「ホラ、呼んでやったぜ」
イツホクはソファーの背越しに、ニヤニヤとアゴをしゃくる。
「そちらのオッ怖(かな)い兄サン方も、若いお二人の邪魔をしないよう、それぞれ遠まきに張ったら
そういい捨て、どことなく投げやりに、
秘書役とも思える美貌の女性は一礼すると、静かに中年男の後を追った。
嗅ぎなれたコロンの匂い。
ほんの数日前なのに、はやくも懐かしくおもえる気配が、背後に。
おそるおそる振り返ると、この
高級使用人だけが着衣をゆるされる、格式のたかい奉仕着。
バッスルで形を整えた、オーソドックスかつ古風なスカート。
大きく
微妙な
全体的に、ともすれば
イツホクに言われた
やがてこの闇に塗りつぶされた数十m四方と思われるガラスの温室には、あたかも『九尾』と『愛香』の二人しか存在しないかのように……。
黙然と見つめあう、彼等。
すると、どうしたことか。愛香がフィと冷たい顔をそむけた。
――えっ?
『九尾』はあわてて数歩。近寄り、彼女の顔色をうかがう。
「あ、あのさ――」
「何しにいらしたのです」
思いもかけない愛香の反応。
冷ややかに――まるで凍った
それは
「ボクは……」
「ここは、もう
お引き取り下さい、と頭上なる月の光にメガネを光らせ、にべもない。
――洗脳!
一瞬、彼は胃の底をヒヤリとさせて相手を
だが、すぐ相手の瞳に意思の力が閃くのを
「イツホクから。アイツから何か言われたの?――ね、そうなんだろ?」
「……」
「ボク――いや自分は――
『九尾』は重々しいコートのポケットから、昼間の高級百貨店で手に入れた小さな包みを取り出した。
全財産をかけた必殺のアイテム。幼年校から積み立てた彼の預金と有価証券の
作戦が失敗したら、そもそも金など意味がなくなるのだ。
丁度いい自分へのケジメだと、なかば自虐的な気持ちで。
なにより、このプレゼントに自分の運を賭けてみたくもあった。
受け取ってもらえたら、負に回り続ける運命の歯車。それが逆転する――ような。
「今日来たのは……キミに、これを受け取ってもらおうと思って……」
リボンのかかった包装を、彼はオズオズと相手に差し出す。
――あぁ、どうか!
『九尾』は息をつめる。
人生で初めての、渾身の一撃。
彼自身も信じられない。
まるでラノベの主人公にでもなったような、そんな面はゆい感覚。
彼の想像では、プレゼントを受け取った愛香がとまどいながら包装をあけ、中身をみて金額を聞き、驚いてから涙ぐんで自分にキスをして――抱き合う、までがワンセットとなっていた。
だが……。
目の前の少女に、動く気配はない。
気のせいか一瞬、瞳を輝かせたようにも見えたが直ぐにそれは消えて、差し出された包みに
――え……。
はやくも想像の段取りが狂った彼は、プレゼントを差し出したまま、いまだキスを期待するような間抜けな顔で固まって。
対して愛香の
凝固した、沈黙。
そんな中、頭上の樹間から差し込む
すっかり“ピエロ”となってしまった彼は、泣くに泣けない思いで手元の包みを(こんなものナンでもないサ)とでも言うように、打って変わって雑に扱いながら、なるべく気安い調子をよそおって、
「ボク――いや私は、数日後ある重要な作戦に参加するんだ。雲海の……」
ゲホン!ゲホン!と、暗いしげみのどこかで
「……その作戦は、けっこう難しくて。でも参加して帰投した
「……」
「
「……」
それでも、相手の沈黙の壁は、厚かった。
差し出した美しい包みを手に取ろうとする気配すらない
仕方なく『九尾』は、わざわざ包装料をはらったラッピングを情けない思いで
現れた
発条(バネ)の効いたフタを開けると……。
月光のもと、真珠色の純白に
そこに鎮座する純金とプラチナ――それにダイヤが組み合わさったブローチ。
月光のもと、まるで自身が白熱するように光を放って。
「今持ってるボクの全財産で手に入れたんだ」
「……」
「500ギニー以上したんだよ?」
「……」
