「いかが致した、そのようなところで」
いきなり声をかけられ、いつのまにか大樹の陰で足を止めていた『九尾』は、われに返った。
うろたえ気味に豊かな
少年は、ときおり吹く空調の温風に栗毛いろをした髪をゆらしつつ、
「そなた『九尾』であろう?――みなの者が、まっておるぞ?」
落ちついた口調に物越し。
教育の行き届いた品格を感じる。
着ている服も、いい素材を使ったものだ。
――たぶん権勢を誇る家門の子弟だな……。
「これは――失礼いたしました、閣下」
察しをつけた“女神”は、如才なく一礼。
しかし女声にされているので、何となくナヨナヨ心もとない。
着せられた薄物も
すると、この子供はゆるやかに頷き、
「うむ、ウワサどおりの
「恐縮でございます……閣下」
風格に妙な重みがある。歳に似合わぬ視線の据え方も警戒の要素に。
ひょっとすると、外形をいつわった姿をもつ政府の実力者かもしれない。
「これ、そのように堅苦しくするでない。
そういって、少年は女神の姿をした『九尾』をまじまじと見つめる。
“朕”か、と『九尾』は記憶をさぐった。
確か西側の華族社会の子供が、そのような尊大ぶった物言いをすると聞いたことがある。英才教育で、将来は中央政界にノしてゆく温室栽培の個体。いずれにせよ“大きな手”と繋がりのあることには変わりない。
警戒をする彼をよそに、少年は相変わらず女神の姿をした『九尾』をジッとみつめて。
「如何なさいまして……?」
「うむ――うむ――」
しばらく相手は沈思黙考するように。
次いでなにを思ったか、この“小公子”は
相手は、しばらく言葉を探しあぐねるようだったが、やがて、
「どうぢゃ――“学校”と申すものは、
「……と、申されますと?」
「朕は、学校とやらに行ったことがない。聴けば同年代のものが集まり共同教育をうけ、たいそう楽しいものだと申すではないか」
「――貴方は?」
「朕は家門の専属教師が分野ごとについてな。すでに
「……お忙しそうですね」
忙しい?と小公子は驚いたように眉を上げ、
「いやいや、そなた達「候補生」に比べれば、それほどでもない。単に
「はぁ……哲学ですか」
「そもそも朕は“最大多数の最大幸福”という言葉が好かん」
「ベンサム、ですね?」
『九尾』も、それぐらいは分かった。
図書館でチラ見して(極めて理にかなっている)とは思ったのだが。
この小公子は『九尾』の不服そうな顔に、
「そなたの言わんとしていることは、分かる」
たしかに理論としては正しい、と一応うべなって見せてから、
「しかし
「と――おっしゃいますと?」
目の前の相手は、小さくため息をついた。
「それを議論するには、いまは時も場所も、そして何より立場が
「……はぁ」
「よいか?“信仰”と“狂信”のあいだは――ただの一歩ぢゃ」
目の前の小公子は重々しく
「そなた……よい匂いがするの?」
「わたしが、ですか?」
『九尾』は自分の二の腕を持ち上げてクンクンと嗅ぎ、纏う薄物も同じように。そしてシャネル似の貴婦人が、己の耳の後ろにつけた香水に思いあたる。
「そうではない――もそッと朕の方へ来ぬか!」
うってかわり
女神役が自分のほうに尻をうつすと、この小公子は臆面もなく女神の首筋につめたい頬を押しつける。
「
そのままウットリと『九尾』に抱きつき、ヒシとちからを込めて。
尊大な“小公子”が、きゅうにひとりの子供にかえったよう。
貴婦人がつけてくれた香水の銘柄が、偶然この子の母親がつけるものと同じだったのだろうか。
“女神”役の『九尾』は、少年の背をゆっくりと撫でる。背骨の感じが
秒針が、ゆうに回っただろうか。やがて少年は呟くように、
「朕は……朕は、母の愛をよう知らん。だいぶ前に泉下にうつられた」
小さな背中をすこし震わせながら、ためらいがちに告白する。
「そなたと居ると……居ると……母様といっしょのようぢゃ」
小さな声が、嗚咽を抑えるように。
しばらくそのままだったが、ややあって、少年はグシグシと目もとをコスり、
「
栗毛なその頭を、『九尾』はやさしくなでた。そして自分でも驚くほど“母性”が胸のうちに湧きおこっていることに気づく。
もしや――と、一瞬ヒヤリ。
メゾン・ドールの調教で、新たに
