これは夢だろうか。突然お嬢さまに襲われるという、現実とは思えない光景。けれど、この痛みはあまりにもリアルで、このままでは夢から覚めるどころか、朝を迎えられそうにない。
私はお嬢さまごと布団を蹴り上げると、転がるようにベッドから出て床を踏みしめた。噛まれた傷口が疼き、右半身は痺れて上手く動かない。
強く床を蹴ると、そのままつんのめって勢いよく床に叩きつけられた。まるで無防備だったので顔を強く打ちつけ、耳を塞ぎたくなるような鈍い音が響いた。
「あぐぁっ!」
絶叫して顔を押さえる。歯は無事だったけれど、頬骨が砕けたのではないかと思うほど痛んだ。その間にも首からは血が流れ続けて、だんだん痺れが全身に広がってきた。
私の足首を掴んでいたお嬢さまがゆらりと立ち上がって、床に倒れている私を仰向けにした。そのまま上に乗っかると、押さえ付けるように覆い被さってくる。
「やめてください! お嬢さまは……本当にお嬢さまですか?」
私は固く目を閉じて首を振った。先程からお嬢さまは一言も喋らない。きっと何かに憑りつかれているのだ。
だとしたら、絶対に逃げなくてはいけない。ここで殺されてしまったら、お嬢さまが朝起きた時にきっと寂しがる。それに、お嬢さまを人殺しにしたくない。
強く床を押したが、体はまるで動かず、手の感覚もなくなってきた。もがく私の頭を床に押し付けて、お嬢さまが傷口に口を押しつける。
ごくんと大きく、お嬢さまの喉が鳴った。自分の血液がお嬢さまの体内に流れていくのがわかる。
「やめて……。助けて……助けて!」
私は泣きながら叫んだ。だんだん意識が遠のいていく。
一瞬でいい。一瞬でいいから、私の持てるすべての力を振り絞ってここから逃げよう。
そう決意して大きく息を吸い込むと、お嬢さまが耳元で囁いた。
「大人しくして、千夜……」
私は思わず息をのみ、強張っていた体の力を抜いた。
その声は確かにお嬢さまのもので、お嬢さまのイントネーションだった。憑依されている気配など微塵もない。
私にはこの状況はまるで理解できない。けれど、これがお嬢さまの望みなら、私はそれを受け入れよう。私の命でお嬢さまが助かるのなら、どうせ一度は死んだ身である。すべてを捧げて私は死のう。
もう腕の感覚はない。痛みも薄れてきた。頭はぼーっとして何も考えられない。元々部屋は真っ暗だが、灯りがあってももう何も見えないだろう。ただ、首から溢れる血を、お嬢さまが飲み続ける音だけがする。
それでいい。お嬢さまのために死ねるのなら、生まれてきた甲斐があったというものだ。
深い深い闇の中に体が沈み込んでいく。
一瞬意識が途切れて、次に目を開けたら朝になっていた。
見慣れた天井が目に入ってくる。カーテンからはうっすらと光が漏れて、微かに部屋を照らしている。
「生きてる……?」
恐る恐る首に触れると、傷らしいものはなかった。枕もシーツも汚れておらず、部屋に争った形跡もない。
体を起こすと少し目眩がしたが、吐き気や悪寒はしなかった。腕の痺れもなくなっている。
「夢……?」
もしそうだとしたら、なんという生々しい夢だったのだろう。傷口を抉られる痛みも、全身が痺れて動かなくなる冷たさも、突然襲われて噛みつかれる恐怖も、全部夢の中の出来事だった。
そんなはずがない。
私はベッドに腰かけて、首をさすりながらぼんやりと思考に耽った。
そういえば随分前に、お嬢さまが血を飲む話をしていた。私の血を飲んだら病気が治ると、確かそう言っていた。
もちろんあれは冗談だと思って、軽く聞き流したけれど、もしもあれが本当なら昨日の光景と繋がる。今怪我をしていない理由はわからないけれど、あれが夢ではなかったのなら、お嬢さまはもう大丈夫なのだろうか。
ベッドから起き上がり、お嬢さまの部屋に向かう。軽くノックしてドアを開けると、すでにカーテンは開かれていて、お嬢さまがベッドの上に座っていた。いつもならまだ寝ている時間である。
「おはよう、私の可愛い僕ちゃん」
「おはようございます。お体はもう大丈夫なのですか?」
努めて冷静に尋ねる。昨夜のことはどう切り出してよいかわからない。まだ全部自分の勘違いである可能性も、お嬢さまが無意識にしていた可能性もある。知らないのなら知らないままでいい。
