日常の隣で
校門を出てすぐの交差点の左手に、学校の敷地の4倍くらいの森がある。
学校からはもちろん、通学路からも見えるのだが、久美子はその森を意識したことがなかった。
ただの木々の生い茂る空間で、一生踏み込むことのないはずの場所だった。
そこに、枝葉をかき分けながら、麗奈と二人で歩いているこの状況はなんなのだろう。
久美子は、ただ静かに「埋められる」と思った。
部活の後、実に久しぶりに麗奈が話しかけてきて、二人で一緒に帰ろうと言い出した。
断る理由もなかったのでOKすると、学校を出るや否やいきなり久美子の手を引いて、この森の中に足を踏み入れたのだ。
スカートの裾を引っ掛けないよう気を付けながら、久美子は麗奈の背中に話しかけた。
「ねえ、高坂さん、どこに行くの?」
「別に……」
聞こえないくらい小さくそう呟いてから、麗奈は一度足を止めた。
そして久美子を振り返り、珍しく明るい笑顔を見せる。
「不思議ね。学校からこんなに近くなのに、たった数メートル違う場所を歩くだけで、日常からこんなにも遠ざかれるなんて」
何が楽しいのか、久美子にはわからない。
ただ、笑った麗奈が完璧なまでに綺麗で、ドキドキした。殺されることはなさそうだ。
久美子が何も言わなかったからか、麗奈が小首を傾げた。そんな仕草も可愛らしい。
「久美子は、こういうのは嫌い?」
一瞬の違和感。すぐに、麗奈に名前を呼ばれたと気が付いた。
何かを言う前に、麗奈が言葉を続ける。
「ねえ、二人の時は久美子って呼んでもいい?」
「い、いいけど……」
「じゃあ、久美子も私のこと、麗奈って呼んで。二人の時は」
そう言って笑ってから、麗奈は久美子の手を取った。
木々は鬱蒼としているが、歩けないほどでもない。
麗奈はどこへ行くつもりなのだろう。そういえばこの森の中に、どこかの山荘のお庭があった気がする。そこへ出ようとしているのか。
いや、きっとこうして日頃は絶対にしないことをするのが目的で、行き先はどこでもいいのだろう。
ただ、どうして自分と?
手を引かれるまま、さらさら揺れる艶のある黒髪を見つめて歩いていると、不意に麗奈が足を止めた。
少し開けた空間。通学路からの声も音もなく、辺りは静寂に包まれている。
木々の他には何も見えない。頭上の青空は薄暗く、西は赤い。
このまま夜になってしまったら、果たしてこの森から出られるのだろうか。そんなことを考えて、久美子は少し怖くなった。
そんな久美子の不安などお構いなしに、麗奈は久美子と向かい合って立ち、そっと久美子の頬に触れた。
「世界に、私と貴女の二人だけになった気分ね」
そう言って笑った麗奈の瞳が、凍りつくほど冷たくて、久美子はゾッとした。
何か喋らなくてはいけない。
頬と顎を包み込む麗奈の指の感触にドキドキしながら、久美子は視線を落とした。
「麗奈は……どうして北宇治に入ったの?」
「どうして? 嫌だった?」
麗奈が久美子の頬から手を離し、怪訝な顔をする。
適当に切り出した話題だったが、いささかヘビーだったかもしれない。久美子は慌てて言い繕った。
「ぜ、全然そういうのじゃなくて! ただ、立華から推薦もらったって、梓から聞いて。ほら、吹奏楽やるなら、うちより全然いいじゃん、立華」
