※この作品はR-18です。

玲瓏の翼【18禁版】   作:珍歩意地郎_四五四五

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055:         〃              (後

 

                 * * *

 

 同じような振り子の音が響く『控えの間』

 『九尾』は心虚(こころうつ)ろに、あの夜を考えた。

 

 先輩からキスをされたときの、身体がフワフワとした感じ。

 本当に精神を女にされてしまったのかと危ぶまれたものだが。

 

 ふたりで協力してソファーの位置を変え、マントルピース前に。

 肩をならべて座り、暖炉の炎に見入ったひととき。

 不思議な充足感。

 龍ノ口と自分は、人生の様々な局面をいろいろと語り合った。

 あくまで『成美』が「雲海探査候補生に伝える」というスタンスでだが。

 そして――瞬く間に時間は過ぎる。

 まるで『エルジェーベトの間』だけ、刻(とき)の流れが異なるかのように。

 

 一人を除いて、ダラけきった候補生たちが思い思いに過ごすなか、『九尾』は“奉天”と名づけられた自分の特殊な乗機に想いをはせていた……。

 

                 * * *

 

「雲海探査には、探査院・司法特例機が使われる……」

 

 重々しい声で、龍ノ口は炎から目を離さず、呟いた。

 『成美』は、前に学食で教わった機体を思い出そうとするが、脳裏(のうり)に浮かぶのは、『ゾーロタ』や『シリブロ』といった、あの金銀の調教役と、それを使役する黒髪の調教師が浮かべる、酷薄(こくはく)な笑みばかり。

 心ひそかに『成美』は、ドレスの下で縛(いましめ)められた身体を冷たくする。もしかすると操機のウデも、だいぶ鈍っているかも知れない。

 

「“彗星”ってんだが……これが43(特攻)型の試作機(改)でね」

 

 ――そうだ……“彗星”だ。

 

 三面図が、どうにか思い出せた。

 

 ひと昔まえの、超高々度を戦域とする衛星軌道用・戦爆機めいた姿。

 乗員はタンデム。

 界面翼のシステム・コントロールも、それに同じ。

 しかし、いくら二人がかりとはいえ、今の自分が、ヒョイと乗って、満足に動かせるとも思えない。横で黙然(もくねん)と炎を見つめる先輩に、多大な迷惑をかけてしまう。そんな無様(ぶざま)なマネは、できない。なにより自分の誇りがゆるさない。

 

 ――“奉天(ほうてん)”を。あの旧式機を、もういちど動かせたら……まだ自分には、その資格があるかもしれない。

 

 “彗星”とはベクトルの違った“奉天”の雰囲気

 

 ブリコラージュされたような、不格好な外装。

 そのうちに秘められた、暴力的な戦力。

 コクピットの一種異様な雰囲気。

 コンソール・パネルが匂わす、実戦機のスゴ味。

 

 ――完全武装したら、どれだけの威容(すがた)になるのだろうか。

 

 目のまえの暖炉で、よじり、燃え上がる炎を見つめるうち、だんだん自分の中で“たぎって来る”モノがあるのを、『成美』は、しぶしぶながら認めざるをえない。

 不覚にも、唇の端に笑みすら浮かんでしまう。

 それを見たか、龍ノ口が「よぅし」とばかり、

 

「イイ貌(かお)に、なってきたな――一時は、どうなるかと思ったが」

「え?……ゴメンなさい、聞いておりませんでしたわ」

「いや、スマン。こっちの話だ」

「この部屋は監視と録音がされています。めったなコトや、ある種の固有名詞は、出さない方がいいと思いますよ?」

 

 ふぅん、と龍ノ口は、『エルジェーベトの間』を見回す。

 

「なんか辛気(しんき)くさい広間だなぁ……博物館の広間か、玄室の中みたいだ。高価そうなモノばかりってのは認めるが……過去から亡霊が、そこいらの暗がりから立ち上がってきそうだぜ」

「イヤなコト言わないでくださいよ……」

「金持ちの趣味は――ワかんね」

 

 『成美』は、龍ノ口の耳もとに口を寄せ、ひそひそと

 

「ここに並ぶ、ラファエロや、レンブラント。全部ホンモノらしいですよ?」

「!ふぇぇぇ……どッから、そんなカネ出てんだか」

 

 やや久しい沈黙。

 幾拍か、経ってから、

 

「なぁ、『成美』サンよ」

「はい」

「ココは、オ(・)レ(・)た(・)ち(・)のいる場所じゃないぜ」

「このお店が、わたしに相応(ふさわ)しくないと?」

「そうじゃない――この『世界』が、だ」

 

