親が他界し、親戚も病に伏せ、祖母もまた命を落としてしまう。孤独で生きようとしていた少女の前に現れたのは本物の死神、デュラハンだった。
死神という特性上、死の描写がありますのでご注意ください。
お前は死神だ。
と、子供のころから言われ続けてきた人がいるとしよう。
自分が近くにいることで身近な人が命を落とす。そして周りの子供が、時には大人まで自分を責め立てていく。己は死神なのだと、誰にも関わってはいけないのだと小さな身体には受けきれないほどの傷を抱えて生きていかなければならない。
彼女は独りだ。孤独のまま、生き続ける必要がある。なぜなら彼女は死神なのだから。
だがもしもそんな少女を見た時、”本物の”死神はどう思うだろうか。
*
朝日がカーテンの隙間から漏れている。その光に目を細めながら、少女はベッドから起き上がった。隣で寝ているもう一人の少女を起こさないようにゆっくりとベッドから降りる。
背伸びをしながら彼女はカーテンの隙間から外を除いた。鮮やかな緑色をした葉っぱから雫が落ちる。隣家の引っ越しで世話をするものがいなくなった木は伸び放題で、たまに窓に張り付いている時があった。雨は激しかったが今日は雲一つのない快晴だ。少女は満足したようにカーテンを閉める。
「おはよ」
ベッドで眠っているもう一人の少女に小さな声を掛けた。聞こえていないのか、返事はない。少女は満足そうに頷くと彼女を起こさないようにそっと部屋を出た。
歯磨きを終え、少女は軽く顔を洗う。顔を上げると、鏡に自分が映っていた。癖毛のショートヘア。目じりの下がった瞳の下には、薄くではあったがクマがある。それを確認するように指でなぞると、少女は薄い唇で微笑んだ。
身支度を整えた少女はキッチンへと行き、掛けてあったエプロンを身に着ける。冷蔵庫を開け、卵を取り出しながらその視線が止まった。
「あれ……? まあ、良いか」
少しだけ思案してから扉を閉める。スマートフォンを起動し、日付と時間を確認した。カレンダーのアプリに表示された今日の日付にはケーキのマークがついている。よし、と小さく言うと彼女は厨房へと立った。
トントンと規則的に包丁がまな板に当たる音。油を引いたフライパンに卵を入れるとじゅわっ、と音が鳴った。まるでリズムを取るように卵がフライパンの上で揺れている。テーブルの上に置いたスマートフォンから流れるボサノバのメロディ。少女は鼻歌交じりに水を入れたフライパンの蓋を閉じた。
「わっ」
不意に誰かが少女を後ろから抱きしめる。驚いたように振り返ると先ほどまで寝ていた少女だとわかった。パジャマ姿のまま、まるで小動物のようにその体を少女に押し付けている。思わず頬が緩む。少女は抱きついてきたその背中を撫でながら語り掛けた。
「
絆子、と呼ばれた少女はパジャマのポケットをまさぐる。出てきたのはクイズ番組などで〇や×が書かれた丸い紙に棒がついてあるものだ。書かれているのは〇ではなくベッドのマーク。
「起こしてきて。もうすぐ出来るから、一緒に食べよ」
少女の言葉に絆子は指で丸を作った。まるで無邪気な子供のように寝室へと戻っていく。絆子の後姿が扉で隠れるのを確認してから、少女はフライパンの蓋を開けた。オレンジ色の黄身と少し透けている白身。雫が黄身から白身、そしてフライパンへゆっくりと伝っていく。満足そうに頷くとそれをお皿の上に盛りつけた。
テーブルの上に置かれた二つのトレイの上に朝食が並べられていく。トーストと目玉焼き。カップスープのコーンポタージュと小さなボウルに彩られたサラダ。デザートのヨーグルトの上にはブルーベリージャムが掛かっていた。
「これで良し……と」
