翌日、曇天。雨は降らなそうだったが、念のため折り畳み傘をバッグに入れて、久美子は学校に向かった。
麗奈からの連絡は無いままである。どうしたら関係を修復できるのか、もはや久美子にはわからなかった。
今までの人生で、それほど固執するような人間関係は無かったし、無理をしなくてもある程度の関係は維持できた。
今日、ちゃんと話せばわかってもらえるだろうか。そもそも修復すべき関係とはなんなのか。
思い返せば、麗奈と熱い関係でいたのはあの晩のたったの2時間程度である。考えれば考えるほど、あの2時間が特別だった気がしないでもない。
いいや。久美子は大きく首を振った。
今日こそ絶対に、麗奈とよりを戻す。弱気になってはダメだ。
校門をくぐると、校舎から綺麗なトランペットの音色が聴こえてきた。音でわかる。麗奈だ。
香織先輩には申し訳ないが、北宇治でこの音が出せるのは麗奈しかいない。
久美子は拳を握って教室に向かった。
授業中に放課後のプランを考えていると、1時間目が終わった後、麗奈の方から教室にやってきた。
久美子が呆気にとられて、近付いてくる麗奈をぼんやり見つめていると、間に葉月が立ちはだかった。
いけないと思い、久美子はすぐに立ち上がった。葉月に「大丈夫だから」と声をかけて、麗奈に駆け寄る。
そのままの勢いで手を引っつかんで、教室を出た。
「麗奈!」
麗奈は久美子と目をあわせようとせず、いつも以上の無表情で立っていた。それからふと久美子の首筋に貼ってある大きな絆創膏を見て、ため息をつく。
「ごめんなさい」
「何も謝らなくていいから。放課後にちゃんと話そう!」
麗奈の肩をつかんで、真剣な目で覗き込む。それでも麗奈は目をあわせなかった。
「もう、話すこととか、無いから」
「私はあるから!」
「ごめんなさい」
向こうへ行こうとする麗奈の隣に並んで、久美子は言葉を続けた。
「全部誤解なの。悪いのは私なの。だから、ちゃんと話を聞いて」
「もういいから」
「私が良くないって言ってるのに! もう、麗奈のわからず屋!」
思わずそう声を荒げたが、麗奈は振り返ることなく自分の教室へ帰っていった。
久美子は唇を尖らせる。
少し腹が立った。それから、こういう感情も久しぶりだと、頬を緩める。
こうなったら、何がなんでも想いを伝えよう。
そこに麗奈の意思は関係ないし、答えも関係ない。麗奈があの日そうしたように、一方的に、情熱的に伝えればいい。
情熱。なんて似合わない言葉だろう。
自分の意思を隠して、意見を押し込めて、波風が立たないように生きることこそすべてだった自分にも、まだこんなにも熱い想いがあったのかと、感動すら覚える。
麗奈が好きだ。
今日、今、顔を見て、触れて、言葉を交わしてはっきりわかった。
だから、必ずあの夜からやり直してみせる!
久美子は決意を込めて、力強く頷いた。
部活が終わると、久美子は自分の楽器だけ片付けて部室を飛び出した。
掃除をサボったのがバレると面倒だったが、幸いにも見咎める者はなかった。
校舎を一周駆け回って準備をすると、再び部室に戻る。そして、麗奈が一人で部室を出たのを見て、そっと後をつけた。
麗奈はどことなく浮かない顔をしている。顔色は悪くない。昨日の休みは、やはり風邪ではなく、精神的なものだったのかもしれない。
校舎を出るところで捕まえた。いきなり腕をつかむと、麗奈が可哀想なくらい驚いて振り返る。
「久美子!」
咄嗟に出たのが名前だったので、久美子はなんだか安心した。
「ちょっと来て」
有無を言わさず、腕を引っ張って校舎に戻る。
廊下の窓から見える校庭では、もうすべての運動部がその活動を終え、グラウンドをならしている。
陽は西の空を赤く染め、夜が始まろうとしている。
校舎の中は人影も少なく、廊下を歩いていてもほとんど誰ともすれ違わない。
麗奈は何も言わずについてくる。一度振り返ると、目があった。あの翌日の放課後と同じ、よくわからない複雑な表情。
そもそも、あの日麗奈がこんな顔をしていたのがいけないのだ。あのせいで話がややこしくなった。
保健室の前で足を止める。電気は消えていて、中に人の気配は無い。
ドアの取っ手をスライドさせてみたが、鍵がかかっていて動かなかった。それも事前に確認済みだ。
ポケットから鍵を取り出す。
麗奈が驚いた声を上げた。
「どうしたの、それ」
「どうでもいいじゃない」
つまらなそうに答えて、ドアを開ける。麗奈を押し込めて、もう一度周囲に人がいないのを確認してから、素早く中に入って鍵をかけた。
それから一番奥のベッドに麗奈を座らせて、カーテンを閉める。しおらしく座っている麗奈の隣に腰を下ろして、久美子は大きく息を吐いた。
職員室から鍵を盗んでくるという、人生で最も大それたことをしたが、おかげでここまで上手くいった。
そっと麗奈の体を抱きしめた。久しぶりの温もりと柔らかさにドキドキする。
黒髪に顔を埋めてくんくん嗅いだ。麗奈の匂いだ。脳が痺れる。
麗奈が静かに背中に手を回して、体をぎゅっと引き寄せてきた。
何も言わずに唇を合わせる。
角度をつけて、激しくむさぼるように唇を吸いながら、二人でベッドに横たわった。麗奈を下にして、久美子は覆いかぶさって体重を預ける。
麗奈の肉感と弾力。苦しそうに麗奈が呻いて、久美子は意地悪するように、わざと強く抱きしめた。