麗奈は真っ直ぐ久美子を見つめている。
久美子は恥ずかしくなって視線を逸らせた。
「久美子がいたから」
はっきりと、麗奈が答えた。
「……えっ?」
一瞬意味がわからず、驚いて顔を上げると、麗奈は真顔で久美子を見つめていた。
本気なのか冗談なのか、まるでわからない。意味もわからない。
中学時代、最後に言葉を交わしたのはあの会話だったし、友達と呼べるほど親しくもなかった。
入学した後に、貴重な同じ中学校の仲間として久美子を意識するならわからなくもないが、受験の時点で麗奈が久美子を気にしていたとは考えにくい。
「それは、その……笑うところ?」
困ったようにあははと乾いた笑みを浮かべてみたが、麗奈は真剣な表情を崩さなかった。
一見ロマンチックにも取れる言葉だが、まったく違う意味なのかもしれない。
久美子の心に緊張が走った。
麗奈が微かに表情を緩める。
「久美子は、高校でもすぐに友達が出来て、楽しそうね」
語調は柔らかいのに、眼差しはまるで射抜くようだ。
その瞳の鋭さに気圧されて、久美子は一歩後ずさりして俯いた。
「麗奈も作ればいいじゃない。私には、わざと一人でいるように見えるけど」
言ってから、言いすぎたと反省する。事を荒立てるのが嫌いなくせに、つい余計なことを言ってしまう。
「別に要らないわ。本音も言えない、上辺だけの友達なんて」
つっけんどんに麗奈。売り言葉に買い言葉だろうか。
葉月と緑輝のことを言われた気がして、久美子はムッとなった。
勢いで顔を上げると、麗奈は澄ました顔で立っていた。
二人を擁護しようとして、すぐに考え直す。
麗奈は二人のことを言ったのではない。誰に対しても本音を見せない、黄前久美子という人間に対して言ったのだ。
今の麗奈の言葉で二人の顔が浮かんだのは、自分が少なからずあの二人と、上辺だけで付き合っているからだ。
大切な友達だけれど、久美子はあまり本音を語らない。ただそれは、別にあの二人に限った話でもない。
「友達なんて、一人いればそれで十分。私はもう、誰も信じたくない……」
麗奈がため息混じりにそう言った。
久美子が何も言えないでいると、しばらくの沈黙の後、麗奈が懐かしむように口を開いた。
「中学時代は楽しかった。同じ目標に向かって、みんなで一緒になって頑張って。確かに、あんまりみんなと喋ったりはしなかったけど、同じ空間で同じことに励んで、仲間意識はちゃんと持っていたのよ?」
綺麗な笑顔に弾んだ声。久美子はぽかんとなった。
久美子には、中学時代、麗奈が楽しんでいるようには見えなかった。
もちろん、音楽は好きだったと思う。しかし、友達や吹奏楽部の仲間と一緒にいることに、麗奈はひどく消極的だった。
「意外って顔してるわね。悔しい思いもしたし、結果は残念だったけど、楽しかったのは本当。あの日の、あの瞬間までは」
「あの日って、最後のコンクール?」
「そうよ。みんながダメ金で喜んでる中、一人で悔しがっていた私に、とどめを刺すみたいに現実を突き付けてきた子がいてね」
少し斜めに首を傾け、バカにしたような、挑発的な眼差しで久美子を見上げる。
──本気で全国行けると思ってたの?
