まで張られて弦巻と呼ばれる木の軸に巻きつけられ、ペグと呼ばれる摘みを回して張り具合を調整して音の高低を合わせる。
弦は六本あり、下から一弦二弦と数え、一番上が六弦となる。一弦が高音で六弦が低音だ。なお、Aとは音階を七音階でアルファベット表記した際の基本となる音である。
ギターのチューニングは初心者でも音の高低がわかれば難しすぎるものではない。
音叉の音に耳を澄ませ、五弦を弾いて音を合わせ、鳴らした音が消える前にペグを回して調整する。
男が音叉を耳元に近付けて四苦八苦している間、同じようにギターを構えてチューニングを始めたセシルは、音叉を口に咥えていた。ギターの音も男とは違って高音で柔らかく聞こえる。
柔らかい音をどうやって出すのかわからないのでそこは後回しにして、男もセシルに倣って音叉を咥えてみると、幽かにしか聞こえなかった音が頭の中で大きく響く。
男が親指で五弦を弾きながらチューニングしている間、シズは本棚の前でクラシックギターの楽譜を片端から抜き出していた。
「これで五弦の調律が完了しました。次は六弦です。六弦の5フレと五弦の開放弦が同じ音です。同じように調律してください」
「ゴフレとは何のことですか?」
「5フレットのことです。左端から1フレ2フレと数え、その5番目」
クラシックギターのネックには黒い指板が張ってあり、そこへ等間隔に金属の棒が埋め込まれている。その棒をフレットと呼ぶ。クラシックギターは、このフレットに弦を押し付けて音階を変えるのだ。
「六弦を終えたら次は四弦です。五弦の5フレと四弦の開放弦。四弦の5フレと三弦の開放弦。二弦の開放弦は三弦の4フレなので注意してください。一弦はこれまで通り二弦の5フレです」
難しいことをさらっと言ってくれる。セシルの指導は厳しいというか簡潔というのか。
男がポーンポーンと六弦を合わせている間に、セシルは全ての弦のチューニングを終えていた。そもそも音の鳴らし方が違う。
男はそこが気になっているが、言わないということはまだ必要ないことなのだろうと判断して何も言わずに弦を弾いてペグを回した。
男が何とかチューニングを終えた頃、シズは床の上に楽譜を山と積み上げていた。高さはシズの身長の半分を超えている。
「それでは南のソナチネですね。私も弾けない曲です。それと言い遅れましたが、ネックの握り方が違います。親指はネックの裏に。指板の上に来ないようにしてください。弦を押さえる時は指を立てて指先で押さえるよう意識してください。調律なので何も言いませんでしたが、右手は手首は浮かせてボディにつけないように。上から弦を摘むような形です」
構え方の指導はさておき、さらっと大変なことを言ってくれた。
これから先生も弾けない曲を弾けるようにならなければいけないのだ。
「最初はコードですので簡単です。私と同じように押さえてください」
コードとは和音のこと。二弦三弦の2フレを押さえるだけである。
「全ての弦を同時に鳴らしてください」
男は、言われた通りに一弦には小指を、二弦には薬指を、同じように三弦四弦には中指人差し指を引っ掛け、五弦六弦は親指で弾くことにして、全ての弦を同時に弾いた。
和音とは心地よく聞こえる音階を組み合わせた音なので、ガチ素人が弾いてもそれなりに聞こえた。
と思ったのは本人だけで、セシルは首を振った。
なお、シズは高い椅子に座って両膝に頬杖をつき、足をプラプラさせている。
「ギターでコードを弾く場合、通常は六弦から一弦に向けて弾きます」
言うだけでやってみせはしないらしい。
ならばということで、今度は親指を使って六弦から一弦に向けてかき鳴らす。
音の構成は先と同じ。しかし、先よりも遥かに重層的な音となって広い音楽室に響き渡る。
これならば、と思うのはやはり男だけで、セシルはまたも首を振った。
「それでも悪くありませんが、この曲はこのように弾いてください」
セシルは右手を宙に掲げ、軽く握ってから小指から薬指中指人差し指と、順に開いた。
男も同じように宙に掲げ、何度か手を開いては閉じ、段々と開く速度を上げていく。
「では」
