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いつもの通学路がキラキラして見えるのは、決して青空のせいだけではない。
学校までだらだら続く坂道も、まるでハイキングのよう。心が軽いと、こんなにも足まで軽くなるのかと、久美子は感動すら覚えた。
考えてみると、自分には喜怒哀楽があまり無い気がする。
他人の顔色ばかり窺って、感情を出来るだけ殺して生きてきた結果、怒ったり悲しんだりしなくなった。
大事なのは自分がどう感じるかではなく、自分の感情が他人にどう影響を及ぼすか。それこそが、黄前久美子という人間の本質である。
そう考えると、泣くほど悔しがったり、それくらい何かに心血を注ぐというのは、尊敬に値する。
中3のあの日の麗奈を思い出して、久美子は微笑んだ。
不用意な一言でずっとわだかまりのあった関係も、昨夜の一件で解消された。しかも、仲良くなれた。
久美子には親友がいない。
もしかしたら、葉月や緑輝は、自分を親友だと思ってくれているかもしれないが、久美子は心のどこかで壁を作っている。それは誰に対してもそうだ。
女とは、右手で握手しながら、左手で殴り合う生き物だ。あの二人はさっぱりした性格なので、そういうことはないと思うが、それでもまだ知り合って間もないし、無難な付き合いを探っている自分を否定できない。
容易に人を信用しないが、独りは寂しい。集団に入っていないと不安になる。黄前久美子はそんな弱くてずるい人間なのだ。
そういう醜い部分を、久美子は上手に隠して生きている。処世術こそ、平凡な久美子が人に誇れる技術だった。
そんな久美子の本質を、麗奈はすべて見抜いている。見抜いた上で、むしろそういうところが好きだと言ってくれた。
そのこと自体が、麗奈のひねくれた人間性をよく表していると思うが、本当の自分を好きだと言ってもらえたのは嬉しい。
久美子も麗奈が好きだ。
それは、麗奈が好きと言ってくれたからかもしれない。好意の返報性というものだろうか。
いずれにせよ、昨日までそんなこと意識もしていなかったのに、まるで長年の片想いが実ったかのように、久美子の心は弾んでいた。
早く学校に行って麗奈に会いたい。昨日あんなことをした後だが、麗奈は一体どんな顔をするだろう。
照れた麗奈をからかってやりたい気もするし、逆にいじってほしい気持ちもある。
今日からの日常は、昨日までとは別のものになる。良い方に変わる。
そんな確信を胸に、久美子は逸る気持ちで校門をくぐった。
部活の朝練では、時間が取れずに話しかけられなかった。遠目に麗奈の姿を見ただけで、思わず顔が紅潮したが、果たして麗奈はどうだったのだろう。
目も合わせず、自分を探す素振りすら見せなかったので、久美子は少し寂しく思った。
クラスが違うので日中は会うことが出来ず、放課後、部活の前に麗奈の教室のドアで待ち構える。そして、何食わぬ顔で出てきた麗奈に声をかけた。
「麗奈!」
恥ずかしいくらい声が弾んでいるのが、自分でわかった。
特に驚いた様子もなく、麗奈は滑らかな動きで顔を上げると、きょとんとして久美子を見た。
「黄前さん?」
「あっ……」
そういえば、名前で呼ぶのは二人の時だけだと言われていた。
久美子としては名前で呼びたかったので、どうしたものか考えていると、麗奈は久美子の横を通って部室の方に歩き始めた。
すぐに隣に並んで、ひそめた声で聞いてみる。
「私、麗奈って呼びたいんだけど、麗奈は名字で呼ばれた方がいい?」
「どっちでも」
「じゃあ、麗奈で。麗奈も、久美子って呼んでね」
そう言ってから、昨日は同じことを麗奈が言ったと思い出して笑った。
麗奈は無表情で久美子を見て、もう一度前を向く。
「楽しそうね」
そっけない口調。久美子の胸に違和感が広がった。
初めは照れているのかと思ったが、今の麗奈はまるで昨日のことを覚えていないかのようだ。一晩寝て忘れてしまったのだろうか。
