※この作品はR-18です。

玲瓏の翼【18禁版】   作:珍歩意地郎_四五四五

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055:肯いの口づけのこと、ならびに運命の鐘は鳴ること(前【軽18禁版】

 

 ――またやった!

 

 『成美』は内心、激しく自分を叱咤(しった)する。

 ウィッグの載るアタマを、ポカポカ叩きたい。

 

 ――なにやってんのよア(・)タ(・)シ(・)!死んぢゃえクソばかァ!

 

 龍ノ口は、そんな『成美』の方にマジマジと顔を寄せる。

 眉をしかめ、目を細めると、

 

「オマエ……もしかして」

 

 その時、広間に真鍮板を敲(たた)く音が響いた。

 

 ゆるやかに扉が開けられ「失礼いたします」とオズオズした声。

 ふたりが入り口を見やると、ダイニングワゴンを押した人影。

 近づくにつれ、恥鈴(ちりん)の音も明瞭(はっきり)と聞こえてくる。

 

「ご注文の御品(おしな)――御届けに参りました」

 

 ――助かった!

 

 『成美』は、ツィと龍ノ口のそばを離れ、来室者のほうに歩み寄る。

 ワゴンを押して入ってきたのは――愛香だった。

 『エルジェーベトの間』に合わせるためか、いつものきわどいメイド服ではなく、ある意味さらに扇情的な、古代ペルシャの舞姫を想わせる薄物(うすもの)を纏(まと)わされて。

 

 身体のあちこちに穿(うが)たれた、金色のピアス。

 金粉で描かれたボディ・ペイント。

 各所のピアスを繋ぐ淫鎖。

 

 肢体(からだ)を動かすたび、暖炉の火に様々な意匠が幻想的に煌(きら)めく。

 透け絹からチラチラほの見える愛香の姿態(すがた)に龍ノ口の注意が向くと、なぜか『成美』は嫉妬を感じてしまい、そんな情動(こころ)をふりはらおうと、さりげなくワゴンの上をチェックする。

 

 モノポール・ワインの名品と――見たことのないジビエ。

 濃いソースが併せてある見た目。なんの肉だろう。

 不意に、なんの脈絡もなくイメージがうかぶ。

 

 ――人肉。

 

 どこからきた連想だろうか。

 ふと、『成美』の脳裏に、あの日の光景がよみがえる。

 複座型タイプの偵察系スーパー・クルーズ航界機。

 滑走路はずれの墜落現場。

 二人の候補生の――遺骸。

 

 ワゴンの上に、イメージを等しくする血の気配。

 

「おォ!……スゲェ「赤」が、あるじゃねぇか」 

 

 龍ノ口は、コトン・コトンと片手杖を鳴らして近づくや『LA TACHE』とエチケット(ラベル)のあるボトルを手に取る。

 一丁前に、ヴィンテージ・ワインの知識はあるらしい。

 

「――お開栓(あ)け致します」

 

 さりげなく愛香がボトルを受け取り、ふたりをソファーに座らせると、ワイン・オープナーを慣れた手つきで器用に扱い、たちまち年代を感じさせるコルクを開け、「どうぞ」とナプキンで包み、優雅な手つきで龍ノ口に差し出した。

 『成美』は、生理的な拒否感から、ソースのかかった料理を遠ざける仕草。それを横目に看(み)たのか、コルクの匂いを嗅いでいた龍ノ口は、

 

「その皿は――下げちまえ。昔のイヤな記憶が出てくる」

「如何(いかが)いたしました?お好みに、合いませんでしたか?」

 

 愛香の怪訝(けげん)な声音(こえ)が『エルジェーベトの間』に漂う。

 

「イヤ、貴姫(アンタ)の所為(せい)じゃない。前にナ?――こんな席で言う事じゃないが――事故の現場を、想いだしたもんで」

 

 ふたたび脳裏にチラつく、イツホクのニヤつき。

 まさか、とは思うが……いや、あの人物なら、やりかねない。

 この高級店に関しては、いろいろ後ろ暗いウワサを同僚のビェルシカたちから聞いていた。

 

 自家発電用GT(ガス・タービン)G(・ジェネレータ)わきにある、意味不明な大型電気炉。

 明け方、店がハネたあとに徘徊する白い影。

 人数のあわないビェルシカやパピヨン。

 犠牲者を運ぶ、専従の拉致班。

 