テーブルの上に置いてあったスマートフォンの画面をスライドし、音楽を消す。エプロンはキッチンに掛け、テーブルの前に座る。タイミングを計ったように、カチャリと扉が開いた。
「おはよう、
長い黒髪がサラリと揺れる。二重瞼の大きな瞳にピンク色の唇。セーラー服から伸びるスラリと長い手足はまるでモデルのようだ。腰は細いが出るところはキッチリと出ている。紗彩と呼ばれた少女は見知っているはずなのに思わず息をのんでしまう。
「お、おはよう御座います。テラーさん、絆子さんも」
紗彩がそう言うと黒髪の少女はいじわるそうに微笑んだ。紗彩の目の前に膝をつき、その顎を人差し指で撫でる。
「まだ慣れないの? 可愛いわね」
彼女の瞳が真っ直ぐと紗彩を見つめていた。薄く目を閉じているためその長いまつ毛がより際立つ。赤くなった顔を背けようとする紗彩の顎を白い指が掴んだ。無理矢理に自分の方へと向かせる。彼女の端正な顔が紗彩の目の前にあった。唇同士は指二本分ほどの隙間しかない。
「いっそこのまま……だっ!?」
突然、紗彩の顎を掴んだ反対の手が動き自分の顎を殴りつけた。まるでボールかのように、首が床へと転がる。目を見開く紗彩から距離を取り、目の前の首のないセーラー服の少女が両手を合わせた。まるで謝るように合わせた手と身体を上下させる。
「冗談だろーが、絆子」
転がっていった首が声を発した。絆子、と呼ばれた首から上がない少女は自分の頭であったそれを小突く。
「いってぇ! やんのかオラ、この首無し女!」
首無しの少女を恫喝する、首。口調と怒りは見て取れたがその額はもてあそばれるように人差し指で突かれていた。勢いをつけ、指に噛みつく首。痛がるように腕をぶんぶん振り払おうとする首無し少女と笑ながらも必死に食らいつく首。
不意に首が持ち上げられ、首無し少女に押さえつけられた。紗彩だ。
「まだ喧嘩は終わってねぇぞ、紗彩!」
「ご飯冷めるから、食べよ」
「……わかったよ」
少し低い声の紗彩に気圧され、首無し少女とその首の喧嘩は終止符が打たれた。こきこきと首を鳴らし、黒髪の少女が紗彩と向かい合わせに座る。同時に手を合わせて一言。
「いただきます」
二人はそう言って朝食を取り始めた。紗彩はトーストを小さく千切り口へと運ぶ。対する彼女はお淑やかな雰囲気などどこへやら、トーストへとかぶりついていた。彼女が噛みちぎったトーストの一部が黒く変色する。瑞々しい緑色の野菜も彼女が噛むと途端に色を失った。
死神。
紗彩の目の前にいるのは、ありていに言えばそういう存在だ。死期の近い人間の許へと現れる首のない死体とその首。アイルランドに伝わる首のない妖精は男だとも女だとも言われている。名前はデュラハン。しかし彼女の本当の名前は人間に発音することが出来ない。紗彩が付けたテラーと絆子、という名前は彼女なりの区別の仕方だ。首だけのテラー。首のない身体が絆子。
「学校どう?」
「どうって言われてもなあ。あたしは寝てえけど絆子が許してくれなくてな」
「絆子さん、真面目だからね。体育とか大丈夫なの? 激しい運動とか……」
「知ってるだろ、この首はそう簡単には取れねぇよ。取るのは絆子の判断」
「まあ、そっか」
彼女たちを繋いでいる首を見つめる紗彩。先ほどは絆子がアッサリと殴り飛ばしたが、縫合されたような跡などはない。じっくり近くで見つめても知らない人が気づくことはないだろう。視線がテラーと合うと、彼女は人差し指で自分の胸を突いた。
「心配してくれてありがとう、だとさ」
「大したことじゃないよ」
くしゃりと顔を歪める紗彩。その様子にテラーも口の端を緩めた。次の瞬間にズイ、とコーンスープが口元へと差し出される。
「絆子、お前相変わらず食い気すごいな」
そう言いながらテラーの口がコーンスープを飲み込んでいく。咀嚼し、食べているのはテラーだが、その栄養を吸収するのは絆子の方だ。
