※この作品はR-18です。

玲瓏の翼【18禁版】   作:珍歩意地郎_四五四五

109 / 117
086:引越しのこと、ならびに“死神”のこと

 

 

 

 護衛の言った通り、翌々日は修錬校を休んで引っ越しとなった。

 

 作業は業者が全部おこない、『九尾』自身は手周りの精密機器や個人端末を持ち出すだけで良かった。とはいえ、私物は軽トラック1台分にも満たぬ量だ。いままで生きてきた証がコレだけかと思うと、ある種の可笑(おか)しさを彼は感じざるをえない。

 調子の悪そうな軽トラのモーター音が遠ざかってゆくのを見送ると、ボロい寮の前でひとり私服すがたのまま、ポツねんと待つことになる。

 

 イツホクに会いに行った次の日の朝。

 彼は引っ越しと護衛の交代をいきなり端末の音声通信で知らされた。

 

「候補生『九尾』か?」

 

 電話口の向こうの、あからさまに敵意のある声。

 

「きみをガードするエージェントに変更がある。二日後に寮も変える予定だから、その日まで修練校を休みたまえ。荷物もまとめておくように」

 

 ――邦斎(くによし)さんの言ったとおりだ……。

 

 探査院の反応がはやい。

 また“大きな手”の見えざる力を感じる。

 あの精悍な護衛は、どこに行かされたのだろう。

 また研修でも受けさせられているのか。まさか左遷されたとか……。

 

「くに……今までの護衛さんは、どうなったんです?」

「とにかく、あまり迷惑をかけるな。手間をとらせるな。ハナシをややこしくするな」

 

 それだけ言って、邪険に通話は切れたのだった。

 

 いよいよ春の気配が感じられるようになった空気の暖かい薄曇りの日。

 ボロい寮の前で、乱れがちな心を手荷物品とともに抱えながら待っていると、黒いミニバンが寮の門に横づけとなった。後部のスライドドアが開き、対面座席となった中からパンツスーツ姿の女性が、

 

「お待たせしたわね、一級候補生『九尾』……乗って」

「コード・パスを」

 

 事前に案内されていた合言葉を彼は要求する。

 ピンストライプのスーツを着た、いかにも有能そうなこの女性はこともなげに、

 

「カラクタレスティカ・ウニウェルサリス――行きましょう、時間を無駄にしたくはないの」

 

 『九尾』が乗ると、車はモーター音も立てずに動き出す。リニア・エレクトリック併用車。法執行機関の所属らしい。

 彼は対面に座る三十路がらみの女性をビエルシカの眼でウィンドウの反射を使い、車外を眺めるフリをしてさりげなく観察する。

 一部のスキもない高級そうなスーツ。

 ブルガリ、カルチェ。小物はみんな高級品だ。

 この女になら“パピヨン”の席に案内させてもいいとイツホクは踏むだろう。

 だが、その装った容(すがた)の陰には、まごうことなく組織のエージェントめいた冽さが仄見えているのを、彼の厳しい経験は伝えていた。

 

「ほんと……アナタ女体化処理されてたのね」

 

 『九尾』の観察をよそに、この女性は手もとの端末でなにやら仕事をしながらポツリと。

 

「どういうことです?護衛さん」

 

 あっは、と急に女性の冷たい均衡がくずれ、一瞬な(・)ま(・)の表情がうかぶ。

 

「おっかし。ワタシが護衛ふ(・)ぜ(・)い(・)にみえるの?」

「……そうじゃないんですか?」

「アナタの新しい護衛たちは、これから向かう先の寮に待たせてあるわよ」

 

 護衛た(・)ち(・)。

 ということは、自分に対しては一人では手に余るということで、とうとう二人あてがわれることになったのか。やれやれ用心されたものだ胸の内で舌打ちしつつ、彼は信号待ちで横ならびに停まった内燃機関のオートバイを観察する。

 明らかに後付けと分かる得体のしれない機器やホースがあちこちから飛び出て、乗り手は相当にカスタムしてるらしい。

 2nd Starと尾部に★入りで描かれたバイクは、信号が変わるや重低音をひびかせてあっという間に消え去った。

 一度、バイクにも乗ってみたかったなぁ、と『九尾』は考えた。

 

