自分は一体、何をしたのだろう、目が覚めて起き上がろうとしたが、全身がぐったりとして、すぐには起き上がれなかった、疲労感、それに汗だ、夜着が肌に張り付いているような感覚に気持ちが悪くなり、ふらつきながらも外に出た。
髪を、体を洗いたいと思い、近くの川を目指して歩いて行った。
昨夜の事を思い出し、夢だったらよかったのにと思った、自分はされるがままで嫌だと拒絶することもできず、欲望の波に呑まれてしまった。
悲鳴嶼さん、あなたなら良かった。
後悔しかない、なのに涙も出てこない、欲に溺れて許した自分が悪いのだ、ほんのわずかな救いがあるとすれば、相手は顔も声もそっくりで同じ、顔も声も似ている、それだけだ。
川の水で汗と汚れを荒い流し、ふと、内股の汚れに気づいた、手ぬぐいでごしごしと擦ると消えた、だが、消えないものもある。
夢中になっていたせいか、背後から近づいてくる気配と足音に女は気づかなかった。
「待って下さい、悲鳴嶼さん」
胡蝶しのぶは大男の前に立ちはだかった、駄目ですと言わんばかりに。
「先程、手当が終わったばかりです、彼女に会うのは、少し待って下さいませんか」
悲鳴嶼は朝から若手の稽古をつけていた、その後は自分一人で休む暇もなく鍛錬修行に励んでいた、その為、事件を知ったのは夕刻、日も暮れかけた頃だ。
女が怪我をしたと聞いて慌てて病室に行こうとしたところを胡蝶しのぶに止められた。
会うのも顔を見るのも待って下さいと言われて納得できなかったのも無理はない。
だが、詳しい話を聞いているうちに無言になった。
「顔の右半分を鋭い爪でえぐられたようになっています」
大きな手が拳を強く握りしめると同時に、じゃらり、じゃらりとと数珠が鳴った、胸の奥底から沸いてくる感情が怒りなのか、哀しみなのかわからない。
行き場のない、やりきれない感情のせいだろうか、涙も流れない。
彼女が怪我をした、それも鬼に取り憑かれた人間に襲われたと聞いたとき、伝えに来たのは竈門炭治郎だった。
襲われて怪我をしたというだけでも驚きだ、それなのに相手か鬼に取り憑かれた人間と聞かされて疑問を抱いたのは無理もない、鬼は太陽、日の光が苦手だ、それなのに襲われたのは昼間だという、太陽の光を克服した鬼だというのだろうか。
今、牢屋に入っているのは鬼ではない人間です、しのぶから説明されてもすぐには、それを理解できず納得できないのは無理のない事かもしれない。
そんな悲鳴嶼の胸中を察したのか、今まで自分たちが退治してきた鬼とは違うのかもしれません、お館様もと言葉を続けた。
「襲った時は鬼でした、でも今は鬼の気配はないただの人間なのです、お館様も、この点に対して疑問を抱いています、今まで長い鬼との戦いでも、こんな事例はなかったと」
見せたいものがありますので着いてきて下さいと、しのぶはにっこりと笑った。
傷のせいで痛みよりも顔が熱く感じられる、できる事なら顔に巻かれた包帯を取ってしまいたいと思ったが、それはできないとわかっていた。
血が止まり、しばらくすれば傷も塞がりますと説明されたが、本当だろうかと不安になってしまう、傷は酷いのだろうか、わからない、できるなら、あの人には見せたくない、いや、見られたくないと思った、怪我をしたと知れば様子を見に来るかもしれない。
どれほどの怪我なのか、目元が腫れているのか、痛みのせいもあるのだろう、右眼を開けることさえできない、左眼で見ようとしたが、視界がぼやけたようで、よく見えないのだ、痛み止めと解熱剤が効くまでは時間がかかるらしい、刃物で切られた傷なら薬を塗れば治るだろうだが、この痛みは切られたというよりは肉をえぐるような、激しい痛みだ。
治るのだろうか、不安だけが大きく広がる、だが今の自分にには何もできない、ただ眠るだけだ目を閉じて。
「・・・さん」
胸の中で呟くと安心できた、すると顔に何かが、包帯の上からでもわかる感触に女は息を呑んだ。