きっかり二十回練習してからギターを構え直す。
コードを押さえ、右手は軽く握ってサウンドホールの上に。
練習したのと同じように右手を開いてギターを鳴らした。
扉が開いた。
色とりどりの断片が垣間見えた。
「次はどうなるのですか?」
しばしギターを見つめていた男が顔を上げる。
セシルは無表情を崩さず、内心でへえと思った。
セシルはオーケストラのヴァイオリンだ。ヴァイオリンを弾くのが仕事であって、初心者に畑違いのクラシックギターの指導をすることではない。プレアデスであるシズの要請で、楽団長から命令されたので仕方なく付き合っている。
男の態度もよろしくなかった。真面目にやってはいるが自発的に始めたわけではないようで、やらされている感が拭えない。
それが、コードを掻き鳴らした途端に顔が変わった。
次の言葉の返答次第で指導を考える必要が出てきた。
「この次はハンマリング*1、プリング*2を多用しているので初心者には難しいです。基礎から練習する必要があります」
「わかりました。基礎からお願いします」
男は間をおくことなく頷いた。これからの指導方針が決まった。
「それでは練習室に移動しましょう。ギターを持ってついてきてください。シズ様は譜面を運んでください」
「わかりました」
「ん、わかった」
「ご主人様、こちらにいらっしゃいましたか。シリーたちからの希望は」
「あなたは最古図書館からクラシックギターの教本とギターのコード表を借りてきてください。司書長にお願いすればすぐに出してくださるはずです」
「え? あ、その、私は……」
「ミラ、頼んだ」
「……かしこまりました。こちらがシリーたちからの希望をメモしたものでございます」
「明日の夜明けまでは私が予約してる。だから今夜のは明日の夜にして」
「だそうで」
「……かしこまりました。最古図書館に赴いて指定の図書を借りてから第二階層へ向かいます」
第二階層から戻ってきたばかりのミラは、早速あちこち飛び回ることになった。
前日からわかっていたことだが、今日のミラは一日ずっとこんなんである。
練習室は壁に防音処置が施されているだけの狭い部屋だ。面積で言えば、屍蝋玄室にあるシャルティアのベッドより小さい。
「まずはこちらを」
セシルが男に手渡したのは、革製のリングに尖った薄板が付けられたものである。
「クラシックギターは基本的に爪で弾きます。相談役殿は右手も左手も爪が短いので、爪輪を使用してください。ギター用ではありませんが構わないでしょう。必要に応じて爪を削ってください」
こんなものでも魔法が掛かっているらしく、指に嵌めればキュッと締まってぐらつかない。右手の小指から親指まで全ての指に嵌めた。
突然爪が伸びて猫にでもなった気分だ。
「まずは半音階からです。六弦の1フレから12フレまで、12フレまで来たら1フレに戻ります。その次は五弦、四弦と続けます。メトロノームのリズムに合わせてください。右手も左手もフォームを崩さないように」
メトロノームは縦長の三角形の上部を平坦にした箱で、前面に重りをつけた長い針がある。セシルが針を左に振ると、針は右に左にカチ…カチ…と同じ間隔で揺れ始めた。
タンタンタンタンと淡々と二人が半音階の練習をしている間に、音階について解説する。
音階は12あり、その中でよく使う7音階が基本となる。いわゆる「ドレミファソラシド」である。
五線譜の左端にあったト音記号は、記号が強調する下から二番目の線が「ト音」となる。「イロハニホヘト」のトだ。
ギターのチューニングに使った音はA。「ABCDEFG」のAである。
7音階は、「ドレミファソラシド」「イロハニホヘト」「ABCDEFG」の三種で表す。
忌々しいことに「ド≠イ≠A」である。「ド=ハ=C」となっている。
統一する動きはない。全くない。
音階はドレミかABC、コードはABCかイロハが使われることが多い。Aメジャーをイ長調と言うように。
「右手を意識してください。人差し指と中指以外の指も。弾き方も変えて」
半音階は、基本的に弦を押さえる左手の練習だ。