 龍ノ口はソファーの上でウン、と伸びをして、首を鳴らし、

 

「言わんでも分かるだろ。こんな国、飛び出してサ?もっと広い世界が待ってるぜ」

「どうですか。ホントにここよりマシな事象面が、あるのかと……」

「ま、ナニをもってマシとするか、だな。考え方次第だ。安全があって、水がタダで、医療保険が完備されてて、法規が行き届いてて、女王のクソったれだなんだと叫んでも「不敬罪」すらないこの国じゃ、逮捕すらされない……」

「先にも申し上げましたが、この部屋は――」

「街を歩いてても、狙撃屋にドタマ吹ッとばされるコトもなきゃ、催涙ガスで吐くことも、ゲバ棒や自爆テロで血まみれになることもない」

 

 調教のためか、もはやおぼろになってしまった図書館での記憶。

 もしや、この先輩も、あの羆(ひぐま)に映像を見せられたのだろうか。

 

「――平穏で――安全で。いいじゃないですか」

 

 そうか?と龍ノ口は一拍措き、

 

「だがな、せっかく男に生まれたからにゃ……こう、荒れていても自由な世界を、大股で歩いてみたくもなるじゃないか、えェ?」

「モノ好きな。わざわざアブない目に遭いにいくなんて」

「雲海降下の件、タノんだぞ……そ(・)の(・)腰(・)抜(・)け(・)候(・)補(・)生(・)に、よく伝えろ!」

「……その子が聞いたら、多分コシ抜けなんかじゃない!と、憤慨(ふんがい)しますわ。貴方が暴力的過ぎるんです……そうだ」

 

 『成美』は、ふと『リヒテル』の言葉を思い出した。

 

「どうした?」

「まえに『リヒテル』さま……ネイガウス様がいらしたとき、ボ……わたくしに言ってくださったんです。修錬校を見学に来ないか、って」

 

 アブねぇ、と『成美』は冷や汗をかく。

 どうも、このチューターのそばに居ると、つい油断して候補生だった頃の地金(じがね)がでてしまう。

 

「へぇぇ、あのジイさんが、ねぇ……?」

「つきましては、来週の火曜日。お店は公休となりますので、その時に……」

「わかった、そう伝えとくよ。成程(なるほど)、あのオイボレ羆(ヒグマ)も、準備着々というワケだ」

「なんのことですの?」

 

 こちらの話さ、と龍ノ口はカラとなったワインのボトルから、未練気(みれんげ)に最後の二、三滴を注ぎ落とす。

 

「もう一本、オーダーいたします?」

「いや――いい」

 

 キッパリと龍ノ口は断った。

 そしてグラスに残った紅い液体を、背を反らして干すや、タン、とステムが砕けんばかりの勢いで小卓に措くと、

 

「グズグズになった体調、できるだけ元に戻しておかんと。明日からジム通いだ」

「それがよろしいと思いますわ」

「いつ、お呼びがかかっても、イイように、な」

 

 龍ノ口は、柱時計を一瞥し、次いで自分の腕時計のダイヤル(文字盤)を凝視して驚く。

 

「うぇ……!オレの時計、止まっていたよ」

 

 雲海の磁性に合わせて手動巻きなのか、あわてて龍ノ口は自身の古ぼけた航界士用・腕時計のリューズを巻く。

 もう帰る。と彼は立ち上がり、16世紀の金銀細工に無造作なかたちで引っかけてあった、自分のボロボロな憲兵隊用コートを取った。

 

「十分な栄養――そして睡眠、運動ってヤツだ」

「よいことですわ。是非ともお願いしますね」

「ふん!見てろよぉ?」

「コントロール・お客サマお出かけ。用意を」

《諒解――フロイライン》

「暖炉に中毒(あた)ったのかな……アタマ痛いや」

 

 『成美』が帳場と交信している傍らで、龍ノ口は天井まで届くフランス窓にコツコツ、ヨタヨタと歩み寄り、掛け金を外すと、両開きの取っ手を押し開いた。

 ゴウッ、と窓枠が鳴り、風鎮(ふうちん)を付けたレースのカーテンが、裳裾(もすそ)を思わせる形で柔らかくふくらむ。

 清冽な空気が流れこみ、暖炉に茹(ゆ)だった頭をスッキリとさせた。

 『成美』も思わず風の吹いてくる大窗(おおまど)の方を向き、眼を細める。

 

 ――あぁ……。

 

