ただ怖かった。
あの日、何もかも失った私を、お嬢さまが助けてくださった。
お嬢さまが私のすべてになり、私はもう少しだけ生きてみようと思った。
もう二度と失いたくない。一人になりたくない。お嬢さまと二人で生きていきたい。私はお嬢さまを愛している。他の誰かではダメなのだ。
その夜は、眠りについた記憶がなかった。いつの間にかベッドの中にいて、人の気配を感じて目を覚ました。
部屋の中は真っ暗だった。一寸先も見えないすぐそこで、自分のものではない呼吸が聴こえる。
私が飛び起きるより先に、その人が布団の上から私に覆い被さってきた。その気配と香りと息づかいで、それが誰だかわかった。
「お嬢さま……?」
困惑しながら呟く。長いこと起きてこなかったお嬢さまが、一人で起きてここまで歩いて来てくれたことは嬉しいけれど、何故こんな夜中にやって来て、声もかけずに立っていたのか。そして今、私の動きを封じるように覆い被さっているのか。
お嬢さまが体重を預けるようにのしかかり、耳元に顔を近付けてきた。そのまま一言も発することなく、私の首筋に唇を押し当てる。
ひんやりした柔らかな感触に背筋が震えた。身をすくめて、もう一度かすれた声で問いかける。
「お嬢さま、どうなさったんですか?」
お嬢さまはやはりその質問に答えてはくださらず、ちろりと私の首の付け根を舐めた。そのまま軽く歯を押し当てて、犬歯と思われる尖った歯を少しだけ私の肌に食い込ませた。
私は混乱した。寝ぼけているのだろうか。戯れだろうか。それとも、誰かに操られているのか、何かに憑依されているのか。
歯が肌を裂いて、チクリと痛みが走った。さらに肉に食い込んで、鋭い痛みとともに汗が噴き出した。神経を断ち切られたように腕が痺れて、胃液が込み上げてきた。
「い、痛いっ! お嬢さま、やめてください!」
反射的に身をよじったが、お嬢さまはずっと寝ていたのが嘘のように、強い力で私の体を押さえ込んだ。そして、犬が与えられた餌に噛み付くように、私の首に容赦なく歯を突き立てる。
「いぐあぁあああぁぁぁぁ……っ!」
私は呻き声を上げながら歯を食い縛った。痺れが腕から全身に伝わり、体が冷たくなる。心臓の鼓動に合わせて、首から血が溢れるのがわかった。
このままでは首を食い千切られる。殺される。殺されたらもう、お嬢さまの傍にいられなくなる。お嬢さまの傍に誰もいなくなる。
「やめてっ!」
私は絶叫して、お嬢さまごと思い切り布団を蹴り上げた。ベッドの向こう側にお嬢さまが転がり落ちる音がしたが、相変わらず一言も声は出さなかった。
やはり何かに憑りつかれているのだ。私はそう確信して、ベッドから飛び起きた。右腕は痺れて動かない。左手で首を押さえると、ぬるっとした液体の感触と同時に、頭を殴られたような痛みが走った。
目眩がして倒れそうになるのをどうにか堪えて、部屋の外に転がり出た。もう何年も住んでいて、目をつむっていても歩ける真っ暗な廊下を駆け抜ける。
玄関まで来て灯りをつけると、左手が真っ赤に染まっていた。その血の色を見て、あまりの気持ち悪さに倒れ込む。
「はぁ……はぁ……」
荒い息を吐き、横になったまま体を丸くする。血が溢れて止まらないので、服を脱いでたすき掛けに傷口を縛った。脱いだ時に傷口に触れて、嫌な汗が噴き出した。頭がガンガンして、世界がグラグラと揺れる。
もしも今、お嬢さまが追いかけてきて再び噛みついてきたら、今度はもう逃げられない。もっと早く抵抗するべきだった。
目を閉じて震えながら時をやり過ごす。頭の痛みとひどい眩暈と戦いながら横になっていると、だんだん呼吸が落ち着いてきた。
少しずつ痛みが引いてきて、頭がはっきりしてくる。体を起こして、一番近くにある置き時計を見ると、襲われてから3時間近く経っていた。もう夜明けの時間だ。
玄関の扉を開けると、空が白み始めていた。下着同然の姿だったので、縛っていた服を取り外す。右腕はもはや自由に動き、傷口に触れても痛くなかった。正確には、傷がなくなっていた。
私は思わず顔をしかめた。
そんなはずはない。たとえ血が止まったとしても、数時間で治るような怪我ではなかった。真っ赤に染まった手や服が、昨夜の凄惨さを物語っている。
傷は治っても血は戻っていないようで、ふらふらしながら廊下の血痕を辿って自分の部屋に戻る。ベッドは乱れ、枕も真っ赤に染まったままだったが、お嬢さまの姿はなかった。
そのままの格好でお嬢さまの部屋へ行き、ノックをしてから恐る恐るドアを開けると、果たしてお嬢さまはいつものようにベッドの上で休んでいた。
私はほっと息をついて部屋に入った。
「お嬢さま、朝ですよ。起きてください」
いつものようにそう言いながらカーテンを開ける。強い日差しに私は思わず目を細めた。
部屋の中が明るくなる。振り返ると、お嬢さまは安らいだ表情で眠っていた。その顔を見て、私は思わず眉をひそめた。顔に血の一滴もついていなかったのだ。
確認するように左手を見ると、乾いて赤黒くなった血がグローブのように手の平を覆っていた。服も血でまだらに染まっていて、昨夜襲われたことが紛れもない事実だと告げている。
もしかして、襲ってきたのはお嬢さまではなかった……?