脳裏に焼き付いて離れない言葉。
「あれは、本当に、ごめんなさい」
ずっと言えなかった言葉が、自然に口をついて出た。
今日麗奈が自分を呼んだ理由。それが、あの一件に決着をつけるためなのは、もはや明白だった。
偶然この話題に行き着いたのではない。麗奈が意図的に導いたのだ。
同時に、麗奈も久美子と同じように、あの一言を引きずっているのがわかった。
本心ではそんなにも自分が悪いとは思っていないけれど、それで場が丸く収まるのなら、プライドなど捨てて謝ろう。
黄前久美子はそういう人間だ。
「ごめんなさい」
もう一度、先ほどよりもしっかりと謝って、頭を下げる。
もやもやした気持ちがないでもないが、それよりもほっとした気持ちの方が大きい。
これでようやく、あの日のあの瞬間にピリオドが打てる。
内心で安堵の息を吐いた久美子に、しかし麗奈は、今の謝罪など聞こえなかったように続けた。
「別にね、いいの。みんなが、本当は全国なんて目指してなかったって。ただ、あの一体感は私が勝手に感じていただけで、そんなものはなかった。一人で仲間意識を持っていただけだって、はっきりそう言われて、私の楽しかった中学生活は全部消えてしまった」
気持ちの昂りを抑えるように、麗奈が淡々と吐露する。
「そ、そんな……」
大袈裟な、と言おうとして、うっすらと笑ったのが癇に障ったのか、麗奈が一歩詰め寄って大きな声を出した。
「それを、今のごめんなさいで、許されたつもりなの!? そんな自己満足な謝罪なんて要らないわ!」
「麗奈……」
「すごく大切な、もう二度と戻らない中学生活が、吹奏楽に打ち込んできた日々が、あの一言で全部否定されたのよ? 全部台無しよ! 安っぽいごめんなさいで、勝手に終わらせないでよ!」
麗奈が叫ぶ。
日頃冷静な麗奈には珍しい激情。
いや、誤解だ。麗奈は元々、自分よりも遥かに感情豊かな女の子だ。あの日だって、あんなに悔しそうに泣いていたではないか。
強い敵意をぶつけられて、久美子は眩暈がした。3年前にもこんなふうに、部活の先輩に脅かされたことがあった。
怖い。
小さく震える久美子の肩を、麗奈が軽くつかんだ。嘲るように言い放つ。
「だからね、久美子。あの日から私の頭の中は、貴女のことでいっぱいなの。私が中学生活を台無しにされたみたいに、貴女の高校生活を台無しにしたい。だから立華を蹴って、貴女の受けた北宇治にした。私は、絶対に貴女を許さない!」
思わず麗奈の目を見たら、久美子がこれまでに見たこともないような冷たい眼差しがそこにあった。
膝の力が抜けて、支え切れずにその場にしゃがみ込む。
どうすればいいのだろう。真っ白が頭で考えを巡らせる。
そんなつもりはなかった。麗奈の人生を否定するなんて、そんな大それたことをしたつもりはない。
けれど、麗奈がそう受け止めて、復讐のために立華を蹴るほど恨んでいるというのなら、ひたすら謝る以外に何ができるのか。
「ご、ごめんなさい。本当にごめんなさい」
しゃがんだついでに、その場に手をついて頭を下げた。
目の前に麗奈のローファーがある。そのまま顔でも蹴られやしないかと、怖くなった。
おかしい。
自分の手を引いてこの森に入った時の麗奈は、確かに楽しそうだった。
それがどうして今、その麗奈に、震えながら土下座して謝っているのだろう。
久美子が蒼白なままうわ言にようにお詫びを繰り返していると、頭上でカシャっと無機質な音がした。スマホの撮影音。
恐る恐る顔を上げると、麗奈のスカートの中が見えて、その向こうにスマホを持った麗奈が不思議そうな顔で久美子を見下ろしている。
怯えたまま見上げる久美子の写真をもう一枚撮ってから、麗奈がつまらなそうに言った。
「立って。別に謝ってもらっても、私の時間は戻らない」
ふらふらと立ち上がる。