 そのどこまでも純粋な、胸を洗い流す一陣。

 まるでほんとうに“未来圈”から、透明な、清潔な風が吹いてきたかのよう。

 そのままバルコンに姿を消した龍ノ口の声が、間延びしたカタチで、

 

「おぉい、『きゅ……姫サマよぉ――来てみぃ?」

「なんです?」

「月が……スゴいや」

 

 『成美』も声に誘われ、大窗(おおまど)を経て広い露台へと、ヒールを鳴らし、歩み出る。

 とたん、冷冽(れいれつ)な光に染め上げられ、己の纏(まと)うSM風味なウェディング・ドレスそのものが発光するかの如く、照り焜(かがや)いた。

 冬の空気に身体が冷えるが、実は月光が冷温を持っているためとも怪しまれる。

 

 おりしもの微風に、まるで白い花が夜に揺らぐかと見まがう姿。

 己の肩を抱いて身体を温めようとしたとき、自身の腕にはめたグローブの白い輝きに魅せられ、腕をのばし、斯かる容子(ようす)にまんざらでもなく見入って。

 その効果の出所は、と夜空を見上げれば、月が、いつもの数倍の大きさで皎然(こうぜん)と宙空に架かるのを観た。

 

 ――あぁ。

 

 すぐに『成美』はピンとくる。

 

 かつて、宮廷秘書官とともに、フリゲート艦に搭乗したときの記憶。

 あのときは「蒼を背景の白」だった。

 このたびは「黒を背景の白」。

 素早く周囲の空域に眼を奔(はし)らせれば……いた。

 

 かなり大型の航界艦。

 航空灯を明滅させ、闇に紛れるように浮かぶ姿。

 夜の魔都が発する通奏低音に併せ、切れ目ない遠雷のように、微かな重低音が轟いて。

 

「すげぇなぁ……フリゲートか?モービー・ディック級くらいはあるな」

 

 龍ノ口の声音は、まるで子供がはしゃぐように。

 吐く息が、言葉と供に、白く天に昇ってゆく

 そして、いかにも嬉しげな勢いで、

 

「こりゃ幸先がイイぞぉ?」

「さいさき?――何のです」

「雲海探査の作戦行動に、サ?いい景気づけだ」

「そうかしら?」

「そうさ!」

 

 夜空に向かって大きくそして『成美』の方に目をやった龍ノ口は、そこでようやく“彼女”の白花めく娟容(すがた)に気付き、はじめて息をのむ。

 

「如何(いかが)――なさいましたの……?」

 

 それに応えず、無言のまま杖を突き、真顔で歩みよる龍ノ口。

 相手の様子を看て、知らず『成美』は数歩、引きながら、

 

「どうなさいまして?――厭(イヤ)、こわいですわ」

「キレイだ……」

 

 龍ノ口の口から、青年のもてる純粋な祈りにも似た語勢で、言葉が洩れた。

 若い胸の内から湧いた、混じりけのない真情(まごころ)の吐露(あらわれ)。その響き。

 それが婦(おんな)ごころを強制的(むりやり)に植え付けられた『成美』の心をゆさぶる。

 

「――そんな」

 

 それだけ言うのがやっとな“彼女”は、皓々(こうこう)たる月下、拗(す)ねたように傍らを向き、密(ひそ)かに頬をそめる。しかし、冴え冴えとした冬の空気を貫き、冷光を投げかける玉玦(つき)は、そんな彼の偽容(いつわり)を宥さない。

 

 すでに真夜中も近い、この露台(バルコン)という“小世界”。

 二人きりとなった青年と“精神的乙女”は、黙然(もくねん)と相手の瞳を見つめ合う。

 

 悠揚(ゆうよう)迫らず龍ノ口は、自身の褐色な“お相手”で修行を積んだものか、小憎らしいほど落ち着いた手つきで『成美』の腰を抱き寄せるや、服の下でボンデージ・ハーネースにきつく縛められた“彼女”の胸を反らせ、その瞳を覗きこんだ。

 無理な姿勢を取らされたことで、『成美』の女体を錯綜(さくそう)するハーネースは締め上げられ、下腹部に挿入されたディルドーをより一層深く食い込ませ、微妙な刺激をあたえる。それが表情に、ひと刷毛(はけ)の蠱惑(こわく)を添えるのに『成美』自身は気付かない。

 

 近づくふたりの貌(かお)。

 魅せられたかの如く、互に相手を見入る。

 