「キミが待っていてくれるなら、作戦だってきっと成功すると思うんだ」
「……」
「作戦が終わってボクが還るまで、これを身に着けて待っててほしい」
「……」
「どうかな?それでこんなトコ出て……その」
「……」
「その……
ようやく絞り出した
引きつったようなノド。それを無理矢理ひらき、あえぐように。
頬は赤熱するように火照り、あたまの中は熱い炭酸水がわきたつかのごとく。
今度の沈黙は、さらに長かった。
どこかで扉がキシむ音。
樹間をわたり、夜の冷たい香気が軽く吹き抜けた、ような……。
ふいに愛香が、やや引き
「馬鹿にされたものですわね」
「……え?」
「おハナシにならない――と、こう申したのですよ?」
『九尾』は泣き笑いの顔で愛香を見つめた。
彼女の言葉が耳を素通りして、まったく理解できない。
「わたしが日ごとに(時によっては殿方への“ご奉仕”が果てたあと)着替えるこのメイド
「……」
「35ギニーですわ。奉仕の内容によっては
「……」
「ネイルサロンや、エステ、化粧品。
「……」
「専用のシャワーやジャグジー。バイタルを維持・管理するのが目的の、
「……」
「お分かりになりませんの?わたくし、一般航界士の安手当などでは、とても
「よくもまぁ、
「……」
「口にするのは放出
話せば話すほどに愛香は激し、
だが何かに思いあたったのか、ふと顔色をやわらげ、
「――あぁ、もしかして私の作り話を聴いて、同情したとか?」
アッはは、と愛香は手を打ち鳴らして笑いくずれた。
「おッかしい。あんなのウソに決まってるじゃないの。“場の雰囲気”を盛りあげようとしただけよ……どう?感動的だったでしょ。演技が
「そんな――」
『九尾』の口は、ようやくそれだけ動いたようだった。それを見た愛香は、
「さァ、そんな縁日で売ってるような
「
カッ!と彼女は赤いヒールを踏み鳴らす。
足首を
「サァ、さっさと出てお行きなさい!
「……」
ムッツリとうつむく『九尾』の沈黙。
それを見た愛香の
ドレスと同じく革製と見える、薄手の白い手袋がはまる腕を出口に差し伸べて、
「
最後は、
「
喝然と響いたあとは重い沈黙が、このガラスの建屋を圧して。
いかなる仕組みか、不思議と『九尾』は表面上の平静を保つことに成功した。
男としてのプライドが成せるワザか。
それとも今まで経た経験が、曲がりなりにも彼のうちに
あるいは、あまりの出来事に、感覚が凍ってしまったのかもしれない。
心は、冷たく――硬く――澄明になってゆき、
まさかこんな“腐れブタ”を相手にしていたとは、と
かわりに在るのは
だが――この胸の
冷たい
彼は視線を転じ、手にした哀れなブローチを観る。
拒まれた美しい宝飾品は、あいかわらず月光に悲しいほど
「そう、か……」
沈鬱とした青白い闇の中、柔らかいその音は意外に大きくつたわった。
ややあってから――。
『九尾』は
そして天鵞絨の小箱を固く握りしめる。
次いでやおら腕を振りかぶると、声を限りにして、
「わが“想い”の滅ぶるがごとく――この想いの“
そう叫ぶや彼は
肩とヒジと、そして何より胸の痛み。
こめかみがビクビクと脈打つ感覚。
期待したガラスの砕ける音はしなかった。
それどころか
彼の“想い”は文字どおり闇に吸いこまれ――消えた。
決然、
ふと――。
背後に愛香が
最初は、きわめて
次いでささやかに――そして次第に
やがて勝ち誇るがごとく、一種
最後は
愛香の嘲(あざわら)いが、どこまでも自分を追ってくる。
足早に――見方によっては
火照った
煮えたぎった思考。
外界の冷気は刺すように彼を包む。
頭がグルグルと回り、目が焦点を結ばない。
いくつものイルミネーションが丸い形のまま視界を乱舞して。
神経に触るカップルの笑い声。
なにかのレーザー光が闇を一直線に。
リニア・トラムの警笛と、危険を内包した叫び。
ガソリン・エンジンで走るバイクがスターターをかけて。
卒然、世界は乱反射して、