※この作品はR-18です。

玲瓏の翼【18禁版】   作:珍歩意地郎_四五四五

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074:『九尾』の決断のこと、ならびに異世界への憧れのこ

 

 

  それは、ゆるやかな悪夢だった。

 

 燐光に充ちる広大無辺の空間で、永遠に喪われてゆく上級生の意識。

 破損した機体の上に腕を組んで仁王立ちとなり、徐々に遠ざかってゆく……自分はそれを目前で見ながら、どうすることも出来ない。

 

――先輩!サー『ドラクル』!あの女(ヒト)は、サラ……モルフォ先輩は、どうするんです!?

 

 (ニヤリ)と、もはや手の届かない『ドラクル』が笑うのが分かった。

 

 ――お前からよろしく言ってくれ……気をつけろ?あのジャジャ女、やたらケリ入れてくるぞ。顔面のガードは、しっかりな。

 ――そんな!自分で言うべきでしょ!

 ――お前もそのうち、身を張って後輩を助けるときが来るかもしれん……その覚悟はしておけ!

 

 さらに巨大な力が、分離したコクピット・ブロックをつかんだ。

 そして握りこぶしをあげた『ドラクル』の姿を、あっというまに彼の視界から拉(らっ)し去る。

 薄明かりの世界からはじき飛ばされ、貧弱な翼をフラフラと展開していたコクピット・ブロックは、無明(むみょう)の闇に放り出された。

 

 ……いや違う。

 

 物理メーターが息を吹き返していた。

 電力が、駆動粒子が、みるみる減ってゆく。

 重力加速度。ヌルでは感じられなかった“実存”。

 フラッターのような微振動と共に、上に引っ張られるような上昇感。

 雲海深度五○○○……四○○○……。

 

 息を吹き返した対気計の針が、ジリジリと上がってゆく。

 ひび割れたコクピットから、大気が吹き込んでくるのが感じられる。

三○○○……ニ五○○……二○○○……。

あたりがうっすらと明るくなって行く。

 エネルギーが心もとない。ジェネレーターが、生きていたら!

 一五○○……一○○○……。

 周囲は、死の世界になじんだ目にとっては白く輝く空間。

 

 五○○……ゼロ!

 

 陽光のまぶしさに一瞬、『九尾』は目を細める。

 頭上には、どこまでも広がる、輝きをともなった蒼色の空……じゃない!

 

 高度計が反転、ダダ落ちしてゆく。

 上昇してるんじゃない、ア(・)タ(・)マ(・)か(・)ら(・)墜(・)ち(・)て(・)い(・)る(・)ん(・)だ(・)!

 

 “認識”を逆転させ、重力を探る。

 界面翼の形状が変化するのを全身で悟った。背面落下から機体を立て直すと、エネルギーがゴソッと減る。足下にひろがる蒼い大地と思ったもの。とおくに浮かぶヨットを見て、本能的に彼は察した。

 

 ――うみだ!まちがいない……これが海……。

 

 メーターパネルが警告音(アラート)とともに次々死んでゆく。

 生き残った計器で、彼は飛行可能な残り時間を素早く演算。あと五分も保たない。

 まわりに陸は見えなかった。

 頼みは、あの大きなヨットだけだ。

 

 着水というのは不時着より難しいと聞くが、本当だろうかと『九尾』は頭をフル回転させつつ機体を操り、針路をヨットへ。

 と――目標の船から閃光が瞬いた。

 時間差をおき、曳光弾が機体をかすめる。

 

 ――武装してる!

 

 よくみれば、あれはヨットじゃない。小型タンカー級の船に帆を装備してる省エネ船!