1フレは人差し指、2フレは中指、3フレは薬指、4フレは小指、そして5フレにきたら手を移動させて人差し指で押さえる。以降、繰り返し。
右手は人差し指と中指で交互に弦を弾き、弾いた後はその上の弦に指が触れる。それを触れないように弾けばアルペジオの練習にもなる。
アルペジオは分散和音のことで、コードを構成する音を別々に弾く。ギターの場合、違う弦を違う指で弾くことを指す。
二人が熱心に練習している間、見ているだけのシズは暇だった。カチ…カチ…と鳴っているメトロノームを弄り始めた。
メトロノームは針に付けられた重りの位置でテンポが変わる。
始めにセシルが設定したのは、♪=72(BPM=72、一分間に四分音符が72個)のANDANTE(アンダンテ、歩くような速さで)だった。
シズが重りを一番上にしたところ、40のGRAVE(グラーヴェ、重々しく)になった。カチ……カチ……と非常にスローなペースだ。
遅いより速いほうがよいと考えたシズは、重りを再度移動。132のALLEGRO(アレグロ、快速に)へ。
変則的に動かされるメトロノームのテンポに、二人はリズムを崩すことなくついていく。
シズは更に重りを動かす。160のVIVACE(ヴィヴァーチェ、活発に)になると、メトロノームは絶え間なくカチカチと鳴る。
テンポを変えた直後は僅かに遅れる男だが、すぐにリズムを取り戻してついていく。この頃になると、セシルはギターから手を離して見ているだけだ。
ついにシズは重りを一番下に下げた。208のPRESTISSIMO(プレスティッシモ、極めて速く)。カチカチカチカチと鳴ってとても急かされる。
男は真剣な顔で指板を覗き込みながら両手指を動かし、六弦を親指で弾く段になって渋面を作った。
複数の指で弾ける五弦以下と違って、六弦は親指で弾く。親指だけでは間に合わない。親指で弾くのを諦め、他の指を使うことで何とかついていく。
「ご主人様、借りて……」
十冊の本を持ったミラが入ってきたが、セシルの冷たい目に射抜かれて口を閉じた。
ミラが来てから、六弦から一弦まで、一弦から六弦までを二往復してメトロノームが止められた。
男はギターから手を離し、両手を振った。普段使わない筋肉を使って少々疲れたらしい。
教本に目を落とすセシルは、顔を上げずに口を開く。
「こちらの本は誰の名義で借りましたか?」
「私の名前で借りてきました」
「それでは私と楽団長の名前で借り直してください」
「ミラ、頼んだ」
「……わかりました」
今日のミラは終日パシリである。来たばかりなのに最古図書館へ引き返した。
「相談役殿の指が意外に動くので驚きました。曲の練習を始めても良いのですが、折角教本が届いたのでコードにしましょう」
「わかりました」
セシルは知らないことだが、趣味でカタナブレイドを振り回している男である。
当然のことながら握力が必要だ。握り方が違えども、ギターの弦を押さえるのは難しいことではない。
初心者は小指で弦を押さえるのに苦労するものだが、カタナブレイドで握りの一番下となる左手の小指は要と言って良く、小指も鍛えられている。
そして、アインズがロボ疑惑を持った男の器用さと時間感覚。
アインズへモモンズ・ブレイドアーツを伝授した際は0.1秒単位で動きを把握し修正させた。
54枚のトランプを宙に放ってトランプタワーを築く異質な器用さ。
両手指のフィンガリングは、ギターのフィンガリングとは全く違う働きだが毎日活躍している。
「Aからでは無難ですのでFからにしましょう」
無難なAにすべきところを初心者の壁とされるFである。
Fは1フレの一弦から六弦までを人差し指一本ですべて押さえる(セーハと云う)のが難しい。セーハする際は指をやや寝かせると成功しやすい。
握力があり小指の力もある男なのでFに苦労はしなそうだが、ここでコードについて解説する。
コード(和音)は基本的に三音で構成される。トライアドと呼ぶ。
例としてFを取り上げる。
基本となる根音のFから三度上、FからFGAと来てA。根音から五度上、FGABCと来てCと行きたいところだがBとCは一度ではなく半音しか離れていないため、C♯。