そう思ったけれど、お嬢さまはまるで昨夜のことを肯定するように勝気に笑って言った。
「ええ。あなたのおかげでね」
ぺろりと舌なめずりをする。ご馳走様と言わんばかりの眼差しだ。
「昨夜の……」
言いかけた私を、お嬢さまが指を立てた手を伸ばして制した。
「3日よ。千夜ちゃん、丸3日寝ていたわ」
「3日も……どうして」
「それは、私がたくさん血を飲んで死にかけていたからでしょう」
平然とそう言った言葉が、微かに震えていた。顔は笑っているが、目にはわずかに怯えの色がある。見たことのない弱々しいお嬢さまだ。
私は立ち尽くしたまま、お嬢さまを見つめる。噛まれた首に手を当てて、慎重に言葉を選んで言った。
「3日で治る傷ではありませんでした」
「私が治した」
「そんなことができるのですか? でも、前に包丁で指を切った時は治していただけませんでした」
「それは私がつけた傷じゃないから。色々条件があるの」
ゆっくり立ち上がり、一歩ずつ近付いてくる。
私は突っ立ったままお嬢さまを待った。お嬢さまは私の前まで来ると、自虐的に笑って私の髪に触れた。
「逃げも怯えもしないのね」
「おっしゃる意味がわかりません」
「考えていたのが馬鹿馬鹿しくなるわ。私は自分の体の治し方を知っていた。でも、それを千夜ちゃんに頼むことはできなかった」
「どうしてですか?」
「言っても信じなかったでしょうし、逆に全部理解された上で、拒絶されたり気味悪がられたりしたくなかった。それなら、自尊心を保ったまま、あなたに愛されたまま死のうと思った」
お嬢さまはそう言って、もう一度ベッドに戻った。私はため息をついて首を振った。
「死んだらダメだと私は言いました」
「だから襲ったじゃない。ううん、そうじゃない。私は死ぬのが怖くなっただけ。あんなこと、するつもりじゃなかった」
苦々しく吐き捨てて、お嬢さまがつらそうに頭を振る。私は大きく息を吐いて、少しだけ笑った。
「別にいいです。私はお嬢さまを愛していますし、お慕いしています。また血が必要になったらおっしゃってください。死ぬほど痛かったですけど、死なないのならいつでも飲んでください。いえ、たとえ死んだとしても、私はお嬢さまに生きていてほしいです」
「もう年単位で大丈夫よ。またアイドル活動しよっか。あの魔法使いさんに後で電話しておいて」
お嬢さまが明るく笑う。それがまったく昔のままだったから、私は安堵のあまり膝から崩れそうになった。
アイドル活動はどちらでもいいけれど、それがお嬢さまを輝かせるものなら付き合おう。きっとお嬢さまは、私にここ以外の居場所を作るためにアイドルの仕事を受けたのだ。けれど、それはもう必要ない。私はずっとお嬢さまの傍にいる。お嬢さまが思うよりずっと、私はお嬢さまの僕であることに誇りを持っている。
「年単位とはまた長いですね。嗜好品としてほしくなったらいつでも言ってください」
「なに? 千夜ちゃん、吸われたいの? 本気で泣き叫んでたけど」
「あれは怖かっただけです」
思わず顔が熱くなって、私は足下に視線を落とした。泣き叫んでいたことよりも、自分が血を吸われたいと思っていることに、自分でも気付いていなかった。
お嬢さまがいたずらっぽく笑って手招きをする。求められるままベッドの前で膝をつくと、ふんわりと両腕で包み込まれた。お嬢さまの香りが鼻腔をくすぐる。
「痛かったんでしょ? それでもいいの?」
耳元で囁かれて、私は小さく体を震わせた。こくりと頷くと、お嬢さまはくすっと笑った。
「痛いのが好きなのね。教育を誤ったかしら」
そう言いながら、私の顎を上げさせて唇を合わせる。
まったく意味のわからないキスだったけれど、誓いの証のような気分がして悪くなかった。
「私も、絶叫する千夜ちゃんに興奮した」
「変態ですね」
「お互いにね」
くすくすと笑い合って体を離す。
「では食事を作ってきます。それから、カーテンを開けるのは私の役目ですから、お嬢さまは私がカーテンを開けるまでは寝ていてください」
「そうね。一日は、千夜ちゃんがカーテンを開けるところから始まらないとね」
穏やかないつもの朝。
こうしてずっと、ずっとお嬢さまと過ごせたら嬉しい。私の幸せも、価値も、すべてはお嬢さまの中にあるのだから。
Good End.