 『ドラクル』から言われた注意をおもいだす。

 天罰てきめんだ、と自分のうかつさを罵(ののし)りつつ、緊急信号弾、射出。

 二度目の曳光弾幕と『九尾』が射ち出した事象面共通の救難信号弾が交錯する。

 

 攻撃が、熄(や)んだ。

 

 貴重な残り時間で、『九尾』は印象より大きな船のまわりをグルッと一周する。銃座にとりついていた人間が、おおげさに肩をすくめてみせた。船内からワラワラと、乗組員が出てくるのも見える。どうやら民間船でもないらしい。練度のたかい動きで船から内火艇が下ろされるのがチラッと横目に。

 

 時間がない。

 

 彼は覚悟を決めて高度を下げる。

 リダクション・モードを素早く解いて意識を身体にもどし、脱出しなくては。

 マニュアルで「着水モード」を見たおぼえはなかった。多分、このユニットはコンクリート・ブロックのように沈むだろう。それまでに間に合うだろうか。

 肉体を操作して、操縦桿の下にあるスロットから『ドラクル』の遺品であるメモリーを引き抜き、G・スーツの隠しポケットへ。

 

 対気速度をギリギリまで落とす。

 横目に、併走する内火艇の水しぶき。

 耀やく蒼いうねりが足下を奔り、やがて機体は力つきたように、着水。

 

 とたん激しい衝撃とともに、コクピットはもんどり打ち、ハデに水柱を上げながら前転、二度、三度、宙を舞った。

 そこで『九尾』の記憶は途切れる……。

 

 

                 * * *

 

 

 控えの間に、ノックの音が二度、三度。あいだを空け、重々しく。

 

 颯(さっ)、と候補生たちは緊張する。

 それは完全な不意打ちだった。そんな!という怯え。そして恐怖。

 ライフルを抱えた護衛をともなって現れたのは、先ほどの三十がらみの女官だ。

 

「黎明(れいめい)学園付属・幼年校、候補生『若梅(わかうめ)』――“御礼拝(ごれいはい)”の、お時間です!」

 

 きた!……嗚呼、ついに!

 控えの間の候補生たちはサッと緊張。

 全員が、次の犠牲者である幼い候補生を見る。

 

 まるで生まれたての子鹿のように、注目を浴びた年少の候補生は椅子から立ち上がろうとするが、足もとが定まらない。

 青ざめたほお。

 引き結ばれたくちびる。

 それでも所属する錬成校の名誉を汚すまいとするのか、背もたれにかけてあった制帽を震える手で目深に被りなおす。その姿に周囲の少年たちは黯然と心中うなだれて。

 

 反対に宮廷女官は、そんな彼等の姿を冷笑しつつ見やりながら、

 

 「おやおや、こたびの候補生殿はずいぶんとお稚(わか)いこと。小官は殿下のお言葉として『御前試演は、あとひとたびにて打ち切りとする』とお伝えしたはず。ど(・)な(・)た(・)が(・)出(・)て(・)も(・)、構いませんのよ?」

 

 宮廷女官の言葉に、候補生たちは恥をふくんだ視線をオドオドと交わした。

 

 部屋の大型モニターには、あいかわらずの荒天を背景に、耀腕が次の獲物をもとめ彷徨(さまよ)っていた。こころなしか耀腕の動きが、おなじ動作を執拗(しつよう)に繰りかえすようにもみえる。それだけ生け贄に飢えているのか。

気まずい沈黙の中、ギクシャクと候補生『梅若』は女官のまえに進み出た。

 

 こんなお稚(わか)い殿方を先にイかせるなんて――と、この宮廷女官は今は露骨に嘲(あざけ)りを込め、

 

「年長の候補生さまが大勢おいでになりながら、ねぇ……」

 

 

 

 

 

 『ほんとうに――誰でもいいんだな?』

 

 

 

 

 

 そのとき、広間の片隅で、そんな言葉が発せられた。

 ギクリ、と女官はメガネの奥をほそめ、声の方をうかがう。

 『九尾』はその視線をにらみ返しつつ、悠然(ゆうぜん)と立ちあがった。

 

 

 

 

 「――オ(・)レ(・)が、出よう」

 

 

 

 

 満身に注目を浴びながら、威風堂々(いふうどうどう)、彼は前に歩み出ると『若梅』の横に立った。

 女官の狼狽(ろうばい)が本格的なものになる。

 アウアウと視線と口もとを動かしてから、

 

「いえ――その。やはり、順番というモノは大事にしませんと、ねぇ……?」

「どうした。さっきと言っているコトが違うではないか?」

 

