明くる日のお昼。エモット邸で催されたお食事会はとても賑やかな物になりました。
エモット家の姉妹は当然として、妹のネムちゃんが約束したエ・ランテルからのお客様。そのお客様が連れてきたバレアレさんちのンフィーレア少年。何故か湧いてきたゴブリン軍団ぷらすオーガ達。
昨日約束した通り、エ・ランテルの若旦那様はバレアレさんのとこへ遊びに行きました。やはり昨日と同じように錬金術の話で盛り上がりました。お昼が近づき、お客様と離れがたく思ったンフィーレア君は昼食を一緒にどうかと誘いました。そしたらエモット家から誘われているのでと断られてしまいました。
ンフィーレア君は戦慄しました。なぜならば、ンフィーレア君はエモット家のエンリちゃんのことが昔から大好きだったのです。そのエンリちゃんがこのお客様を誘ったのです。同性から見ても見惚れてしまう美貌の男をエンリちゃんが誘ったのです。もしかしてエンリちゃんはこの人と急接近してしまったのだろうかと気が気でなく、気付いたら「僕も一緒に」と口走っておりました。
ンフィーレア君を招いていいかどうかをお客様が判断できるわけがなく、とりあえず保留しようとしたところを今日も同行していたゴブリン軍団のジュゲム隊長が「わかりやした!」と駆けていきました。
エモット家に急行したジュゲム隊長はエンリ大将軍へ昼食会を開くことを一方的に告げ、エモット家の庭に大きな竈を作ってバーベキューの準備に取りかかりました。
竈を作る石はゴブリン大軍団が従えるオーガをこき使いました。オーガはゴブリンと同じく亜人の一種で、縦は人の倍、横は五倍にもなろうかという巨人です。しかしカルネ村では下っ端扱いです。
お肉は森に入って狩りをしてきたゴブリンレンジャー部隊提供です。
ジュゲム隊長には思惑がありました。
我らが総大将であるエンリ大将軍は昨日来たばかりのお客様といい関係になってしまったかも知れませんが、ジュゲム隊長の推しはやっぱりンフィーレア少年です。
バーベキューをして、ンフィーレア少年がエンリ大将軍にちょっと頼りがいがあるところを見せれば好印象になるのではと考えたのです。と同時に、都会から来たお客様は生のお肉を獲物から捌くところを見せれば真っ青になって貧血を起こしてしまうかも、とも考えました。
あちらを立ててこちらを下げる作戦です。
ところが思惑は大きく外れてしまいました。
獲物を捌くところで顔を青くしたのはンフィーレア少年で、お客様は貧血どころか懐から取り出した短剣を使って率先してお肉を捌きました。手が血や脂で汚れようともまったくお構いなしです。焼く前に生で食べようとしたのでエンリちゃんから可愛らしく窘められる一幕もありました。
ちなみに短剣はコキュートス様から頂戴したものです。魔法の効果はなくナザリック的には量産品なのですが、凄い切れ味で硬い骨もスパッと断ち切っていました。
ジュゲム隊長の思惑は外れてしまいましたが、とりあえず参加者の全員がお腹いっぱいになりました。
ゴブリン達が食事の後片付けをしている間に、エンリちゃんがお客様にそっと声を掛けて連れ出すのをンフィーレア少年は目撃してしまいました。
一体何をするつもりなのか。一体何を話すつもりなのか。ンフィーレア少年は呆然としながらも二人の後をつけました。盗み見や盗み聞きが悪いとかいう善悪の判断は全く付きませんでした。
エモット邸の裏側で親密そうに話している二人を、ンフィーレア少年は絶望と共に覗いていました。
ずっとエンリちゃんが好きだったのです。でもエンリちゃんは昨日会ったばかりの格好いい男の人とお話ししています。
自分とあの人とを無意識に比べ、色々と向こうに軍配が上がった末に、「でも僕は魔法が使えるし!」と僅かばかりの優越感に浸ってみましたが虚しいだけでした。
距離がある上に声を張ってるわけでもないので何を話しているかは聞こえません。でもエンリちゃんが寂しそうに笑っているのが見えました。エンリちゃんがあんな顔をするのをンフィーレア少年は一度も見たことがありません。
昨日ぽっと出たばかりの男に愛しのエンリちゃんが奪われてしまうことに、ンフィーレア少年は怒る余裕もありませんでした。全身から血の気と気力とその他諸々がいっぺんに引き、陸に上がったクラゲのような有様になってしまいました。
視界が霞み、物陰に引っ込んで視界を霞ませる原因を拭って、だから誰かが近づいてくることに全く気が付きませんでした。
