ぎりぎり三が日
あけおめことよろでございますm(__)m
クレマンティーヌが来てからはシャッキリしていた若旦那様が、またあっちへ旅立っていることが多くなりました。
アルベド様の武装のヒントを得たのだから、若旦那様が思索を深くするのは当然でした。
切れず、欠けず、金貨やカタナブレイドの刃金を空気や水のように扱えるもの。
若旦那様はそんなものを見たことはありません。若旦那様どころか、ありとあらゆるマジックアイテムやワールドアイテムの造詣に深いアインズ様であっても見たことも聞いたこともありません。つまり、そんなものは存在しません。存在しないものを求めているのです。
方向だけは見えていますが、どうやってそこへ至ればいいか全くわかっていない状態です。
考えてもわかるわけがないので、まずは目標とする素材の条件を考えます。
切れず欠けずとは、究極の硬度と究極の靭性を持つということです。なお、靭性とは外力によって破壊されにくい性質を指します。靭性が高いとは壊れにくいということです。
硬度や靭性が高いとはどのような状態を言うのでしょうか。硬いとは何なのかを考えなければなりません。壊れるとはどうして壊れるのか考えなければなりません。
しかし如何に靭性が高かろうとも、変形しては意味がないのです。ここでまたもヒントが増えました。壊れてはならず、変形してもならないのです。よって弾性がある物体は却下。
弾性を簡単に言えば、伸び縮みすることです。ゴムが代表です。実を言えば、とても硬そうで実際硬い鋼鉄にも弾性があります。
若旦那様は「伸び縮みしないもの」と考え始めて頭を振りました。既存の物質を探しても答えはないのです。
目標は無限と思えるほど高いのに、手元にあるのは有限の手段だけです。つまりは実現不可能。しかし、有限の手段に合わせて目標を下げるのでは本末転倒。手段を広げるしかありません。
何を広げればいいかも考えなければならないのです。
▼
手持ちの材料が少ないので、若旦那様は先日ほど向こうに行ったきりではありませんでした。時々はこちらに戻ってきて、クレマンティーヌのフォームを確認しています。
珍しい事に、書斎には若旦那様とクレマンティーヌの二人だけです。珍しいどころか、クレマンティーヌが屋敷に預けられてから初めての事でした。
ソリュシャンやルプスレギナが席を外すことは多くても、若旦那様を我が君と崇め命を捧げているミラもいないのは非常に稀な事です。
「吸血鬼の方はいないのですか?」
「いないよ。ファからソに移るのが遅い。単音を鳴らす時は指を寝かせず立てて押さえろ」
「……はい」
若旦那様はあっちに行っていても、簡単な事なら受け答えが出来ます。頭を使わずに反射で喋っています。ただし、クレマンティーヌの指導には最低限のリソースを振ってあるようです。クレマンティーヌには早くクラシックギターの技術を上達してもらって、二人で合わせて弾きたいのです。
なお、ギターでドレミを弾く場合、ド(C)は五弦の3フレを中指で、レ(D)は五弦5フレを小指で。そしてミ(E)は四弦2フレを人差し指、ファ(F)は四弦3フレを中指、ソ(G)は四弦5フレを小指で押さえます。
ミとファは隣り合っているので楽勝でも、ソは少し離れて小指で押さえなければならないのが難しいようです。
音を出すだけならソは三弦の開放弦なのですが、練習の目的は弦を押さえて音を出すことです。小指で弦を押さえなければなりません。
クレマンティーヌは「何で私がこんなことを」と思いつつドレミを弾き続けます。やってる内にちょっと楽しいかもと思い始めても、楽しまないように自分を節しています。
「お嬢様も朝から見ていません。どこかにお出かけしてるんですか?」
「いないな。出かけてる」
若旦那様の答えは相変わらず簡潔です。こんな時の若旦那様にちゃんとした答えを求めても無駄なのです。それと知ってるソリュシャンたちは、ぼーっとしてる若旦那様には事務連絡程度のやり取りしかしません。
しかし、クレマンティーヌは知りません。若旦那様の冷淡にも思える言葉は、それだけソリュシャンと距離があるように思えてなりませんでした。