久美子は麗奈より背が高い。この状況で自分が麗奈を見下ろす構図は良くないと思い、出来る限り項垂れながら、絶望的な声を漏らした。
「私、どうしたらいいですか?」
何をしたって、麗奈の時間は戻らない。
謝ってダメなら、何をすればいいのか。何をされればいいのか。
久美子が惨憺たる気持ちでいると、麗奈が凍えるような冷笑を浮かべた。
「目を閉じて」
「えっ……?」
「目を閉じて」
強い口調で言われて、思考が停止する。殴られるかもしれない。
目頭が熱くなり、視界がぼやけた。
麗奈がそんな久美子をパシャッと一枚撮る。
「な、何に使うの……?」
「別に。壁紙にでもしようかしら」
おどけるようにそう言ってから、キッと睨み付ける。
「早く目を閉じなさいよ」
頭がクラクラした。
一度痛い思いをして、それで麗奈が満足なら、もうそれを受け入れよう。
戦う勇気もなく、主張する正義もなく、諦めて目を閉じた。涙が零れ落ちる。
心のどこかで、麗奈とは友達になれる気がしていた。
高校に入ってから今日まで、麗奈があの日のことを気にしている素振りは一切なかった。
忘れているとは思わなかったが、ここまで深刻に受け止めているとは思わなかった。
いや、そういう久美子の安心感が、麗奈を苛立たせたのだろうか。
もうわからない。
麗奈が一歩近付いてきて、それからふわっと優しく抱きしめられた。
「……え?」
驚いて目を開けると、すぐそこに麗奈の顔があった。
麗奈は久美子の体を左腕で抱き寄せて、髪を撫でるように右手を頭に沿えた。そのまま自分の方に引き寄せて、唇を塞ぐ。
ひんやりとした感触。長い睫毛が、刺さりそうなくらい近くにある。
しばらく、久美子は状況を理解できなかった。
呆然と立ち尽くす久美子から、麗奈は唇を離さない。鼻息が熱い。
両腕を無意識に麗奈の背中に回すと、麗奈が目を閉じたまま言った。
「ごめんね。冗談が過ぎた。ごめんなさい」
「麗奈?」
自分だけ目を開けているのが滑稽で、久美子も目を閉じた。
自分とは違う、ふくよかな胸部の感触が心地良い。そのくせ、強く抱きしめたら折れそうなくらい華奢な体。
甘い女の子の香りは麻薬のように、だんだんと、先ほどまでの恐怖が薄れてきた。
「冗談……なの?」
「冗談よ。ほとんど全部」
唇を強く押し付けられる。
舐めるように這う舌先に、同じように舌を絡めてみる。
もちろん久美子はこれまでに、キスをしたことがない。思っていたよりも液体っぽくて、思っていたよりも全身が熱い。
何がなんだかわからずに、無言で抱きしめ合ってキスをしていると、横でシャッター音がした。
こんな場所で誰かに撮られたのかと思ったら、麗奈だった。
「せっかくだから、記念にと思って」
そう言いながら、もう何枚か撮る。
「さっきの写真は何に使うの?」
「別に。壁紙にでもしようかしら」
唇を離すことなく、麗奈がそう言って笑った。
さっきは学校中にばら撒かれるのではないかと不安になったが、もうそんなことは考えない。
麗奈がスマホをしまって、両手で強く久美子を抱きしめる。
「ん……んっ……」
漏れる吐息が色っぽくて、久美子はだんだん思考が麻痺してきた。
今の声は、麗奈のものだろうか、それとも自分のものだろうか。
粘性を帯びた唾液が、舌を伝って麗奈の口の中に流れていく。こくっと小さく喉が動いて、麗奈がそれを飲み込んだ。
溢れた唾液が顎を濡らす。拭きたいけれど、麗奈がそうさせてくれるとは思えない。
麗奈の背中を撫でると、汗で湿ったシャツの向こうから、火照りが伝わってくる。
とにかく熱い。
「私のこと、嫌いなの?」
「大好きよ」
「冗談じゃない部分はどこだったの?」
荒い呼吸で尋ねる。
この状況は、麗奈のシナリオ通りなのだろうか。それとも、予想外の展開なのだろうか。
「頭の中が、久美子のことでいっぱいっていうのが本当。友達は一人でいい。それ以外は、全部嘘」