肩をぽんと叩かれ、うひゃあと可愛い叫びを上げました。
肩を叩いたのはエンリちゃんとお話ししていた男の人です。
ンフィーレア君は、長い前髪に目元が隠れていることを今ほど感謝したことはありませんでした。
「エンリさんが呼んでるよ」
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ンフィーレアはふらつく足に渇を入れながら佇むエンリに近付いた。
「どしたの? ンフィー大丈夫?」
「だ……大丈夫、だよ? 僕に何か用?」
大丈夫と言い張るンフィーレアを、エンリは心配そうに見上げた。腰を折って下からンフィーレアの顔を覗き込もうとすると距離をとられた。
「ふーん……。まあ大丈夫ならいいけど」
「うん、大丈夫だよ。僕に何か用?」
「本当に大丈夫?」
「大丈夫だって。それで、何?」
何があったか知らないが、エンリの目には大丈夫そうには見えなかった。それでも大丈夫と言い張るなら大丈夫と言うことにして、エンリは用件を告げた。
「結婚しよっか」
「……………………………………ああ」
ンフィーレアは何か重大なことを言われる覚悟をしていた。していたが、エンリの言葉は重すぎた。受け止めることが出来なかった。
「…………急過ぎない?」
「別に急じゃないわよ。前から考えてたし」
「……………………………………ああ」
前からと言うことは、昨日よりも前に会ったことがあるのだろうか。
「なに? イヤなの? ンフィーも同じ気持ちだったんじゃないかなって思ってたんだけど?」
「イヤって言うか…………。やっぱり急で…………。僕も同じ気持ちって言われても……………………。そりゃ凄い人だと思うけど………………さ」
「へ~~~~~~~~? 自分で自分を凄いだなんてンフィーも言うわね。ま、天才錬金術師とか言われてるから凄いのは確かだけど、ンフィーが自分でそういうこと言うとは思わなかったわ」
「天才………………。確かに天才だよ。魔法は使えないのに凄い知識だし、発想も凄いし、それに比べたら僕なんて…………」
「……ん? ンフィー何か勘違いしてない?」
「……………………エンリが結婚するんでしょ?」
「誰と?」
「それは……………………………………。あの人と」
「ちっがああああああああああああうっ!! どうしてそんな勘違いするのよ! 私と、ンフィーが、結婚するの! なに!? ンフィーは私と結婚するのがそんなにイヤなわけ!?」
「え…………。ええええ!? ええええええええええええええええええ!?!?!?!? 僕とエンリが!?」
「何でそんなに驚くのよ。それにどうして私から結婚してって言わなきゃなんないの! こういうのって男の人から言うもんじゃないの!?」
エンリに何を言われたのか、ようやっとンフィーレアはしかと認識できた。出来たと同時に引いた血の気が勢いよく戻ってくる。顔は真っ赤になって湯気が立ちそうなほど熱を持つ。
エンリが両手を腰に当てて睨んでくる。とても怖いが、とても可愛く思えてならなかった。
「で、でも、その、さっきの人は? …………え? 僕と結婚してくれる? え? ホントに? 嘘じゃないよね? 本当だよね? エンリは僕と結婚してくれるって言ったんだよね?」
「言いました。どうしてそんなに信じられないのよ。……あの人は凄く素敵な人だけど私なんかが釣り合う訳ないじゃない。第一昨日会ったばかりなのよ? どうして私があの人と結婚なんて思うの」
「は…………ははっははっは! そうだよね、エンリなんかがあの人と釣り合うわけ……グフォエェッ!?」
エンリちゃんブローがンフィーレアのボディに決まった。
ンフィーレアは愛しのエンリちゃんと結婚できることになって嬉しくてたまらなくなり、よくわからないことを口走ってしまったのだ。
以降の夫婦の力関係を暗示する始まりであった。
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「私、ンフィーと結婚することにします」
「それはおめでとう」
昨夜あれほど愛し合ったのに、あっさりと祝福の言葉が返ってきてエンリは少し寂しくなった。
「結構前から考えてたんです。私、このままじゃ誰とも結婚できないなあって。結婚するならンフィーくらいしか相手がいないし、ンフィーは子供の頃から良く知ってるから悪い相手でもないかなって」