 皎々(こうこう)と降り注ぐ冷光に包まれ、あたかも二個の大理石像と化した彼等は、あふれる想いを胸に、凝固して動かなかった……。

 

(龍ノ口、センパイ)

 

 『成美』が観念したように目を閉じ、そう呟きかけた、その刹那。

 

「――誰だ」

 

 龍ノ口は、不意に身体を離し、いま来た大窗(おおまど)の方を睨(ニラ)む。

 『成美』も視線を追ってギョッとした。レースのカーテン越しに、黒い煙のようなモノが、ボンヤリと佇(たたず)んでいる気配。

 不埒な闖入者。あるいは下賤の気配もてる無粋な精霊(ジン)。

 

「あの……」

 

 震えるような、か細い声がその影から伝わる。

 

「お邪魔して、申し訳ありません…… “お供”が参りました」

 

 なんだ、と『成美』は脱力する。そしてなぜかイライラと、

 

「愛香さん……驚かさないでください」

 

 つられて龍ノ口もいささか興ざめしたように脱力し、

 

「あぁ、さっきの白拍子か。くそ……それに何だ?“おとも”って」

「御自身の寮までお送りする「リモ」のことですわ」

 

 わきから『成美』がコッソリと。

 

「りも?」

「リムジン。庭園の外で、お待ちしております」

「いらんよ――そんな。ジジィじゃあるまいし」

「申し訳ありません。弊店にも、体面というものがありますので……」

 

 と、こんどは愛香がレースのカーテン越しに若干のふるえ声で、

 

「『エルジェーベトの間』を御利用のお客さまが、徒歩でお帰りなどされましたら、弊店の沽券(こけん)に関わるのです」

 

 ふぅぬ、と龍ノ口が口をへの字に腕組みをした折、広間の柱時計が、ふたたび捨て旋律を流しはじめた。その時、彼はふと表情をあらため、腕組みを解くと、

 

「ほら!この鐘の音。コレだこれ!」

 

 聞いてくれ、と言わんばかりに片腕を、街の方へと差し延べる。

 深夜に至っても、ますます加熱するような、旧市街の騒音。

 ひくく唸る獣のような、都市の息づかい。

 大型戦闘艦艇の稼働音も、併せて。

 

 いったい何を、と口に出しかけた『成美』だが、不意に耳を澄ます。

 

 ――あ……。

 

 鐘が、鳴っていた。

 

 遙か彼方から、厳(おごそ)かな余韻(よいん)をもって。

 粛然と――また隠然と。

 よく聞けば、そこには或る種の鎮魂と哀訴、さらには慰撫の気配すら、あわせ含まれるようにも感じられる。耳朶(じだ)に届くその響きに『成美』がブルッと身体を震わせたのは、おそらく寒さのためだけではなかっただろう。

 

「ほんとうだ……でもどこからだろう、いえ……でしょうか」

「客間の柱時計、鳴ったよな?時間的に深夜0時か。航界艦の八点鐘にしては、鳴らし方がヘンだ。それとも戦闘艦艇は、こうなのかな?」

「さぁ?愛香さん!お姉ぇさま、コチラへ――ほら、聞こえます?この鐘の音」

 

 沈黙。

 ややあって、カーテン向こうの舞姫は、わずかに否定の首をふったように思えた。

 

「いや――ちがう。艦の方向からじゃない」

「じゃぁ、どこから……?」

 

 陰々(いんいん)たる鐘は、無限の余韻(よいん)もて、月の皎々(こうこう)たる夜空に微かな響きを立て続けた。

 いつまでも――いつまでも。

 

 やがて、どちらからともなく露台(バルコン)の二人は、顔を見合わせた。

 次いで、申し合わせたように、まるで凶事から逃れるがごとく露台から広間に入る。大窗を締めて鍵をかけたとき、なぜか二人は、ホッと息をついた。

 今宵の主客とホステスは、不吉なものから追われるように、いそいそと『エルジェーベトの間』から逃れ去る……。

 

     ――――――――――――――

 

 暖炉の火のおちた『エルジェーベトの間』だった。

 

 すでに冷えが、古い什器のそこかしこから立ちのぼり始めている。

 薄暗い雰囲気のなかで、愛香は気のない手つきで小卓の上を片づけながら、先ほど観た景色を反芻(はんすう)した。

 

 バルコンの上で、じっと見つめ合う、青年と『成美』。

 

 その光景を目の当たりにしたとき、彼女の中に湧き上がってきたのは、覚えたことのない怒りと、そして哀しみだった。

 

 大事なモノが汚されてしまうような焦り。

 そして――何よりも戸惑い。

 