 『九尾』は自分が、まるであ(・)の(・)先(・)輩(・)のような口ぶりになってるなと思いつつ、

 「あと一人。ならばこの子の代わりに、オ(・)レ(・)が出撃(で)る。それで何の不都合もあるまい」

 

 居ならぶ候補生はポカンとして声もない。

 

 それは『若梅』も同じだった。まるで女の子のような柔らかい顔に、赤く充血した目をまん丸に見ひらいて、突如登場した救い主を、声もなく見上げている。

 

「さ――案内してもらおうか」

「ちょ、ちょっとお待ち下さい、貴官(あなた)。いま……上官に確認して参ります」

 

 そういうや、武装した護衛を引き連れ、あたふたと控の間を出て行った。

 へ!ザマぁ。と、これは『二番星』。

 

「あいつ、絶対“嫁(い)きおくれ”の僻(ひが)みババァだぜ――ねェ?『九尾』サ(・)ン(・)」

 

 フッと皮肉な笑みを浮かべる彼を、相変わらず幼い瞳が驚嘆(ビックリ)して見上げながら、

 

「あの……あの……なんて言っていいか、その……」

「オマエにゃ、まだ無理だよ」

 

 『九尾』は『若梅』の言葉を中途でさえぎった。

 

「知ってるか?ボウズ。耀腕に食われたら、その耀腕の奴隷になるんだぜ……」

 

 まるで理解できないように、ベリーショートのクセっ毛が首を傾げた。

 サラサラな髪をワシワシとなでつつ『九尾』は、

 

「それに、オレは耀腕にちょいとばかり貸しがある。そしてなにより――借りもな?」

 

 手を腰にあて、彼は蒼い顔がならぶ広間を見まわした。

 この意味を分かるものは居まい、と尊大に胸をそらせ、複雑で微妙な少年たちの視線をば傲岸(ごうがん)にはね返す。やがて『九尾』は元の椅子にもどると、声もなく居ならぶ面々に背を向け、いまは胸がせいせいしたような顔つきで背もたれを倒すと、満足げに目を閉じた……。

 

 

                * * *

 

 

 彼の着水を救ったのは、インド洋事象面を遊弋(ゆうよく)するモルディブ海軍のQシップだった。

 資源の密輸や、海賊行為を取り締まるのが任務である彼らの全方位レーダーに、まったく突然、機体の輝点(ブリップ)が出現したので、風貌がポパイの悪役まんまなヒゲ面艦長は、相当あせったらしい。

 

「自動近接・対空兵器を使わんで良かったよ」

 

パイプをくわえる口に黄色い歯を見せつけながら、若いころ、武官として日本事象面に駐在したというこの中年男は、病室の『九尾』にニヤついたものだった。

 

 省エネ船が“軍艦”だったのも幸いした。

 熟練のガンナーが、空中でとんぼ返りをうち、すぐさま沈みかかるコクピット・ユニットに、捕鯨砲じみた拿捕用の装備で銛ロープを打ち込み、水没から救ったのである。

 機敏に活動する命知らずの潜水要員。

 最新式の医療設備とスタッフ。

 わざとボロ服をまとう、気さくな船員たちの喋る言葉は分からなかったが、身ぶり手ぶりで十分通じ、それがかえって心を通わせるようだった。

 

 そして、『九尾』がベッドをはなれ、船にも慣れはじめたころ、甲板を半割りの椰子(ヤシ)の実で磨いていた彼の背に、高速巡界艦“南十字星”は、その巨大な陰影(かげ)を落としたのである。

 

 機体の引き渡しについては外交上のちょっとしたモメごとがあったらしい。後にそれは緊急ユニットに残された偵察記録ポッドを日本事象面に持ち帰らせないための、探査院に所属する一派閥が仕掛けた欺瞞(ぎまん)工作の一部であったことが知れた。

 

 着水から二週間後。

 『九尾』は“南十字星”と共に、ひっそりと日本に送還された。

 

 おどろいた事に、機内時間でほんの二、三時間のはずが、現実世界では三ヶ月がたっていた。桜の芽がポツポツ目立ちはじめる光景の中、彼は探査院に缶詰にされ、膨大な数の航界報告書を書かされる。