「味覚が絆子さんの方にあるの、ホント不思議だよね」
「そらまあ、あたしにあった方がおかしいけどな」
ハハハ、と笑うテラーの口にトマトが放り込まれる。テラーはせき込みながらもトマトを咀嚼し、飲み込む。食事の時はいつも絆子がテラーに対し容赦がない。というよりも美味しい食事を前にした育ち盛りの子供のようだ。紗彩は何度も喉に詰まってせき込む彼女たちの背中をさすっていた。
「そういえばさ」
紗彩がそう切り出すとまるでハムスターやリスのように頬を膨らませたテラーの視線が彼女に向く。端正な顔たちに似合わない愛嬌のある表情に紗彩は吹き出しそうになりながらも、冷蔵庫を指さした。
「昨日プリン買ってたんだけど、知らない?」
絆子が手に持っていたスプーンがテーブルの上に落ちる。まるで石のように固まってしまった手。それとは無関係にテラーは口の中をモゴモゴとさせ、飲み込んだ。口の端にコーンポタージュの雫をつけながら、テラーがいじわるな笑みを浮かべる。
「ああ、思い出したなあ」
テラーがそう言った瞬間、動きを止めていた手がその口をふさぐ。片方の手は紗彩の前に広げて突き出し、左右に振っていた。
「ホントに知らない?」
目を細めて二人を見る紗彩。口元は塞がれているがテラーの目元は笑っている。対して絆子は焦ったように紗彩に向かって手を振り続けていた。
「嘘ついたら晩御飯抜きだよ、絆子さん」
ピタリ、と時間を停止したかのように振られていた手が止まった。力を失ったようにもう片方の手がテラーの口元から滑り落ちる。現れた口元はまるで三日月のように歪んでいた。
「我慢出来なかったんだもんなぁ、絆子ぉ?」
「へぇ~食べちゃったんだ、絆子さん」
にやにやしながら絆子の身体を見下ろすテラー。紗彩もいじわるに言ってみせた。絆子は両手の人差し指を押し付けあっている。
「まあ良いけどさ」
そう言って紗彩は立ち上がった。トレイを手に持ち、キッチンへと運ぶ。絆子は手をせわしなく空中で彷徨わせていた。
「あーあ、怒らせちゃった。絆子ちゃんが悪いねぇ」
猫撫で声でからかうテラー。受け身を取るように顔を反らせたが、絆子から拳が飛んでくることはなかった。彼女の手は力を失い、指先は床に触れている。
「あー……そんなに怒ってないって。気にすんなよ」
気まずそうに話しかけるが、絆子の手は動かなかった。思わずため息を吐くテラー。ふと視線を上げると時計が目に入った。時刻は七時半を指している。
「おい絆子! 時間!」
テラーが言うと、絆子がヨーグルトを手に取り開いたままの口へ放り込んだ。ヨーグルトに溺れそうになるテラーに構わず今度は牛乳が注ぎこまれる。口を閉じて吐き出さないようにしながら飲み込むテラー。慌てて紗彩が駆け付ける。
「大丈夫!?」
「お、おう……。わり、紗彩。片付け」
「うん、やっとくよ。お弁当はカバンの中に入れてあるから」
「ああ……ありがと。そんじゃ、行って来る」
胸をトントンと叩きながら、絆子が立ち上がった。姿見の前に立ち、居住まいを正すと足元にあるスクールバックを手に取る。扉の前で振り返ると、絆子は手を差し出した。当たり前のように紗彩はその手を取り二人は握手をする。二人の温度が手を通して互いに伝わっていく。テラーはニコリと微笑んだ。
「行ってきます」
「うん、行ってらっしゃい」
サラリと黒髪が流れ、絆子たちが家を出ていく。紗彩は残ったトレイを持ち上げ、流し台へと運ぶ。紗彩よりも大きなお皿に入っていた朝食は残さず綺麗に食べられていた。口元を綻ばせる紗彩。手際よく洗い物を済ませると時刻は四十五分を指していた。
