――雲海を出た!
ホッと息をつくが、期待した青空ではなかった。
陽光は、あちこちに立ちのぼる積乱雲に乱され、まるで中世の版画めいて幾つもの
《各機、R1起動!まだ界面翼は展開するなよ!?
だが、辺りの光景にボンヤリ見とれていた『ポンポコ』は、命令を聞きのがす。
すぐさま、
《ナニやってやがる『ポンポコ』!
彼は、あわてて手元の
HMDの表示が変化し、モードが移行したことを知らせる。
同時に、G・スーツに接続した各コードを通って、なにかが自分の中に侵入してくる感覚。言ってみれば、それはガラスの細かい破片がキラキラと、
やはり本物のG・スーツ。
一年に支給される練習用の
すこし身体をよじると、それがザクザクと
だが思考と感覚は違法な薬でも注射したように、異様に
一つ積乱雲を抜けると、はるか彼方に先発した曳航機群が三角形を描き、雲海スレスレを飛ぶのが見おろせた。曳航される練習機も全機、いつ耀腕が出現してもいいようにR1で飛行しているのが“意識”できる。
――ヘンだ。
ポンポコは眉をひそめた。
――進行方向・第一象限。
なにかいる……しかも、かなりの
明確に
右肩に、目の粗い紙ヤスリを押しつけられるようなプレッシャー。
それがじわじわと広がって、不快感をあおる。
練習機のレーダーに反応はない。
VTOL機が装備しているに違いない大仕掛けの重力レーダーは、どうなのだろうか?
《中尉どの、前方同高度、1ー5ー0から1ー6ー0の間に何か居ます!》
ポンポコも絞られた方位に眼を凝らす。だがその空間は、逆光のため暗い柱を思わせる積乱雲が幾つも立ち昇り、よく分からない。それに対し中尉は
《反応
VTOL機が旋回を開始しようとした時だった。
積乱雲を突きやぶり、超大型の飛翔体がアッという間に近づいてくる。
HMDが、警報とともにデータを出す。
――速度3.2。
だが、リダクション・モードに入っている候補生たちには、すぐに分かった。
あれは他校の練習母艦だ。自分たちのように曳航式ではなく、
《未確認艦に告ぐ。当方は航界士錬成校[瑞雲]所属・練習機群。フライトNo.0518・2087。当方の航界活動を
中尉が言い終わらぬうち、未確認の飛翔体とは対航状態のまま、一瞬ですれ違う。気のせいか、一瞬、線香と
電磁処理を施しているらしい、凹凸の少ないヌメッとした巨大な漆黒。大型水族館で見たイルカとかいう生き物の巨大版が、音速ですれ違ったような印象。
4番機群の背後で不明艦は信じられないような高Gターンを決める。直後、黒い艦体の下面で大型ウエポン・ベイ状の扉がひらき、なかば界面翼を展開した練習機が射出された。
投下された機体は三機。
雲海に向け落下しながら、みるみる翼を拡張させてゆく。
廉人中尉の叫びがインカムに響いた。
《やべェ、ヤツらやる気だぜ。上等だクソぁ!両機、リダクションモード・2へ移行!
曳航していたワイヤーの電磁ボルトがはじける。
火喰トカゲの機体は事象面との還元率をあげ、手なれた調子で素早く界面翼を展開。ナトリウムの
『ポンポコ』は一拍おくれた。R・2に移行できない。
意識を集中し、移行文言を唱えてもシステムが反応しないのだ。
――くっ!何か……引っかかってる。
ダダ落ちする高度計の数字。雲海面が、ズームでせまる。
――あぁ……いよいよか。もう、ダメだ。
非常用脱出レバーに『ポンポコ』は手を伸ばそうとするが、止める。
ここで射出座席を使っても、雲海に呑み込まれるだけだ。
生き延びるのが数分、あるいは数十分遅れるだけで、結果は同じだろう。
最新型の練習機はコクピット周りが分離し、グライダーとなるが、暗記した“奉天”のマニュアル記録をさらっても、そのような機能は見あたら無かった。この操縦席は、パラシュート付きの死刑台だ。
――やっぱりだ。ヤな予感したんだ。このボロ練習機……。
テストの赤点。
机の上の花瓶。
頭のえぐれた
囁き クラスメイト。
上級生たち。 血だまり
首のない 骸骨
陽炎 湖の水死体。
事故 精神注入棒
真珠とドレス
……サラ先輩の、巨乳。
――生きたい!
