雲海降下前に訪れた高級百貨店は、その時とは一転、平日ともあって空いていた。閑散といってもいいその光景に自分のふところ具合を連想した『九尾』は、車内の会話を思い出す。
「借り逃げは、ゴメンこうむるぞ」
「借りにげ?」
「借りたまま、天国か地獄に逃げ
やっぱり言い方がトゲトゲしい。
言われた彼は、思わずイラッと、
「そんなこと!しません。作戦遂行の報奨金と叙勲の副賞が、探査院と王宮より支給されると聞いてますから、問題ないと思います……たぶん」
「いくら」
「報奨金で50ギニー。副賞で100、とか聞きましたケド……」
「……」
護衛は鼻白んだかのように黙り込む。
たかが高校生の分際で165万円、とでもおもったのか。
ひょっとすると、自分のボーナスの金額と比べていたのかもしれない。
しかし『九尾』は、その沈黙を「当てにできない」という相手の意思表示と受け取り、
「あの。月末にならないとボクの口座に振り込みが無いらしいので。瑞雲校指定の約束手形、書きます。サイトは100日ですけど――いいですか?」
「分かった分かった」
いくぶん、プライドを傷付けられたかのような声で、
「いくらでも、貸してやる……ただし覚えておけ?今後、たとえ
――やっぱ……カッコつけて捨てなきゃよかったかな?
酒類を販売する地下フロア行きのエスカレーターで、一瞬。ホンの一瞬だけ胸が錆びたような感覚に。
愛香の
全力で自分を拒否するような態度。
――アレで良かったんだ。
結局、捨てることで吹っ切れたのだと彼はムリに思いなおした。
車を降りる直前、用意された一種制服に着替えさせられていた九尾は、喉もとの仰々しい翼十字章をマフラーで隠しつつ、自分自身を納得させる。
二人は地下フロアにやってくると、客がスカスカの上層とはちがい、スプリング・セールに賑わうデパ地下の独特な雰囲気を見回しながら、
「護衛さんは?お酒詳しい?」
「さて」
「(ちぇ。教えてくれてもイイのに……ブツブツ)」
背後にベッタリと位置する黒メガネは、いまだにブスッと連れない態度。
――無理もないか……。
ミラと別れた、あの銃撃戦の夜。
『九尾』がメゾンに行くことを許可した護衛であるこの男。そしてその部下たちは、あの一件がために減給処分を受けたのだとか。すでに『九尾』というW/Nは探査院でも疫病神扱いになりつつあるという、心外なウワサも聞こえてくる。ふと思いついてミラ秘書官のことについて尋ねてみるも『部署と
――いや……まてよ?
でも、それにしては態度がヘンだ。
園遊会では護衛さんたちと普通にしゃべっていたではないか?
それに、さきほど男が口にした“再研修”ということば。
もしや……。
あの、と言いかかる『九尾』より先に護衛の男は、彼をさりげなくガードしながら、中年夫人や子供連れが目立つ人ごみや自動カートを器用にすりぬけ、目指す場所につくと、
「酒の売り場はここだな?外から見張っている。なにかあったら呼べ」
それだけ言うと視界が効くすこし離れた場所に占位し、辺りをさりげなく見張る姿勢。それは本当に連れと待ち合わせる姿のように、周囲に溶け込んで違和感がない。さすが、と『九尾』は舌を巻く。
はぁっ、とやるせないまま彼は単身、華やかなボトルの林に突入した。
壮大かつ蒼古な区画の中で、ワイン・セラーのガラス戸には一本一本に目玉が飛び出しそうな瓶が並ぶ。
――え……。
メゾン・ドールで親しくなった同僚たちと仕事が終わった後、ワインセラーから失敬して盗み飲みした『シャトー・ラフィット・ロートシルト』の当たり年Grand Cru 。酔っ払った彼らのうち二人が“69”の体位でふざけだして。それをバニー・ボーイやチャイナミニ。ボンデージ・スタイルの少年たちが互いの身体を“さわりっ子”しながら鑑賞する。堅物で通る『九尾』は、ノーマルの“ご奉仕ショタ・ウェア”のまま、独り、チビチビとグラスを傾けて。
あのとき、美味いとも不味いとも思わなかった“赤い水”
今見れば、怖いぐらいの値段が。