 ――そういや車も運転したことが無かった。オープンカーの助手席は面白かったナ。いちど、コッソリ護衛さんに頼んで車通りの無い道を運転させてもらえばよかった……。

 

 そこで、姿を消した『邦斎』のことに思い至り、

 

「いままでの護衛さんは、配置転換ですか」

「まぁ――そうとも言えるわね」

 

 みょうに含んだような言い回しをこの女係官はしてみせた。

 

「ちょっと涼しいところで頭を冷やしてもらうのよ」

「頭を冷やす?どこです、それ」

「組織内の人事異動は、部外秘よ?『九尾』くん。それとも『成美』チャンとお呼びすればいいのかしら?」

 

 『九尾』は一瞬鼻白む。しかしすぐに態勢をたてなおし、

 

「ボクは候補生『九尾』です。それ以上でも以下でもありません」 

「ザ~ンネン♪『成美』チャンのままの方が可愛かったのになぁ」

「よしてください」

「知ってる?女体化処置の効果は、半永久的に残るって」

「え……」

 

 ルージュで彩った相手の口唇に、もはや見慣れた粘着質な笑みが浮かぶ。

 

「アナタはギリギリのところで施術を止められたらしいけど、それまでにさんざん最高級の女体化処置をされたものだから、あと一押しでアナタはメスになっちゃうのよ?血管に埋めた脱ホル・プラントも血流のなかの女体化ホルモン処理しきれなくて、女奴隷のフェロモンが出ちゃってるじゃないの」

 

 すこし前ならこの言葉に動揺しただろう。

 しかし、さまざまな経験をくぐった今となっては、もうブレなかった。

 男でもない、女でもない。

 自分が一級候補生『九尾』だと考えているおのれがいるだけなのだ。

 性別など、ささいな問題だった。

 ましてや、生きるか死ぬかの御前試演が近づいている今となっては。

 

 相手は自分が予想した反応を『九尾』が示さないことに驚いたらしい。微笑を消し、つぎに少しトゲのある言葉で、

 

「つまり――いつでも、性処理道具に早がわりというワケ」

「イマさら、どうでもいいですよ、そんなもの」

 

 ぶっきらぼうに『九尾』は応じる。

 

「どうせもうすぐ“御前試演”で死ぬかもしれないんだし」

「死ななかったら?」

 

 不思議なほどしつこく女係官は言いつのる。

 

「生き残って、そのまま拉致られてオンナの子にされちゃったら?」

 

 相手の瞳の中には、いつのまにか偏執的な光がたたえられてるのを『九尾』は診た。

 ヒザの上に載せた端末をとなりのシートに置き、

 

「……そしてご主人様の赤ちゃんを産んで、安楽に、幸せに暮らせるとしたら――どうする?」

 

 そのとき。『九尾』の脳裏には龍ノ口の、『ドラクル』の最後の姿が浮かんだ。

 あの悪夢のような空間で雄々しくも片腕をあげ、こちらを見送る姿。

 身代わりとなった者から渡されたバトン。託された想い。

 それを裏切るわけにはいかなかった。

 

「ボクは、いえ自分は、航界士候補生です」

「見た目によらず、わりとガンコなのね。アナタが居なくなったら悲しむ人がいるのに」

「でもそれって『成美』としてでしょ?」

「いいえ。あなたを妻にと思っているお方がよ」

 

 あぁ、と『九尾』は脱力して車外の流れを見る。

 なにやら高級住宅地に入ってゆく気配。

 

「西ノ宮の――あの大僧正ですか」

「いいえ、もっと別のお方」

「たしかに『成美』を手もとに置きたがるヘンタイは、大勢いるでしょうね」

「忘れたの?婚約の証まで送ってくれた方なのに」

 

 その言葉に、ハッと彼は女性係官の方を向いた。

 

 ――朱雀院の坊や!