王国の農村ならエンリの年で結婚するのは早いとは言えない。二十歳で子供がいるのもおかしいことではない。
「そうだね。ンフィー君は錬金術師として既に名を成しているし、性格も穏やかそうだ。良い相手だと思うよ」
「………………そうですね。でも、私は結婚しても家庭に縛られて夫の所有物に成り下がるつもりはありません」
昨日、男がエンリへ語った結婚観である。
「そこはエンリさんの自由意志を尊重するよ。ンフィー君もエンリ大将軍を拘束するなんて大それたことは思えないだろう」
「大将軍…………………………。ともかく結婚します。ですからいつ子供が出来ても大丈夫です」
「結婚して夫婦の営みが行われれば、そうなっても不思議はないね」
「……昨日みたいなことがあっても大丈夫です」
「……………………………………ん?」
「カルネ村にはまた来ますよね?」
「それはまあ、何度も訪問するつもりです。今回はそれに備えての顔見せの意味合いが強いわけですから」
「待ってますから」
「…………………………」
「……子供が出来るようなことがあっても大丈夫ですから」
「……………………そう、だね」
夫は自分たち夫婦の子供が本当に自分の子供なのか、確証を持つことが出来ない。
妻は自分たち夫婦の子供が本当に自分の子供であることを知っている。
そのため男と女は性に対する考え方が根本的に異なっている。
そしてそれゆえに、夢見がちな男とは違って女はとっても現実的に出来ているのだ。
エンリの宣言は現実を見据えたものだった。
とりあえずエ・ランテルに戻ったら精力増強の薬や食事を研究して、完成した成果はンフィーレア少年へ贈ることに決めた。
どうか頑張って血塗れのエンリを満足させて欲しい。
エンリに頼まれてンフィーレアを呼んだ後はネムにつかまった。
昨日のように抱っこして、密着しているのをいいことにこっそり耳打ちされる。
(ネムが大きくなったらお兄ちゃんのおちんこをネムのおまんこに入れてね♪)
とりあえずそのようなことは男の人には言ってはいけないと注意する。どうしても誰かの意見を聞きたいときは信頼できる大人の女性にすべきと助言する。
なお、先のことはわからないので約束は保留にしてもらうつもりだったが、ネムから再三ねだられ、ネムが大きくなってもそのつもりがあったなら、と言うことにしてもらった。
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仮宿に戻って出発の準備をしているとナザリックからユリが戻ってきた。ユリにも手伝ってもらって滞りなく準備を終え、カルネ村を出発した。
見送りにはエモット姉妹に喜色満面のンフィーレアとジュゲム他。
ユリに窘められながら御者台から身を乗り出して手を振った。馬車の足は速く、森を切り開いて作られた街道なだけあってすぐに見えなくなってしまった。
今日も昨日に続いて馬車の旅。しかし、ユリの視線は昨日より厳しい。かなり険がある目つきで隣に座る男を睨んでいる。
「先に申し上げておきます。もしも何かにぶつけたりしたら取り上げて馬車の中に叩き込みますからね!」
「承知しました」
殊勝に答えはするものの止めようとは思わないらしい。手に持つ得物を矯めつ眇めつ、じっくりと鑑賞する。手にしているのは刃の長さが1メートル近い長剣だった。
短剣とセットでコキュートス様から頂戴したものである。「欲しいです」と言ったら「コレヲヤロウ」とくださったのだ。
片刃の剣で、根本から刃先に掛けて指二本分ほどの反りがある。いわゆるカタナブレイドである。
包丁で肉を切るとき、上から押すだけだと肉を潰してしまう。切るには刃を滑らせる必要がある。故に刃が真っ直ぐの直剣は切ると言うよりも叩き切る形になる。漆黒の英雄モモンほどの膂力があれば問題なく切断できる。
そこで刃が僅かながらでもカーブを描いていると、直剣よりも刃を滑らせやすくなる。カタナブレイドが斬ることに特化した剣と呼ばれる所以はそこにある。
御者台で、しかもすぐ隣で、凄い切れ味のカタナを抜かれたら誰であっても心中穏やかではいられない。むしろ即刻取り上げてグーパンして躾るべきである。
振り回そうものなら被害ゼロでもボディに喰らわせて黙らせようと思っているユリだが、さすがにそこまで馬鹿ではなかったらしい。今のところは鑑賞するだけに留めている。
