思考同調制御で、機体側からデッキのドラム・ノッチを解放。
ブレーキを
機外モニターが雲でおおわれる刹那、上空を乱舞する航界機のなかに、蒼空を背景として女神を想わせる、白く長大な四枚翼……。
「カウント・開始します」
泥水に潜ってゆくように次第にモニターの輝度は落ち、やがて何も映さなくなる。
ここの雲海は特に密度が濃い。有視界飛行は、もう困難だ。
雲海突入時にリセットした深度計は、はやくもマイナス五○○を示している。
静止状態で降下しているはずだが速度は1.2。
機体の水平儀は85度。
対気計の数値が不安定。
反面、ヘルメットバイザーに投影される事象面歪率計と存在識レーダーは、雲海がもつそんな
《OK、干渉域を抜けた。さて、と――それじゃお手並み拝見といこうか》
ついに、来た。
『九尾』は覚悟をキメる。
不覚にも、多少うら返った声で、
「リダクションモード・
とたん、体の中を冷たいミミズがはい回るような感覚におそわれ、彼は小さく悲鳴をあげた。普段のG・スーツで感じる、細かいガラス片に満たされる感覚ではない。まるで内側から、何千本もの触手で犯されるような。
脚から、腕から、股から浸食され、最後に首もと。そして後頭部まで。
吐き気と気持ち悪さとで半ばパニックになっていると、強制的に完全作用の鎮静剤を静注される。
自動的にリダクションは進行し、モード・2へ。
とたん――それまでの気持ち悪さは、まるでウソのように消え、『九尾』の視線は彗星の上に
まるでゲームの視線転換のように第三者的に。
そして可視光から、なにか別の波長で事物を見るかのごとく、あたりは薄黒い乳白色に透き通り、空間の歪みや気流、
オロオロしているうちに元・チューターからの
《『九尾』!ナニしてる。自慢の翼を――展開して見せろ!》
思考をコクピット内にもどし、首の後ろ、そして背中に意識を集中すると、彼は周囲の空間に自身の“認識力”を這わせた。
――見つけた。
事象面の
このヒビを手がかりにして機体を支えるのだ。
手順が“奉天”とは異なり、ちょっと勝手がくるう。
しかし、いまさら泣きごとを言っても仕方ない。
認識力を最大に、周囲の空間と自分とを同調させるよう、意識に力をこめて。
世界が自分と繋がって影響を与えるということは、その逆も可、という理論を最大限に推し進めた
機体周囲の空間にヒビがはいる――一本、また一本。
今度はそのヒビを、劈開面に沿い亀裂のように成長させてゆく。
リキみ……。
もがき……。
アセり……。
苦しみ……。
さんざん苦労して事象破砕をくりかえし、『九尾』は不完全で、そして
ケーブルの繰り出しは収まり、彗星は危なっかしくも自力で空間に占位をはじめる。
さらに翼を延ばそうとするが、彼がどんなにがんばっても――もうそれ以上はムリだった。かえって頭が痛くなり、視界がブレはじめる気配。
『九尾』は視線を再度転換させ、機体の上に立つ。
相互主観が可能となる雲海のなかで、初めて視る自分の翼。
巨大な強行偵察機を支えるには明らかに貧弱な三本の界面翼が、たよりなく周囲の空間に延びている。これが自分の“翼”かぁ、とガッカリ。
雲海深度一二○○。
事象震警報、なし。
ただし足もとはるか下で、奇妙な重力の歪みが数をふやしている気配。
――もしや……?
意識波でRSO席に通信。
――ワイヤー、
《待て待て待て……もしかして、これでオワリ?》
――いや、あの。こんなハズじゃないんですけど……テヘ。
《おいおいおい!もっとラジカルな事象破砕はできんのかァ?ンな調子じゃ六五○○○に届くころにァ日が暮れッちまうぞ?九○フルに使っても降下できるのはイイとこ二五○○○だ。まさかそれでオメオメ帰るんじゃあンまいな?恥さらしが!》
こっちも還元ダイブする!と通信で言いすて『ドラクル』は数分静かになる。やがておどろいた事に『九尾』が浮かぶ機体上面に、先輩候補生があらわれた。
いや“現れた”というのは少し違う。
視覚的には何も見えない。
しかしそこに確かに
表情も動きも、手に取るように分かる。
いまは腰に手を当て、まわりを
――いやァーまいったな!