家の鍵が閉まっていることを確認し、紗彩もまたスクールバッグを肩にかける。玄関で靴を履きながら、靴箱の上に置いてある写真立てを一瞥した。そこに写っているのは今よりも髪が長くクマが深い一年前の紗彩と老婆の姿だ。写真の紗彩は緊張しているのか口の端が下がっていたが、老婆は優しい笑みをその口元にたたえている。
「行ってきます、おばあちゃん」
ニコリと微笑むと紗彩は玄関を開けて、外へと踏み出した。
*
雨に濡れた木のにおい。眩しい朝日。じわじわと蒸しているようなアスファルト。学校へと続く道を紗彩は歩いていた。同じ制服を着た生徒たちが他愛のない会話をしながら、彼女を追い越していく。その背中を見つめる彼女の肩を誰かが叩いた。
「おはよう、紗彩」
「あ、柚乃ちゃん。おはよう」
紗彩の隣に、
「晴れたなー」
「そだね」
「雨で休校を望んでたのに」
「流石にそれは無茶じゃない?」
「いやあ、雨を舐めちゃダメだよ。今からでも滝のような雨が降るかもしれない」
「そんなに雨好きだっけ?」
「全然。晴れの方が好きだよ?」
「じゃあ何でそんな雨なんて……」
「だってさあ……宿題終わってないし」
「……見せないから」
「見してよ!」
「たまには自分でやんなきゃ」
「宿題を前にすると、寝ちゃうんだよね」
「……やっぱ見せない」
「見せてよー!」
柚乃は紗彩の後ろに回ると肩を掴み前後に揺らす。歩きにくそうにしながらも、紗彩は「だーめーでーすー」と言いながら学校へ続く道を歩いていた。
「おはよう御座います」
艶のある声。校門へと入っていく生徒が発する挨拶の中でもその声だけは直ぐに誰かわかった。紗彩は思わず校門へと視線を移す。
「おはよう御座います」
校舎へと入っていく生徒に挨拶をしているのは絆子たちだった。先ほど朝食の席で見せた賑々しい様子はどこにもなく、その微笑みも意地悪なものではなく慈愛に満ちている。挨拶をして通り過ぎた生徒の中にはもう一度見ようと振り返るものも少なくない。成績優秀、容姿端麗、文武両道。羨望の眼差しを向けられることの多い生徒会長。それが
淑女のような笑みを紗彩に向ける絆子。学校の中では紗彩と同棲していることは秘密だ。紗彩も同じように微笑み返し会釈をする。
「おはよう御座います」
「はよーございまーす」
「沢木さん、眠たいのはわかるけれど朝の挨拶はしっかりと、ね」
「はーい、おはよう御座います」
「ありがとう。よく出来ました」
ニコリと笑う絆子。柚乃も頬を少し赤くし、鼻の先を指で掻いた。その様子に紗彩はおお、と声を漏らす。自分のペースに持っていくのが上手い柚乃も調子を乱されている。彼女のこういった面を見るのは初めてだった。
「珍しいね、柚乃ちゃんが照れてるの」
「あの人はずるいだろ~」
「確かにね」
はは、と笑っていた紗彩が弾かれたように校舎へと顔を上げる。自分の教室がある棟へと入っていく生徒や授業の準備をしている教師の姿。そして窓から見える廊下で、黒い霧が解けた。暑さだけではない汗がゆっくりと紗彩の頬を伝っていく。
「ん? どかした? 紗彩」
「あ、ごめん。何でもない。いこ」
先を歩いていた柚乃の手を引き、校舎へと歩いていく紗彩。その足取りは先ほどよりも早い。
「え、どしたの」
「宿題、やってないんでしょ。教えたげるから、ね」
「良いの! やっぱり紗彩は最高の友達だぜー!」
紗彩の肩に手を回し校舎へと歩いていく柚乃。急ぎ足で校舎へと入っていくその背中を、絆子は愛おしそうに見つめていた。程なくして視線を外すと、また登校してくる生徒たちに挨拶を返していった。
*
「
放課後、紗彩は声を掛けられた。担任からの頼み事は資料を準備室へ運び込むことだ。柚乃も手伝おうかと進言したが、大した量ではなかったため断っていた。二階の職員室から渡り廊下を通り、三階の準備室へと運ぶ。残っている生徒がいないのか誰の声もしない。夕日はまるで血のように赤かった。