剣は暴力の象徴である。剣があれば他者の生殺与奪を自在にすることが出来る。
男とは本来的に狩猟者として設計されており、基本的には暴力を好むように出来ている。魔法使いなのに剣士の振りをしているアインズを見ればそこのことがよくわかる。
この男も例外ではなかったらしい。
初めて手にした長刀がどのようなものであるか、形を見るだけでなく重さや重心を把握し、どのように振ればいいかを脳内で思い描いている。ユリに溜息を吐かれながら。
カルネ村からエ・ランテルまでの道程は、徒歩だと途中で野営を挟む必要がある。馬車を使っても丸一日かかる。両者を繋ぐ街道は石畳で整備されているわけではないのだ。
それがナザリックの馬車だと半日も掛からない。四頭立てなのでパワーがある。引いている馬は疲れ知らずのアンデッド。悪路であろうと高機能サスペンションは車体へ揺れを伝えない。
カルネ村を昼過ぎに出発しても、余裕を持って日没前にエ・ランテルに到着する予定である。
たっぷり一時間は長刀を鑑賞していた男はひとまず満足できたのか、鞘に戻して御者台に立てかけた。目を細めて景色を眺める。
ユリの目には代わり映えしない景色に見えるが、一体何が楽しくて何を見ているのか。流れゆく景色を飽きもせず見つめている。
御者をしているとは言え、これと言って操作は必要ない。ただただ真っ直ぐ進み、緩やかなカーブは馬が勝手に曲がってくれる。ユリは一応手綱を握っているが持ってるだけである。すべきことは何もなく、はっきり言って暇だった。
チラチラと隣を窺う。シズが監禁して色々とさわさわしたくなるのもわからなくはない。視線に気付かれ、目があった。
「最古図書館ではどのような本をお読みになったのですか?」
ここまでほとんど無言だった。警戒すべきことは何もない旅路なのだから、多少のおしゃべりに付き合ってもらっても悪いことではないだろう。
「借りる本はあらかじめ決めていたので、図書館で目を通したのはシズさんやコキュートス様に薦められた本ですね」
「……シズから? シズがどんな本を?」
「主に寓話集でした」
「寓話、ですか……」
寓話は教訓などを読みやすい形にしたものである。子供向けのものが多く、童話に含まれることもある。
「意外に面白かったですよ? 優れた書物は様々な解釈が出来ます。一つの解釈しかできない畏まった書物よりよほど得るものが多かったです」
「そうなのですか。たとえば、と聞いても?」
「ウサギとカメはご存知でしょうか?」
「はい。有名な寓話ですね」
「あれはウサギの怠慢を戒め、カメの努力を讃えているように読めます。ですが、そこには疑問が幾つもあって…………」
創造主が教師であるユリには興味深い話になった。
ユリ自身もいずれ孤児院を開いて子供達の相手をするつもりでいる。子供向けの話は幾つあっても困らない。
会話に花を咲かせながら馬車は進む。
道程を半分近く消化したところで、突然馬車が止まった。ユリが止めたのだ。
男が怪訝に前を向くと、少し先に小さな人影が幾つもあった。
街道の中間地点だ。誰かと行き会うことはけっしてなくもないだろうが希だろう。現在のエ・ランテルとカルネ村では往来が頻繁とまでは言えない。
人影は小柄だ。冒険者か何かだとしても、子供を幾人も連れているとは思えない。
けども横幅は割とある。そして肌の色は緑色。
カルネ村では何人にもあったし世話にもなった存在だ。
ゴブリンの集団が行く手を阻んでいた。
ただし、カルネ村のゴブリン達とは違って身にまとうものがずいぶんと貧相だ。あちらはきちんとした清潔な衣服や鎧などを装備していたが、目の前に現れたゴブリン達はいずれも腰布一枚。それも血と泥と獣脂に汚れきっている。
表情も違う。
ジュゲム達は目に知性を宿し、豊かな表情を見せた。ところがこちらは笑っているのか怒っているのか、裂けたような笑みを浮かべている。目にも知性はない。地を這う獣の方がよっぽど知的に見える。
どこからどう見てもカルネ村出身のゴブリンには見えず、トブの大森林に棲んでいる野良ゴブリンに違いなかった。
「こんなところにゴブリンが? ……そこのあなたたち、私たちはナザリックから来たのですよ。わかったなら即刻立ち去りなさい」
ユリの警告にも耳を貸さない。
下卑た笑みは張り付いたように変わらず、威嚇するかのように手にした得物を振り上げた。粗末な棍棒だったり欠けた短剣だったり、どこで拾ったのか、長く使っているものなのか。
