暗夜の嵐が凄かった。
まるで事象面を掻き乱すように、なま暖かい
さきほどまで烈しく降っていた雨の匂い。
かとおもうと一瞬、それにまぎれる花の香り。
見上げれば、風のやってくる雲が暴れる暗天には、どこか雷球でも内包しているような緊張めいた気味がある……。
『九尾』は護衛ふたりに間隔をあけて後を追けられながら、傘も持たず春物のギャバジン・コートで夜を
毎夜、人の流れが
今夜は旧市街まで
事象震の暴風が吹き抜けていることもあって、街にひとけはほとんどない。
誰も通らない横断歩道の明滅。見る者のいないネオンサイン。
時折リニア・カーがジェネレーターを響かせて通りすぎるだけの世界。
突然、吹き荒れていた風がやんだ。
事象震の嵐がつくる緩衝地帯に入ったのだ。
時間が経てば、また反対方向から暴風が吹いてくることだろう。
うってかわり静寂となった夜の光景。
轟音が急にやんだので、耳鳴りが聞こえるほどだ。
吹き乱され、荒らされた事物たちが、磨かれた空気の中で街の灯火に輪郭を
修練校のブーツをはいた自分の足音が、いきなりコツコツと響くようになる。それが見知らぬ町並みに鳴りわたり、まるでこれから
彼方に、おびただしい光を路面に注ぐ建物がある。
その一角だけ、闇を切り取ったような明るさ。
『九尾』は、まるで誘われるようにフラフラと近づいた。
すると――それは営業時間を終えた
湖畔を模したディスプレイと、富士山をバックにする風景。
そして――きわどい水着をまとう一体の等身大なマネキン。
滑らかな、精巧な造形。
ただし、みょうに艶めかしい気配で……。
『九尾』は狼狽したあしどりでそのウィンドーから距離をおき、あたかも逃れるように足の向くまま走りだす。しばらくのあと、古めかしい郵便ポストに手を突くと、あれた呼吸をやっとの思いでととのえた。
かすかな吐き気。
鋳物の冷たい手触りが、
――マズい……今夜はどうかしている。
精神的に不安定だと報告されたら、これからさき外出は禁じられてしまうだろう。
ポストから額をはなし、すっかり冷たくなったその場所を手でこすって。
空き缶が、派手な音を立てて目の前の道をよぎっていった。
上空のごうごうという音を背に、葉をつけはじめた街路樹がゆれて。
ネオンをうつす路面の水たまりにさざなみ。
まるで――“はじまりの夜”のように。
ようやく落ちつくと、彼は自分がどこにいるのか辺りを見回した。
そこは市街を流れる小さな川のふちで、古めかしいデザインの手すりが
チラリ、と彼方に護衛の気配。
おそらくカラダのどこかにマーカーが付いているのだろう。
影のようにつかず、離れず。やはり腐っても
彼は川岸の手すりをしばらくたどり、ふと川向こうに丘を利用してのびる
まるで書き割りのような、こぢんまりとした街区。
しかし小さな要塞のごとく、縦横に錯綜しているのが見受けられる。
小さなアーチ橋をわたり、まるで吸い寄せられるように市街の中へと。
湿った
あるいは木材に塗られたタールの香り。
錆びた鉄の臭いが血を連想させる。
中欧の迷宮を思わせる、市街構造。
狭い、入り組んだ路地。
アーケード……。
石造りの階段……。
立体交差……。
意味不明なポスター。
読めない外象語の囲みの中で――女が微笑して。
点滅するかぼそい街灯。
まるで異物の侵入をしらせる――
ふいに現れる無明な
それをさけて建物に寄ると、窓辺には時として生活の一部が漏れ見えた。
洗濯物の影。
石油ストーブの気配。
3Dモニターの青い明滅。
なにやら口論しあう一組の男女。
――いままで自分は何をしてきただろう……。
破れた舗装からのぞく泥濘を避けながら、そんな窓を後にして彼は想う。
――もう少し別の生き方があったのではないか……。
情けないほど受動的に――あまりに受動的に。
その時の、状況次第で。
「一本、信念が通っていたわけでもないしナァ……」
思わずつぶやいて、彼は身をすくませる。
だが、その独り言を聞いたものはだれも居いない。
なかば焦点を喪った声が、せまい路地の闇に吸い込まれていっただけ。
さまざまな人々の顔が浮かぶ。
思えば、
まるでもう一人の生を体験したように、濃縮された時間を過ごした。
『黒猫』。『オフィーリア』。
サラ。校内女医や『エースマン』。
『ザハーロフ』をはじめとする南組。
『リヒテル』ことネイガウス上級大佐。
サドっ気のあるゲイ臭い葉巻のマッチョ。
リー・ヴァン・クリーフそっくりなパイプ男。
大聖堂の聖具室で恃童とつるむ中年司祭。
“無礼院”。蘭の王女。イツホクや女秘書。
イサドラ。
涼子社長。『
パピヨンやビエルシカのみんな。
トリマルキオ親分。あるいは配下のヤクザたち。
『シモーヌ』。
ミラ秘書官。愛香。そして――
その他、いままで自分が出会って来た人々の姿が、まるで走馬灯のように。
砂まじりの風が、しばらく狭い路地を吹き抜けた。
『九尾』はジャケットの前を合わせ、
正体不明の白いものが、風に乗り目の前をよぎってゆく。