確証バイアスです。先入観に基づいて自分に都合がいい情報ばかり集めてしまうのです。クレマンティーヌは自身の認知に歪みがある事を自覚できません。
「お戻りは?」
「さあ?」
ソリュシャンの予定は流動的です。はっきりと決まっていません。事前に細かなところまで決められなかったのです。
若旦那様は生返事でしたが、ソリュシャンがどこへ行っているのか知っています。ソリュシャンは昨夜遅くに帝都へ向かいました。ミラが駆るアンデッド馬の馬車を使っての旅路です。
一か月以上前から決まっていた話なので、当初の予定を優先しただけであって書類仕事から逃げ出したわけではありません。その証拠に、お出かけの前夜は夜を徹して当日もお兄様成分を我慢して机にかじりつき、自分の担当を終わらせました。
帝都に行ったら、社交界で忘れられないように夜会や舞踏会に顔を出したりする予定です。勿論、若旦那様も一緒です。尤も、それが帝都行の目的ではありません。帝国の社交界如きを気にするソリュシャンではありませんから。
ソリュシャンがわざわざ帝都まで行くのは、カルカとレイナースの体を確認することです。
もしも出来ていた場合、半年も放置すると本人が自覚するのは勿論の事、体形にも変化が現れます。ここまで来てしまってからどうにかするのは外聞が悪いでしょう。
ですからその半分の三か月で。出来るならば二か月に一度は確認したいと考えていました。
もしも出来ていたら回収します。本人の意思は関係ありません。当面は、回収できたものを育てる予定もありません。
「神官様も見ていません。体育の時間までには戻ってきますか?」
「知らないな。今日はケムキチと適当に走ってればいい」
ソリュシャンとは違って、ルプスレギナは逃げました。
いつもなら「ソーちゃんがいないからおにーさん独占」とか言ってイチャイチャべたべたするところでしたが、今回は書類仕事がいっぱいあるのです。下手に刺激を与えて仕事が増えては堪りません。ソリュシャンが不在なので、増えた仕事はルプスレギナが一人で処理しなければならないのですから。
とは言ってもアインズ様に提出する書類のお仕事です。完全に投げ出すことはせず、エ・ランテルのお城に行って手すきのエルダーリッチを一人借りて、口述筆記で清書してもらっています。
と云う事情をクレマンティーヌは全く知りません。若旦那様も語りません。
クレマンティーヌにとって確かな事は、自分と若旦那様の二人きりと云うことです。千載一遇の機会です。慎重に切り出しました。
「妹とは」
「チッ、嫌な事を聞くな」
言い終わる前に、とても機嫌が悪そうな舌打ちと共に吐き捨てられました。
若旦那様とソリュシャンとルプスレギナの間には溝があると思っていたら、溝どころか断絶かも知れません。
「えっと、……嫌いなんですか?」
「嫌い、だと? 好きに見えるのか? 任務でなけりゃあんなのと誰が会うか!」
予想以上の手応えです。まさかそこまでとは思っていませんでした。
その割にはいつもにこやかに穏やかに二人と接しているように見えるのですが、宰相閣下の相談役を担えるくらいですからその程度の腹芸は簡単なものなのでしょう。
「俺の見てないとこでこっそり死んでてくれてたらなぁ」
クレマンティーヌは、内心で快哉を叫びました。
「それなら私が手伝いますよ?」
「ん?」
若旦那様の意識がようやく現世に戻ってきました。
あちらに行っていてもクレマンティーヌとの問答を覚えています。内容が刺激的だったから戻ってきたのです。
クレマンティーヌが妹の事を知っている事に、若旦那様は疑問を覚えませんでした。その事については、アインズ様とナザリックの階層守護者の方々の御前で話しています。アルベド様もご存知です。アルベド様がソリュシャンたちに話し、ソリュシャンたちがクレマンティーヌに話したのでしょう。
嫌な事ですから口にしないだけで、秘密にしているわけではないのです。
「そう言ってくれてもな。手に掛けたいわけじゃない。だから見えないとこで死んで欲しい。それにクレマンティーヌに出来る事は何もないだろう? 余計な事は気にしないでギターの練習を続けるように」