通信を介さない、じかのような声。
これも音声ではない。意識が直接伝わるイメージだ。
――さすが西ノ宮のヘンタイ共。考えるコトがちがう。システムのアーキテクチャからして外道だ。なるほどR2モードから、西の候補生が還ってこないわけだ……。
彼もまた新型G・スーツの洗礼を受けたのだろう、いかにも
それはすぐに、ハロゲンヒーターめくウキウキとした躁的な
――さぁてイイか?『九尾』。俺が本物の“界面翼”ってヤツをみせてやる。とはいえ若輩、なかんずく候補生の「翼」なんざ、根拠のない自信に支えられた、純粋だが
『ドラクル』は、意識を肉体のあるコクピットの方にもどしたらしい。
稼働停止していた後席用ジェネレータの起動音。
“彗星Ⅱ”の機体が、うすく――うすく――白銀色に発光しはじめ、それが次第に強く――強く――まるで伝説の
音が金属的なほど高まるにつれ、二度、三度。
機体の周囲で空間震が起こり、『九尾』の視野がゆれた。
つづいて広大無辺な空間いっぱいに、青銅の大鐘を一撃するような、澄み渡った硬質の音が響いたかと思うと、機体の周囲に白銀の光り輝く割れ目が生じる。
身体さえつらぬく勢いの、透き通るような鐘の大聲が、もう一撃。
事象面に生じたヒビは、一気に彼方まで
これが幾度か繰り返されると、あらたに大きさの異なる六本の巨大な界面翼が機体から延び、強行偵察機の挙動は安定した。
――スゴい。
圧倒的な迫力に、ただ、ただ『九尾』は息をのむ。
視野に納まらないほどの規模を持つ、巨大な界面翼。見るからに界破性にすぐれ、どんな事象震にもビクともしそうにない勇姿。
でも、と彼はすぐに思い直して首をふった。
(
そこではじめて気がつく。お互い微妙に異なる六本の翼は、よくよく見れば、いずれもひび割れ、ささくれて、どこか
見棄てられた墓場のような……。
あるいは、
栄華を過去にした廃墟のような……。
荒涼。
悽愴。
怨情。
こういった概念を脳から抽出して、立体化させたとすれば、まさに。
不吉な威圧をともない視野いっぱいに迫る、ねじけた界面翼を呆然と見上げていると、背後からハァハァと肩で息をする気配がする。ふりむけば、機体の上で『ドラクル』が、よつんばいになり、苦しそうにあえいでいた。
――先輩!だいじょうぶですか!
――あぁ……なんてコトは……ない。
ほどなくG・スーツからの薬剤サポートで収まったか、ゆっくりと立ち上がると、
――くッそ。やはりブランクがあるとキツいぜ。候補生をハズされてだいぶ経つからな。
――それでもスゴいですよ、先輩。いえ、サー『ドラクル』。
――フン。おだてたって何も出んぞ。むかしは多重・翼面展開といってな、同時に……。
そこで先輩候補生は、頭上を覆う自分の界面翼をあおぎ見て絶句する。
しばらく凝固した後、やがてうめくような意識波で、
――これが、いまの俺か……これがオレの“翼”……。
――どうしました?サー。
答えはない。
だが、言葉の代わりに先輩候補生の心象が『九尾』の胸に流れ込んできた。細く冷たい鋼線で、胸をギリリと縛られるような、あの感覚。澄明な、ささくれた蒼い荘重さが、ヒタヒタと水のように押しよせる。
――堕ちたモンだぜ……“瑞雲の六枚刃”も。
金属的な、神経に障る音がどこかで始まった。
二人の“本体”が腕に巻く航界用腕時計のアラームが、そろって鳴り出したのだ。そのコール音は、本来ならば深度一○○○○を通過していなければならない頃合いを示していた。
タスクを果たそうとする義務感が心理的なショックに打ち克ったのか、龍ノ口は口調をあらため、それでもどこか
――さ、意識をコクピットへ。ワイヤーを、パージしてくれ……。
『九尾』は電磁ボルトを解放する。
母艦と繋がっていた
機体は
――『九尾』。見ての通り、オレの翼は不完全だ。急な乱流に対応できない。おまえの翼でフォローしてくれ。一応タンデム型だから翼圧干渉は考慮されてる――はずだが、気をつけろ?なんたッて、西側の機体だからな。
――不完全なんですか?あのスゴい翼が?