――いや……ちがうな。
『九尾』はすぐに否定する。
いま自分の胸に広がる、暖かく、そしてどこか哀しい心持は“あの料理屋”で植え付けられるような、肉欲を
“女神役”は少年をソッと抱きしめるようにして、
「おじいさまは――キビしい?」
「……うん」
「
「勉学や口頭試問が不出来であると、朕を
「まぁ!……イケないおじいさまネ?」
黙したまま、コクリと首もとでうなづく気配。
「でも。きっと、おじいさまも寂しいのね」
「寂しい?あのお祖父さまが?」
「娘サンを――あなたのお母さまを亡くして、ガッカリしてるのですよ、きっと」
「そうかのぅ……」
話しかけながら、『九尾』は疑問に思う。
なぜ、
密かに疑問をうかべる“女神役”をよそに、少年は「ふぅーっ」と、気息をととのえ、名残惜しそうに『九尾』から身体をはなす。
「
そう言うや威儀をあらため、
「
「どのような?」
「――むム……」
小公子は言いよどむ。
しばらく
「そなたに
「ソデにした――
ニコやかな『女神』に小公子はムッとして、腰に巻いた皮ひもに下がるポーチから、
「――見よ」
小箱を開けると、大ぶりの輝石をあしらった指輪が鎮座していた。
見覚えのあるピンク・ダイヤ。
嫁ぎ先予定の家門から『成美』におくられた、婚約の証。
「これは!――じゃあ貴方が!わたしの……」
『九尾』は改めて目の前の小公子を観察した。
この
老成した魂だけが、少年の身体を借りているような。
まさか強制憑依か、洗脳というわけでもあるまい。
それとも英才教育は、このようにいびつな
「これを突き返されたときは……目の前に影が差したものぢゃ」
『九尾』の凝視をよそに、彼はフッと微笑して、
「
だがもう
「そんな、ソデにするなんて。あのときは生死を賭けた作戦を前にしていたから、お返ししたのですわ」
彼は機密事項に触れない程度に『
恐ろしい耀腕。
しかし、目の前の小公子は、それを半分も聞いていないようだった。
「では――では――!?」
次第に頬を紅潮させつつ、瞳をキラめかせて、
「朕が
絵姿ですって?と『九尾』は可愛らしく小首をかしげる。
「そのようなもの――頂いてはおりませんが?」
「――なんと!」
そう言って、小公子は絶句する。
紅潮していた頬は、こんどは色を
「そこまでいたすか――“
キリリとくちびるを引きしめた
だが、つぎにいきなり
「では――そなたとの間に、これで何の
いままで抑制されたものが、一気に少年の内から噴き出したような勢い。
小さな体が、グィと“女神役”にのしかかって。
「その、なんとかという
「あの――閣下?」
「
おまちください、と『九尾』は興奮する小公子を押しとどめ、
「わたくし――その――おとk……」
「
ふたたび小公子は、少年のような純粋な熱意で。
そして、もはや
――この
感覚がメゾンのものより鋭敏だ、と『九尾』はひそかにおぞ気をふるう。
これも西側の最新技術なのか。こんな敏感な感覚器を付けられたまま
「お
ふむ、と少年は分別くさい思案顔をすこしばかり戻すと、
「やはり
“女神”は、高まりつつある淫欲に抗いながら、
「いったい――なにを仰って……」
「男だろうと女だろうと関係ない!朕は、朕は、そなたを欲しいのぢゃ!」
ずばりと小公子は、目下に宣告するような口調で、
「遠からず我が家門に輿入れして、朕の足もとにひざまづき、我が家門の嫁として馴致され、朕を悦ばせるのぢゃ。そして当然のこと子作りに
そう言って、彼はコリコリとした乳首への愛撫をやすめると、“女神”の手をとり、やさしく指をひろげる。
「朕は母の愛を良くしらぬ。だが、そなたなら……朕に、その甘露を降らせてくれるやもしれぬと望みを抱いたのだ。これは過ぎたる願いだろうか?」
あたまを
「先も申したが――この品を返されたときは、悲しかったぞ?」
少年は、『九尾』をなかば非難するように、
「これは亡き母様の形見でな?そなたはその安らかな思い出までも拒絶し、朕の心を砕いたのぢゃ。今日というこの日も、朕は、そなたの叙勲式に臨むのは
小公子は一瞬、室内庭園のガラス張りな天井を仰ぎ見て、
「だが――イヤなウワサを聞いてナ?心ならずもやって来た。“
――え……?