 地下の食肉工場で働かされる少年たちの噂(ウワサ)は、してみると本当なのだろうか。

 この奇妙な宴がハネたあと、イツホクがし(・)た(・)り(・)顔(・)をして近づき「じつはお前ェの喰った肉は……」などと囁(ささや)いて嗤(わら)う貌(かお)が楽々と想像できる。

 

 ――ひょっとして、高価(たか)いワインをオーダーした腹いせかな?だとしたら、意外にセコいというか“器”が小(ち)ッさいというか……。

 

 いやいやいや、そんな馬鹿な、と『成美』は妄想にストップをかけた。

 

 人肉なんて、料理に供されるハズがない。

 そもそも、こんな突拍子もない連想が普通に浮かんでくるほど、自分はどうかしてしまったのか。否(いや)、どうかしているのは周囲で、自分は本能的な自己防衛のために一時的な同化をしているだけとも考えられる。

 

 己の埒外に“非常の存在”を自覚する昨今。

 内的な自己幻影を掘り下げれば、自分の人生経験にない激情の奔出。

 錯綜(さくそう)した感覚を統合しようにも、精神的な調教を受けたバイアスのためか、抱懐(ほうかい)し、まとめあげた印象がポロポロと掌(てのひら)からこぼれおちてゆく。

 

 不安定な情状性と、それを取り囲む不安定な環境。

 自分を熔解し、「メス奴隷」という鋳型(いがた)に流し込み、『高額商品』として再構築しようとする、出所不明の意志。

 金銀細工が充ちる、蒼古たる空間。

 妄想(シメール)を嬲(なぶ)る“境界”の不明瞭な複合者(シーメール)。

 

 ――その境界とは……。

 

 男の性(せい)と女の性(さが)であったり。

 一般人と航界士であったり。

 そして、生と死であったり。

 

 とりとめのない連想を弄(もてあそ)んでいると、シャンパンボトルを回収していた愛香が装身具を鳴らしてさり気なく近寄り、手書きのメモを見せた。

 

 

 青インクのペンで書かれた金釘流の書体――イツホクのものだ。

 

 

【22時迄に“む(・)り(・)な(・)く(・)”相手にキスさ(・)れ(・)ろ(・)。でなきゃ、強制メス奴隷化手術(オペ)】

 

 

 ――そんなぁ!

 

 

 『成美』は、ほの暗い広間の中、絶句する。

 装った婦(おんな)の皮膜(ひまく)が滑り落ち、心臓の鼓動が耳の中でおそろしいほどに。

 天鵞絨(ビロード)の性的な滑(なめ)らかさにの裏に潜められた、鞣(なめ)し革の苛烈な調教と強の心象(イマージュ)が制が、精神に施された仮想性器の疼(うず)きと共に、脳裏をよぎる。

 

 この広間の一幕が盗撮されているのは、何となく察せられた。

 おそらく、ネムい展開に業を煮やした店側が“テコ入れ”をかけてきたのだろう。

 柱時計を見ると、ワザとのように意地悪く、長針がギリリと動いて。

 

 2130時。

 

「どうした。何かあったのか?急にそんな顔して」

「アラ。イヤですわ。婦(おんな)の顔色を、偸(ぬす)み見たりして――さ、おひとつ」

 

 『成美』は辛うじて表情(かお)をとりつくろう。

 渡されたメモを折りたたんで、ふくよかな胸もとにしまいワゴンの上に用意された新しいグラスを龍ノ口に持たせると、年古(としふ)りた液体をゆるやかに、すこしばかり注ぐ。龍ノ口がスワリングをすると馥郁(ふくいく)たる気配が辺りに拡がり、周囲(まわり)に居ならぶ時代を経た静物(もの)たちの羨望(うらやみ)を喚び起こすかのよう。

 さすがに酒に汚くなった龍ノ口の唇も、厳かにグラスの縁をむかえる。

 

 吐息と、ゆるやかな笑み。

 

「――くそ!……っ」

「お気に召しまして?――さ」

 

 追加でグラスに注ぐ際、龍ノ口の目が、『成美』の胸もとに挟まれた紙片に留まった。

 

「店からかイ?何だって」

「――べつに」

 

 『成美』はさりげなく躱(かわ)した。

 