「これで、よしと」
最後の一束を準備室に置かれた机の上に置く。一息つくと汗がにじんでいることに気づいた。ポケットの中に手を入れる。
パタン、と扉が閉まる音。紗彩は身体をこわばらせた。
「ありがとう、生塚さん」
担任の声には抑揚がない。生気を失ったような声。いつも弾むように喋る彼女からは想像もつかない。紗彩は振り返らないままポケットの中の物を握りしめた。ドサリ、と何かが倒れるような音。
「そしテ、サヨうなラ」
喉を潰された蛙のような声が聞こえたと同時に紗彩は振り返り、ポケットの中のものを投げつける。粉が入った小さな袋。紗彩を襲おうとしていた黒い靄をまとう骸骨は自分に向かって投げられたそれを切り裂く。粉が舞うとパチパチと骸骨の前で弾けた。
「な、こレハ……!?」
戸惑う骸骨の横をすり抜ける。足元に担任が倒れていたがどうすることも出来なかった。紗彩は扉に手を伸ばす。
「さセルか!」
骸骨の手が鞭のように振るわれる。紗彩は頭を下げることでそれを回避した。扉は開くが同時に紙のように真っ二つに切り裂かれる。扉に嵌められていたガラスが割れて音を立てた。踏まないようにしながら紗彩は廊下へと走り出す。
「待テ!!」
骸骨は黒い霧に身体を溶かすと紗彩を追う。霧にまとわりついた粉がまた弾け、穴が開いたかのように霧が晴れるが骸骨の動きは速い。両腕を鎌へと変質させると、それを振り回す。窓を割り、床を軽々と引き裂いていく。紙一重、その鎌を避けながら紗彩は叫んだ。
「絆子さん!」
しかしその叫びに呼応するものはなかった。紗彩は振り返るが、後ろにいるのは先ほどの骸骨だけだ。
「無駄ダ。この場所は占有しタ」
紗彩は歯を食いしばり、階段を駆け上がる。そぎ落すように階段の足場が切り払われた。体勢を立て直そうと手すりに手を伸ばす。しかし既にそれは切り取られていた。軸足に力を籠めるがバランスを崩し、踊り場に倒れ込む。
頭上を掠める骸骨の鎌。直ぐに紗彩は立ち上がり、屋上へと続く扉のノブを掴んだ。しかし鍵は閉まっており、紗彩は何度かノブを回したり押したりするも無意味だった。
「残念だッタな」
振り返ると同時に紗彩の腹に衝撃が走る。扉を破りながら紗彩は地面を転がった。えづきながら腹を抑える紗彩。口の端からは血が流れていた。
「我らヲ見るこトノ出来る女……! 貴様を殺せバ……!」
骸骨がカタカタと顎を鳴らす。血に染まった夕空。黒い靄をまるでローブのようにまとう骸骨が両手の鎌を振り上げた。目を閉じる紗彩。
「やめてくれないかしら」
声。まるで伽藍洞の中を反響するような音だ。風が通り抜ける。霧が溶けるかのように、骸骨の腕が宙を舞った。骸骨が振り返ると、その顔に何かが掛けられる。視界を赤くしたその液体は焼けるような音と共に骸骨の視界を奪っていく。
「ぎゃああアアアアあああああ!!」
「うるさいわ」
その声と共に今度は頭が宙を舞った。地面にべしゃりと落ちたそれはまるで氷のように地面へと融けていく。
紗彩は目を開いた。同時に彼女の目の前にガシャリ、と何かが落ちる音。それは首のない西洋の鎧だった。血糊のような粘り気のある液体で赤黒く彩られた鎧。手には骸骨が構えていた鎌とは比較にならないほど長大な鎌が握られていた。鎧よりも大きな鎌の石突が地面を叩く。赤く染まった刃に瞳が現れ、紗彩を見た。
「絆子さん! テラーさん!」
「遅くなってごめんなさいね。でも今は……」
鎌が空気に融けるように消えると、紗彩の身体をふわりと持ち上げる。地面が削られコンクリートの破片が宙を舞う。数秒遅れれば舞っていたのは紗彩の肉片だろう。首と腕が亡くなったはずの骸骨はまたその腕を生やし、巨大な刃を形作っていた。黒い霧が骸骨へと収束し、その身体を修復していく。