「でも、お辛そうなのを放っておけません!」
クレマンティーヌは自分のキャラではないと思いつつ、力を入れました。
ここが突破口です。ここを何とかすれば自由への道が見えてくるのです。
「……そんな風に見えるか?」
「はい。いつも傷ついて辛そうにしています。お力になりたいんです」
「ふむ……」
若旦那様はクレマンティーヌが何を言ってるかわからなくても、自分のために何かしたいと言っているのは理解しました。
「あ……」
「気持ちは嬉しい。だがさっき言ったように、クレマンティーヌは与えられた課題をこなしていればいい」
若旦那様はクレマンティーヌの頭を優しく撫でました。
クレマンティーヌは自分の無力を嘆いてか恥ずかしがってか、顔を俯けます。
「でも……」
クレマンティーヌは必死に考えます。ここで若旦那様を動かさないと、事態が進展してくれません。それに、良からぬことも言ってしまいました。それを言うなら、死んで欲しいなんて言うあっちの方が遥かに過激ですから問題にはならないと思いたいです。
一方の若旦那様は、幼女の頭を撫でて不思議な感慨を覚えます。カルネ村のネムちゃんや、帝都に置いてきたウレイリカとクーデリカの頭を撫でた時とは違う感覚です。
日常生活の中にクレマンティーヌがいるからだと気付きました。ウレイリカとクーデリカも近しかったのですが、あちらは奴隷として買い入れ使用人として使っていますから、どうしても違うのです。
世話をして色々教えて、となると娘でしょうか。娘にしては随分と育っています。
クレマンティーヌより育ってる実の娘がいたりします。が、ソフィーの幼い頃はあっという間に過ぎ去ってほとんど見ていないため、娘との実感が薄かったりもします。とは言っても、ソフィーに対しては随分と気安くしてしまってる自覚があります。心のどこかでは、やはりソフィーは自分の娘と認識しているからでしょう。
で、クレマンティーヌです。
娘にしては育ち過ぎです。もしもクレマンティーヌくらいの娘がいるとするならば、若旦那様はクレマンティーヌくらいの年の頃に仕込んだ事になります。色々と無理でしょう。
娘でなければ年の離れた妹。これならありです。
ルプスレギナは色々言っていましたが、若旦那様の前では素直でお行儀の良いクレマンティーヌです。理想的な妹と言ってよいでしょう。
「クレマンティーヌが妹だったらなぁ」
若旦那様は、本当にしみじみと言いました。
クレマンティーヌが本当に妹だったら、あれほど苦労する羽目にはなっていなかったはずです。しかしそうすると、あらゆることが上手く行きすぎて目論見通りに帝国へ行ってそれなりの暮らしを送っていた事でしょう。それはそれで悪くありませんが、そうするとアルベド様にお会いできなくなっていたかも知れません。禍福は糾える縄の如しと言いますが、まさにそれです。
「はい! 妹になります! おにーさまって呼んでもいいですか?」
「構わないよ。但し、時と場合をわきまえる様に」
「わかってます!」
クレマンティーヌは、うげぇと思いつつもやったぁと思いました。実は血のつながった兄がいるのです。あっちの兄は優秀さがとにかく鼻について、そのせいで色々なところで不遇に見舞われてきました。あいつがいなければと思ったことは百や千ではありません。兄なんてまっぴらごめんです。
ですが、お屋敷の若旦那様と義理の兄妹になれれば、色々な事で有利になる事間違いなしです。なにせ魔導国宰相閣下の相談役なのですから。権力も財力も相応のものがあるに違いありません。
クレマンティーヌは降って湧いた幸運に気が逸って、色々な事をまくし立てました。
おにーさまの気持ちがわかりますだとか、私の心はおにーさまと一緒ですだとか、とりあえずおにーさまを盛り立てて良い気分にさせる作戦です。
若旦那様の反応はいまいちでしたが、大声を出して笑ったりしない若旦那様ですので、クレマンティーヌはあまり気にしませんでした。あっさりと釣り上がった大当たりに舞い上がっているのです。
▼
ギターの練習や座学が終わって、お昼を挟んで食休みの後は体育です。