FAC♯でコードのFM(Fメジャー)となる。
三度上ではなく短三度の場合、FではAの代わりにA♭(あるいはG♯)にするとFm(Fマイナー)となる。
BCと同様にEFも半音しか離れていないため注意を要する。
「相談役殿は指が長い上に関節が柔らかいですね」
コードの中には人差し指と小指が離れて、小指に力を入れにくいものもある。指が長く関節が柔らかければそれだけ有利となる。
基本となるメジャー・マイナーコードに、七度を加えたセブンスコードも押さえさせる。
コードチェンジもGAC、AmCmaj7♯5C/Gと基本的なコード進行を幾つかさせたが、左手に淀みはない。アインズがロボ疑惑を持っただけはある。
コードは及第点。右手のフィンガリングも上々。
曲の練習に入ってもよいと判断した。
「……私はもう一度第二階層へ行ってまいります」
本を借り直してきたミラが、練習の合間に報告する。
色々と良い思いをしているので、たまには頑張らなければならないのだ。
「曲の練習に入ります。初心者向けの曲ですと、ロマンス*3が代表です。他にはラクリマ*4、大聖堂*5もいいでしょう。グリーンスリーブス*6も捨てがたい」
そう言われても、男にはさっぱりわからない。
曲を聞いたことがあるかも知れないシズも、曲名から曲を連想出来ない。
「ですが相談役殿の上達が早いので」
言って広げた譜面は「Leyenda*7」。
「これにはタブ譜がついているので相談役殿でも読みやすいでしょう」
楽譜は基本的に五線譜で書かれている。
まず、五線譜から音階を読み取る。音階と弾く場所が一対一のピアノならば話は早いが、ギターは同じ音階を複数の箇所で鳴らすことが出来る。
C(ド)は五弦3フレが基本だが、六弦8フレも同じ音が出る。どちらを選ぶかは、前後の音やその時のコードによって異なる。
ギターでは音階を読み取った後、どこを押さえるか探さなければならないのだ。
それがタブ(TAB)譜だと、どこを押さえるかがそのまま記されている。
例としてまたFを取り上げタブで書くと、
e|----1----|
B|----1----|
G|----2----|
D|----3----|
A|----3----|
E|----1----|
となる。弦の上に書かれた数字が押さえるフレット数だ。左端に書かれた英字は開放弦の音階である。
なお、3フレは五弦を薬指、四弦を小指で押さえる。二本の指を使わず薬指の腹を使って五弦四弦を同時に押さえる方法もある。出来れば後者に慣れたほうが良い。
レイエンダの譜面は、低音がメロディを担当し、高音は同じ音が連続して並んでいる。
セシルが親指で五弦六弦を弾いて低音のメロディだけを鳴らした。
続いて高音部を薬指、中指、人差し指の三本を使って軽やかにかき鳴らす。
「これを譜面通り、同時にやってください」
「セシルさんが手本を見せてくれるのではないのですか?」
「私はヴァイオリニストです。ヴァイオリンは弦楽器の基本なので指導役として選ばれましたが、ギターではなくヴァイオリンが専門です」
「……弾けないのですか?」
「専門ではないと申し上げました。相談役殿の基礎技術なら、少なくとも前半部は弾けると判断しました。もしも弾けなかった場合、相談役殿が手を抜いたと判断します」
すごく嫌な信頼だった。
単調な練習風景を見てるだけで退屈だったシズは、ペラペラ捲っていた楽譜を置いて男を向いて座り直す。
いつもの無表情が心なし踊っているように見えた。
「それでは…………」
男がレイエンダを弾き始めた。
アインズがロボ疑惑を持った男であっても、いきなり高難度の曲は弾きこなせない。
始めはゆっくり。ベース音を鳴らしてから高音部の三連符を丁寧に弾く。
まずは練習であるらしく、同じ小節を二度三度、五度六度と繰り返す。
次の小節に移り、やはりゆっくりと。
そこで止めた。
「ふむ…………」
レイエンダの前半は、左手の難易度は高くない。弦を弾く右手のフィンガリングがとかく忙しい。
男は左手を掲げて宙で何度か指を動かした後、レイエンダを弾き始めた。
(おお!)