紗彩は骸骨たちから離れたところに下ろされた。
「ありがとう、テラーさん……」
『無茶すんなっての! 間に合って良かったけど』
赤黒い霧から聞こえる声はテラーの声だった。彼女は直ぐに鎌の形を取り戻し、絆子によって横一文字に薙がれた。骸骨は宙に浮くことでその一撃をかわそうとする。しかし身体の一端が刈り取られ霧散した。霧の一部から再度骸骨の頭が現れ小さな悲鳴を上げる。
「ぐアッ……! 馬鹿な……。なぜダ、この空間で俺ハ無敵のはズ!?」
『無敵たぁ面白ぇ。だが残念。あたしも悪霊でね』
「何……! ならバナぜ邪魔をスる!」
『そりゃあ、飼い犬は飼い主様に尻尾を振るもんさ!』
「喋りすぎ」
短くいさめる声。反響するような音だったが確かにそれは声として聞こえる。テラーの声ではない、絆子本来の声。
「死してなお生者に仇なす下郎。その罪と共に消えなさい」
絆子が凛とした声でそう言うと、刃が更に赤く彩られていく。まるで血が刃に浸透していくように。
「くソッ!」
危機感を覚えた骸骨は背を向ける。距離を取ろうとして、自分の体が縦に裂かれていたことに気づいた。
「あレ……?」
声だけを残し、骸骨が霧散していく。まるで共に空も切り裂いたかのようだった。血のような赤い夕陽の裂け目から、暖かい光が差し込む。蝉や部活動をする生徒の声。霧が消えていくたびに普段通りの景色が広がっていく。
鎌の形を取っていたテラーの姿もまた霧へと戻り、絆子を包む。首のなかった絆子から端正な顔立ちが現れ、その鎧もまた空気に溶けていった。紗彩に振り返ったその顔は、生徒会長弖弓良絆子だ。
「絆子さん」
絆子は紗彩の近くに屈み彼女の腹部に手を当てる。程なくして青白い霧が紗彩の身体を包んでいく。傷を負った場所があると、更に淡く光る。まるで紗彩の体を治療しているかのように。
「暖かい……」
「ごめん、こんな傷……」
その声はテラーの声ではなかった。伽藍洞の鎧を反響していた時の声だ。響くような声や勇ましい口調だった先ほどとはうって変わり、まるで泣き虫の子供のように声が震えている。
「大丈夫だよ、絆子さん」
「ごめんね~紗彩ぁ~」
紗彩の身体を強く抱きしめる絆子。朝と同じように強く、しかし締め付ける程ではない優しさに溢れた抱擁だ。紗彩もそれに応えるように彼女の身体に手を回す。暖かい人の体温。彼女は間違いなく死神であったが、今紗彩を抱きしめているのは紛れもない人間だった。
「絆子、気づいてるか。あたしの声で喋ってないの」
その声と共に、絆子が紗彩を遠ざける。夕陽よりも頬は赤くなっているが、その笑みは意地の悪い顔をしていた。
「喋ると威厳がねぇんだこの神様。ケガ、大丈夫か?」
「うん、ありがとう」
絆子に手を引かれて立ち上がる紗彩。テラーはニカッと笑い、絆子の手が紗彩の頭を撫でる。
「よく頑張りました。あ、そうだ。絆子、あれ」
テラーがそう言うと、絆子は屋上へと続く扉の前に置かれたスクールバッグへと小走りをする。先ほど骸骨に蹴られた紗彩が破壊した扉は何事もなかったかのように元に戻っていた。
スクールバッグから紙袋を取り出した絆子はパタパタと紗彩の前に戻ってくる。その紙袋は紗彩にも見覚えがあった。
「ごめんなさいでした」
頭を下げると共に絆子は自分の声で謝り紙袋を紗彩に差し出す。コック帽を被った牛のマークが描かれている。紙袋を開けると中には前日紗彩が買ったものと同じプリンが入っていた。
「絆子さん……」
「大切なものだとは思わなくて、その、お腹が減って食べてしまいました。美味しかったです」
たどたどしい口ぶりで喋る絆子。紗彩は頭を下げる彼女の顔を上げると、今度は自分からその体を抱きしめた。
「紗彩?」
