女が、愛する女が鬼に殺されてしまう。
映し出された、それは鮮明で悲鳴嶼行冥の安堵は一瞬にして怒りに変わった、ここからでは、今からでは間に合わない、だからといって、見ているだけなど、全身が体の血が怒りの感情が全身から溢れでてしまいそうだ。
手を触れるほと近くまで伸ばした、その瞬間、鬼になった男は自身の体をわずかに傾け、襟元に指をかけると、ゆっくりと下ろした。
それは人間を殺そうとする動きではなかった。
「俺を、助けてくれただろう」
襟元の合わせ目に指がかかる、滑る様に落ちてはだけて、ここまでくれば何をしようとしているのか、悲鳴嶼だけではない、流石に子供である炭治郎も察した。
そのとき少女が唸るような声を漏らした。
「どうした、禰豆子」
妹が水面を指さすと同時に何かが割れる様な音、それだけではない、声がした。
「よこせ、その女を俺に渡せ」
「いや、儂だ」
「キサマには、渡さない」
「俺のものだアアアッ」
他にも誰かがいる、鬼か、悲鳴嶼と炭治郎は顔を見合わせた。
「ここは、どこか分からぬか、少年」
だが、炭治郎には答える事ができない、妹がこうやって鏡の様に水面に映し出すことができたのも、つい先ほど知ったのだ。
そのとき、一人の青年が水の面に映った、突然の事に炭治郎は驚いた。
鬼ではない人のようだ、だが、その顔を見た瞬間、あっと声を漏らす。
宍色の髪、大きな傷、忘れられない顔だ、鋭い太刀筋で刀を振るいながら鬼を切っている。
どういうことだ、死んだ、亡くなった筈なのに、まるで生きているかのように。
「錆兎、なのか」
「炭治郎ッ」
突然、青年が叫んだ。
「数が多すぎる」
炭治郎は水面を覗きこんだ、他にも鬼がいるのか、目を凝らしてみても暗くてよく分からない、だが、音がする、一人ではないことは確かだ、錆兎は強い、けれど場所がどこなのか分からなければ助けに行く事もできない、どうすればいいんだ。
そのとき、妹が水桶に手を入れた。
「禰豆子」
驚いた炭治郎に手渡されたものは炭のような棒きれだ。
炭、そうだ、錆兎に鍛錬して貰った大岩の近くに小屋があった、以前は炭焼き小屋として使われていたが、今は使われていなかった、あそこかもしれない。
「悲鳴嶼さん、行きましょう」
無事でいてくれ、頼む、 悲鳴嶼の脚力に炭治郎と禰豆子は驚いた。
日頃から鍛錬しているので普通の人間よりは早いと思うし妹は鬼だ、だが、柱との差は、こんなにもあるのかと驚かずにはいられなかった。
女を寄越せ、鬼が叫ぶ。
俺のものだ。
いや、この俺の。
喰わせろといわない、寄越せという、何を言っている。
鬼になった男が庇うように背に隠す、守ってくれているのだろうか。
鬼は人を殺して食べるので死ないか、それなのに。
(悲鳴嶼さん)
呼んだところで来てくれるわけがないと分かっている、それに自分も、ここがどこなのかわからない、なのに願ってしまう、いてくれたら心強い、怖くないのに。
鬼を退治したら、平和になったら一緒になろうと言われた。
その言葉を信じていない訳ではない、待つことは決して苦ではない。
だが、自分は、その約束を心底を信じる程に子どもではない。
もう、ここで死んでもいいとさえ思ってしまう。
「・・・・・・さんっ」
自分の名前を呼ぶ声がした、突然、暗い室内に飛び込むような勢いで姿を現した少年の姿をを見た女は驚いた。
昔の事なのに覚えている、見覚えのある髪の色、顔の傷、小さな男の子ではない。
「許さんぞ、鬼ども、その人に指一本、髪一筋触れてみろ」
刀を振るう姿に女は驚いた。
鬼達は己の体が切られるのも構うことなく迫ってくる、自分が抱いている女に向かってだ。
駄目だ、絶対に貴様らには鬼には渡さない。
自分も鬼だというのに、女を庇いながら、鬼になった男は夢中になって向かってくる鬼を殺した、だが、ここでは足場が悪い。
迫ってくる鋭い爪と牙を躱しながら男は女の体を抱き上げた、傷の痛みを感じないのは必死になっているせいだろう。
抱いた腕に力を込めて、鬼は夜の森に飛び出した。
ある程度は引き離した、一度、呼吸を整えようと立ち止まり、木の幹に体を預ける。
だが、長くはとどまってはいられない、追いつかれたら面倒だ。
女の視線を感じて大丈夫だと声をかけた、不安なのは女も、だが、自分もだ、鬼になったばかりで自分がどんな力を持っているのかわからないのだ。
そろそろだと女を抱き上げようとしたとき、自分の顔に女が手を伸ばした。
「食べて、そうすれば、貴方は生き残れる」
