1
少し前、具合が悪いと言ってお嬢さまがお起きにならない日があった。
熱はなかったし、本人が疲れただけだと言っていたから、私は冷めても食べられるものを用意して、一人で学校に行った。
アイドル活動はデビューこそしたものの、群雄割拠の時代にあってそれほど仕事はなく、お嬢さまの体調のこともあって少し活動を控えていた。
お嬢さまは私に、「千夜ちゃんは一人でも続けなさい」とおっしゃったけれど、私はあまり興味がなかった。
もちろん、デビューライブで今まで味わったことのない感動や高揚感がなかったと言えば嘘になる。けれど、それはあくまでお嬢さまと一緒に立ってこそ価値のあるもので、私一人で続けるほどの意欲はなかった。
そう伝えると、お嬢さまはひどく寂しそうな顔をして、「千夜ちゃんは千夜ちゃんらしく生きてほしい」とおっしゃった。
私は寂しくなった。突き放されたような、見離されたような気がした。
私らしくとはなんだろう。私はずっとお嬢さまの傍にいる。お嬢さまの僕として生きられたら満足だし、それこそが私らしい生き方だと思う。
朝早く起きてご飯を作り、お嬢さまを起こしてご飯を食べる。一緒に学校に行って別々に過ごし、夜はまた二人で静かな時間に身を委ねる。それで十分だった。そんな日々が、ずっと続くと思っていた。
けれど、そんな私のささやかな幸せは、風雨に侵食される岩肌のように、少しずつ崩れ始めた。
お嬢さまの元気は日増しになくなっていき、起きて来ない日も多くなった。相変わらず熱はなかったけれど、きっと何かの病気に違いない。私は医者に診せることを強く進言した。
お嬢さまは首を振って儚く笑った。
「これはそういうのじゃないから」
「では、どういうのですか?」
「ちょっと疲れただけ。じきに良くなるよ」
「お嬢さまのちょっとはいつまで続くんですか? 恨まれても医者を呼びます」
私はお嬢さまの反対を振り切って医者を呼んだ。
お嬢さまは自分が何かの病気にかかっていることを知っている。そしてそれを、私に心配かけないように黙っている。けれど、私はもう十分心配しているし、手遅れになってからでは遅い。医者がはっきりと病気だと告げれば、お嬢さまも諦めて正しい養生をしてくれるだろう。
そう思ったのだけれど、やってきた医者はお嬢さまの容体を診て、異常はないと告げた。そんなはずはないと食い下がったが、別の医者に診てもらっても結果は同じだった。
お嬢さまは無意味に勝ち誇って笑った。
「ね? だから言ったでしょ? 疲れただけだって」
「ですが、正常ではないのは確かです」
「大丈夫よ。どこも痛くないし、苦しくもないし」
「ですが、最近ご飯もあまり食べていませんし、このままでは栄養失調で死んでしまいます」
「食欲がないんだよね」
疲れたようにため息をついて、お嬢さまはベッドの上に半身を起こしたまま、じっと掛け布団を凝視した。それから私を見上げて、妙に軽い口調で言った。
「もしかしたら、千夜ちゃんの血でも飲んだら治るかも!」
「何をバカなことを言ってるんですか。貧血で血が足りないなら、鉄分が豊富なご飯を作りますし、切迫した事態なら、医学的に正しい輸血をしてもらいましょう」
「医学的ねぇ。でも、異常なしだしね」
「それが不思議でなりません」
この時私は、まだ事態を深刻に考えていなかった。お嬢さまのノリは軽かったし、二人の医者が「異常なし」と診断したことで、お嬢さまはその内治ると信じていた。
けれど、事態は一向に良くならなかった。
一度、プロデューサーから電話がかかってきた。近況を尋ねられ、私は何故か胸が詰まって震える声で伝えた。
「お嬢さまの調子が、良くなくて……」
『医者には診せた?』
「はい。ですが、どこも悪くないって。そんなはずはないんです。でも、お嬢さまも平気だって」