「バカだなぁ……。覚えてないの、絆子さん」
「覚えてる……?」
「今日で絆子さんたちと出会って、半年だよ。だからいつもありがとうって、買ってきたの」
「そっか。ごめんなさい……」
「良いの。独りぼっちになった私の傍に、絆子さんたちがいてくれたから」
「紗彩……」
紗彩は絆子から離れ、テラーの瞳を見つめる。微笑んだその目元には雫が溜まり、反射する夕陽が映っていた。
「絶対守るよ。あなたは、死神じゃないもの」
真っ直ぐな瞳で紗彩を見つめる。紡いだ言葉は初めて出会った時と同じだった。思わず紗彩の目元から涙が溢れる。
「紗彩、だいじょぶ? 痛かった?」
「そうじゃない、そうじゃないけど……」
「あーもう、全く。見てられねぇなぁ。ほら、涙拭け」
胸ポケットから取り出したハンカチが紗彩の涙を拭う。口ぶりは乱暴だったがその指先は優しく傷つけないように紗彩の肌に触れていた。
ゆっくりと夕日が沈んでいき、夜闇が広がっていく。悪霊に取り憑かれていた担任は目立った外傷もなく無事だったようだ。熱中症と診断された彼女は保健室で休んでから帰るとのことだ。紗彩と絆子は手を繋ぎながら、暗くなっていく夜道を歩いていた。
「絆子さん、空も飛べるんだね」
紗彩がそう切り出す。彼女が言っているのは全てが終わり、帰ろうとしていた時のことだ。悪霊に占有された空間を払うと、その間に破壊されたものは元に戻る。屋上の鍵も閉められたままになっていたのだ。絆子はテラーを翼のようにすることで、これを解決した。
「絆子っていうか、あたしだけどな」
「テラーさん流石!」
「はいはい、お世辞どうも。っていうか屋上に逃げられたら面倒だからもうちょいマシなところに逃げてくれ」
「でも戻った時人がいたら大変だし……」
「だからって屋上だと鍵閉まるんだぜ? 見つからないように降りるのも楽じゃねーし」
「最初は空き教室にいたもん」
「あー。なるほど。絆子がプリン買ってたせいで屋上に逃げる羽目になったわけか。これは晩御飯抜きかなー」
紗彩の手から絆子の手がパッと離れる。わたわたと落ち着きなく手が動いていた。その手をもう一度握り、紗彩は笑う。
「ご飯抜きになんてしないよ。一緒に食べよ」
「良かったな、紗彩が優しいやつで」
テラーの言葉に応えるように絆子は紗彩と繋いだ手を大きく振る。紗彩は愛おしそうに彼女を見つめながら、冷蔵庫の中を思い返していた。豚と牛のひき肉、玉ねぎ、人参。ジャガイモやキュウリはサラダになるだろうか。紗彩の思いついた料理は、絆子たちと出会ったその日に食べたものだ。
*
二月。まだ外は寒く、珍しく雪が積もったその日、彼女たちは出会った。一人で歩いていた紗彩は夜道で悪霊に襲われたのだ。背中を切られ、擦り傷や打撲を幾つもつけ、雪の上に赤い染みを作る。しかし紗彩は倒れたまま動こうとしなかった。
――ああ、死ぬんだ。ようやく、死神の、私が。
生まれた日に、母が死んだ。程なくして事故で父を失った。引き取った親戚が病に倒れ、たらい回しにされる日々。唯一彼女を育ててくれようとした祖母も、一年前に他界した。死神と呼ばれ続けた少女は今ようやく、己の死を享受する
――はずだった。
「ごめんね。死神は、私なの」
その声だけが紗彩の耳にハッキリと聞こえた。重たくのしかかる恐怖は消え、起き上がるとそこには首のない騎士が立っている。
「見られちゃったわね。はじめまして、自称死神さん。あなた、悪霊を引き付けちゃうみたい。だから守ってあげるわ。死神じゃない普通の女の子のあなたを。――だってアナタみたいな子が死神って言われるの、悔しいじゃない? ――本物は私なのに」
こうして彼女たちは出会った。その後人間の姿へと戻った彼女は空腹で倒れ、紗彩の作った料理に餌付けされ今日に至る。