脱出装置のレバーに彼が手を伸ばした、その瞬間。
石のように雲海に墜ちてゆくポンポコを、サファイア色の翼を展開する不明機の一機が、等速でダイブしながら近づいてきた。
――硬翼……完全に収納されてないよ、きみ。整備不良かい……?
不明機を操る操縦者のからの、いたわるような“意識”。
えぇっ、と『ポンポコ』はヘルメットバイザーのHMDを確認するが、インジケータは“格納済み”のマークが点いている。横を見ると、なんと八枚もの界面翼を展開する練習機が
――その状態じゃ、高位シフトは無理だね……まってて。
八枚翼の不明機が一瞬、
――OK、やって!
雲海面が目のまえに近づいた。
もう
雲海の中での単身・界面翼起動は危険がともなう。
所属不明の練習機は、ふたたび翼を創出させると、キレのある機動でロールをかまし、
『ポンポコ』は、龍ノ口から直々にゆずられた、秘密のコード・パスを叫んだ。
とたん……、
体の中を充たしていたイガイガなガラス片が、すっと液状化し、すみずみまで
この状態から急に戻ることはできない。
極端に言えば彼はいま、人間から“別のモノ”に変化したのだ。
頭の中に、世界が入ってくる――この事象面の現象、
大気のながれ、匂い。
自機を照らす光の暖かみ。
さまざまな気配。感情の流れ。
自身が
“奉天”の機体から
雲海をx軸とする歪んだ漸近線の軌道を描き“奉天”は危ういところで水平飛行に移ることができた。
バイタル・コントロールシステムに警告。
心拍数と血液アドレナリン指標が赤色値に。
すぐさま薬液による適切な処置が機体側から行われるが、モード2に移ったいまは肉体に何の感覚もない。感情も
――ありがとう、えぇっ、と……。
『ポンポコ』は辺りを見まわし、次いで気配を探った。
だれもいない。
ときおり青空の断片が見える気流激しい雲の筒のなかで、彼の意識は
遠くで、何かが激しく争う気配が発せられている。
あまり美しくない、近寄りたくないたぐいのモノ。触れば、
四方を濃淡めまぐるしく回転する綿のなか、彼は感覚で手近の雲をすくう。ヒンヤリとした冷気が腕までつたい、水蒸気の一つぶ一つぶが感じられるよう。心が、奇妙な平安に満たされ、いままでにないほどの
――このまま、どこかに行きたいな。
あいかわらずどこかで鳴る
ウザい、と彼は思考操作でアラームを切った。
いつの間にか目の前で複雑に
――光が……。
見たこともない金色の光が、
かすかに――きわめて
――呼んでる?……だれ?
うん、と背を伸ばし、光が降ってくる上空を見た。
意識を集中。
自分ができうる限りの機動上昇。
体が――消える。
こころの中で、なにか鎖が解かれたような気配。
そんなとき。
候補生の意識がひとり、『ポンポコ』を追いこして蒼空の
まって、と彼は呼び止める。
――ねぇ。機体は、どうしたの?
相手は『ポンポコ』を横目に、ちょっと微笑んだかと思うと、
――
そのまま彼を引き離し、どこまでも昇ってゆく。
追おうともがくも、自分はネバついた空間にとらわれたように。
――おいキミ!待てよ、まてった……。
突然!
胸にナイフを突き刺され、『ポンポコ』は我にかえった。
首根っこをワシ掴みにされて、もとの体にタタキ戻された感覚。
リダクション・レベルが、いつの間にかモード1にもどっている。
ゼイゼイと、まるで呼吸を止めていたかのように彼はあらく息をつく。
チラチラ・キラキラと目の前を星が舞い、こめかみを冷たいものがながれる。
バイタル・システムに警告ランプ。
G・スーツに装備されているAEDの作動履歴がついていた。
脇腹が、電撃のなごりで紙ヤスリをかけられたようにヒリヒリとうずく。
吐き気が、二度、三度。
《『ポンポコ』ォ!キサマ心臓止めてナニしてやがる!》
無線の直音声で、廉人中尉の怒鳴り声。
《