「……仕方ありませんね。片付けてきますので少々お待ちください」
「行ってらっしゃい」
ユリは御者台から飛び降りた。プレアデスの長女であるユリはとても強いのだ。野良ゴブリンなど何体いようが物の数ではない。
このまま馬車を走らせて轢いてもよいのだが、馬具や馬車が汚れてしまうかもしれない。一応、男の安全も気に掛けている。
一昨日の夜に降った雨は未だ乾かず、道をぬかるませていた。
ユリは泥が跳ねないように注意しながら、人が走るよりも速く足を進め、接敵した。
文字に起こせば「ぱあん」だろうか。
接敵したかと思ったらゴブリンの頭が弾け飛んだ。ユリの拳が打ち抜いたのだ。
そのくせユリには返り血一つついていない。
ユリのやりように、男は思わず苦笑した。
もう少し綺麗に出来なかったのだろうか。このままだとゴブリンの残骸を馬車で踏むことになる。
とは言え、派手にやれば残ったゴブリン達は恐怖し萎縮するとも思われる。戦闘には素人の男が出る幕はなく、きっとユリなりの考えがあるのだろうと信じて見守った。
一瞬で仲間がやられたのを見て、残ったゴブリン達はユリから距離をとった。逃げるつもりはないらしい。歪みきった裂けた笑みも変わらない。正気を失っているように見えた。
ユリが一歩踏む込む度に屠られていく。着々と仲間が減っているのにゴブリン達の行動は変わらない。ユリから距離をとり、ユリから屠られ、ユリが退こうとすると距離を詰める。
(誘導されてる?)
如何にも知恵が足りないゴブリン達の行動は異常だった。
死ぬのがわかっているのに逃げようとしない。我が身を犠牲にユリを引き付けているように思えた。
ユリがまさかと思って振り向いたその時である。
馬車のすぐ側の木立からゴブリンよりも何倍も大きな影が姿を現した。成人男性の倍はある巨体はオーガだ。こちらも貧相な身なりで、腰布をまとっているだけ。
あんな巨体が自分に気付かせることなく隠れ潜んでいたことに、ユリは僅かながらに驚いた。
どうやって隠れていたかはわからないが、兎にも角にも馬車に戻って男を守る必要がある。
実を言えば、ユリはあまり心配していなかった。
所詮は頭が悪そうな野良オーガである。
ナザリック製の馬車の中に逃げ込めば、オーガごときの力では破壊することは出来ないだろう。
アンデッド馬の存在もある。はっきり言って野良オーガよりも強い。馬車が多少揺れてしっかり掴まっていないと御者台から振り落とされるかも知れないが、馬が後ろ足で蹴りを入れれば野良オーガの体では耐えきれないだろう。
冷静に行動してもらえば危険はない。
ユリの目からも知的に見え、アルベド様とデミウルゴス様からその知性を認められる男なら、けっして愚かな真似はしないと思われた。
だと言うのに、男は長刀を掴んで颯爽と馬車から飛び降りた。
昨日、カルネ村に着いたときよりも様になっている飛び降り方である。実を言うと、どんな飛び降り方が格好いいかを一昨日から考察していたのだ。コキュートス様と一緒に。
誰も知らなかった。
短い間だったとは言え、ナザリックに滞在していたのだ。
ナザリックの瘴気は心身を蝕み、自覚症状すら感じさせずとある病を罹患させていた。
「どうして降りるんですか!」
ユリの叫びが聞こえたか否か、男は長刀を抜き放ち鞘は御者台へと放り投げた。
そして、言った。
「我をデスク・ドラゴニオ*1と知っての狼藉か。今宵のティーゲルハッチは血に飢えておる。貴様の血で癒してくれよう。我が秘剣ラウンドムーンキリングテックによって灰燼と帰すがよい。ラウンドムーンの裁きを受けよ!」
かつてアインズも罹患し、快癒した今となっても後遺症に苦しむ病の名を『中二病』と言う。
馬車に駆け戻ろうとしたユリはメガネがずり落ちてつんのめった。
ゴブリンとオーガをけしかけ、それでも本当にヤバくなりそうだったら助けてやろうと隠れて様子を見ていたアウラはずっこけた。
咆哮と共に、男の胴体よりも太い棍棒が振り上げられた。
「ムーンスラッシュ!」
オーガの振り下ろしを迎え撃つ男の剣は、どうしようもなくヘナチョコだった。
デスクは英語ではなくドイツ語にしようと思ってました
ですが机をドイツ語にしてカタカナ表記にすると「ティッシュ」だそうで
思わず素で「えーーー」って言ってしまいました
次回、おそらく本作最初で最後の戦闘シーン