前傾姿勢のコクピットで、『九尾』は拘束されたような首をわずかに後席へ向け、
――規模も展開面も、超弩級だったじゃないですか。
ひとつ、長いため息をつくくらいの間。やがて、
――あの……ゆがんだ破砕面を見たろうが。ねじくれ、ヒビ割れて、
――……。
――なるほど、な。エースマンの言うとおり、オレは指導役失格だった。現にオマエと、こうして飛んでいるワケだから。事象の境界に
イミがつながらないブツ切りな意識と、ささくれた感情。
二人の間に沈黙がながれているうちに、雲海深度計は一○○○○を超えた。
ときおり、機体は何かに揺さぶられるように激しくふるえる。
自意識をしっかり持っていないと
『九尾』の胸のうちに不安がよぎる。ここで先輩がこわれたら、自分一人で“彗星”は手にあまる。雲海面への浮上も、おぼつかないだろう。タンデムの大型機体をソロで機動させるのは、かなりのコツと経験を必要とすると聞いていた。
――で、でもホラ、先輩?
刻々と減りつつある作戦時間と深度を見極めながら、
――ボクだって、この作戦に選ばれたからには、それなりの翼、持ってるって錬成校の上層部に認められていたハズですよ?それが、あんなイジケた、貧弱な、みすぼらしい、どっちつかずの三枚翼しか……。
自分で言って微妙にヘコむ彼だったが、このさい気にしてはいられない。
――つまり、です。それだけこの“四三型彗星”とやらが、異常なんですって。趣味の悪いゲシュタルト・スーツ。得体のしれない西側のアーキテクチャー。おまけに先輩――サー『ドラクル』だって、さっき言ったでしょ?候補生の翼はガラスの翼だって。
――……。
――なにより雲海の中ですよ?状況や条件がちがえば、創出する翼だって自然とちがってくるハズです!えぇ、そうですとも。おまけにブランクも長い――一発目からキめようなんて、ムシがよすぎゃしませんか!継続は力なり、努力に欠けるなかれ。教えてくれたのは、サー・ドラ……いえ、
話しているうちに、だんだん『九尾』は腹立たしくなり、おしまいの方は自分の指導役を叱るように、勢いにまかせて意識を飛ばす。反面、いがいにキレイにまとまったナと、心のどこかでまんざらでもない。
それに――どうやら効果はあったらしかった。
長い沈黙ののち、雲海深度が一五○○○を超えるころには、あのハロゲンヒーターめく暖かみがホンのすこし、後席からつたわって来た。
――ふ、フフフフフ……。
――先輩?
とうとうおかしくなったかと、『九尾』はヒヤリとする。だがすぐに、
――ヤレヤレ。たしかにチューター失格だ。ガキに諭されるたァ。だが――いい。
静かな満足の気配が、おおきく深呼吸するように。
――これで
――『黒刃紋』?ってダレです?
それには直接答えず龍ノ口は、
――オマエ……やっぱり航界士にむいてるよ。
――そうですか?ボク自身は、そうはおも――。
――もともと航界士になるヤツというのは、世俗との関わりがうすい。人並みのモノに興味をもたず、世間一般の価値観からほど遠いのがふつうだ。仲間もすくなく、ましてや親友などと呼べる者もおらず――モチロン、彼女も、いない。
さいごの方のニヤニヤ感に、はァ?『九尾』は思わずムッとして、
――ボクだって捨てたものじゃないんですケド!?ザ~ンネンでした!来年は、探査院の舞踏会にだって、デビューするんですから。
――なんだ。カマかけたんだが、やっぱいないのか?一部の候補生のウワサじゃ、王宮勤めのスゴい
どこで聞いたんです!?と聞こうとして彼は危うくおもいとどまる。
ヘタに詮索したら鋭い嗅覚で突っ込まれかねない。ただでさえ意識が丸裸なのだ。しかし、考えないようにすればするほど、あのガラスの破片のような宮廷中尉を、あのヒトを寄せ付けない美しさ、あの高飛車なふるまいが脳裏にうかんでくる。彼は心ひそかに、そして
――あぁ、神様。どうか彼女が無事でありますように……。
すると案の定、
――ほう、精神波がゆらぐな。してみると、やっぱり居るのか……王宮勤務?