「わたしがお客さまのお気に召さなくば“ペナルティ”って話ですわ」

「そんなことは、ないさ」

 

 どうだか、と『成美』はボトルを置いてソファーを立つと、広間を拗(す)ねたように数歩あゆみ、ジビエの皿を下げてゆく愛香の背中を見送ってから、ツィと龍ノ口の方に向きなおる。

 褐色の豊かなバストを何となく懐かしく思いだしつつ、己のバストをドレスの上から、できるだけ艶(なま)めかしい演出で揉(もん)んでみせ、

 

「この胸だって――お客サマには、もの足りないのではなくて?」

「よせやい。おおきな奴(の)は、食傷ぎみなんだ」

 

 サラ先輩のことだ、と『成美』はさすがにピンとくる。

 またも(イラっ)と来るが、ふたたび「怒り」は洗脳教育によって水をかけられたのだろう。頭をもたげた感情はたちまち消え去り、代わり生まれた悪戯(いたずら)心が幾分かの揶揄(からかい)を露骨な調子で声にのせ、

 

「おやおや――贅沢(ぜいたく)なコト……これは彼女サンに是非(ぜひ)とも御注進(ごちゅうしん)しなくては」

 

 柱時計を見れば、はやくも5分が経過している。

 なにやら女性ホルモンとレーザー・メス。それに培養された子宮が近づいてきたような気配。

 

 ――なんとか話、盛りあげて。自然にキスにまで持ってかなきゃ……。

 

 どうにかそこに至る道筋をつけようと貴重な時間を費やして考え、かえって焦(アセ)ってしまい、とりとめのないことになってしまう。

 煮え立つような頭のすみで(ミラ宮廷中尉とキスをしておいて良かった)と心底思った。ファースト・キスの相手が男だなんて、いかにも洒落にならない。

 

「……ネイガウスさま、と仰ったかしら?『リヒテル』とお名乗りの、あの大きな殿方。よほど地位のあるお方ですの?」

「ネイガウスが?まさか」

 

 ハッ、と龍ノ口は、ソファーの上でふんぞり返ると、手をヒラつかせ一蹴する。

 

「ただの非常勤講師さ。オレがチューターだ(・)っ(・)た(・)錬成校の」

「ずいぶんと位の高そうなお方に見えましてよ?すくなくとも……佐(・)官(・)ク(・)ラ(・)ス(・)」

「昔ァ雲海のなんたら、ッて忌み名になるほどのW/N(ウィング・ネーム)だったらしいが、いまじゃタダのショボくれた爺サンだよ。奥さんも早くに亡くなり、先日に息子さんも亡くなって、旧(ふる)い市営団地に独りずまいらしいがね」

 

 なるほど。

 龍ノ口は知らないらしい。

 すくなくとも、あの晩の印象は“ショボくれた爺サン”という風ではなかった。

 冷徹、沈着、そして有能無比。

 現役バリバリの上級大佐、しかもシネマに出てくるような「目的のためなら手段を正当化する」冷徹な情報将校のたぐいにすら見えたものだが。

 そういえば――と『成美』は頭を忙しく動かしながら言の葉を継いで、

 

「――航界士のお話になったとき、仰(おっしゃ)ってましたわ。『ウチには佳(い)いチューターが居た。今まで自分が見た中でも五本の指に入るくらい、って」

「……」

「こうも仰ってましたわ『理想が高いため、希望と現実のギャップを認められない。これがもう少し経験を重ねれば、それなりに見えてくるものもあるが、如何(いかん)せん、彼もまだ稚(おさな)い』と――まさか、貴方のことでは?」

 

 性悪そうな表情を浮かべる大理石のキューピッド。そのほおを、ひとさしゆびで弄そぶ素振りをしていた『成美』は、振り向いたとき、ギクリと身を震わせる。

 

 龍ノ口の瞳に、先ほどの蒼い炎がふたたび灯っていた。

 

「やっぱりネイガウスに――そう言えと仕込まれたな。あぁ?」

 

 低い、凄味を帯びた震え声。

 あの日。学食で感じた危うさ。

 また相手の情緒不安定が貌をのぞかせたようだった。

 このいそがしいのに!といい加減『成美』もイライラして、

 

「先ほどから!一体――なんのことですの?」

「ヨめたぜ……今夜の、このワケわからん一席」

 