「そしていま、
その時だった。
イツホクの、あるいはメゾン・ドールの高級会員の。
そして何より『タチアナ』を嬲っていたバービー伍長の。
あの
自分が女体化調教を受けていただけに、その苦しみや哀しみを、心ならずも身体を差し出す辛さを知っている彼の怒りは、とどまることが無かった。
なにが帝王学か。なにが哲学か。なにが上流か。
組織の
すべてに――すべてに――すべてに――わたり。
下 品 極 ま り な い 連 中 !
『九尾』の本気な怒りを
ベンチからフラフラ立ち上がり、ニ、三歩『九尾』から距離をおいた。
“女神役”も応じて立ち上がると、肩にかけた短弓をゆすりあげ、腰なるダミーの短剣、その
またも、彼の口は勝手に動いた。
「ずいぶんと
一瞬、少年はあっけに取られるが、女神の口調をうけ反抗的に
「なにを――控えい!無礼である!朕をだれと心得る。平民ふぜい――」
「お黙りなさい!」
狩猟の女神の、ムチを思わせる一喝。
それは、背伸びをした少年の心の臓を打ち、彼を兎のように
「よいか!女性をモノ扱いなどしてはならぬ!なんじゃ、
あうあうと口のはしをわななかせる少年。
やがて、震えるあごで精一杯の抵抗をこころみて、
「でも――でも――そうしないと支配者に成れぬと……」
女神は腰から短剣を抜きはなち、いきなり少年の鼻先に突きつけた。
「
汝、
あたら酒池肉林を地でゆき、
破滅の
何が性奴であるか!――
「……」
「汝、ダモクレスの
「……」
「なにが“朕”か!
“女神”からクソみそにけなされ、茫然自失の少年だった。だが本人は、なぜ自分がここまで怒られるのか、理解が出来ないらしい。涙目になりながら凝ッと『九尾』を見つめている。
――こんな子供にまで、歪んだ“
メゾン・ドールでビェルシカ姿のときに聞いた、
――クソが……!。
胸のムカつきが収まらなかったが、ふと。どういうわけか怒りに代わって出所不明な哀しみの感情が胸のうちに流れこんできた。
まるで誰かに――必死に謝られている、ような。
それでも冷たい心持のまま、『九尾』は指に填められたピンク・ダイヤのリングを抜くと有無を言わさず少年の手に押しこんだ。目のまえの“小公子”は、掌の上のダイヤを呆然と眺めたのち、とうとう泣き出してしまう。
「また――また独りぢゃ……みんな朕を嫌って……居なくなって……母様……母様……」
しゃくりあげ、俯いて涙をポロポロと流す小公子のなれの果て。
それでも
――考えてみれば、この子も被害者か……。
子供の頃から勘違いした教育を受ければ、とんでもなく
言い過ぎたか……と『九尾』も反省し、いや、そもそもあの
彼は肩をふるわせる少年に近づくと、ソッと抱いた。
ちいさな顔が、香水を塗られたくびすじに当たるように、背をかがめて。
「母様……?」
「すこし言い過ぎましたね。でも考えて御覧なさい?なぜ
「皆……朕の、わしの言うことを聞かぬのじゃ」
「聞かない、のではなくて、貴方がみんなに聞きたくない事を、嫌がられることを言っているのでは?」
「……」
「皆さんに、やさしくしてますか?」
少年の、キョトンとする気配。
「やさしく?――やさしくなどしたらしたら、皆言うことを聞かぬ」
「なぜみんなが貴方の言うことを聞かなければならないの?」
「それは……ちん……わしが支配者として存在せねばならぬからじゃ」
「だれが、そう決めたの?」
「お祖父サマが……」
「ではそのおじいさまが、間違っていたとしたら?」
少年は身をはなし、呆然として『九尾』を見上げた。
「そんな……そうだとしたら、朕はもう何を信じてよいか分からぬ」
いいこと?と、『九尾』は噛んで含めるように、
「みんなに優しくしなさい。みんなが言うことを聞かなくてもいい。もし貴方が正しいと思ったら、みんなが自然と貴方について来ます。優しくなけば、人の上に立つ資格はありません。“支配者”には成りますな。愛される“指導者”になりなさい。それは