いや、そんなはずがない。
あるいは、すべて勘違いだったのか。
それもない。昨夜麗奈からもらったキスの写真を、久美子は部屋で30分は眺めていた。物的証拠というやつである。
「もしかして、後悔してるの? 昨日のこと……」
声に出すと急に不安になって、見る見る心が萎んでいくのがわかった。
朝から、正確には昨夜からずっと、麗奈と話をするのを楽しみにしていた。
それなのに、ようやく迎えたその瞬間に、麗奈のこの態度はなんなのか。
そもそも麗奈からキスしたり告白したりしたのだから、その責任は取ってほしい。
寂しさ半分、怒り半分、唇を尖らせて麗奈を見ると、麗奈は足を止めて複雑な表情を浮かべた。
そして真っ直ぐ久美子の目を見つめて、口を開いて何か言いかける。
しかし、麗奈の綺麗な薄い唇は、言葉を発する前に閉じてしまった。
顔を隠すように、久美子に背を向けて歩き始める。
「ちょっと、よくわからないの」
「わからないって何が?」
「いいから。少し一人にして」
静かなトーンだが、有無を言わさぬ強い口調。久美子の心は完全に折れてしまった。
悲しくなって足を止める。
麗奈が気にして振り向いてくれるかと思ったが、そんなことはなく、とうとう一度も久美子の名前を呼ぶことなく、麗奈は行ってしまった。
3-3。低音部屋で久美子はぼんやりと窓際の席に座っていた。いつも先輩の夏紀がしているように、やる気なく外を眺める。
あすかは他人に興味が無いし、夏紀も同様。卓也と梨子は合奏していて、同級生の二人はそれぞれ自分の楽器の練習をしている。
久美子はスマホを手に取った。その時に、腕についた薄い切り傷が目に入る。
昨夜森の中で切ったものだ。他にも背中が筋肉痛だったり、舌が痛かったり、昨夜の痕跡が随所に残っている。
そんな傷や痛みすら、久美子は愛おしく感じていた。
周囲から見えないように気を付けながら、スマホで昨夜の写真を開く。
薄暗い森の中。少し眉間にしわを寄せて、情熱的に自分の唇を吸い上げる麗奈。それを陶然として受け入れている自分。
顔が熱くなる。昨夜の情事が脳裏に蘇る。
「麗奈……」
重いため息をついて、思わず頭を抱えると、頭上で心配そうな声がした。
「高坂さん?」
「えっ?」
「高坂さんと何かあったの?」
見上げると、いつからそこにいたのか、葉月が不安げな眼差しで久美子を見下ろしていた。
久美子は慌ててスマホをしまうと、大袈裟に手を振った。
「な、なんにもないよ! 全然!」
「ほんと? 久美子、元気無いから。何かされたなら言ってね。力になるから!」
そう言って励ますと、葉月はチューバに戻っていった。
久美子は複雑な気持ちで葉月の横顔を見る。
昔のことを話したからか、葉月は麗奈が久美子に対してあまり良く思っていないと考えている。もっとも、昨日の一件があるまで、久美子自身、自信がなかったのだから仕方ない。
中3のあの出来事に関わらず、いや、あれがあったからこそ、麗奈は久美子を好きになった。
「そのはずなんだけど……」
麗奈の言っていた「よくわからない」というのは、麗奈自身の感情のことだろう。
やはり勢いであんなことをしてしまったが、冷静になって考えてみたら、それほど久美子を好きではなかったのかもしれない。そもそも麗奈が久美子を好きな理由は弱い。
席に戻ってユーフォニアムを手に取った。こういう時は無心で吹き続けるのがいい。
目の前の課題を一つ一つこなしていく。何年も吹いているのに、なかなか上手にならない。
才能がないのか、熱意が足りないのか。きっと両方だろう。
そうして部活を終え、音楽室で片付けをしていると、麗奈が硬い表情で近付いてきた。
「黄前さん、ちょっといい?」
久美子は恨みがましい目で麗奈を見た。話しかけてくれたのは嬉しいが、やはり名前で呼んではくれなかった。
表情や口調から見ても、いい話とは思えない。
「いいけど……」
沈鬱な気持ちで答える。
