えっ、と思うまもなくコートを着た老人の姿は、しっかりとした足取りでエントランスホールを横切り、衛士が両サイドに
「ドウシタ?『成美』。アノ爺サン、何カシタカ?」
クローク係のハッサンが、もう一組の客を送り出したあと
「何カ、アッタラ「テオ」に言ワナキャ、ダメダヨ?」
もうすでに「何カ、アッテ」るんですが、と思いつつ、『成美』は、うわのそらでハッサンの手をのがれ、
「ありがと――大丈夫だから」
そうは言いつつ、『九尾』と呼ばれたショックが、頭を離れない。
――
あのジイサンの所属は?探査院?あるいは――最悪で憲兵隊?
自分が “所有物” と言われた記憶が、黒メガネたちのイヤミったらしい抑揚と一緒によみがえる。 登録財産が、
――だが……まてよ?
彼の思考は、フト立ち止まり、
「ハッサン、この店ってサ?わりと、その、
「チカラ?」
「ホラ、ある程度、公的な支配からのがれていたり、
アァ、そのコト?と、この中東系事象面の男は好色な視線をネットリと彼の体に這わせ、毛深くゴツい手腕をまたもや彼の背中にネットリとまわし、光沢感のあるブラウスの上から撫でさすりながら、
「ココハ、セーフヤ宮殿ノ要人タチガ使ウ料理屋ダカラネ。タトエバ、
「宮殿や……たとえば探査院にもムリが効く?」
「探査院?……ハ、
そりゃ単に鉄砲玉として飼われているだけじゃないのか、と彼は映画で見た知識を流用しながら首を傾げる。しかし、かなりのムリが効くらしいのは、分かった。
「……『成美』、イイ子」
「なんで?」
「フツー、ボクガ「人コロシマシター」言ッタラ、理由キク人ホトンドネ」
「そりゃ、人にはサ、いろいろあるから……」
「ンーー!ナルミ!ヤパリKAWAII!」
いきなり彼は抱きしめられる。
香辛料臭い体臭が『やっぱり違う事象面の人なんだな』と実感。
「はいはい……」
店のフロアにもどり、担当についた来客を営業スマイルで接待する。
だが『九尾』と言われたショックがなかなか去らない。空のフルートグラスを2,3倒してしまい割れなかったから良いようなものの、中身が入っていてそれを “お客様” の方にコボそうものなら懲罰のムチ打ちが待っている。中にはそれを目当てにワザと少年たちのミスを誘い、自らムチを少年にふるいたがる御婦人のお客様も多いとか。
――『瑞雲』では精神棒。『メゾン』では7本鞭、か。
平身低頭で詫びる『成美』に、この客は
会話のさざなみ。
あちこちからの談笑。
洗練された料理の匂い。
思わせぶりな視線。
好色な口もと。
そんな空気の中を、うわの空で接待し、あちこちに空しく媚びをふりまく。
最後に「
あれだけかしましかった
料理を荒らした皿を前に、ポツン、とアラサーのお姉ぇさまだけが
「なにか、ご注文をお受け
そこまで言った『成美』の言葉は、うつむく顔を涙目で上げられ、尻切れに。
乱れた髪と、ヒクつく細い肩が、痛々しさを倍加して。
「いかが……なさいました?」
「べつに。タダのケンカ別れよ。みんなアタシほっぽって、帰ったわ」
反応しようとしたところで、危うく腹筋に力を入れる。
オーダーボタンが、押されていない。
『成美』は、あくまで聞こえないふりで、
「なにか、お加減が悪いようでしたら、おクスリ、お持ちいたしますが?」
「そっか……アンタたち、このボタンないと、話せないんだったっけネ。店に飼われている、アワれなお
「お邪魔でしたら――これで」
「まって!」
いきなり“お姉さま”が身を乗り出し、『成美』のブラウスを引っつかむ。
「どう――なさいました?お客さま」
「あの、アタシ、ダメな女で!部下のみんなに、
「お客さま。申し訳ありませんが。オーダーボタン、押して頂きませんと……」
そのとき、いきなり“お姉さま”の感情が崩壊した。
美人よりな顔をクシャクシャにし、肩を震わせながらしゃくりあげると、鼻を垂らした半泣きな必死さが、大音量のインカムボイスに。
《もうズゴじ……ゴゴにいでぇぇぇええ!!》
圧倒された『成美』は、耳ジンジン、頭クラクラとなりながら、ほかの視線もあるので卓を囲むパーティションの入り口を屏風でふさいだ。本来はブースの中で、少年と老年が乳繰り合うための目隠しだが。
「いったい――どうされました?」