 

 そして――締めくくりには、尋問めいた取り調べが待っていた。

 

「もう一度訊くぞ?――オレは根が優しいモンでな」

 

 空調のない、密閉された部屋は蒸し熱かった。

 おまけに尋問者のワキ臭がひどい。

 恫喝され、殴られ、床に倒れたところを踏みつけにされる。

 

 壁ぎわでは痩せた長身の男が、われ関せずと言った風でパイプをくゆらして、鉄格子のはまった窓の外を見ていた。削げたようなほお。口ひげ。灰色の瞳に倍加される冷たい視線が、ときおり小太りと『九尾』に、均等なぐあいで向けられる。尋問者は、ネクタイをさらにゆるめると、ワイシャツの袖をまくりあげ、

 

「おまえが、操縦桿下から、抜いた、メモリだ。アレは……どこにある?」

「――知りませんよ、そんなの」

 

 バン!と机が叩かれる。

 卓上の灰皿がおどり、葉巻の吸い殻がこぼれた。首根っこをつかまれた『九尾』の体が、入れ墨の入った太い腕で軽々と引き起こされ、椅子に投げつけられる。

 

「コクピット内カメラは――オマエが抜いているトコを映してンだよ!」

「なにかの間違いじゃ……ないですか?」

 

 『九尾』は、あくまでシラをきり通すつもりでいた。

 先輩候補生の、サー『ドラクル』の遺志(バトン)を、こんな連中に渡したくはない。

 理由のみえない尋問を繰り返されるたび、その決意は強固なモノになってゆく。

 

「着水に失敗したボクは、気づいたら船の中でした……」

「モルディブ海軍の偽装艦(Q・シップ)“ムハンマド”にも問い合わせたが……」

 

 窓際でスカした風に長い柄のパイプを吸っていた長身が、吸い口からくちびるをはなし、柄を『九尾』のほうに向け、うすく微笑して、

 

「なんて言ったと思う?――『クソくらえ』だと。公(・)電(・)で(・)だ(・)ぞ(・)?『クソくらえ』ときた。どうやらあの艦には、キミのファンが大勢いるらしい。ほんの数週間でアイドル状態だったらしいじゃないか?キミは。あ(・)の(・)店(・)での経験を、生かしたのかね?んン?さぞかし夜は――忙しかったろう。順番待ちの列が目に浮かぶよ」

 

 葉巻の男がイライラと、

 

「監査官どの。なんども言いますが十五分ばかりチョイと席外してもらえませんかねぇ……そうすりゃ、イッキにコイツをゲロさせるんスが」

 

「……十五分、で済むのか?」

 

 窓ぎわの男は、パイプをくわえようとした動作をやめて、目尻にシワを乗せ面白そうに、

 

「どんだけ早漏なんだ、オマエは……さんざん言われたろ?」

 

 黄燐マッチをする、ささくれた音。

 火薬臭いニオイが部屋にながれ、燃えかすが尾を引いて床に投げ捨てられる。

 窓際から身を引き剥がすようにして、この男は中央までもどるや、こんどは長い吸い口を、小太りの男の方にグイと向け、

 

「顔にキズをつけるな。

     精神に負荷をかけるな。

         後遺症がのこるケガをさせるな……」

 

 ――それに、と長身の男は続け、

 

「あ(・)の(・)『(・)成(・)美(・)』(・)を(・)強姦したことが知れてみろ……数日後には、文字どおり生きたまま挽肉(ミンチ)にされて、貴様はブタの餌だ」

 

 そういうや、目にもとまらぬ身のこなしで、フックを『九尾』の胴に叩き込んだ。

 

「顔はヤめな、ボディ、ボディ」

 

 なみだ目で床に崩れる彼のななめな視界に、男が煙をゆるやかに吐きながら、ふたたび窓の定位置にもどってゆくのが見えた。

 

 吐き気がひとしきり胃のなかを暴れる。

 いきなり暴力をふるわれたことのおどろき。

 だがそれよりショックなのは、自分が『成美』であることが、この物騒な大人たちにバレているということだった。

 