実際の価格を見るのが『九尾』は初めてだった。
もともと
シャンパン――シェリーと区画をうつり、ブランデーの次に目指す棚はあった。
――ウィスキーの場所は、ココか……。
二つの月が浮かぶ蒼空。
あの高原で“前線”のスゴ味を放つ本職が呷っていた銘柄は……。
記憶力をフル回転させ、目を棚に並ぶラベルの上におよがせる。
「なにか――お探しですかぁ」
近くで作業をしていたクロークを巻く小太りな若い店員が近づいてきた。
西の出身らしく
「
「身分証……」
「すンませんが酒類の販売わぁ、当局のご指導で18歳以上と決められてますよッて――決められてマスので」
しまった!と『九尾』は唇を噛んだ。
まさか年齢制限のことまでは頭に浮かばなかった。
図星か、と早春セールのためか花をかたどったハデな紙帽子を被らされている小太りの青年は、そんな彼を心なしかニヤニヤと眺めて。
――自分は18歳だ、と突っぱねようか……。
しかし、女性化・前処置の影響がいまだ色濃くのこるいまの面がまえでは、それも滑稽なだけかと彼は思いなおす。かといってこのままスゴスゴ転進するのは、いかにもシャクだ。
遠くで黒メガネが異変に気づいたか、こちらを注視している。しかし助けを求めるのは、もっと腹だたしい。
彼は、くるしまぎれに航界士候補生の制服を示し、
「じつは自分、公務遂行中でして」
「いや、それなら公務中の腕章は?こちらも当局のご指導ありますので」
思わず『九尾』はイラッとする。
――なんでコイツそんな余計なトコに詳しいんだ!
それに、この手の役人風な人間が、このごろ彼は大キライになっていた。
思わず相手をニラみつけ、
「……では、重要な人物への贈り物が、貴方のために間に合わなくなったら、
「……よろし。その代わり、貴官の錬成校登録No.控えさせて頂きますさかい」
もはや西の調子を隠そうとしない店員。
けっこう!と『九尾』も声高に応じる。
売り言葉に買い言葉だ。
二人の間で火花が散る。
『九尾』は首もとを巻いていたマフラーを、ゆるゆると解いた。
相手が“航界士マニア”なら、分かることだろう。
彼の
さすがに一瞬、小太りの青年の眼はギョッと見開かれた。
そして上から下まで、年下の少年の様をみつめる。
だが次の瞬間、不思議なことに、この青年の顔は怒気に染まって。
「上等ですわ!ホンなら出るトコでましょか!」
「オイ!
すこし離れた場所で、伝票を整理していたとみえる白髪のオールバックな老人が、ポールペンを手にしたまま近づいてきた。
「閣下、なにか問題でも?」
「この
「馬鹿ッ!もうイイから――オマエは向こうで納品チェックでもしてろ!!」
青年は、フテたような顔をして『九尾』の前を去った。
老人の店員は首をふり、ため息をつきながら、
「失礼致しました閣下。すると……ウィスキーを、お探しで?」
クソが!と思いつつ『九尾』もメゾン・ドールの厳しい経験で鍛えたスイッチを、即座に外交モードへと切り替えるや、
「重要な方への贈り物なんですが、銘柄が分からなくて。なにかお奨めの品はあります?」
「そうですねぇ……」
これなど
うぅん、と『九尾』は唸る。
良い品なのだろうが――なにかありきたりな気がする。
ひとクセもふたクセもありそうな『ホスロー』のイメージに合ってない。
引っ掛かりのある彼の顔つきに店員はボトルを引っ込め、
「好みがうるさいお方?」
「……かも、しれません」
「どんなのがお好みの方なんでしょう?」
「さぁ……三十台なかばぐらいの男性で、航界士で、前線勤務があって……」
老店員はそんな彼の
「ご本人の好みがお分かりにならないと、コレばっかりは、ねぇ?」
「できれば、好きだった銘柄を贈りたいのですが」
「どんな銘柄で?」
「それが……自分もウィスキーにはあまり詳しくなくて……」
メゾン・ドールで『九尾』は一応、一通りの知識は叩き込まれた。
しかし、それはほとんどがカクテルやシェリー、シャンパン。アブサンやラキ、ヴォトカなどのスピリッツ、それに
なにかヒントみたいなのは無いのですか?と店員は眉根をよせ、腕組み。