牢屋の中では一人の男が叫んでいた、出してくれ、どうしてこんなところに閉じ込める、ここは警察なのか、家では女房が待っているんだ、自分は悪い事などしていない、いや、もし、何かしたとしても、それは化け物、鬼のせいだと声をあげた。
「悲鳴嶼さん、あなたは顔を見せないで下さい、ここで聞いていて下さい」
しのぶは牢屋の前に立つと男に声をかけた。
「貴方に鬼が取り憑いたのですね」
「そうだよ、騙されて」
「鬼は人を食べます、でも貴方は食べなかった、どうしてでしょう」
男はすぐには答えなかった、しのぶはにっこりと笑いながら優しい声で尋ねた。
「鬼は貴方に何か言ったのではないですか、望みを叶える、もしくは取引をしようと」
視線をそらした男に、しのぶは人の心の弱い部分に鬼はつけ込んでくるのです、その口調は男は悪くない、だから本当の事を話して欲しいと言っている様に聞こえた、次第に男はそらしていた視線を、しのぶへと向けた。
「俺は農家の生まれだ、贅沢もできずいつも腹を空かせ、好きな事もできなかった、そんな時、あれが望みを叶えてやると」
「では何故、女性の顔を傷つけたのです」
しのぶの言葉に男は怒った顔を見せた、そしてわからないのか、あんたと小声で囁くような呟きをもらした。
「ところで、あんたは綺麗な顔をしているよなあ、いるんだろう、男が」
その言葉にしのぶの顔がわずかに曇った、そんな顔をするなよ、綺麗な顔が台無しだぜと男は言葉を続けた。
「すこし楽しませて貰おうと思ったんだ、だが酷く抵抗するから脅せとあいつが、少し脅せばいいって顔を傷つけたら」
「でも、あの傷は少しどころじゃないと思いますが、殺そうとしたのではありませんか、鬼がやったんだと言えば許されると思った、そう言えば助かると言ったんじゃありませんか」
「ち、違う」
男は叫んだ。
「騙されたんだ、悪いのは、あいつだ、本当だ、信じてくれ」
騙された、その言葉に、しのぶはにっこりと笑った、自分の言葉を信じてくれる、そんな笑顔だ、男の表情が安心し、ほっとしたように、だが。
「嘘ヲ、言うナ」
空気が震えた、その声は男の口から聞こえてきた、だが別人だ、男の声ではない。
「村の女にも相手にされず、女郎を買うほどの稼ぎもない、運良く見つけた女で欲望を満たそうとしたんだ、おまえは」
男は自分の口を押さえた、だが、声は止まらない。
「唆された、だから自分は悪くないと罪から逃げられると思ったか、おもしろい、人とはこんなにも愚かで浅ましい、笑うしかない」
その時、男の体が膨らみ始めた、まるで風船のように、顔が驚きと苦痛、恐ろしさに男の歪み始めた、助けてくれとしのぶに向かって手を伸ばすが届かない。
陰から見ていた悲鳴嶼はとびだそうとしたが、しのぶが首を振った。
男の体は破裂した、血と肉の破片が床に飛び散ったが、その残骸の中ら何故か形を保っているものがあった、唇だ、まるで生き物の様に動き、しのぶに向かって笑った、にたり、にたりと笑ったのだ。
そして最期には大きな、牢屋の中に響き渡るほどの、さもおかしいといわんばかりを笑いを残して消えた。
(鬼とは人ならざる者、鬼舞辻無惨、オマエは鬼ではない、だから、我らが現れたのだ、本当の鬼を教えてやろう、だが、その前に)
ベッドで寝ている女に鬼は呼びかけた、すると薄く眼を開けた女は天井を見ながら名前を呼んだ、悲鳴嶼さんと繰り返しだ。
包帯をほどきながら、現れた傷を見ると顔を近づけて濡れた傷口を嘗めると口の中には塩と血の味が広がった、全てが混じり合った匂い、体臭がそそるように自分の鼻と体を刺激する。
欲しい、欲しい、欲望が膨れあがり男は腰を動かした、着物越しの脹れ上がったものが擦れるだけで溺れそうで、目眩を覚えた。
地下牢を出ると悲鳴嶼としのぶは報告と病室の為に別れた。
「お館様のところへ報告をしてくる、しのぶ殿」
「私は病室へ」
気をつけて、しのぶ殿、悲鳴嶼にしてみれば深い意味はなかった、もし、他の鬼がいたとしても柱であるしのぶなら対処できると思ったからだ。
だから後になって、大丈夫です、彼女は眠っていますと言われたときも気づかなかった。
見えない彼か知らなくても無理はなかった。