 龍ノ口は片手杖を取り、ヨタヨタ『成美』に近づくや、荒(すさ)んだ顔をよせ、

 

「街中歩いてて、ネイガウスの名前でリムジンに引っ張り込まれたときァ、いったい何ごとかと思ったが……この茶番のためだったんだな!えぇ?」

 

 『成美』は、いきなり手荒く腕をねじり上げられる。

 

「痛い!」

 

 女の身体を引き寄せられたとき、腕に嵌(は)めたブレスレットがハジけ飛び、手近な台に落ちると、純金特有の、硬く、澄明な音をたてた。

 

「無礼な!お放しなさい!」

「ヤツに何て言われた!ここで懐柔しろとでも?」

「なんのコトです、放して!」

「諦めて通勤電車に乗れと因果を――」

「いい加減に――なさい!」

 

 エルジェーベトの名を冠する広間に、己(おのれ)の物とも思えぬ凛(りん)とした一喝が響く。

 本人が驚くまもなく、『成美』の体はまたしても勝手に動き、『システマ』めいた身ごなしで龍ノ口の拘束を振りほどくや、手甲タイプのウェディング・グローブをはめた手で、盛大に龍ノ口の横っ面を張りとばす。

 

 乾いた銃声のような、小気味の良い音が広間に響きわたった。

 

「なんですか!――女々(めめ)しい!」

 

 龍ノ口の恨みがましい目を、狭窄(きょうさく)された腰(ウェスト)に手を当て、ハッタとにらみ据え、

 

「考えてもご覧なさい!ここはメゾン・ドール。それも最高ランクである『エルジェーベトの間』ですよ?こう申してはナンですが、一介(いっかい)の――えぇ、そうですとも。一介の候補生“くずれ”である貴方(あなた)ご自身の説得に使われるような場所だと、お考えですか!」

 

 一呼吸措いてから、『成美』は斬りつけるような勢いで、

 

「思い上がるのも――大概になさい!」

 

 柳眉(りゅうび)を逆立てた眦(まなじり)でキッ!と『成美』は龍ノ口を睨(ね)め付ける。

 

 森閑とした『エルジェーベトの間』。

 振り子の音にくわえ、ときおり暖炉の薪が爆(は)ぜ鳴る。

 

 ほの暗い雰囲気に押し包まれ“候補生くずれ”はソファーに座り込み、見るも憐(あわ)れな有様。

 

 

 

 やや久しくして、ようやく『成美』は人心地がつく。

 いまのひとときの行動は、またもやまるで自分のものではなかったような。

 またアレが出たのかな、と畏れつつ“彼女”も、ゆるやかにワインの載る小卓を挟んだ対面のソファーに座すと威儀をあらため、

 

「ごめんなさい。つい――キツい言(こと)の葉(は)に」

「……いや、いいんだ」

 

 対する龍ノ口は、自嘲(じちょう)的に唇の端をゆがめ、

 

「貴女(アンタ)の言ったとおりさ。こんなザマになっても、自意識過剰な自分がいる……ホトホト、イヤんなるよ」

 

 そんなコトありません、と『成美』は、遅ればせながら取り繕うように、

 

「あなたは、尊敬されたチューターでした。それだけでも立派です。脚の怪我がなければ、超一流の航界士となったに違いありません。チューターの方々って、みんな素晴らしい方々ですのね」

「……どうかな。クズ野郎だって、居るさ」

 

 『成美』はちょっと小首をかしげ、考えをまとめるようにして、

 

「わたしがココに来るまえ……ひとりの少年候補生に会ったのですが、その子も自分のチューターには、ずいぶん助けられたと言っていました。感謝しています、とも。なんでも雲海の深度探査が、ドウとか」

「……え?」

 

 龍ノ口の目に、また生気が灯る。

 

「あとは、ご自分のお身体を大切に、あまりムチャをしないで。こう言って――」

「そっ、そいつ!今ドコにいます?」

 

 元・チューターは熱に浮かされたように、ソファーから身を乗り出した。

 

 口の端が、手が。

 わなわなと震え、視線もあやうげに。

 それでも目は僅かな希望を見いだしたように輝いて。

 『成美』は引き気味になりながらも「お前の目のまえに居るだろうが!」と言ってやったらどんなに痛快だろうなと心の端でクスっとしながら、

 

「さ、さぁ?なんでも特殊な仕事に、ついているとか……」

 

 まぁ、少なくともウソは言っていない。

 次いで『成美』は、念のためダメを押すように、

 

「練成校にもどることは、おそらく出来ないとも言ってましたわ」

 

 ヒューズが切れたように、ガックリと龍ノ口は、ふたたびうなだれる。

 ふと、その視線の先に何かをみつけたらしい。拾い上げたのは留め金が外れた黄金のブレスレットと、小さな紙片だ。

 

 ――しまった……!