「ボトルの色やラベルのエンブレム――デザインとか」
「びんは透明でしたし、ラベルは手書き風な文字ばかりでした」
まぁ、なんでもいいかと『九尾』は思う。
――気は心だ。どうせ本人は……。
「数字は?書いてありました?」
「え?あぁ……そういえば12とか」
「ふぅむ、12年物ねぇ。しかしそんな品はたくさんあるし……」
ふと、『九尾』はあの二つの月の下で吹きわたった風に、微妙な臭いがあったのを思い出した。
「わかった!たぶん薬膳酒でした……臭い匂いがしましたから」
「匂い!どのような?」
目を光らせた老店員の勢いに『九尾』はとまどう。
あのとき、吹き渡る清浄な風に、幽かに臭ったのだ。
「放射線予防液を含んだ匂いですよ」
「と、申されましても……わたくし共のような平民には、なんのことやら……」
「アイラ・モルト」
いつのまにか背後でボソッと黒メガネの声。
やはり!と老店員は快心の笑みを浮かべ、
「文字だけ。しかも瓶が透明な手書きラベルの12年となるとおそらく!あの銘柄の50度カスク・タイプ。さては相当お強い方ですね?」
「えぇ、だったと思います……」
「ちょうどいい、同じ蒸留所の極上な試飲ボトルが来てる。匂いを嗅ぐだけなら……それとも候補生の方は特例なのかな?」
「もちろん
またも背後から、護衛の断固たる声。
ワインセラー区の奥、洞窟状になったもっとも高価なボトルを並べる場所から、老店員は半分ほど空になった酒瓶をうやうやしく持ってきた。
「これは特別なお客さんにしか試飲に出さないんですが……」
小さなショット・グラスにそそぐと、あの高原の爽やかな空気に混じっていた、ヨード臭い匂いが再現される。グラスを鼻先にもっていった『九尾』は、
「これだぁ……」
そう言うや、クピッ、と一口。
とたん口の中にヨード臭い火炎の
「うァっ!エホッ!」
「あっ!コラっ!」
「どうです。こいつは40年もので60ギニーほどですが……どうです?そちらのお方も」
この時の護衛の顔こそ見ものであった。
頬がヒクつき、一瞬、手がグラスに伸びかける……。
だが、最後は立派に自制が勝ったらしい。
「
もの凄い葛藤を浮かべたすえ、断腸の思いがそのまま面に出たなような顔で辞退する。
結局、売り場にあるガラス棚の一番上に鎮座していた同じ40年ものを選び、カウンターの上でプレゼント用にラッピングしてもらう。支払いは、護衛の男が持つ探査院の“
よかった――と『九尾』はホッとした。
ホスロー上級大尉の喜ぶ顔すら、想像できるような。
そんなおり、ふと老店員が、
「アイツのこと――許してやってくださいね……」
「だれ?あぁ、さっきの店員サンですか」
老店員は、ちょっと首をふって詠嘆するように、
「――アイツもね?、ちょっと前までアナタと同じ“候補生”だったんですよ」
そうかぁ、と『九尾』は納得する。
道理でヘンにイタいところを突いてくるわけだ。
「リタイヤ?されたんですか」
「適正か、最終の試験におちたか、マその辺は詳しく言いたがらないんですけど」
――ププッ♪ざまぁ
『九尾』は意地悪く胸の中で嗤う。
あの小役人じみた頭のカタさじゃ、劈開面は見分けられまい。
だがその
「貴方の前でナンですけど、そんなにイイもんですかねェ、航界士って」
「……と、いいますと?」
気に障ったら御免なさいよ、と老人は眉間のシワを深め、
「けっこう亡くなるって言うじゃないですか。あたら華の命を……」
「ま、まぁいろいろありますからね」
「それにね、来た当初はバックヤードで時々泣くんですよ。悔しがって。オレはここで、こんなコトをしているって……」
「……」
ほかにも初老の店員は、何か言っていたようだが、それは『九尾』の耳に入らなかった。
ただ“バックヤードで時々泣くんですよ。悔しがって”というフレーズは、耳の中でいつまでも残る。
――雲海探査が無かった場合の、龍ノ口先輩の未来だ……。
『九尾』は暗然とならざるを得ない。