今日はルプスレギナがお出かけしているので、若旦那様がケムキチに「適当に運動させてくれ。怪我はさせないように」と言いました。ケムキチは背筋をまっすぐ伸ばしてお返事します。
お返事は良かったのに、若旦那様の姿がお屋敷の中に消えるなり、「はぁ……」とだれてしまいます。
「今日も暑い。演習場を2・3周もすれば十分だ。好きにやってろ」
「はあ? そんなんでいーの? ルプー様がいないからって雑過ぎない?」
「毎日あんなに走る方が毒だ」
「……そーかもね」
今は幼女をやっていても、その前はバリバリの一線で輝いていたクレマンティーヌです。体の鍛え方は基礎からわかっており、体を苛め抜く悪影響も知っています。体力をつけるのが重要なら、体の柔軟性を養うのも重要です。この日は体をほぐすことに決めました。
屈伸したり前屈したり、体のあちこちの筋を伸ばしていきます。
ケムキチはその場にどかっと座り、ぼーっとこちらを見ているだけです。
そんなケムキチを見ていると、様々な疑問がわいてきました。その中で、クレマンティーヌは一番気になる事を口にしました。
「ケムリンってさ。追いかけっこしてる時に手抜きしてたよね? なんで? ルプー様にぶっ飛ばされるのが好きなの?」
ケムキチはビーストマンです。ライオンタイプのビーストマンです。顔の作りは人間とは全く違って、毛むくじゃらです。それでも、ケムキチの顔がとても嫌そうに歪んだのは、誰が見てもわかった事でしょう。
「そんなわけあるか!」
「それじゃどーして? 私って美味しそうに見えるらしいんだけど?」
ルプスレギナに課されてしまった追いかけっこで、クレマンティーヌはケムキチに捕まりそうな時が何度もありました。その都度、ケムキチは絶妙に失敗して空ぶってしまうのです。一度や二度ならただのミスと思えましたが、三度や四度となると必然です。明らかな手抜きでした。
ケムキチはクレマンティーヌを捕まえると、ご褒美に腕一本です。クレマンティーヌの腕です。
人間の事は歩いてる骨付き肉くらいにしか思ってないビーストマンなので、手抜きをする必要は全くありません。全力で捕まえて然るべきでしょう。
「旨いのかもな。だがお前には関係ない。俺のためだ」
「じゃーなんで? 私が可哀そうって思った?」
「そうだなとてもかわいそうだ」
「あからさまな嘘つくんじゃねーよ。このクレマンティーヌ様に哀れみだと? ふざけるな!」
「何だっていいだろうが」
「良くないから訊いてんだろーが!」
ケムキチが手抜きするのは良いのです。理由がわからないのが気に入らないのです。もしもその理由が崩れた時には、腕をボリボリされてしまうのですから。
危険を回避している担保が何であるか知りたいのです。
「ついてくるな。運動の時間は終わってないだろ」
「それだったらケムリンは見てないとダメでしょ? ねーねーなんで? 減るもんじゃないじゃん」
演習場から離れるケムキチに、クレマンティーヌはついていきます。一人残されても暇ですし、若旦那様の攻略が上手く行ってはしゃいでるのもあります。
ケムキチが向かったのは、お屋敷の敷地の端っこに建てられた天幕でした。
クレマンティーヌは、初めて見た時からあれは何だろうと思っていました。どうやらケムキチのお家だったようです。
ケムキチに続いて、クレマンティーヌも遠慮なく天幕の中に入ります。
中は意外に広く、立派な寝台に煮炊きが出来る設備も揃っていました。
上からは獣の脚がぶらんと吊るされており、クレマンティーヌは一瞬だけぎょっとしたものの、何やら良い匂いを嗅ぎ取ります。生肉ではなく、燻煙してあるようです。天幕の中で燻製は出来ませんから、別の場所で作ったものがケムキチに与えられたのでしょう。
「さっさと出てけ」
「別にいーじゃない。ケムリンって結構いい暮らししてるんだねー。床もしっかりしてるしさ」
天幕の床は板敷です。割と高級な木材を使っています。実は黄金の輝き亭の廃材を利用しているのです。ペットのお家にしてはとても豪華です。
「そこまで隠されると逆に気になるんだけど? 何か秘密があるわけ?」