ふと葉月と目があった。心配そうに見つめていたので、大丈夫だと伝えるように小さく笑って手を振って、久美子は足早に麗奈の後を追った。
広い校内の裏庭のさらに奥。西陽の届かない暗い場所まで来て、ようやく麗奈は足を止めた。
振り返った瞳は暗く、表情からも覇気が感じられない。
ああ、これはダメなパターンだ……。
久美子は眩暈がしたが、一度大きく深呼吸して気持ちを落ち着けた。
今日一日を振り返って、もはや麗奈が昨日のことを後悔しているのは明白だった。であれば、今から麗奈が言う台詞は容易に想像がつく。
自分から好きだと言っておきながら、やっぱりそうでもなかったと訂正するのはどんな気持ちだろう。
それを、麗奈に言わせてはいけない。せめて、負担を軽くしてあげたい。
この先も、気まずくならずにそれなりの関係を継続するためには、立場を合わせること。それが久美子の処世術。
「私ね、昨日帰ってから考えたんだけど……」
言葉を探している麗奈より先に口を開く。
視線を落とす。声が震える。本心と違うことを言うのは得意なはずなのに、胸が張り裂けそうだ。
「私、思ったより、麗奈のこと、好きじゃないかもって……。だから……」
なるべく明るい声でそう言ってから、ちらっと顔を上げて──久美子は絶句した。
先ほどまで無表情だった麗奈が、大きく目を見開いて、青ざめた顔をしていた。
まるで大切な人の交通事故でも目撃したかのように、放心して唇を震わせている。
「だから、昨日のあれは、なかったことに……」
言いながら、久美子はひどく混乱していた。
おかしい。何かおかしい。
麗奈が切り出しやすいように言った言葉で、どうして麗奈はこんなに動揺しているのか。
もしかして、自分は何か、間違えたのか?
いきなり、痛いほど強く肩をつかまれた。
はっとして顔を上げると、麗奈が目に涙を浮かべて、歪んだ顔で久美子を睨み付けていた。久美子なら見せることのない、持ち合わせてもいない、激しい怒りの感情。
「あ、あの……」
言いかけた久美子の唇を、麗奈が乱暴に塞いだ。歯が当たって痛みが走る。
「久美子!」
はっきりと強く、麗奈が久美子の名前を呼んだ。
それで久美子は、自分が根本的な誤解をしていたと気が付いた。
麗奈が名前を呼んでくれた。たったそれだけのことで、胸に温かいものが広がっていく。
しかし、安堵している場合ではない。
麗奈が肩をつかんだまま強く体を押して、久美子は思わず体勢を崩した。
「ちょっと待って、麗奈!」
「嫌だ! 聞きたくない!」
地面に倒れ込んだ久美子に覆いかぶさって、麗奈が顔を近付けてくる。
そして、剥き出しになった久美子の首筋に口を当てると、付け根の部分を思い切り強く噛んだ。
「い、痛い!」
柔らかな肉に、麗奈の歯が深く食い込む。額に脂汗が浮かんだ。
暴れる久美子を押さえ付けて、麗奈が引き千切る勢いで犬歯を突き立てる。
肉が裂けて、久美子はたまらずに叫んだ。
「ああっ、痛い! やめて! やめて、麗奈!」
傷口から血液が溢れ出るのがわかる。麗奈がそれを飲み込みながら、さらに容赦なく傷口をえぐる。まるで、自分の痕跡を刻むように。
いや、きっとそれは喩えではなく、そうなのだろう。
麗奈は久美子を嫌ってなどいなかった。それなのに、久美子が好きではないと言ったから、自棄になった麗奈が久美子を繋ぎ止めようとした。
誤解だ。久美子も麗奈を大好きだ。
そう伝えるより先に、何かのぶつかる大きな音がして、麗奈の体が久美子の隣にどさっと倒れた。
驚いて見ると、葉月が荒い呼吸で、麗奈を睨み付けていた。両手でバッグを握っている。それで殴ったのだ。
「久美子をいじめないで!」
そう怒鳴り付けると、葉月は倒れて首を押さえている久美子の手を取った。
ぐいっと引っ張られる。
立って麗奈を見ると、麗奈は地面に手をついたまま、人形のように生気のない顔をしていた。泣きそうな瞳。血の付着した唇は、力なく開かれて震えている。久美子は絶望を見た。
全部、全部誤解だ!