 ひくい視線で見た、掃除のとどかぬ場所のほこりと、葉巻の吸いガラ。頬に感じる床の冷たさ。

 弱電圧にしたスタンガンを手に、探査院から派遣された小太りの係官はズボンの前をふくらませながら粘液質な笑みをうかべ、『九尾』を見下ろしてきた。

 

「だいたい『身体検査もするな』ってなぁオカしかないスかぃ……ホラ小僧、おきろ!」

 

 邪険に引き起こされ、固定された椅子に、またも投げつけられる。

 激痛が背骨と肺にはしり、『九尾』はひとしきり咳きこんだ。そんな彼の苦痛をよそに、この長身の男はパイプから口を放し、

 

「わたしが聞きたいのは――だね」

 

 格子のはまった窓際の定位置から彼の方を向き、

 

「キミ、雲海降下作戦のまえに、女の子と付き合ってたろ?」

 

 ――ミラ!

 

 表情を悟られないように、あわてて彼はうつ向く。

 

「その娘(コ)の名前を知りたい。あるいは――どこの所属だったか」

 

 彼は、ボウッとする頭のおよぶ限りの速さで考える。

 宮廷中尉は生きているんだろうか……それとも、もう始末された?

 そしてあの銃撃戦は、まだ尾を引いていて、組織間の抗争となっているのだろうか。

 

 葉巻の男が『九尾』の髪をつかんで顔を持ち上げ、

 

「聞かれてんだろ?オラッ!」

「知りませんよ……ボクは」

 

 こいつ!と男が驚いたような笑顔で窓ぎわの長身をふりむき、

 

「いっちょうまえにトボける気ですぜ?」

「あぁ……たいしたもんだ」

 

 いきなり入れ墨の男は『九尾』を憎しみのこもった腕力で壁に叩きつけると、置いてあったカバンの中からゴム製の警棒をとりだした。

 

「これなら、そのキレイな体にキズもつけねぇってモンだ」

「もう一度きくぞ?キミが会っていた女の子の名前だ……」

 

 ジリジリとした沈黙。

 

「ようし、上等だ。ンならその“安産型”にされた可愛いメス尻に聞くまでよ!」

「気を付けたまえよ?その男の下半身は、少女だろうが少年だろうが見境いなしだからな……?」

 

 そして、尋問――尋問。

 電流。低周波ノイズ。物理的な殴打。

 

 二時間後。

 

 外に警備のついた窓のない小部屋。

 その日の取り調べをおえた彼は、引きずられ、投げ込まれた床からユルユル上半身を起こすと、熱を持つ背中と尻とを気にしつつ、作りつけのベッドにうつ伏せの姿勢でゆっくりと倒れ、唇をゆがめて眼を閉じる。

 

 ――クソが……。

 

 たおれた拍子に側頭部をぶつけたせいで、心臓の鼓動にあわせてこめかみがズキズキと痛んだ。嘔吐したときの喉奥のヒリつきも、あわせて。なによりゴム警棒で痛めつけられた尻が燃えるように熱をもち、それが憎しみと、この事象面への嫌悪感をズンズンふくらませていく。

 

 『モルディブ海軍の偽装艦“ムハンマド”にも問い合わせたが――』

 

 頭の中に、壁ぎわでパイプを吸っていた男の言葉が正確によみがえる。すると、まぶたのうらには、すこし前までいたインド洋の広がりが浮かんだ。ホンの短い間だったが、大洋の煌(キラ)めきと船での生活が、みょうに懐かしく思える。

 

 強烈な陽光。

 生臭い潮風と巨大な魚。

 海、というデカい水たまりの塩辛さ。

 荒くれどもの喧嘩と痛飲。あけっぱなしの笑い声。

 陽射しにペンキの灼ける臭いと、エンジン音のする薄くらがり。

 緩やかなピッチングにバランスをとりつつ、あちこちへの使い走り。用具の手入れ。

 

 Qシップを“南十字星”で離れる日。南十字星の一等航界士に促され、それまで着ていたボロボロのトレーナーとカーゴ・パンツ姿から航界士候補生・夏期礼装に着替えて艦長に挨拶に行った。その時の相手の顔が、彼は今だに忘れられない。