――アレは職務上のつきあいです!僕の好みは、たとえばサラ、いえサー『モルフォ』のような、やさしい……。
――やさしい?アレがか?
後席で爆笑する気配。その陽性のおかげで、界面翼の界破性がさらに高まったのか、乱気流じみた事象震に包まれていた“彗星”の挙動がスッ、とスタビライザーが効いたかのように収まった。
――そうか。オマエ
『九尾』の胸のうちに、大聖堂でのひめやかな光景が去来する。それを機に、二人の間にはふたたび沈黙がおとずれた。
ハデな空震と雷鳴。機体は驚くほど長い間、紫色に染められる。
気のせいか、『九尾』はそこに黒衣をまとった老人の姿を見たような。
(フロイト?)
――『九尾』。深度が三○○○○を超える。事象面の存在係数を、第二密度へ変換。
――諒解、存在係数変換……終了しました!
――翼の展開が、いよいよツラくなるぞ。自己認識の保持!しっかりしろ。
――大丈夫ですよ。“彗星Ⅱ”の界破システムがオートで翼面補強します。
――ダメだ!雲海の中では自分の直感以外、信じるな!手動でやれ。いますぐ!
――ちぇ……諒解。第二密度へ、三、二、一……ナウ!変換完りょ、ウワッ!
ズシン、と一度ショックがあって、機体が高インパクトの揺れを受けた。
物理法則が微妙に変わる境界面を“彗星Ⅱ”は本機の予測より早く突破したのだ。
――そんな!
――アブなかったな。数秒の差で最悪、翼もがれるトコだったぞ。
後席のハロゲンヒーターめく陽気さが一気に放出され、さらに強まる。ふくみ笑い気味の、満足げな心象すら伝わってきた。
「オレの直感、まだまだ捨てたものではない」という心象。
(このひと、危険を
『九尾』は心密かにゾッとする。
次の一○○○○mは互いに言葉を交わすことなく過ぎた。
界面翼の維持に忙しかったのもあるが、二人の間に生じた奇妙なみぞが、さらに深まったためのようにも『九尾』には思える。
雷球と空震が満ちるエリアを降下し、
見たことのないフロイトの群れにまとわりつかれ、
変わったかたちのオーロラが吹きつけてきた。
沈降速度はジェネレータを目一杯にしてもガクンと落ち、機体の挙動も不安定になる。それは、まるで大深度世界が“彗星Ⅱ”搭乗員たちを拒み、警告を与えるかにも思えた。
――『九尾』。深度四五八○○通過。前回の記録では、ココいらで形式未分類の耀腕と、一次接触してる。駆動幽子がモッタイないが翼可変はアクティブを保持。重力歪面探査レンジを最大に。
心拍と体温が下がり、仮死状態ギリギリに。
肉体との絆を薄めた意識が、さらに明瞭に、澄明になってゆく。
この感覚、と『九尾』は心ひそかに慄然とする。
あの作戦で、西の候補生が昇天してゆくのを見送ったときの印象に、すこし近い。
そして雲海深度・五五○○○を超えたあたりで、それは訪れた。
事象面歪率レーダーが警報を発し、“彗星Ⅱ”の搭乗員たちは緊張する。
『九尾』の背中が熱くなるほどに、後席から狂躁じみた意識が伝わって。
――さぁて!それじゃいっちょ
――先輩……なんだか生き生きしてますね。
――そりゃそうさ。見ろ、敵サンのお出迎えだ。
前方に、ひときわ大きい重力源。
いくら意識をこらしても、真っ暗な穴としか分からない場所。
そこから
――
ヒッ、と『九尾』の体が緊張する。
すこし失禁したのか、前と後ろのプラグが拡張反応。
――オーケー、来やがったな?
解析システム起動。全方位記録開始。
三号
――攻撃するんですか?回避・上昇しましょうよォ!
――彗星の
ふいにその陽気な気配を冷たい刀身のように研ぎ澄ませた『ドラクル』は、
――ポン!こっちは火器管制で忙しい。オレの翼はまかせた(便利だなァ西の技術は)耀腕の群れに、ギッチリ寄せてくれ。
――こう、ですか?
――こうだ、よッ!
機体が、暴力的な挙動で増速し、急降下の姿勢に入る。