少し口や腕が疲れてきた。もう何分こうしているだろう。
「北宇治を受けた理由も、仲間意識があったことも、貴女を恨んでいることも、全部嘘。ごめんね。土下座させるつもりなんてなかったんだけど……」
申し訳なさそうにそう言ってから、麗奈はくすっと笑った。
「後で私も土下座しようか?」
「い、いいよ、そんなの」
「不公平じゃない?」
「私、そんな趣味ないから!」
「そう? 私、想像したらちょっとドキドキした」
おどけるようにそう言ってから、また舌を絡めてくる。
五感の内、視覚だけは封印して、残りのすべてで麗奈を感じる。
むせ返るような女の子の匂い。少し汗の混じった麗奈の味。時々漏れる押し殺した喘ぎ。そして、柔らかくて弾力のある肉体。
「麗奈……」
自分も、この子のことが好きなのだろうか。
確かに実際、あまり話はしていないが、葉月や緑輝よりも近くに感じていた。
それは中学時代からの知り合いだからではない。無理をせず、本音を言える相手なのかもしれない。
それがなぜかはわからないけれど。
「麗奈、少し疲れた……」
「先に離した方が、後でアイスを奢るのよ?」
「そんなぁ……」
舌の付け根が痛くなってくる。キスがこんなにも体力の必要なものだとは思わなかった。
いや、こんなふうに唾液にまみれて15分も20分も続けるファーストキスなど、マンガでもドラマでも見たことがない。
「はぁ、はぁ……」
もうしばらく、朦朧としながら唇を重ねていたが、いよいよ息苦しくなって久美子は顔を背けた。
「久美子の負け……」
そう呟いた麗奈の呼吸も荒い。全力疾走した後のようだ。
きつく抱きしめ合う。べたべたして気持ちの悪い顎を、麗奈の制服の襟に押し当てて拭いた。
うっすらと目を開けると、いつの間にか辺りは真っ暗になっていた。
色を失った世界。麗奈の温もりと、鼓膜をくすぐる吐息の他に、何もない。
少しだけ抱きしめる腕を緩めて、そっと麗奈の胸に触れてみた。ブラジャーの感触の向こう側に、豊かな弾力を感じる。
「何?」
驚いた声。
「羨ましい……」
「ああ、そう……」
気の向くまま麗奈の胸を揉んで、もう一度背中に手を回した。
すり寄せる頬も汗でしっとりとしている。もう少しさらっとした感触の方が良かったが、全体的にべとべとしてロマンチックさに欠ける。けれど、そんな生々しいのも悪くはない。
「久美子は……怒ってないの? ちょっと、度が過ぎちゃったけど……」
ようやく呼吸の落ち着いてきた麗奈が、不安げに聞いてくる。
久美子は答えるのも面倒で、無言のまま小さく頷いた。
「そう……。良かった……」
安堵の息を漏らして、それっきり麗奈も何も言わなかった。
もう随分長いことこうしている。最初にキスをしてから、1時間くらい経っているのではないだろうか。
さすがに足も疲れてきたので、地面に置いたバッグの上に腰を下ろした。
隣同士並んで座って、もたれ合うように頭をつける。
「私の、何がいいの?」
辛うじて月明りで輪郭だけ見える麗奈の太ももに、そっと手を置いてみた。
そのまま指先を這わせるように撫でる。
「性格の悪いとこ」
麗奈がくすぐったそうに身をよじった。
「心外なんだけど」
「そう? 私にはどんどんそのひねくれたところを見せてね」
「きっと麗奈は、私じゃない私が好きなんだね」
「私だけが貴女を理解してるわ」
同じように、麗奈が久美子の太ももに手を乗せて、その表面を指でなぞる。
自分がされてみると、なるほどこれはくすぐったい。
もう一度抱きしめ合ってキスをした。
麗奈がスカートの裾から手を入れて、久美子の下着の熱くなっている部分に指を押し当てる。
「れ、麗奈!」
じゅんっと、湿度が麗奈の指に伝わるのがわかって、久美子は顔を赤くして抗議の声を上げた。
「冗談よ。怒らないで」
謝りながらも、麗奈は指を離さない。