男の体かわずかに強ばった、何を言っている。
自分は駄目だ、怖くて仕方がない、今、生きている瞬間でさえ、いつ、鬼達が追いついてくるかわからないと思うと、だから。
「大丈夫だ、俺は強くなった、ここに来るまで鬼を倒しただろう」
半分は嘘で真実だ、女を少しでも安心させる為、自分の気持ちを奮い立たせる為であった。
ふと脳裏に男の顔が浮かんだ、悲鳴嶼行冥、あの事があるまで、村の人間から慕われていた、自分とは違いすぎる人格者だ。
強かった、だが、自分だって強い筈だ、今、鬼になったのだから。
「怖くて、たまらない、死んだら」
亡くなってしまえたら、何も感じなくなって楽になれる、心残りも感じなくなる。
女の唇が小さな呟きを漏らした。
名前だ、悲鳴嶼行冥、あの男の名前だ。
子ができないのはおまえのせいだ、石女め。
実家に帰れと追い出されてから数日、夫だった男が死んだという。
自分が出て行って街の賭場に出入りしていたらしい、最初のうちは勝っていたらしい。
ところが、途中から負けが続いて、言い争いが始まった、八百長だ、ずるだと。
だが、賭場なら珍しくはない、そんな諍いは、よくある。
夫だった男と一緒に暮らしたのは半年程だった。
だが、その間、賭場に出入りなどしたことはなかったのに。
数人の男に顔を殴られて、鼻が曲がり、最期にはあそこを潰されたらしい。
「はんっ、思い知ったか」
「ざまあみろっ」
「ははは、いい気味だ」
「もう、女は抱けねえな」
やめてくれ、お願いだ、必死になっていくら叫んでも、誰も助けようとしなかったらしい。
最期には裸にされ、大通りに放り出されたらしい、一晩中、呻きながら大勢の人の眼に晒されて、そして朝になって自分から川に身を投げたらしい。
何故、今になって思い出すのか、忘れたいのに夫が亡くなったこと。
そして、何故か街の通りで占い師の老婆に呼び止められたことを思い出した。
皺だらけの老婆の顔を。
首筋を、はだけた胸元を嘗められてぞくりとした、嫌な筈なのに押しのけようとするが腕に力が入らない。
女は呼ぼうとした男の名前を、来ない事は分かっているのに。
呼吸が激しく、全身の血が熱くなる、欲情しているのだと鬼は気づいた、求めているのは、自分が欲していたのは、これだと。
あらわになった胸元に乳房に手を伸ばそうとして気づいた、自分の手、腕の色が人間の手のように変わっていることに、しかも傷だらけだ。
体か変わっている、不思議に思いながら、確かめる様に顔に手を伸ばした。
伝わるのは感触だけだ、だが十分だ。
鬼の匂いだ、風に乗って、かすかな空気に血の匂いに混じっている。
「近い、もうすぐです、悲鳴嶼さん」
炭治の言葉に悲鳴嶼行冥は拳を、手にしていた鎖を握りしめた、鬼は時として予測不能、思いがけない動きをするからだ。
絶対に助ける、何があっても。
信じられないもの、者を見ている、自分を覗きこんでいる男の顔は鬼ではなかった。
恐怖で頭がおかしくなったのか、いや、わかっている、あの人であるはずがない、鬼だ、なのに、目の前にいる相手に伸ばしかけた手を止めることができない。
そのとき、音がした、木々が折れ、草を、土を踏みしめる音は一つではない、追いかけて来た沢山の鬼達のものだ、怖い筈なのに、不意に大きな手、傷だらけの指が頬に触れた。
「大丈夫だ、ここに居てくれ」
その声は紛れもない、だが、違うと分かっていながら女は頷いた。
「悲鳴嶼さん」
たくさんの死体が地面に伏している、人ではない鬼の死体だ、何故か塵にはならず消えル事もない、炭治郎と悲鳴嶼はその光景を訳が分からず、地面であがく鬼を見ていた。
構えていた刀を振るおうとして躊躇ってしまう。
「俺ノ、ダッ」
「渡さン、俺のッッ」
「上弦など怖くない、俺が」
木の根元に首だけが、地面に首を落とされた体が、立ち上ろうとしていた、ばたばたと、わずかに繋がっている手足を動かしていた、必死に。
鬼の死体、骸になりかけた塊りの中、立っている人影があった。
「悲鳴嶼、さん」
炭治郎は自分の隣を見た、そこに立っているのは悲鳴嶼行冥、紛れもない、その人だ。
では、あれは目の前に立っている、もう一人の男は誰だ。
女は眠っていた、夢を見ていたのだ、街中で占い師に呼び止めらた。
「ああ、なんて運命だい」
老婆は旦那が亡くなったんだね、気の毒にと言った。
だが、無理もないと老婆は言葉を続けた。
(鬼は、嫉妬深いんだ、だから)
老婆は笑いながら言った、仕方ないんだと。