シズは静かに唸り、セシルは伏せた目を見開いた。
遠くで早鐘が鳴っている。そこへ荘厳なメロディが絡んでいる。
弾いている男も旋律に酔っていた。ポロンポロンと鳴るだけだったギターから、このようなメロディが生まれるとは想像も出来なかったのだ。
今日がギターに初めて触った初心者とは思えないが、いささか単調ではあった。
タブ譜なので譜面は読めても、強弱を指定する音楽記号を読めないのだ。
途中、コードを押さえてジャランと掻き鳴らす。
やがて曲調がゆっくりとなり、
「……ここはどうやって弾くのですか?」
Harmと書いてある。文字を無視して弾くとしっくりこない。
「ハーモニクスです。フレットの上を軽く押さえて弾きます」
セシルが実演してみせた。ポーンと柔らかい音が長く響く。
チューニングの時にセシルが使っていたのはハーモニクスだった。
「そのあたりは教本に書いてあるので熟読して下さい。ひとまず休憩にいたしましょう。そろそろ昼食の時間です」
「私は練習しています。お二人はどうぞ」
「ではそうさせていただきます」
二人は男に付き合う素振りを微塵も見せず、練習室を後にした。
一人残った男はギターをスタンドに立て、教本を開いた。
集中力は凄い男である。
どれほど集中するかと言えば、ソリュシャンに腕を溶かされても気付かないほど。
記憶力も凄い男である。
意識して読んだ物は全て記憶の宮殿に収め、いつでもどこでも寸分違わず思い出すことが出来る。
速読も凄い男である。
1ページあたり二千字超を秒単位で把握して記憶の宮殿に放り込む。
教本とギターのコード表を全て読み終えたらひたすらギターを掻き鳴らす。
音楽に触れるのが純粋に楽しいのだ。
ナザリックは兎も角として、エ・ランテルのお屋敷にも帝都のお屋敷にも音響機器はない。当たり前である。
音楽に触れたければ、生歌か生演奏しかないのだ。
それを自分の手で生み出すことが出来る。
楽しくないわけがない。
旋律に酔いしれ身を任せ、恍惚としながら音の世界に浸り切る。
昼食に行った二人が帰ってきたことも気付かない。
手が止まるのは、タブ譜ではなく五線譜を見て押さえる場所を試行錯誤している時だけ。
口に何かを差し込まれ、無意識にチュウチュウ吸った。シズ専用超高カロリー甘々飲料だった。
無駄に頭を使い続けている男なので基礎代謝が高く、食事量もそれなりに多い。今日はそれに輪をかけて、新しいことに夢中になっている。シズ専用ドリンクは一杯で成人男性の一日の必要カロリーを超えるが、男は何の問題もなく飲み切って、空になってなおストローを吸い、ズズズと鳴らした。
「ねえねえセシル。これとこれって同じ曲? 名前が似てる」
「朱色の塔とCrimsonTowersですか。前者は知っていますが後者は知りません。こんな曲があったのですね。あとで相談役殿に弾かせましょう」
「そうする」
朱色の塔はクラシックギターの曲であり、レイエンダと同じくアルベニス作、セゴビア編曲。
CrimsonTowers*8も名前を和訳すれば朱色の塔かも知れないが、ブラックメタルバンド*9のインストナンバーである。
「相談役殿にギターを触らせたのはシズ様の慧眼でした」
「我ながらそう思う。出来るとは思ったけどどハマリしてる」
何度か音楽室に顔を出したミラは、セシルから睨まれ、シズから静かな圧力を受け、ご主人様に伝言を伝えること叶わず物言わぬ彫像となった。動かなくても耳は聞こえる。
ご主人様の指から生まれる旋律に心身を浸らせ、立ちっぱなしでいることも気にならず、時間を忘れて聞き入った。
「ここまでにしましょう」
突然、セシルが横からギターのネックを握った。どんな音を鳴らしていても、弦に触られると音が止まる。
我に返った男が時計を見ると、夕食時を回っていた。
「む、まだ南のソナチネを聞いてない」
「それは後にしてください。私には私の都合があります」
「じゃあセシルが行った後で弾かせることにする」
「休ませてください。朝から弾き通しです。休憩が必要です」
「いえ、私はまだ」
「休憩が必要と申し上げました」
シズが相手でも有無を言わさない。
セシルは、ナザリックへの忠誠心が薄いわけではなく、上位者への敬意がないわけでもない。仕事に忠実なだけなのだ。
セシルの仕事とはヴァイオリンを弾きこなすこと。ヴァイオリンに関わることなら兎も角、それ以外のことはたとえ上位者の言葉であろうとヴァイオリンより下に来る。
アルベドら上位者たちは楽団員たちの扱いをわかっているので、問題が生じたことはない。
そもそもにして、ヴァイオリン弾きに給仕せよ、などと無関係な命令をする方が無茶なのだ。
「続けるにせよ、夕食をきちんと取ってからにしてください。ですがその前に」
いつの間にかセシルの左手に優美な曲線を持つヴァイオリンが、右手には真っ直ぐな弓があった。