「この首無し女とあたしは悪霊を退治して回ってる。いるんだよ、生者に寄生してその死期を早める悪霊がな。最近は特に多い。だから悪霊を引き寄せるお前を守りながら、その元締めをとっちめようってな」
という説明をちゃんと理解出来たのは、今では絆子と名前の付いた彼女が食事を終えてからだった。テラーと名付けられた元悪霊の彼女が説明しようとしている時も絆子の食欲は止まらなかったのだ。
「そういうわけで宜しくな」
差し出された手を、恐る恐る紗彩は握った。握り返されたその手は死神というにはあまりにも暖かい。紗彩が誰かの手を握ったのは、祖母が亡くなる直前だった。
紗彩は時折不思議に思うことがある。初めて出会った時、絆子は人間の姿でいることに慣れていなかった。人間の社会に慣れているわけでもないことは、共に暮らしていく上でわかったことだ。
それなのになぜ、彼女たちは紗彩に握手を求めたのだろうか。
*
蝉の声は窓に遮られてまるで死の直前かのように弱々しいものだった。老婆はベッドに横たわりながら外の景色を見つめている。窓を開けて貰おうかと考えていたが、看護師が彼女のお願いを聞いてくれたのは一度も鳴ったことのない風鈴を窓につけてくれたことだけだ。疲れたようにため息を吐くと、もう一度目を閉じる。
――チリン
風鈴の音に老婆は目を開く。気づけば目の前に黒髪の少女が立っていた。冷たい瞳で彼女
のことを見下ろしている。
「……お迎えかい? 可愛い死神もいたもんだねぇ」
「見えるのか」
「おや、わざとじゃなかったのかい」
「見える人間は殆どいなくてな。それにいたとしてももう少し動揺するだろうさ」
「先の短い老人なんでね。動揺なんてしないよ」
「そうか……」
少女は反省をするように目を伏せる。老婆は彼女から視線を外すと、天井を見上げた。
「でも……心残りはあるねえ」
「ほう?」
「孫がねえ……死神って言われてるんだ」
「聞き捨てならないな」
「だろう? あんたちょっくら本物の死神ってものを見せておあげよ」
「なぜ私がそんなことを……」
「本来は見えない死神が見えちまった。あんたはあろうことかあたしと会話までしたんだ。その縁、ってことでさ」
「……考えておこう」
「そうかい。じゃあ、宜しく頼もうかね」
そう言うと老婆は少女に向かって手を差し出す。怪訝そうな顔でその手を見つめる少女。
「何だそれは」
「握手さ。人間ってのは縁を繋ぎたい時に手を組み合うのさ」
「こうか」
少女が老婆の手を取る。骨ばった手が少女の手を優しく包んだ。
「暖かい……」
「これが、握手ってもんさ。あんたも握ってみなよ」
言われるがままに老婆の手を握り返す少女。老婆の体温がじわりと手に移るような感覚。老婆を見ると彼女は嬉しそうに微笑んでいた。
「あんたも、暖かいねえ」
ピーという電子音。少女が顔を上げると、老婆の直ぐそばにあった機械から音が鳴っているのだと気づいた。緑色の横線が流れていく。
握っていた手が滑り落ちた。ベッドの横にだらんと垂れる。少女はその手をもう一度取り、彼女の胸の上に置いた。
「……安らかに眠りなさい。悪霊に落ちないように」
少女は呟く。握手をしていた手を閉じる。まるで先ほどまでの温度を逃がさない、とでも言うように。
バタバタと音を立てて、看護師が入ってきた。窓の開いていない病室。そこには眠るようにして横たわる老婆だけがいた。看護師が呼びかけるが老婆からの返事はない。白衣を着ながら担当医も現れる。呼びかける声。それに掻き消えるほど小さな音で、しかしもし聞こえたのならとても涼やかなメロディだと感じたかもしれない。風鈴がもう一度だけ、チリンと揺れた。
了
最近完結させていることがないなあ、と思ったので書ききってみました。