 

 園遊会で我を張った少年を『九尾』は脳裏にうかべる。

 随分とワガママに育てられていたようだが、その後はどうなっただろうか。

 すこしは周りと打ちとけていると良いが。

 

「……あの子が、ねぇ」

「そのお方がね?勅任航界士の御前試演出場を――考え直してくれないかって」

 

 探査院の係官が、こんなことを言い出すのが意外だった。

 西の名家ともあれば、こっそり裏から手を回すことも可能なのだろうか。

 女性の顔は『九尾』をジッとみて、どんな反応も見逃さないとするかのように。

 

「今回の事象震は規模が壮大になる予測だから、そのうちアナタも辞退するだろうと若様は楽に構えていたの。だけど、ちっとも辞退の知らせが無いものだからツテをたぐって、わたしが内々に命を受けてね」

「……」

「若様は、かなりご心配よ?アナタの言いつけも守っていると伝えてくれって言われてたそうだけど」

「……」

「ずぅっとラクな生活ができるのよ?そりゃチョッとばかりアナタのいうヘンタイ的なことはされると思うけど、それくらいなによ。専業主婦で、しかも身の回りのお世話にメイドが何人もつく暮らしよ?アタシが代わりたいくらいだわ」

 

 『九尾』はひとつ、ため息をついて、

 

「人はパンのみにて生きるにあらず、ですよ」

「――なによそれ」

「ボク、いや自分には果たすべき使命があります。いままで借りを散々つくってしまったから」

 

 それからも車中でこの女性係官は『九尾』に試演を辞退するよう手をかえ品をかえて勧めてきたが、彼の方は頑として譲らなかった。とうとうあきらめたのか彼女は、連絡先が記されたカードを差し出し、彼に受け取らせると、

 

「しかたないわね……でも覚えといて?アナタには逃げ道があるってコトを」

 

 ミニバンは、見た目ずいぶんと高級そうなマンションに横づけとなった。

 そこには古ぼけたセダンの傍らに、ふたりの黒メガネが立っている。車を降りて女性係官から引き合わされた『九尾』は唖然とした。

 

 なんと、あの“領収書つき晩メシ”の二人組。

 

 双方、顔を見合わせ、しばらく無言。

 そんな三人をよそに、女性係官は護衛たちに向けて声の調子を冷たくかえ、

 

「じゃ、あとはよろしく頼みましたよ?くれぐれも遺漏のないように」

 

 そして『九尾』に対しては、またも先ほどの口調で、

 

「提案、考えておいてね?」

 

 そう言うやヒールを鳴らし、運転手付きのミニバンで去っていった。

 

 絶句する『九尾』をまえにして、彼らは以前とは違い卑屈な身ぶりでヒョコヒョコ頭を下げる。業務上の横領行為がバレでもしたのか、あるいはハードな“再研修”でも受けたか、まるで人がらが変わったように二人して口数はすくなくなり、つねにオドオドと何かを恐れる風。

 

 二人に前後をはさまれるかたちで案内された部屋は、雲海作戦前に隔離されたところよりも少しマシな部屋となっていた。トイレには、あのビニール張りな木馬型の便器が復活して、どことなく淫(みだ)らな赤い艶やかさを見せている。だがうれしいことに風呂は格段に豪勢となり、広めの浴槽には、なんとジャグジーまで。おまけに地下には、温水プールつきのトレーニング・エリア。部屋の窓が曇りガラスなことと、サッシが少ししか開かないことは同じだったが。

 部屋の両側にたたずむ黒メガネたちに、

 

「ねぇ護衛さん、自分の前の護衛役の人は――どうなったの?」

「ハッ、分かりません」

「ハッ、分かりません」

 

 いつぞやとは打って変わった応対。

 この質問にすら、緊張した声で。

 

「……さっきの女性係官って、探査院のひとですよね?」

 

「ハッ、分かりません」

「ハッ、分かりません」

 

 ――ダメだこりゃ……。

 

 そして登校してみると、二人の変りぶりはいっそうハッキリとする。

 人ごみには『九尾』を絶対に近づけず、学校でもピタリと身に張りつき、更衣室やG・スーツの着装場所、シャワー・ルーム、はてはトイレまでついてくるしまつ。おかげで“薄い本”を描く連中には、格好の新ネタとなったらしい。

 休憩時間の外出から、あてがわれた視聴覚室の個室にもどってみると、またもや大判の封筒が。中をひらいて出てきた鉛筆書きのコピー本をひらけば、四つんばいにされて前後から挟まれ、嬲られる自分らしきキャラクターが、チンポを咥(くわ)えながら“よがり顔”を浮かべるページに、彼は苦笑を浮かべざるをえない。