咄嗟にそう叫べたら、どれだけ楽だろう。しかし、それを言ったら葉月を傷付ける。
一瞬躊躇した隙に、葉月は走り出していた。
手を引かれるまま、久美子はその場を離れた。
色々なことが片付いて、ようやく自分の部屋でひと息ついたら、もう後30分で日の変わる時間だった。
あの後、血がなかなか止まらず、結局家に帰ってから病院に行くことになった。
葉月はずっと付き添ってくれて、随分麗奈に対して憤っていた。
それをどうにか鎮めたが、恐らく納得はしていないだろう。一つ禍根を残してしまった。
傷口を縫わずに済んだのは幸いだったが、傷跡は残ると言われた。親も葉月も暗い顔をしたが、久美子は内心で喜んでいた。
ずっとハンカチで押さえていたので、セーラー服は無事だったが、少しだけ襟に血がついてしまった。
ハンカチの方は血まみれになり、記念に残しておこうかと思ったが、あっさり母親に捨てられた。
スマホを確認したが、麗奈からの連絡はない。
久美子はメールを書こうとして、結局何も浮かばずに止めた。今は文字だけのコミュニケーションを取るべきではない。経験上、メールのやりとりはこじれる。
この空白の時間に、麗奈が良からぬことを考えていなければいいが、明日会って落ち着いて話せばわかってもらえる。
久美子にはそんな自信があった。
ところが、翌日少し早めに登校すると、麗奈は学校を休んでいた。
葉月が随分心配してくれたが、それどころではない。麗奈が学校を休んだ理由はわからないが、もう一日会わずにいたら、関係の修復が難しくなる。
昨日の別れ際を思い返して、麗奈が明るい想像をしているとはとても思えない。久美子のまったく望まない結論を勝手に出して、それを固めてしまうのに、一日は十分な長さだ。
久美子は気が気でないまま授業を受けて、その日は部活を早々に切り上げて帰路についた。
家に帰ると、何のシナリオも描かずに麗奈に電話をかけたが、出てはくれなかった。
「色んな勘違いがあって、本心じゃないことを言いました。話がしたいです」
そんなメールも送ってみたが、やはり返事はなかった。
久美子はベッドに寝転がり、キスの写真を開いた。
あれからまだ2日しか経っていないのに、とても遠いことのように思える。それに、あまりにも現実離れした時間で、物的証拠のはずの写真さえ、偽物のように思えてきた。
圧倒的な日常。麗奈と二人の時間は、所詮は日常ではなく、その隣に佇む夢のようなものだったのだろうか。
目頭が熱くなり、涙が零れ落ちた。
麗奈のことを考えると、封じ込めていた喜怒哀楽が戻ってくる。自分が本当の自分らしくあるために、やはり麗奈には傍にいて欲しい。
友達は一人でいいと、麗奈は言った。
その一人に、自分がなりたい。
「麗奈、大好きだよ。大好き……」
うわ言のように繰り返し呟きながら、やがて眠りに落ちるまで、久美子はずっとスマホの写真を見つめていた。