「私の担当はクラシックギターではなくヴァイオリンです。ソリストを務めることもございます。私がヴァイオリニストであることを思い出していただきます」
ヴァイオリンを左肩に乗せ、細い顎と挟んで固定する。
右手は弓を掲げる。セシルの肌は白く、弓は黒い。長く伸びた青い爪が映えている。
セシルは目を閉じたまま、弓を引いた。
物静かに始まった曲は、段々と激しく情熱を帯びていく。
氷の悪魔であるのに、揺れる赤髪は炎のようだ。
セシルの選曲は24のカプリース。超絶技巧を要する高難易度で知られるヴァイオリンの独奏曲。曲を書いたのはパガニーニ。
パガニーニの超絶的演奏技術は悪魔に魂を売って得たと恐れられ、死後数十年は埋葬の許可が出なかった。
悪魔に魂を売った男が書いた曲を、本物の悪魔が悪魔的技巧を駆使して弾いている。
悪魔に魂を売ってでも聴く価値があった。
セシルが弓を下げると、三人の聴衆は割れんばかりの拍手を送った。
セシルは弓を掴んだ右手でスカートを摘んで膝を折り、
「ありがとうございます」
初めて笑顔を見せた。
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セシルとの交渉の結果、練習に使ったクラシックギターは貰えることになった。
生成に要するコストはユグドラシル金貨で30枚。金貨30枚と言うなかれ。伝統ある伯爵家の家宝になっていてもおかしくない超高級ギターである。
金貨30枚はセシルのポケットマネーから出た。給金を貰わない生活を送るセシルであるが、生活に必要なものは全て支給され、金貨を使ってまでして欲しいものがない。最初から持っていた僅かなお金から捻出した。
ところで、セシルは楽団員である。楽団員が楽器を欲しいと言えば、当然無償で提供される。ギターの価値は正しくても、消費したコストはすぐに補填される。
セシルはナザリックの悪魔である。極悪集団ナザリックに相応しくカルマは負に振れている。息をするように悪を為すのだ。
クラシックギターを貰えて心がビュンビュンしてる男が、返せない借りはとても高いと知るのはまだ先である。
ペストーニャからブレスレットを貰って借りの高さを思い知ったはずなのだが、そこまで頭が回らなかった。
だから賢いのにバカと呼ばれるのだ。
ギターは練習室に置いてきた。明日以降も通うつもりでいる。
それとは別に、サラマンダーたちとの打ち合わせがまだ残っている。シリーたちに借りを返さなければならない。その内フィースにも捕まるだろう。ナザリックに滞在できるのは明後日の昼までだ。
「それじゃこれからは大人の時間」
「夜明けまでお付き合いしますよ。一睡くらいはしたいものですが」
「一応検討しておく。でも南のソナチネ*10を聞いてない。だから確約は出来ない」
「……さようで」
夕食は固形物を取りたかったが、昼と同じでシズが持ってきた甘々ドリンクになってしまった。
特製ドリンクを食事にすると、食事時間が短くて済み、簡単にお腹が膨れる。味覚がバカになりそうなくらい甘いが、これはこれで割と美味しい。けれどもドリンク。少々味気ない。
今のシズはじっくり食事より時短を優先するようだ。
「むっふー」
シズは、並んで歩いていた男の手を取る。
そのまま腕を組んで、慎ましくもちゃんとある膨らみを押し付けた。
ミラはいない。一旦エ・ランテルに戻るようだ。何があったかは、二人共聞かされていない。問題が生じたなら一番に報告するはずで、それがないのだから私的な事なのだろう。
「私の部屋に行ってもいいけど、お風呂に入りたい。どこのお風呂が良い?」
「私が知っているのは前回入った露天風呂だけです。シズさんの部屋にもお風呂がついているんですか?」
「ちっちゃいけどついてる。お風呂じゃなくてシャワーならセーフティルームにもついてた」
「そこはまた次の機会にしましょう」
ヴァンパイア・ブライドのシリー達と会うのに使うつもりなのだ。
「んーーー。じゃ、露天風呂。まだ時間が早いから誰も入ってないはず。お風呂に入って、それから私の部屋」
男が「承知しました」と応えようとしたところ、ああーーーーっ!! と大きな声に遮られた。
「おにぃちゃん昨日も今日もどこにいたのぉ!? ずーっと探してたんだよぉ!」
「昨日はアウラ様のところに。今日はシズさんに付き合っていました。それより…………」
男は二度三度瞬きしてから、傍らのシズを見た。
シズはぽかーんと口を開いてエントマを見ている。
駆け寄ってきたエントマは、声に喜色が乗っているのは良いとして、ニコニコと笑っていたのだ。
音痴を越えるためにギターを始めたら借りが増えて、シズとお風呂に行こうとしたらエントマ登場
セシルの名はクラシックギター奏者イェラン・セルシェルから