なぜ、自分は候補生になるのだろうという想いが、ふたたび頭をもたげてきた。
楽な就職先を提示されたとしたら、自分はそちらを選ぶだろうか。
龍ノ口の命と引き換えに、自分はいまココにいるという事実。
もらったバトンの活かし方として、細く長く生きるのもありなのか。
安定した職業と必要最低限の収入。
要するに、明日が保証されている生き方。
恋愛、結婚、家庭、育児、左遷。あるいは栄転。
想像の人生行路のなかで、なぜか相手は、愛香となって。
行きつけのバーの若マダムは、ミラ宮廷秘書官。
通勤電車と残業。休日出勤と愛香の小言。
しきりに言い寄るミラとの危うい逢瀬。
……などと昼ドラまがいの展開が、脳裏に。
覚悟を決めたつもりでも、やはり
――とはいえ……。
一度、薄皮一枚へだてたウラ側で、信じられないほど汚いことが行われているこの国の現状を観てしまった今は、どこか
「あの――閣下?」
われに返ると、包装を終えた老店員が、不思議そうな顔で『九尾』を見ていた。
「ほかに何かお買い忘れでも?」
「いえ――なんでもありません」
手提げ袋にいれた包装済みのボトルを下げて店を出ようとしたとき、先ほどの小太りな店員を遠くに見かける。似合わない菜の花の帽子を被らされ、つまらなそうな風でクリップボードを手に、ケースに入った品の員数チェックをしている姿。
黙って近づくと、青年の傍らに立った。
青年は固い顔をして、曲げた腰を伸ばすと『九尾』見下ろして迎え撃つ態勢。
しばらく沈黙。
とうとう堪らなくなったか、小太りの青年は、
「なにか」
「……ぼくは。ある重要な作戦で最近、親しい先輩を
青年の目を見げながら、『九尾』は声低く呟いた。
「航界士の任務は、あなたも知ってのとおり危険と背中あわせです」
相手の目がキラッ、と一瞬だけ生気に輝いた。
だがしかし、それはすぐに鈍重な幕に覆われてしまう。
「それが何か」
「あなたは、今でも航界士に追加認定されたら――すすんで職務を受領しますか?」
青年は背筋を伸ばし、『九尾』を尊大に眺めおろした。
そこには一抹の優位的な微笑すら漂っている
「――のぞむトコロや。危険なくして、なんの航界士ぞ」
「死ぬかもしれないんですよ?」
「アホ。やっぱり
相手から氷めいた気配が消え、うすく笑いがもれる。
「そこを乗り越えたら、あたらし世界が見れるんヤないかい」
「なんか、殉職したボクのチューターも、同じこと言ってました」
はぁ、と青年はタメ息をつき、
「航界士なん言うモンは、みんな似たようなモンや。こんなクソ下らん世界、抜け出しとぉてタマラン」
「安全と安定が保証されているのに?」
「生きながら死んでるようなモンや。生きてるなら、火花散らさんと!
青年は、でっぷりとした腰に手をやり、また暫し、瞳を輝かせる。
「いっそ代わりたいくらいやで……なんヤの?そのショボクレた顔ぉ!?その大層な勲章は飾りかィ『
ドン、と背中をどやしつけられた。
しかしそこには、幾分かの温かみが込められているのに彼は気づく。
サラ先輩はどうしてるかな、と一瞬思って。
「ボクのことを……」
「あたりまえや!ガキで(おッと、スマんの)あんな大層な勲章受けたンは、ココ最近じゃ一人しかおへん!どんなヤツやろ思うとったが……マダマダやの!」
確かに、と言われた『九尾』も苦笑してしまう。
「ボクは、全然いたらないようです」
「だが、ワルいヤツやなさそうや!さっきは謝る。スマン」
「そんな……ボクのほうこそ」
「候補生『九尾』――急がないと聖堂が閉まる」
馴れ合いに水を差すように、護衛の男がまたも背後から。
言われた彼は軽くうなづいて青年に向き直り、
「ありがとうございます……もう行かなくては」
なにか少し元気をもらったようで、『九尾』は笑顔になる。
相手の青年も、それは同じようだった。
「気張りや!Zu、dess!」
「ありがとうございます。Braa」
ニッ、と青年がわらう……。
回想シークエンスも残り少なくなりました。
あと少しで崩壊の始まりです。
どうか彼の最後を見届けてあげてください