 

 修錬校から帰ると、自分のほかに住んでいる人間は居ないのではと思えるほど人影のないマンション寮に軟禁となる。外出は、人通りの少なくなった21時以降に最大90分だけ。

 

 あまりに接近がヒドいので探査院の窓口に直接苦情をいれると、翌日からようやく距離をおくようになったが、こんどは恨みがましい目で監視されるようになる。

 

 “御前試演”が近くなると、界面翼を創出する実技訓練も厳しくなった。そして、とうとう“御前試演”の一週間まえになると、ときおり予測不能な事象震が発生するようになり、一般の候補生の間で機動中の事故がつづいた。探査院が動き、錬成校全体に飛行中止命令が下りる。

 

 実技が無くなったので講義も取りやめになり、自宅/寮を問わず、すべての候補生たちは待機となった。もちろん、おとなしく命令を守り、自室にひきこもるような候補生たちではない。最後の登校時には、みなこぞって臨時休校の間に愉しむプランを仲間うちと楽しそうに話していた。それを『九尾』は廊下を通りしなに寂しい思いで耳にしたものである。

 

 試演の出場予定者である者は、軟禁されたままとなるらしい。

 しかし、いつぞやのように湿布状のバイタル・コンピューターを付けられることもなく、マンションの建屋内なら、行動の自由が許されていた。とはいえ、個人用の情報端末も没収され、行動の選択肢も限られている。

 

 朝起きると、まずラフな格好のまま1Fまで下りてゆく。

 そしてマンションのロビーにあるソファーから、憂鬱な顔で大窓ごしに外を眺めて。

 

 上空の雲は、鉛色の濃淡をはげしく入り乱せ、荒れくるっていた。

 

 風向・風力は目まぐるしく変わるが、基本的に指向性の暴風なので地上にそれほどダメージはない。ただ上空50m以上は死の世界で、界面アンカーなどない普通の高層マンションは、カルマン渦が発生し、ロビーのモニターで観るニュース映像の中でユラユラと心もとなく微動している。“船酔い”とかいう状態も珍しくないと深刻な顔でAIアナウンサーが告げていた。

 

 監視モニターをならべたエントランスの受付デスクを根城とする二人組から1日分の糧食(レーション)を受領。

 

「おはようございます」

「ハッ、分かりません」

「ハッ、分かりません」

「……」

 

 ご苦労さんと思いつつ、味気ない糧食(エサ)が入ったビニール袋をぶらさげ、部屋にもどって着替えると、試演でのハードな機動にそなえて、ひとけのない地下のトレーニング・ルームに行って走り込み。そのあとは、同じく貸し切り状態の温水プールでラッコのようにプカプカと背泳ぎにうかぶ。

 

 日ごと試験日が近づくにつれ、やはりどうしても“死”を想わざるをえなかった。

 夜半に目覚め、記憶にのこらない悪夢の後味を反芻(はんすう)することも、しばしば。

 ときにはあの女性係官からもらったカードの連絡先にジッと眺めることすらある。

 

 どうしても寝不足気味となるので護衛に睡眠導入剤の処方をもとめたが、界面翼の創出負荷になるのでダメだと拒否られるありさま。

 脳内物質を利用する睡眠導入剤が認識負荷になるなんて聞いたことがない。

 

 ――ちぇっ、イヤがらせかなぁ……。

 

 節電のためか温水とは名ばかりの、照明さえうす暗いプールに浮かんでいると、じぶんがもう保存液に漬けられた解剖用の検体めいた気がしてくる。

 「少女架刑」※1ならぬ「候補生架刑」だな、と『九尾』は唇をゆがめて。

 

 

   ホラホラ、これが僕の死体。

 

   生きていた時の懊悩(なやみ)に満ちた、

 

   あの汚らわしい経験から解放され、

 

   ユラユラと液体に洗われる、

 

   冴え冴えとした顔をした魂の抜け殻……。※2

 

 

 目を閉じても開いても、うかんでくる記憶のきれはし。

 強迫観念のように、しつこく粘ついて去ろうとしない。

 

 