 もうすこし愛香の中に、自分を省察する余力があれば、その感情には少なからずの嫉妬(しっと)が混じっていることに気付いたはずである。

 だが、そんな彼女の惑乱(わくらん)も、次の瞬間、霧散してしまう。

 

 レース越しに観る二人の姿。

 その背後に、それぞれ光の羽根めくモノが延びているのを看たからだった。

 

 何度、瞬(まばた)きしても、その姿は変わらない。

 月光を浴び、互(かたみ)に黙し、相手に見いる天使たち。

 

 レース文様の加減かと、カーテンを動かしたとき、青年の方から誰何(すいか)を受ける。口調には、せっかくの逢瀬(おうせ)を邪魔されたような、まぎれもない非難の色があった。

 穢処(わいしょ)の住人たる己(おのれ)が、聖なる者たちの行為を邪魔してしまったような、悖徳(はいとく)感。

 そんな心の痛みも冷めやらぬうち、鐘の音に騒ぎだす天使たち。

 バルコンに誘われるが、出て行く気はしない。

 斯(か)かる神聖な舞台に、自分は立つ資格が無いと、感じられたからである。

 

 鐘の音などきこえなかった。

 聞こえるはずが無いのだ。

 世俗に汚れた、自分には……。

 

 茫然(ぼうぜん)と、以上のことを考えながら、心虚(こころうつ)ろなるままに、のろのろと片付けをしていた愛香だったが、不意に慄(ゾ)っと暗がりを睨(ニラ)む。

 

「どなたです!」

 

 視野のはし。

 そこに一瞬、黒い老人の姿が、佇立(ちょりつ)するような気配を彼女は感じる。

 骸骨のような、痩(や)せさらばえた黄色い貌。

 闇にくっきりと、浮き出ていたような。

 だが、いま真正面から観れば、視線の先に人影など居ない。

 

「誰ですの!?――出ておいでなさい!」

 

 愛香は声を励(はげ)まし、凛(りん)と言い放つ。

 

 しかし、暗がりには古びた什器たちが立ち並ぶほかは、動くものの気配はない。

 ただ、振り子のセコンドだけが、規則正しく薄闇(うすやみ)を縫いつづけている……。

 来客が去った後は、入り口を守る衛士もいない。

 コントロールと連絡を取るイヤリングも、いまは外してしまっていた。

 

 総毛立つ身体をなんとか抑え、愛香は残り物をワゴンにのせると、足早に広間を後に、そして『エルジェーベトの間』の納骨堂のように重い扉を――鎖(とざ)す……。

 

     ――――――――――――――

 

 龍ノ口をリムジンまで送り届け、フロント係のハッサンといっしょに去りゆくテール・ランプに深々と礼をした『成美』は、何回目かの既視感(デジャビュー)に大きくため息をついた。

 壊れたレコードのように、いつまでも同じ演目を奏(や)っているような。

 あるいはレールのポイントが故障し、いつまでも同じ線路を走っている印象。

 

 ――うまく切り替わらないとしたら、その場所はどこなんだろう。

 

 やはり、雲海探査しかないのかと、ふたたび大きく息をついたとき、ハッサンがドレスの腰に手を回してきた。そして、香辛料(カレー)臭い体臭を漂わせながら『成美』の耳もとに、

 

「店長ガ、オ見送リ終ワッタラ、店長室ニ来イッテヨ?」

「店長?イェジェヌさんが?」

「ソノ後、ドウ?ボクト……」

 

 ハッサンの手が、『成美』の胸に延びる。

 そのまま、無遠慮に胸をひともみ、ふたもみ……。

 

「そんな!ハッサン、やめてよ」

「ボク、優シクスルヨ?ダカラ『成美』ダイジョウブ」

「そう言う問題じゃ……」

 

 この時、近くの監視システムに付随するスピーカーから、ボソリと一言。

 

《……ハッサン。早く連れてこい》

 

 中東系の男はブルッと体を震わす。

 そしてイソイソと店の方に『成美』をせき立てた。

 

 『成美』は『成美』で、新たな不安が生まれる。

 いまの声。

 

 ――イェジェヌのものじゃない……イツホクだ……。

 

 不吉な予感が、頭をよぎる。          

 

 

 

 




う~む。
やはりぺダンチックな回になると、皆様敬遠するのか反応がニブくなるような。
さ!次から「弩エチー」な章ですよ!
(本当はエロなんて書きたくないけれど、読者様のために涙を――涙を――涙を――呑んで書きます)
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