クレマンティーヌは寝台に腰を下ろそうとして、ケムキチが使ってる寝台はきっと獣臭いから止めとこうと思い、それなら椅子にしようと思ったけれどやっぱり獣臭そうで、結局中央の柱に寄り掛かりました。
なお、寝台も椅子も毛皮が貼ってあります。どこもかしこも毛皮だらけで、やはり豪華に見えてしまいます。
「どーしても話してくんないんなら、ケムリンに連れ込まれたーって大声出すよ?」
「それは絶対やめろお!!」
「わっ」
天幕が震えるほどの大声です。ケムリンは本気でした。
クレマンティーヌが見た目通りの子供だったら、今の大声で怯えてしまうところですが、中身は一流の戦士です。ビーストマン如きの咆哮で怯む心は持っていません。怯むどころか、ますます興味をそそられました。
「それじゃなになに? 余計なこと言わないから教えてよ」
「…………………………はぁ」
ケムキチはくそバカでかいため息を吐きました。
好奇心旺盛な子供は本当の事を言うまで食らいつくつもりらしいです。
ケムキチはがっくりと項垂れ、心を削るような声で言いました。
「お前があの方の預かりだからだ」
「あの方? お骨様、じゃないよね? 若旦那様って言われてるあの坊ちゃん?」
「バッ………………!! 迂闊な事を言うな聞かれたらどうする聞かれても俺はおかしなことは言ってないからな何も言ってない何も言ってないぞ!!」
「そんなにビックリすることないじゃん。みんな若旦那様って言ってるよ? 坊ちゃんってのは聞いたことないけど」
「だからあの方をそんな風に呼ぶな! 誰が聞いてるかわからんぞ!?」
「はいはい。それじゃ、私が若旦那様の預かりだと何で手抜きするわけ?」
クレマンティーヌのおにーさまになった若旦那様である。
なるほど、確かに宰相閣下相談役に取り上げられる能力はあるようだ。
クレマンティーヌを膝に乗せ字の読み書きを教えながら、右手で文書を作っていた。文書の方は見もしない。書いてあることは読めなかったが、チラチラと盗み見した限りでは、帝国の精緻な地図があった。あんなものを空で書けるのだ。
そして性向は温厚。たまに不機嫌になる事はあっても、感情を爆発させる人物ではない。地位を笠に着て居丈高になる事もない。それであの美貌なのだから、年若いメイドたちが夢中になるのもよくわかる。
総合して、ケムキチが若旦那様に怯える理由がさっぱりわかりません。
「…………ルプスレギナ様を怒らせたらどうなると思う?」
「はあ? なにそれ関係あんの?」
「わからないならいい」
「わかったって。ルプー様怒らせたらぼっこぼこにされるんじゃない? 回復魔法凄いし、ぼこされて回復されてぼこされてってすっごくやりそう」
「その通りだ」
「ケムリン、体育の度にやられてるもんね。私を捕まえられたらされないのに」
「捕まえても理由をつけてやるに決まってる。ルプスレギナ様は未だに俺を許してないからな」
「……ケムリン、何やったの?」
「あの方に攻撃を仕掛けた」
「ふーん」
ルプスレギナの事を、どっかで死んでて欲しいと言ってた若旦那様です。とても嫌っているようです。けれど、ルプスレギナの方はそうでもなかったようです。
「ミラも何かあればすぐに手を出してくる」
ミラが若旦那様に傾倒してるのは、ちょっと見ればよくわかります。事あるごとにミラから蹴飛ばされぶっ飛ばされてるケムキチなのです。
「だが、あの方に責められるより遥かにましだ」
「は?」
クレマンティーヌには理解できませんでした。
手足をぽきぽきされる方がずっとマシだとは、一体何なのでしょうか。
「え? なに? ケムリンって若旦那様怒らせたの? ってか怒るのあの人? いや、人? 悪魔かな?」
「……………………」
ケムキチは答えません。
椅子に深く座り、両手で自分の体を抱きました。
手袋をして爪は出ていないのに、両手の指が二の腕に食い込みます。
カタカタと震え出しました。
「……この椅子は俺の副長だった」
「は?」
「そこの寝台は同じ部隊の仲間だった。顔も名前も思い出せない。あいつとあいつとあいつと……、天幕は何人分だ? 十人か? 二十人か? 俺たちは二百もいたんだ。あそこは二千以上の大隊だった。もう何もない。全部ない。あいつは……あの方は……」