『平気なの?』
「平気じゃないから困っています! 私はお前に……」
思わず感情が高ぶって、語気が強くなった。何か言いかけて、けれど何も出て来なくて唇を引き結ぶ。
少しだけ沈黙を挟んで、プロデューサーが優しい声音で言った。
『一度行こうか。二人とも心配だ』
私は肩の力を抜くように息を吐いて、受話器を持ったまま首を振った。
「結構です。そもそも、アイドルなどという負担のかかることをしたのがいけなかったんです。お嬢さまにもしものことがあったら、私は絶対にお前を許さない」
通話を切って、壁にもたれて座り込んだ。
涙が溢れてきて、それを隠すように抱えた膝に顔をうずめる。
八つ当たりをしてしまった。もうたった一人で抱えるのは無理だ。吐き出したかった。そんな自覚はなかったけれど、誰かに心配されて初めて、私は自分がまいっているのだと気が付いた。
誰かに頼りたい。でも、頼れる人はいない。唯一、繋がりのある大人の人からの救いの手を、子供じみた感情で振り払ってしまった。もしかしたらプロデューサーは、お嬢さまの容体を改善する何かを持っていたかもしれない。
だとしたら、このままお嬢さまが治らなかったら、私のせいだ。
「でももう、どうしたらいいのかわからない……」
嗚咽を漏らして、しばらく泣いた。泣きやんで鏡を見たら、目は腫れ、頬は荒れてひどい顔をしていた。しばらく手入れしていなかった髪は伸び放題で、もうとても自分が一瞬でもアイドルだったなんて信じられない。
あれは夢だ。カッコイイ衣装を着て、お嬢さまと二人で、キラキラしたステージで、たくさんの声援を受けて歌って踊る。私の人生でたった一度だけ、女の子として最高に輝いた瞬間。
こんな顔を見られたら、お嬢さまを心配させてしまう。目をこすって部屋を出て、お嬢さまの部屋のドアを開けて中を窺うと、お嬢さまは静かな寝息を立てて休んでいた。
顔色は悪くなく、呼吸も穏やかで、一見すると普通に眠っているように見える。痛くも苦しくもないと言っていたのは本当なのだろう。けれど、最近は起きている時間すら短くなり、もうこのまま二度と目が覚めないのではないかと不安で胸がいっぱいになった。
「お嬢さま、早く元気になってください」
ベッドの傍らに腰かけて、お嬢さまの手を取って呟く。
お嬢さまは小さく身じろぎして、目を閉じたまま薄く唇を開いた。
「千夜……」
「あっ、起こしてしまいましたか?」
「いいの。千夜ちゃん、私にもしものことがあったら、家のお金を全部持って、あの人を頼りなさい。あの人は魔法使いだから、きっと千夜ちゃんを助けてくれる……」
「縁起でもないこと言わないでください! お願いですから……。私は、ずっとお嬢さまのお傍にいますから……」
声が詰まって、涙がぽろぽろと溢れてきた。
本当にお嬢さまが死んでしまう。私には信じられない。医者も異常はないと言っていた。
けれど、お嬢さまは何かを悟っている。自分の状態をわかっている。
「お嬢さま、隠し事は無しにしてください。一体どうなっているのですか? 教えてください。私はお嬢さまに何もしてあげられないのですか?」
恥ずかしいほど涙で声が震えて、私は袖を顔に押し当てた。お嬢さまはうっすらと目を開いて、私の方を見た。じっと私の首の辺りを見つめてから、もう一度目を閉じた。
「生きることと死ぬことと、どっちが勇気だろう」
眠そうな声。元気のない声とは違う。覇気もあるし、疲れている感じはない。それでも、確実にお嬢さまは弱っている。
「死んだらダメです。お嬢さまのためにも、私のためにも」
返事はなかった。お嬢さまは枕の角度を直して、小さな寝息を立て始めた。
私はお嬢さまの部屋を出て、また少しだけ泣いた。