それから『成美』は肩を震わせる彼女の、いままで通ってきた人生行路を小一時間ほどタップリ聞かされるハメになった。
男の子を望まれていた実家。その期待を裏切らないよう、いい幼年校、いい中等校、いいパブリック・スクール、いいコレッジ……。
一部上場の企業に入社し、グループを任されるまでになったはいいが、内部の社内風土をマスコミに叩かれた結果、企業体力の低下、株価の下落。バランス・シートの悪化に外部事象面への身売り。最後に身売りした先のトップダウンによる、大規模な
《でね……そこから
不景気という言葉に、『成美』は食いつく。
ふいに、『牛丼』と『
「……やっぱり、景気はキビしいですか」
《キビしいなんてモンじゃないわよォ!》
いつのまにか、すすり泣きは怒りにとってかわり、彼女はOLスーツのジャケットを脱ぎ捨て、クリーム地なアッパーのボタンがキツそうな胸を、さらに反らし、残ったKRUGのビンテージ・ボトルをラッパにする――が、もう入っていなかったのか、舌先でボトルの口をなめ、ダン!と18世紀作のマホガ二ー・テーブルに叩きつけた。
《アナタも――気ぃつけなさいよォ?この世の中はネ、弱みィ見せたら、とことんシャブられるんだから!》
そう言うや、マスカラの滲んだ視線を虚ろに、ガックリと背を丸める。
《みじめなモンよ……女なんて。あの子たちのお給料払うため仕事とろうと
やや
《アナタは良いわよね……そんなかわいいルックスで、苦労もナニも知らないんでしょ!?こんな高級な料理店で、
――うわ、カラみ酒……。
彼はヒキつつ、精一杯の愛想笑いで、
「そんなイイもんでもないですよ?それなりに、苦労もあります」
《どこが。どうせヒヒ爺ィどもに色目つかって、手術で
ドクン、と『成美』の心臓が鳴った。ギリリと一度、奥歯が食いしばられ、
「――いいか姉ェちゃん」
『成美』は自分が卓《テーブル》に身を乗り出し、相手の目をハッタと
聞きなれない、低い声。
酔って熱をもった相手の瞳に、
「この世の中ッてェのはナ?
うぇぇぇ、ナニ言ってるんだ自分は、と『成美』は心中
相手を睨みつける眼に、ますます
「そうサ!それが、この
『成美』の口が、驚きに見開いた相手の瞳に
次いで、苦々しげな
「……ホンモノの“絶望”なんか!知らんクセに……」
やや久しい沈黙があった。
当の『成美』はパニックのまま。
しかし、やがて彼女は、何かを
《……そっか……そうよね……》
ようやく落ち着いたのか、化粧の崩れた笑みをうかべる。
《みんな……そうやって生きてるんだもンね……》
フゥゥッ、と彼女は泣き終わったあとのような、
しかしその顔は、なにか
もう帰る、と彼女は身支度をはじめた。
女の身じろぎが、艶めかしい香りを立ちのぼらせる。
化粧室の場所を『成美』に聞いたあと、ヴィトンのハンド・バッグから、ハイコレと名刺をさしだす。
【(株)レディース・アドバイザー・社長
彼も、腰につけた小振りなワニ革の黒ポーチから、営業用のカードを。
《フフ……『成美』クン、かぁ……》
「涼子さん……ステキなお名前です」
《またまたァ――やっぱ、お口がウマい子は、ダメね」
「自分は――」
背筋をのばし、そう言ったところで、いきなり候補生時代のクセが出たことに気付き、もう何がなんだか分からず、混乱しながら、
「いえ、わたしは――営業口調など、決して。そんなつもりじゃ」
あっけにとられた彼女は、次にプッ、と笑いをもらし、
《どうしたの?キミ。ぜんぜんソレっぽくない》
「ボク、いえ自分は……すべての事象に対し「
また、あの口調がよみがえり、冷静に彼女を見据える。
しばらく涼子は、彼をマジマジと見たあと、
《なんだろう……なんか。いまキミが一瞬、ものすごい“いい男”に見えた》
「そんな。ボクはいつも……イイ男のつもりデスヨ?」
《フフっ、
彼女はそう言いつつ席を立ち、化粧室に向かう。
『成美』は(なんとかなった)と安堵の深呼吸。
そして、独り残った五色鶸の卓でうつむき、自分の中に語りかけた。
「おい、居るんだろ?」
……。
「どういうつもりだよ!」
……。
「なぁ、マジな話、いったいボクは、どうすりゃイイんだ!?」
……。
ヘッドセットをむしり取る。
封印のシールが、はじけ飛んだ。