「ちょっとちょっと……」
クレマンティーヌはケムキチに問いかけつつも、うっすらと気付いてしまいました。椅子や寝台に天幕になってる毛皮は、ビーストマンの毛皮だということに。
何も知らなければ単なる毛皮で、知ったとしてもビーストマンの毛皮で済む話です。
ですが、そこに住んでるのはビーストマンのケムキチです。ビーストマンがビーストマンの毛皮の中で暮らしているのです。
「あの方を怒らせたらどうなると思う?」
ケムキチの声からは、色も温度も抜け落ちていました。意思も感情も刮ぎ取られ、水底の石ころが喋っているかのようです。
「残酷とか残虐なんかじゃない。そんなものは俺も散々やってきた。だがあの方のは、そんなんじゃない。きっと何もない。何とも思ってない。俺は、あの方が……」
「ケムリン、ケムリン! 血が出てるって!」
カタカタと震えていたのが、ガタガタと椅子が鳴りだしました。
「あの方が…………こわい……」
ケムキチが搾りだした声は、子供が泣いてるような声でした。
▼
クレマンティーヌは、若旦那様の表層しか知らなかったことを自覚しました。
魔導国宰相閣下相談役で、お骨様と面識があるというのは、あの恐ろしくも美しい場所を知ってるに違いありません。あの場で見た数々の異形種も知っているはずです。それなのに魔導国宰相閣下相談役を続けているということは、若旦那様もあちら側と察するのは容易です。
どうして今まで気付かなかったのか、わが身の迂闊を呪うばかりです。
もしかしたら妹がどうのと言っていたのも、自分を誘導して本心を口にさせるための演技だったのかも知れません。
よくよく考えてみれば、いくら自分が幼くて警戒に値しない存在だとしても、新参者に「妹に死んでて欲しい」なんて本心を言うわけがありません。宰相閣下の相談役がそんな事を口にしたら、魔導国の秩序が保てません。
やはり自分は誘導されたのだと思う他ありませんでした。
それでも日は沈み夜は明け、新しい日がやってきます。
クレマンティーヌは、若旦那様をおにーさまと呼んで甘える素振りを見せつつ警戒を強め、それとなくお嬢様や神官様の話を振ってみます。若旦那様の言葉は、死んで欲しいと願う相手に思う事ではないように思えます。
若旦那様は何事もなかったかのように、ギターの指導をします。読み書きは省いて、数の扱い方を教えます。クレマンティーヌは、どうしても身が入りません。死線を歩いているように思えてならないのです。
夜にはルプスレギナが帰ってきたようで、午後の体育はケムキチとの過酷な追いかけっこが続きます。ケムキチは相変わらず手抜きをしてくれました。ルプスレギナはそれを織り込み済みで、ケムキチをぽきぽきやってしまいます。若旦那様が様子見をする時は、すぐに治してやるようでした。
数日が経ち、お嬢様も帰ってきました。
クレマンティーヌは完全に無視をされているので、お嬢様がいようがどこかに出かけてようが関係ありません。
ただし、妹を嫌ってる若旦那様はどうでしょうか。クレマンティーヌが見る限り、お嬢様と険悪な様子はないようです。これとあれとどっちが演技だったのか、クレマンティーヌにはわかりませんでした。
いいえ、わからないと云うのは希望的観測を多分に含んでいます。あちらに確定してしまうと、自分は二人の抹殺を提案して肯定したということになってしまうのですから。
そうなってしまったら生き返らされたあの場所に戻され、タコさんのお楽しみが始まってしまうのです。
クレマンティーヌが大いにやきもきする日は長くは続きませんでした。
モモン様が帰ってきたのです。
モモン様とナーベ様はお屋敷を臨時の拠点にしているので毎日とは言わずとも定期的に戻ってくるのですが、中身がその時々で違うようです。お出迎えするだけのメイドたちでは気付かないでしょうが、クレマンティーヌにはわかります。若旦那様やルプー様、お嬢様の反応が違うのです。
この日のモモン様は、お骨様のようでした。
その翌日の事です。
「おはよう」
「……………………え?」