    先輩ふたりの無残な遺体。

 

    天に昇って行った候補生。

 

    奇怪に激変したオフィーリアの顔。

 

    “地下墓所(カタコンベ)”に並ぶ骸骨の群れ。

 

    エイジング・システムに格納された黒猫。

 

    図書館の記録映像で見た、労働教育所の餓死者の山。

 

    雲海の深部でこちらを見送るサー『ドラクル』。

 

    そして自分を殺しにきた、西からの使者……。

 

 

 いつのまにか水が冷たくなり、粘性を増していた。

 プールの照明も切られたらしい。

 あたりは仄暗(ほのぐら)く、なにか生臭い。

 

  ――ひどい、まだ使っているのに……。

 

 身体の動きが、やけに重い。それに、どことなく全身がしびれて。

 

 不意に『九尾』はゾっとする。

 

 ――ちがう!低体温症になりかかっているんだ。

 

 焦(アセ)りながら、身体をだましだまし動かして、ようやくプールのヘリにたどり着く。

 

 と……ふちに手をついたはずが、ズブリ、と柔らかいものにしずんだ。

 かすかに汚泥(おでい)の腐臭。

 顔に、とがった葉先があたる気配。

 ガラガラとした、気味の悪い鳥の啼(な)き声。

 よくみれば、そこはぬかるんだ岸辺であり、光源のわからない微光があたりを照らしている。

 

 匍匐前進(ほふくぜんしん)で前にすすみ、はい上がろうとして彼は(ヒッ!)と絶句する。

 

 自分の足首に、股に、腰に。

 形のおぼろな、亡者めくモノが懸命にしがみついている。

 いつかのように蹴り放そうにも脚(あし)に力がはいらず重くてうごかない。

 

 しかも身体をねじって良く見れば、しがみついている亡者の後ろ。そのまた後ろ……まるで自分を先頭にした長大な三角形のように“この世ならぬモノ”が連なって。しかもそろって酸欠の金魚よろしく何かを口々に、まるで声なき呪詛(じゅそ)のごとく呟くような顔つきをしている。

 

 奇妙なことに、亡者たちは彼を混沌(カオス)めくゲルの沼に引きずり込むでもなく、自分たちが這い上がるでもなく、ただ彼を恃(たの)みにかじり付いているかのように見えた。くわえて彼が懸命に這い上がろうとするたび、幽かなうめき聲(ごえ)をあげて……。

 

 その調子は非難でもなければ、哀惜でもない。

 苦しみでもなければ悲しみでもない。

 たとえれば、重い荷物をようやく除(のぞ)かれた者が洩(も)らす、安息(やすらぎ)のため息にも似て。

 

 

 だが、そのとき『九尾』は卒然と悟った。

 

 

 ――なぁんだ……コレは病院で見ていた夢の続きじゃないか……。

 

 あのときは、航界機が沼に不時着して、コクピットから出ようともがくところだった。おそらく自分は機体から脱出し、いまようやく岸辺にたどりついたところなのだろう。後ろでしがみつく亡霊たちは、雲海でみたフロイトの出来そこないにちがいない。

 あるいは――自分のコンプレックスや深層心理の具現(あらわれ)か。

 

 そもそもこれが現実だとしたら、恐怖で半狂乱になっているところだ。

 ところが、自分のこの他人事(ひとごと)のような落ち着きと来たら、どうだ?

 

 そう考えると余裕が出て、彼は連なる亡者を見定めてみる。

 

 火炎をあびて溶けたような姿の者。

 腐りくずれ、なかば白骨化するようなもの。

 なかには人間とは到底思えぬ、異形のものすら列に加わって。

 

 

 ありがたいことに、彼方から光がやってきた。

 線路の保線員のように、あかりをゆるやかに振っている。

 

 ――カンテラ?……にしてはボンヤリしてる、か。

 

 近づくと、それは丸い光の玉なのであった。

 そして、それをまるで提灯のようにさげてやってくるのは……あの、髑髏(どくろ)めいた老人。

 

 ――またかよ、もう。勝手にしてくれ

 

 夢のなか特有のあきらめムードで、彼は近づく髑髏を見つめる。

 とうとう数歩の距離までちかづくと、死神は歩みを止めた。

 