 

 「なんだヨ……急にエラくなっちまって……」

 

 オロオロとヒゲ面男は視線をブリッジにさまよわせ、陽光に赤黒くやけ、潮風がふかく刻んだシワの奔る顔を、首からさげた汚いタオルでやたらとなでまわした。パリッとした一級候補生の制服姿となった『九尾』も、かえって居心地の悪さを感じてしまう。

 

 オレたちのこと、忘れンなよ?と言われた時、彼の方もあやうく涙が流れそうになった。それはヒゲ面艦長も同じだったらしい。敬礼を交わした後は背中を向け、ブリッジを退室するときも、決してふり返ろうとはしなかった……。

 

ベッドで痛む身体をごまかしながら、『九尾』は身体をうごかし、靴下の中に隠したメモリーが肌に当たる痒(かゆ)みを、さりげなく掻く。

 

 ――べつの世界……か。

 

 うすく目をひらき、視線だけで独房を見まわす。

 日本事象面に帰ってきてから、すべてが窮屈だった。

 尋問が本格化する前に、一度だけ、もと居た寮の部屋に私物を回収するため監視つきで帰ったが、その時のせまさにも彼自身、おどろいたものだった。

 

 ――あんな、モルモットのカゴみたいなとこに寝起きしてたとは、ねぇ……。

 

 先人が遺した、いくつもの引っ掻き傷があるコンクリート打ちっ放しな壁をながめる。

 この前の落書きは見当たらない。灰色一色の、無味乾燥とした光景。

 すると、彼は南十字星から宮廷専用のタワーに降り立った後、白バイに先導されるリムジンの車窓からみた曇り空の街を思い出す。

 

 横断歩道の信号待ちにならぶ無表情な顔。

 統合管理され、整然と動く浮上車や装輪車。リニアトラム。

 磨かれたウィンドウやオープン・テラス、バルコン。無機質な輝きを放つ建材。

 

 ――そうか……この事象面(くに)には、色彩(いろ)が無いんだな。

 

 季節が冬の終わりと言うだけでなく「生の躍動(エラン・ヴィタル)」というものが、ここでは見事と言っていいほど、まったく感じられない。

 

 殺菌され、画一化され、効率化され、規則化された世界。

 懐柔され、去勢され、従順化され、盲目化された群衆――そんな印象。

 

 対して、はじめて見た外の世界の広さ。

 

 野卑な怒鳴りあいと、笑い声。

 眩しいランプの下、手づかみな食事の感触。

 眩暈(めまい)さえよぶような、鮮烈な陽光。

 鋼鉄の船が波を蹴立てて進むときの大きなうねり。

 腹に響くディーゼル機関の鼓動。

 

 モルディブのような海洋型事象面の終端はなく、一方に向かうと、いつの間にか元の所にもどってくると、『九尾』は説明を受けていた。

 

 ――ほかにも、いろいろ変わった事象面があるに違いない。だとしたら……。

 

『九尾』は、ジッとコンクリートの壁を睨んだ。

 

 空に浮かぶ巨大な衛星。

 吹き渡る風。見たこともない形状の山々。

 たてがみを揺らす、二角獣の白馬たち……。

 

 まだ見ぬ世界に対する、渇きにも似たあこがれ。

 

 それがいつのまにか自分の胸にやどり、強固に根付いているのに気づかされた彼は、ある言葉を自然と脳裏に“あの時の声のまま”想い浮かべている。

 

 

 『基本機動すら満足にできない初心者が、これから私を追いぬき、知らない世界の扉を敲きに行くのを、わたしは指をくわえ――空を見上げてなくてはならない。そんな惨めなザマは、イヤさ』

 

 

――あぁ、龍ノ口センパイ。サー・『ドラクル』。

 

 『九尾』は両手で髪をつかみ、うつむいて煩悶する。

 

 「あなたが言ってたのは――このことですか?」

 

 いまとなっては答えを得るべくもない、そんな想いが途方もない胸苦しさとともに心の内を幾度も濤(なみ)立たせ、いつまでも鎮(しず)まることがなかった。

 

 

 

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