近くの街灯が明滅したかと思うと、火花を発して――消えた。
ふいに訪れた暗闇のなか、彼は切れた考えをつなぐ。
それはまるで
『九尾』という実存がこの世から消えても、まるでそんな候補生など居なかったように、彼らは生活してゆくだろう。
もはや見ることの無い朝。
嗅ぐことの無い日々の空気。
取り巻かれることのない
それらの中を、たくさんの人たちが、泣いたり笑ったり。
みんな、それぞれの道を生きてゆく……。
そう考えた時、彼は何だか妙に有難いような、尊いような。
次いですべての慾得をはなれた、不思議な平安さに満たされた。
『ザハーロフ』や拷問の男たち、それにイツホクすら、もはやどうでもよく。
どうせかれらは因果応報に、自然と自滅の道をたどり、亡びてゆくだろう。
みんな生きて……。
みんな死んで……。
みんな生まれて……。
ホンのひと時。
みんな、かりそめの、輝き。
――あぁ……もし居るとすれば、神様。
『九尾』は、見捨てられた谷底のような場所からホンの少し、祈った。
自分は、どうなってもいいです。
でも、どうか頑張っている皆には――幸いを。
ふと、まるでその願いが
辺りの造作が
建築法を無視して建てられたような、雑多な屋並みの谷底から、驚いて上空の闇を見れば――厚い雲が暴風と重力乱流によって引き裂かれ、その隙間から
ピトリ、と一滴。
仰ぎ見る額に、
彼は不思議な厳粛さにうたれながら、見捨てられたような谷底に独り、
背後から靴底が砂利を踏む音。
研ぎ澄まされた清澄な神経に、それはあまりにも野卑に響き、彼は眉をしかめた。
「――候補生『九尾』」
「――90経過した」
「――外出の時間は」
「――もうおわりだ」
二人組が、自由時間の終了をつげる。
つかの間の自由を得ていた候補生は、ふたたび車を待たせてある通りまで。
階段をおり、短いトンネルをくぐり、街灯の乏しい、迷路のような区画を抜ける。
急に増えた街の灯り。
ヘッドライトが、ネオンが、街灯が、様々な光を投げかけて。
せまい路地を出たとたん、吹きつける一陣の風に、思わず彼はヨロけた。
と、思うと、こんどは反対からの風に身体を持って行かれる。
吹き返しの風が始まったのだ。
右に、左に。前に、後ろに。
ベクトルの定まらぬ風に、三人は翻弄された。
「――事象震まえに吹く」
「――おきまりの風だナ」
フラフラと川岸まで、まるでピンボールか、パチンコの玉のように。
――まるで自分の人生のようだなぁ……。
吹きまくられ、ヨロけながら、暗がりに『九尾』はフフッと
主体性がなく、突き飛ばされ、アオられ。
女体改造されかかり――今また殺されかかって。
でも、と彼は思う。
外乱を受けた時、よろめかない者がいるだろうか。
「
『九尾』は、その光を天啓と受け取った。
もちろん事実は、とおくの車が転回したとき、一瞬ハイビームを受けただけだ。
しかし彼の中では、いままで闇の中で手探り状態のものが、スッと納まった。
ピンボールの玉は、クギや「ギミック」に左右される。
それは逃れられない。
しかし、それは結果論であり、必然だ。
人間は玉のほうじゃない。
そしてピンボールの玉の軌跡は、人生の軌跡にすぎない。
クギや「ギミック」こそが、自分なのだ。
つまり今を成す『九尾』というものは、様々なクギで成り立っている。
サー『モルフォ』。ネイガウス。神盟探湯65B。雲海のフロイト。
『恵娜』。“奉天”。女殺し屋。図書館。愛香。そして――龍ノ口センパイ。
これら外的要因こそが、『九尾』なんだ。
つまり、玉は玉だ。それだけでしかない。
あえて結びつけるなら、外的要因からくる経験が、タマを磨かせ、変形させ、転がり具合に変化を与える。同じ「挑戦」を受けても「反応」が人それぞれ違うのは、それ故だろう。
しょせん――人間。
今という存在は、あくまで単なる仮の状態。
汚れず、清まらず。
迷うも悟るも同じ。
喜びも、哀しみも。
――
なにか重い
リダクション時、ModeⅡに移行した時のように、ザラついていたものが、水のように溶けてしまった。
忘れていた負けじ魂が、胸のなかによみがえる。
『九尾』は荒れ狂う上空をキッとにらみつけるや、
「いいよ!
何ごとかと護衛ふたりは顔を見合わせる。
「――狂った?」
「――狂った!」
また彼方から、うねるように暴風がやってきた。
彼は思う存分に胸をふくらますと、今までのうっ憤をすべて吐き出すように叫ぶ。
「ノってやりますよ!――その
荒れ狂う暗天のもと、雲間に巨大な紫電の輝きが一閃。
周囲を真昼の如く照らした、その時。
信じられないことに、三人のすぐそばで、あの“骸骨老人”が佇立して。
凝ッと彼らを、その光のない虚ろな穴から眺めるように。
閃光は、優に1秒以上あっただろうか。
青ざめた二人の護衛が、白目をむいてバタリと仰向けに倒れる。
次いで身体を粉砕されるような雷鳴がとどろいた……。
さぁ!最終コーナーを立ち上がりました!