「クレマンティーヌと言ったわね。あなたはおはようと挨拶されたら何と返せばいいのか知らないのかしら?」
「あ、ごめんなさい。おはようございます、お嬢様」
「あなたは使用人ではないでしょう? 名前でいいわ」
「……ソリュシャン様?」
「ええ」
今までずっとガン無視されてきたお嬢様に挨拶をされたのです。
クレマンティーヌから挨拶されたのに返されたのではなく、お嬢様から挨拶をしてきたのです。
お嬢様が自発的にそんな事をするわけがありません。何かがあったのです。
「今日は適当に流してくれればいいっすよ。やり過ぎは体に悪いっすから。一緒に柔軟でもやるっすかね? 怪我したらすぐに言うんすよ? すぐに治すっす」
「……ありがとうございます」
痛めつけるのが大好きなルプー様がこれです。
昨日までは、「チビちゃんがいい顔しないからもう一度」とか言って血反吐を吐くまで追い込まれてました。何を言われたか知りませんが、変わりすぎです。
そんな二人の共通点として、可哀そうなものを見る目をしていました。
哀れみの目です。
どうしてそんな目で見られるのかさっぱりわかりません、と言えたら幸いでした。
不幸な事に、クレマンティーヌには推測出来てしまいました。
どうやら、若旦那様が、あの日の事を、お骨様に報告したのでしょう。
ケムキチをあれだけ怯えさせる若旦那様です。
追いかけっこするうちに、ケムキチは割と優れた戦士なのでは、とクレマンティーヌは察しました。ぽつぽつと話した言葉が本当なら、一部隊を預かる長だったのでしょう。しかし、全滅。今やケムキチの天幕に。ケムキチだけが生き残ってます。
ルプー様にぽきぽきやられても無駄に騒がないケムキチです。中々の精神力です。そんなケムキチが、子供のように怯え切って若旦那様が怖いと泣くのです。
きっと若旦那様は、目的のために手段を選びません。
自分はそれに引っかかってしまったのです。
自分があの二人に憐れまれるのは、自分のこれからが決まったからなのでしょう。
怖いかと言われたら、とても怖いです。
同時にふざけるなとも思います。卑怯とは言いません。引っかかった自分が間抜けなのです。
しかし、座して死を待つつもりはありません。かといって実力行使は不可能。死期が早まるならまだしも、死んでも済まないかも知れません。
▼
アルベド様の夜食時間は、今までの習慣から日付が変わる前に終わることが多い。
それでも夕食をとって一休みしてから体を清め、時にはそれを省いて始まるお夜食は、たっぷり三時間は取ることが出来る。アルベドの疲れと心と体を癒すのに十分な量と回数を確保できる。
その後に一緒のベッドで眠ることはない。アルベドとしては少し気をそそられるが、寝起きの顔を見られるのはちょっぴり恥ずかしい。男の方も辞退する。
いつかは、と思ってもまだ出来ていない。
アルベドの部屋を辞した男は、自室には向かわず書斎に入った。
窓を開け、夜風を浴びて火照った体を冷ます。
素晴らしい一時を思い返しながら、あのお体に傷をつけてはならぬと、武装の素材について考える。
月が目に映った。
月に見入って、思考を沈めていたから気付かなかった。
「おにーさまは何を考えてるのかな?」
「……まだ寝ないのか?」
クレマンティーヌの口調がいつもより砕けている。紫の瞳はキラリと光っている。
いつ入ってきたのか、全く気付かなかった。
書斎の入り口にはミラがいたはずだが、クレマンティーヌなら黙って通したかも知れない。
「こんな時間にどうしたんだ? 寝付けないなら一緒に寝てやろうか?」
「それはいらない。どうしても知りたいことが出来て、それがわからないと眠れそうになくってさ」
「なにかな?」
「私の処刑っていつになったの?」
クレマンティーヌの言葉に、男は気を引き締めた。
驚きはしても、あらかじめ覚悟していたのだ。それもこれも、アインズ様のお言葉があってのこと。
やはりアインズ様は全てを見通すお方。クレマンティーヌの状態を正確に見抜いていた。
クレマンティーヌの心が闇に囚われているとは本当だったのだ。
なんとしても心の闇を払わなければならない。
Cl編は一月中に終わるはずです
たぶんあとちょっとです