営業時間中、これを取ると罰金扱いとなる。耳にまとわりついていた通奏低音が、ひきむしられ、店内のナマの音を伝えた。
「なんとか言えよ!」
通りかかったロップイヤーのビェルシカが、驚いた顔で、そんな彼を見て。
しかし応えは、無かった……。
自腹でハイヤーを呼び、驚く涼子をエントランスから送り出した『成美』は、控え室に行くあいだ同僚の冷やかしを受けた。
「なに。一見客のためにワザワザ「
「イチイチそんなことやってたら、キリないよ?」
「バカ。
ウサ耳やネコ耳のビェルシカたちが、『成美』の周りを寄ってたかって。
「見てたぞォ『成美』。キミに年増趣味があったとはな」
「『キルン』!どうだった『成美』のお相手?美人だった?」
「悪くはなかったね。
「いーなー。コッチなんか今日はジジィの相手ばっか」
「ボクもだよ。さんざチ〇チンいぢられて、チップも無しサ」
さまざまなケモミミをつけた少年たちの、ヤンヤな雑談。
そのとき、監督役の『サヴァ』がメガネを光らせ厳しい声で、
「『成美』ィ!無断でヘッドセット取ったな?罰金か、ペナルティ残業だぞ」
「あ……じゃ残業で」
フン、と金の蝶ネクタイをした『サヴァ』が去ってゆく。
「あの、『成美』ィ……?」
そのとき、ネコミミの少年がひとり、彼に話しかけてきた。
「今日、どうかな?“放課後”が空いてたら、ボクの部屋に」
話しかけてきたのは『
どちらかと言うと目立たない、要領の悪いビェルシカ。
何だかんだで仕事を押し付けられ、いつも明け方まで残業をしている。
仕事あがりのことを、少年たちは『放課後』と言っていた。
普通なら中学や高校に通う年ごろの少年たち。
あるいは学校生活に、いまだ憧憬があるのかもしれない。
おぉう、と周りのビェルシカがおどろいて。
「なに?“ザイル”の告白?」※
「ヤめときなよ。『成美』は特別製サ。オマエなんか手に負える相手じゃない」
「オマエ御主人様いるんだろ?大丈夫なのかい」
「知ってる?コイツ一級・航界士候補生だったんだぜ。それをなんでか」
「クタばるのがコワくなったんじゃネェの?だいたい――」
ドカッ、と殴るような音がして、発言者は床に崩れる。
ヤレヤレと数人の少年たちが、この口の悪いイヌ耳を搬出して。
イヌ耳を殴りたおした大柄なヒョウ耳が、
「そんなヤツほっといて、オレんトコ来いヨ『成美』。SALONがあるぜ」
どうだィ?と横ヤリの中、必死めく『
蝶ネクタイの色も様々なビェルシカたちが、ワクワクと成り行きを見守って。
「――あぁ、『
この『成美』の言葉に、今までニヤついていた少年たちの顔が(えっ!)と驚いたようなものに代わる。
しまった!!と露骨な空気。
自分が先に誘うんだった!との後悔の色がアリアリと。
通りしなの、毛皮を羽織ったひとりの“パピヨン”ですら足をとめ、お尻に刺さる “プラグ” の具合を直しながらちょっと驚いた風。
『成美』は『
「キミ、この店には、たしか長いんだよね?」
「ウン……
「ちょうど良かった。メゾンのこと、イロイロ教えてよ」
「ンだよ『成美』ィ。オレの方がいろいろ知ってるぜ?」
ヒョウ耳が未練がましく『成美』の手をとる。
「いろいろ教えてやんよ?」
すると、まわりの少年たちが、
「金払いがいいマダムの落としかた、とか?」
「この前のオバサン、有印私文書偽造罪でツカまってたぢゃん」
「マンコをナメるのも大概にしておかないとな?」
少年たちの笑い。あとは“大喜利”になってしまい、まとまりが無い。
深夜も2時を過ぎると、この先は『パピヨン』たちの時間だ。
通常のフロアとは短い階段をへだてた、さらに一段上の中二階ともいえるフロア。
高級公子が手練をつくし“太い客”を手厚くもてなす。
それぞれのパピヨンのヘルプ担当となったビェルシカが、ペルシャの舞姫のような衣装を着て、客とパピヨンにかしづき、奉仕をする風。
グッと静かになったメゾンの店内で、何かしら淫靡な気配が漂い始める時間。
いつまでもフロアをウロついていると、ヘルプで呼ばれかねない。
ヤバ気な気配に『成美』はさっさと控え室に行って、この
そこに待っていたのは、V12エンジンを積んだ一台の赤い車だった。
自動運転仕様のオープン・トップな名車――GTB-4。
※メゾン・ドールでは、責任を共にする相棒のことを
「バディ」ではなく「ザイル」と呼びます。