「……」
「あなたには、まだ難しかったですね」
「そんなコトは無い!ち……わしだって、皆と仲良く遊びたい!……あ」
少年は、今の言葉を誰かに聞かれなかったかと、慌ててキョロキョロする。
『九尾』も釣られて辺りを見まわすや、遠くから黒服の三人が走ってくるのが見えた。チェッ、ばれたかと視線をもどすと、いじいじと少年が上目づかいにダイヤの指輪をいじっている。
「もう……受け取ってはくれぬな?」
『九尾』はようやくニッコリと微笑んだ。
「
雲間から陽が出るように、少年の顔がゆっくりと明るくなってゆく。
それはまさしく“ぱぁぁぁァァ……”と擬音がきこえてくるほどに。
「
少年は加藤武のポーズをキメて、
「ちn……わしは、努力してみるぞ!そうして必ず!そなたを迎えにゆく!」
「でもね?このことは、おじいさまにはナイショですよ?その
芝生の上を駆けてきた三人が、息を切らし、
「候補生『九尾』!またやりましたね!あれほど!」
「無礼な!ち……わしの連れ合いとなるお方ぢゃぞ!」
今は小公子に戻った少年が、威風堂々、『九尾』と護衛との間に割ってはいる。
「
腰を低くし最敬礼した護衛役の男が、察しをつけて場を収束させる。
“小公子”は、いかにも寛容な風を見せ付けるように頷き、
「承知しておる――そなた達も、御役目ごくろう」
は、と頭を下げる三人から振りむき、少年がウィンク。
ドウじゃ?こうすれば良いのであろう?とでもいうように。
『九尾』は心ひそかにズッこけて、
――ちぇっ、こいつ意外とカルいな……大丈夫かな。
護衛と連れ立ち、彼が
「愛する『九尾』殿よ、いま少し待たれよ!」
少年が追いすがり、しばしの間、耳打ちをする。
そして『九尾』の首に、自分の胸からはずしたペンダントをかけた。
「約束の
そう言って元のベンチのところに戻ってゆく。
「アレが朱雀院の若サマか……ウワサと違って、イイ子そうじゃないか」
「ひでぇHENTAIサド坊ちゃんだと聞いたけどなぁ……」
彼方の一団に動きがあった。どうやら『九尾』を認めたらしい。
演奏がやみ、群集が一斉にこちらを窺って。
「あの子には、指導役が必要です。護衛さん、だれかいい方が居ないでしょうか」
「ハァ?あの名にし負う“朱雀院”だぞ?一介の平民の言うことなど」
「そこを何とか……このままではあの子が――」
振り向いた『九尾』の歩みが
「イテッ、急に止まるなよ候補生『九尾』!」
「あぁ!アレ!――あれを!」
えぇ?と護衛と配下の二人は振りむいた。
大きな樹の根元にある白いベンチ。
その前を、いまや小公子は、決然とした足取りで歩いてゆく。
問題は――その樹の根もと。
夏用のドレスに日傘をさした貴婦人の、半透明な姿。
前を歩んでゆく少年にむかい
そして、その後ろには……。
「どうした、『九尾』クン、あの子がどうかしたか」
「見えないの!?アレが!――その黒メガネで!ベンチ周辺をサーチ!!」
「……なにもないな?」
「いや待て、ベンチ周辺が二箇所。異常に気温が低い……」
やっぱり見えないんだ、と『九尾』は観念する。
夏服をまとう貴婦人のうしろ。
そこだけ空間が歪んだように
トラムの交通事故。
納骨堂の光の紋様。
雲海中のフロイト。
そして木陰の幽霊。
いずれも死に関係する場所で現われる老人。
死神――あるいはそれに類するもの。
ドレスの貴婦人が、こちらを向いた。
そして深々と一礼し、姿を薄くして――消える。
気がつけば、ミイラめいた老人の不吉な影も見えない。
みょうに冷たい風が、ザッと一瞬、ふき抜けた。
遠くの園遊会から、『九尾』たちを
次から次へと、書いてゆくうちに知らないキャラが現われて困ります。
しかも後でなぜか不思議と帳尻が合うパターン。
完全に登場人物たちに物語が乗っ取られてます(ハァ……。