部活の時間も含めて一日中穿いていた上、さっきまでずっと麗奈と官能的なキスをして、この上なく湿って汚い状態の下着が、麗奈の綺麗な指を汚しているかと思うと、恥ずかしくて逃げ出したくなった。
麗奈が指先を動かすたびに、体中が痺れて熱くなる。
「ダ、ダメだよ、麗奈……。恥ずかしい……」
唇を離し、くたっと肩に頭を預ける。
「なに今の。すごく可愛かった。録音するから、もう一回言って」
「ヤだ……」
麗奈が抱え込むように体を抱き寄せながら、もう片方の手でずっと下着の上から久美子を弄ぶ。
しばらくされるがままになっていたが、思わず熱っぽい声が漏れたので、慌てて麗奈の手を離させた。
「おしまい」
「もうよかったの?」
「私が頼んだんじゃないし!」
「それもそうね」
無言で抱きしめ合ってキスをしてから、もう一度座り直して前方の闇を見つめた。
数メートル先も見えない。二人でスマホの懐中電灯アプリで照らせば、なんとか帰れるだろうか。
「帰る? 一晩中ここにいる?」
そういう選択肢もあるのか。
ぼんやりと思う。
「私、お手洗いに行きたい」
「ここにはないわ」
「それは見ればわかるけど」
「そこら辺でする? 大丈夫。私しか見てないから」
「十分、嫌」
麗奈が可笑しそうに笑った。
思えば、麗奈が笑うところなど、見たことがなかった。今日はよく喋るし、心を開いてくれているのだろうか。
どうして自分なのかは、結局よくわからない。性格が悪いのは認めなくもないが、それを好きだというのが本心とは、とても思えない。
「本当に私のこと、好きなの?」
「好きよ? 何回キスしたら信じてくれる?」
「も、もういいから! そう言えば、最初にキスした時の写メ、ちょうだい」
「いいけど。壁紙にしてね」
「それはちょっと……」
冗談を言いつつ、アドレスを交換して写真をもらう。
すでに薄暗かったが、写真は綺麗に撮れていた。誰が見ても美人の麗奈とキスをしている自分。久美子は恥ずかしさと誇らしさで赤くなった。
「それで、これからどうするの? 一晩中ここにいる?」
スマホの灯りに照らし出された麗奈の表情は、そうしたそうだった。
久美子としても、それも面白そうと思わないでもない。ただ、明日も普通に学校があるし、本気でトイレに行きたい。お腹も空いたが、食糧はない。
「ほら、お手洗いに行きたいし……」
「そこら辺でしてってば。私もするから」
「お腹も空いたし」
「帰りたいのね?」
非難げに麗奈。久美子は慌てて手を振った。
「帰りたいけど、麗奈と一緒にいたくないっていうんじゃないの!」
「ほんとかしら」
「本当! じゃあ、またしよう! 約束するから、今日は帰ろう!」
またするって、何をするのだろう。
自分でもよくわからなかったが、麗奈は久美子の言葉に満足げに頷いた。
それから素早く一度キスをして、立ち上がる。
「わかったわ。じゃあ、頑張って帰りましょう。遭難者の気分ね」
笑いながら、スマホのアプリで森を照らす。
同じようにして、久美子も麗奈の後に続いた。
たった数メートル逸れただけで、日常はこんなにも変わる。
「まだ言ってなかったけど」
はっきりと、麗奈の背中に向かって言った。
「私も麗奈が好きだから」
腕に痛みが走った。枝に引っかけたようだ。
この際、制服が無事ならそれでいい。小さな傷は綺麗に治る。
「ありがとう」
恥ずかしそうな麗奈の声。
木々の向こうに、街灯の明かりが見えてきた。日常までもう後少し。
森を抜けたら、麗奈との関係はどうなってしまうのだろう。
隣に並んで手を握る。
麗奈が驚いた顔をしたが、すぐに綺麗な微笑みを浮かべて頷いた。
森が終わる。
日常に帰る。
それでも、始まった二人の時間は止まらない。
出てきた場所を振り返って、二人で笑った。
手を繋いで歩き出す。
そんな、新しい日常。
─ 完 ─