途端に怖くなり、私はすがりつくようにお嬢さまの傍に駆け寄った。なんとしても起きて話を聞いてもらおうと手を取って──私は思わず悲鳴を上げて崩れ落ちた。
お嬢さまの手は、人間のものとは思えないほど冷たくなっていた。目を見開き、震えながら見つめると、お嬢さまは息をしていなかった。胸も肩も頬も唇も、どこも動かない。どれだけ見つめていても、お嬢さまが目を開けて、私の名前を呼んでくれることはなかった。
私は茫然として座っていた。いつまでもそこに座って、人形のように動かずにいた。
どうしてこうなってしまったのだろう。何もわからない。
そういえば、前に一度だけ、お嬢さまが戯れに言っていた。
──もしかしたら、千夜ちゃんの血でも飲んだら治るかも。
あの一言が頭から離れない。
そんなことあるはずがない。いつものお嬢さまの笑えない冗談だと聞き流してしまった。
けれど、医者は異常を認めなかったのに、お嬢さまは正常ではなかった。そんな状態を、自分の常識で判断してよかったのだろうか。
いや、よくなかったからこうなってしまったのだ。お嬢さまは自分が助かる方法をわかっていた。けれど、それをすると私を傷付ける。だから言えなかった。冗談めかしてしか、伝えられなかった。あれはお嬢さまの、最初で最後のSOSだった。
そんなもの、わかるはずがない。あの状況で、あの内容を真面目に受け止めて汲み取れと言われても、出来っこない。
お嬢さまは死ぬつもりだった。それでも昨日、私の血を飲もうとしたのは、生への執着だろうか。もうその答えは得られない。
日が昇っては沈んでいく。
この屋敷にはもう、私の他に誰もおらず、私にはもう、何一つない。
昨日久しぶりに髪を切った。鏡を見たら、もう涙の跡はなかった。
あれから日が経った。生きる希望はなくなったけれど、死ぬような気力もなかった。
スーパーのレジで告げられる食材の金額の他に、久しく人の声を聴いていない。この世界は今、どうなっているのだろう。
インターネットにアクセスすると、人々がくだらない娯楽に笑ったり憤ったりしていた。黒埼ちとせという人が一人いなくなっても、世界は残酷なほど変わらずに回り続けている。
お嬢さまの痕跡を探すように検索ボックスに名前を入れると、懐かしいアイドル時代の動画が出てきた。たった一度だけ、ユニットで歌って踊ったライブの映像。事務所が投稿した公式の動画。プロデューサーがアップしたのだろうか。
何度も何度も繰り返して見ていると、もう涸れてしまったと思った涙が溢れてきた。たくさんのファンが自分とお嬢さまの名前を叫んでいる。体が熱くなる。
お嬢さまはいなくなっても、歌は残っている。今でも誰かがスマホやパソコンの中に入れて、イヤホンで聴いたり口ずさんだりしてくれている。
きっとそれがお嬢さまの望み。私が私らしくあるためのきっかけ。
お嬢さまは言っていた。あの人を頼れと。
今さら勝手だろうか。自分から突き放しておいて、都合が良すぎるだろうか。きっともう求められていない。どこにも居場所はない。
それでも、それがお嬢さまの最後の命令だから、私はそれに従うのだ。
電話をかける。私も一体、何日ぶりに声を出すだろう。
「プロデューサー、少しお話があります」
私たちの物語は、まだ始まったばかりなのだ。
True End.