 

 『成美』は胸を押さえるが、もうあとの祭りだった。

 さきほど龍ノ口と争った時に、挟んでいた胸から落ちたらしい。元・チューターは座ったままそれらを拾い上げると、折りたたまれた紙片を開き――『成美』を見て、ちょっと怪訝(けげん)そうな顔をした後、柱時計を見る。“彼女”もさりげなく相手の視線を追えば、無情にも長針は50分を過ぎていた。

 

 ――おしまいね……。

 

 洗脳され。

 肉体を改変され。

 煽情的な装いをほどこされ。

 

 そして淫(みだ)らな衣装をまとわされる己(じぶん)の姿が目に浮かぶ。

 男だった自分は完全に消え、あとには物欲しげな媚笑をうかべ、さもしく性をねだり、イヤらしいヨダレを垂らした腰をくねらすメス奴隷の性(さが)だけが遺(のこ)るのだろう。かくなるうえは最後の出会いとなった今宵(こよい)、かつての先輩に別離(わかれ)の言葉をかけておくのも悪くないと思われた。

 

「お気になさらないで。龍ノ口さまは――強く生きてくださいまし」

「オレの名を……さすが名店、なんでもお見通しなんだな」

「それと、先のように激情にかられては、イケませんよ?」

「……」

「感情にかられて自暴自棄にならないように」

「……」

「貴方は強く生きていって下さいまし」

 

 元・チューターは何事か考えるように、紙片と、壊れたブレスレットを『成美』に差し出す。渡し終えたあと、ソファに座るヒザの上に両ひじをおき、組んだ手の上にアゴをのせて上目づかいのまま黙然(もくねん)と“彼女”を凝視した。

 

 微妙な数拍。

 

 ややあってから、かすれたような声で、

 

「航界士の資質、って――何だか知ってるかィ?」

「……なんです?急に」

「いかな困難な状況にあっても諦(あきら)めない、ってコトさ」

「ならば――わたしは航界士失格かもしれませんわね」

「そしてもうひとつ……判断保留(エポケー)と“個的直感”を重んじることだ」

 

 二人の視線が奇妙な状態で絡(から)みあい、縺(もつ)れる。

 

「えぇと……アンタの名は何だっけ?」

「『成美』、ですわ」

「そうか。だがあえて直感を重んじて『迷いの姫』とでも呼ばせてもらおうか」

 

 暖炉で、薪(たきぎ)がひときわ激しく爆ぜ、火の粉を舞わせる。

 柱時計の、ゆったりした振り子の音が、ヤケに耳に付くように。

 

「……姫さまは、その雲海探査とか言ってた候補生と連絡がつくんだよな?」

「いえ、そんな。すこし前のハナシですから――」

「つ!く!よ!、な!?」

「そんな……」

「そして姫さまが頼めば、その候(・)補(・)生(・)は(・)拒(・)ま(・)な(・)い(・)……そうだな?」

 

 凝固したような沈黙。

 振り子の音(ね)が、手術台へ至る搬送機のように正確な音(おと)を刻む。

 

「どうでしょうか。わたしには……」

「いいや、アンタなら――で(・)き(・)る(・)は(・)ず(・)だ!」

 

 龍ノ口は、片手杖無しでソファーから懸命に立ち上がると、ふるえる脚を踏みしめ、『成美』の方へと向かう。その瞳には先ほどの冥(くら)い情念めいた蒼い炎は無いものの、それに代わり奇妙な、ある決然とした輝きがあった。

 

「航界士、ってのは「成る」ものじゃない、「呼ばれる」ものなんだ。それが運命的なものか、あるいは資質からくるものか。資質だとしたら、先天的な物か、後天的な物か。そんなことは、しらん。ただ言えるのは、そこに「価(・)値(・)判(・)断(・)自(・)由(・)」は――無い」

 