 虚ろな眼窩(がんか)が、『九尾』を見すえるように。

 やがて、カクカクと、その顎が動いた。

 

 耳にはなにも聞こえない。

 だが脳裏には、たしかに響いたのである。

 

 

 

 

 

―― 汝(ナンジ)、幸(サイワ)イナル“賢者”ヨ「蝗(イナゴ)タチノ王」ト闘(タタカ)エ ――

 

 

 

 

 髑髏が「つかまれ」とばかり杖を差し出した。

 自然とそれにしがみつき、『九尾』は身体を引っ張り上げようとする。

 だが――だめだ。亡者たちが重荷すぎるのだ。

 

「ちからが……力がはいらないんだよぅ」

 

 疲れたうでが、杖を取り離す。

 髑髏が身体を小刻みにゆらした――嗤(わら)っているのだ。

 

 ――くっそ……。

 

 嚇(カ)ッ、と全身に火が奔(はし)る。

 彼は怒りに身をまかせ、渾身の力で這いあがった。

 骸骨は頷くや、数歩退くと形を朧(おぼろ)にさせ、その姿を揺らめかせる。

 

 

 傷つけられた側のほおに、硬く冷たい感触。

 汚泥の気配はきえて、塩素の臭い。

 プールのふちのタイルだ。

 

 頭部に血流がもどってくる時のように、次第に視野が明るくなってゆく。気がつけば、髑髏と見えたのは、照明を反射した光がプールの壁に映り込み、あの老人のように見せているだけなのだった。

 

 ただ、身体が冷えていたのは本当だった。

 寒い。全身がふるえ、痺れて力がはいらない。

 調教中、四つん這いのまま首輪で曳かれたように、どうにか彼はヨロヨロと手足で這(は)いずりサウナ・ルームに転がり込むと、檜(ヒノキ)の香りのする高温の空気で凍えた身体を温める……。

 

 あぁ……。

 

 思わず彼は安堵のため息をつく。

 次の瞬間、その声が、あの亡霊たちの発した語勢と同じものであることに気付いた。

 サウナの中にも関わらず、彼はゾクリと身を震わせる。

 

 夢――と呼ぶにはあまりに生々しかった。

 

 あの岸辺のドロの腐臭も、頬をつついた葉の感触も、まざまざと思い出された。つい先ほどまで自分の魂は還元(リダクション)モード状態のように身体をはなれ、別の場所に行っていたとしか思えないほどのリアルさ。

 

 ――あの死神、なんと言ってたか……。

 

 夢特有の、みるみる熔けてゆく記憶の中、あぶないところで彼はサルベージに成功する。

 

 ――そうだ、イナゴと戦え?だった……か。

 

 イナゴって、あの昆虫のイナゴか?と彼は首を傾げる。

 いや、そもそもどこか微妙に間違っている、ような。

 

 まぁしょせん夢の話だと考えるが、そう思うはしから、なにか重要なことを聞いたのだという本能の警報から逃れられない。

 

 ――そもそもあの骸骨ジジィ……死神じゃないのか?

 

 大鎌を得物とするなら、あの低体温症で魂は刈り取られていたはずだ。

 それを反対に助けてくれた印象。節くれた杖をにぎった感覚すら掌(てのひら)に残る。

 自分の手を見て、さらに彼はギクリとした。

 生命線にそって、うすく引っかいたような傷がのこって……。

 

 階段状になったサウナを危なげな脚で降り、おそるおそるドアを開くと、自分が這い上がった場所近くの壁を見る。だが、そこにはもう髑髏状の光など反射していない。

 そこで彼はハッと気付く。

 そもそも、この低照度の天井灯から、水面に反射するほどの光量など生じないのだ。

 

 ――じゃぁ、自分の見たものって、あれは……。

 

 サウナの上段にもどり、『九尾』は呆然とした表情で。そして、いまだ女体化ホルモン処置の後遺症を心なしか残すフニフニとした身体――鳥肌の浮いたその皮膚を、彼は心もとなげに幾度もさすった……。

 

 

 




※1吉村昭氏の名品
※2中原中也「骨」の改変

 いよいよ最終回も見えてきました。
 次回、【087:最後の破片のこと】 Don't miss it!
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。