 龍ノ口を畏(おそ)れるように『成美』もソファーから立ち上がると、数歩後ずさる。

 だが元・チューターはヨロヨロと歩み寄ると、『成美』を捕まえるやドレスの肩をつかみ、自分の方へと力強く引き寄せた。そして己(おのれ)の“一夜妻”の容(かんばせ)を熱にうかされたような瞳でマジマジと見つめる。

 

 『成美』の胸は妖しくとどろいた。

 

 全身をめぐる血が、カッとあつくなり、うっすらと汗をかいて。

 それどころか夢の中でつけられた女性自身が(ジュン)と熱く潤(うる)み、子宮もキュゥゥっ、とシビれて何かを欲しがるような。

 相手の声が、フワフワした『成美』の脳に直接説教するかのごとくに響く。

 

「下界で腐(クサ)るか……神に至る未知の扉を拓(ひら)くか。その差は黄金(きん)と汚泥(どろ)以上のひらきだぞ!」

「でも――死の危険が、ありますわ」

 

 ようやく“姫さま”は上ずった媚声(こえ)でそれだけ辛うじて返した。

 

「惨めな犬死(いぬじに)の可能性すらも!」

「生きながら地獄を味わう危険に比べれば、羽毛のように軽いさ」

 

 元・チューターの腕の中で、『成美』は手折られた花束のように萎れきった風情で無防備な横顔をさらす。

 

「――あなたの、その熱情(パッション)は、ドコからくるのかしら?」

「――自分でも、この殉教(パッション)めいた行動原因は分からない」

 

 龍ノ口は熱っぽい眼差しで囁(ささや)いた。

 

 興奮した荒々しい男の気配。

 女性(おんな)を時に激しく、時に優しく導く印象。

 きびしく、そして甘美に躾(しつけ)られてしまう予兆。

 

 ――嗚(あ)ッ……また。

 

 『成美』の胸のドキドキが、また高まってゆく。

 ショーツが、ちょっと熱く湿ってしまったような感覚。

 

「たぶん「呼ばれている」からだろう。ソレに抗うことは、ヒトには出来ない――許されていない。ボーイ・ミーツ・ガールなんて廉価(やす)っぽいものじゃない、ボーイ・ミーツ・タスク(使命)だ!」

 

 ゴクリ、と長針が59分を示す。

 振り子のセコンド、その一刻、一刻が、まさに方寸(こころ)を刻む。

 龍ノ口の熱い身体が、『成美』のなよやかな肢体をきつく抱いて放さない。

 自分の言葉の効果が浸透するのを見極めんとするためか、男がしばらく黙(もだ)す。

 

「さぁ、応えてくれ!雲海探査の約束を!」

「わたしは――そんな……」

 

 柱時計の箱が、奇妙な“うなり”を生じ始めた。

 『成美』の頭が、錯綜(さくそう)し、様々なイメージが沸騰(ふっとう)するように浮かぶ。

 

 瞬間的な生と、緩慢な死。

 望みすくない希望と、確実だが温(ぬる)い絶望。

 

 白い雲海――ピンクの奉仕部屋。

 界面翼――鈴付き乳首ピアス。

 リダクション――洗脳媚薬香水。

 悪霊――子宮内避妊器具。

 ゲシュタルト・スーツ――調教用ハーネス……。

 

 幾重ものフラッシュ・バックに、龍ノ口の声が鞭打つ。

 

「さぁ!」

 

 柱時計の唸りが高まる。

 窒息するような頭の中。降参するように『成美』は、遂(つい)に叫んだ。

 

「わかりました!雲海探査を――伝えますぅ!んうッ」

 

 龍ノ口が、『成美』の口唇(くち)を荒々しく情熱的にふさいだ。

 

 まさに――そのとき。

 

 柱時計に備わる捨て鐘の旋律が鳴り響く。

 緩やかに調(しら)べが昇降し、精緻な演奏を行い、やがて重々しく鐘を打ち始めた。

 その数、十度(たび)。

 

 どこかでパーティーでもやっているのか、湧き上がる盛んな拍手の気配……。

 

 

 

 





注:古い慣習ですと時計は時鐘の最終鐘がその時刻(たとえれば、11時ジャストは11番目の鐘が鳴ったそのとき)らしいですが(19世紀の文献による)、ここでは分かりやすく“捨て鐘”メロディーの鳴り始めが時刻ピッタリであるとしました。
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