「久美子、苦しい……」
「我慢して」
ずっとキスしていると、あの日と同じようにじっとりと汗ばんできた。密着した部分が熱い。
他に誰も来ることのない夜の森の中もなかなかだったが、夕方の保健室というシチュエーションもそそられる。
見回りが来るかもしれない。鍵がないことに気が付いて、先生が見に来るかもしれない。
廊下から足音がして、通り過ぎていく。
それにしても、この薄暗いベッドというのはなんて官能的なのだろう。
仰向けでもなおその膨らみを維持している羨ましい胸を、手の平で押し潰すように揉みしだく。
「んん……っ!」
麗奈が熱っぽい息を吐いた。息苦しそうだが、緩めてあげるつもりはない。
舌先を絡めながら、久美子は咎めるように言った。
「大体、麗奈がいけないんだから」
あの日の翌日、麗奈は久美子にそっけなかった。だから久美子は勘違いした。今回のいさかいの発端は、すべて麗奈にある。
「ごめんなさい。距離感がわからなかったの」
「距離感?」
怪訝に思って顔を離す。
すぐ目の前に、上気した麗奈の綺麗な顔がある。どの角度から見ても美人だ。
ファーストキスを写真で残した麗奈の気持ちがわかった。今の麗奈は、切り取って保存しておきたい。
久美子がじっと見つめると、麗奈は恥ずかしそうに視線を逸らせた。
「久美子が好きすぎて、どうしていいのかわからなかったの。こんなこと初めてで……」
耳がとろけるような甘い声。いつもの凛とした麗奈とのギャップが可愛すぎて、久美子は全力で抱きしめた。
「く、苦しいってば!」
「私、絶対に麗奈に嫌われたって思って!」
「それは悪かったから」
麗奈が久美子を押し返す。
少し体が離れると、麗奈は器用に位置を変えて、二人で横を向いて抱きしめ合った。
「はぁ、苦しかった」
「全面的に麗奈が悪いから」
「そうかしら」
あっけらかんと麗奈。いつの間にか、いつもの麗奈に戻っていて、久美子はなんだかほっとした。
どんな麗奈も可愛いが、やはり澄ました顔が一番似合う。
「久美子が変なこと言うから、私、加藤さんにバッグで殴られたわ」
「そんなこと言ったら、私の首! あの後、血が止まらなくて病院まで行って大変だったんだから!」
「ああ、そのことなんだけど……」
急にトーンを落とす。
冗談で言っただけなので、あまり深刻に謝ったりはしないで欲しい。
そんなことを考えていると、麗奈がいたずらっぽい微笑みを浮かべた。
「久美子の血、すごく美味しかった」
「はぁ!?」
「私、前世は吸血鬼だったのかもしれない」
麗奈が唇を指でなぞりながら笑った。もはや可愛いという次元を超越している。
麗奈がそっと久美子の絆創膏に触れ、酔っ払いのようにとろんとした目をした。
「私が頼んだら、また飲ませてね」
「嫌だし」
「どうして?」
きょとんとする。わざとやっているのか、いまいち判断がつかない。
「だって、すごく痛かったし」
「痛いのって、気持ち良くない?」
「全然気持ち良くない!」
笑いながら、もう一度麗奈の体に乗った。
そういえば、このあいだは立っていたので、こうして互いの重さを感じることがなかった。触れ合う太ももがすべすべして気持ちいい。
「どうしたら、こんなに大きくなるの?」
麗奈の首筋に唇を這わせながら、豊満な胸を指先で滑らかに辿る。
「言うほど久美子の胸、小さい?」
麗奈が裾から手を入れる。しっとりと汗ばんだ指先が久美子のお腹をなぞり、そのままブラジャーに触れた。
ぞくっとして身震いをする。
麗奈は構わずに、ブラジャーの上から久美子の胸を撫でた。
「ああ、小さいか……」
麗奈がほぅっとため息をつく。
久美子が何も言わないでいると、麗奈はもう片方の手を、同じように背中から服の中に入れてきて、片手で器用にブラジャーのホックを外した。
「麗奈?」
訝る久美子に構わず、麗奈は一気に久美子のセーラー服をまくり上げると、そのまま脱がせて床に放った。
「ちょ、ちょっと!」
慌てて身を起こした久美子を押さえつけて、ブラジャーも剥ぎ取り、上半身裸になった久美子をベッドに横たわらせる。
いつの間にか外は暗くなっていて、光がないのだけが幸いだった。貧相な胸も、くびれの少ないウエストも、見せられたものではない。
赤くなって顔を背けると、麗奈がそっと生の胸を撫でながら、吐息を漏らすように囁いた。
「すごく綺麗よ」
不満げに顔を上げると、麗奈もセーラー服の上を脱いでいた。
黒髪がふわりとなびき、白い肌がわずかな光に照らされる。薄桃色のブラジャーが外されると、やはり大きくて、形のいい胸が露わになった。
じっくり見ていたかったが、麗奈はお返しと言わんばかりに久美子にのしかかってきた。
舌を奥まで絡めながら、裸の体を抱きしめ合う。汗の匂いと、火傷をしそうなほどに感じる熱さ。声と一緒に漏れる吐息。こすれ合う肌があまりにも気持ち良くて、久美子は頭がぼーっとしてきた。
思考が緩慢になる。体を押し付け合っていると、胸の先端がじんじんしてきた。口の中に溜まった唾液を飲み込む。するはずもないのに、麗奈の味を感じた。
「麗奈……麗奈……」
汗ばんだ背中に爪を立ててみた。柔らかくめり込んでいく。
麗奈の歯が自分の首に埋まっていく感触を思い出した。なるほど、痛いのは気持ちいいのかもしれない。
脚を絡めると、いつの間にかスカートが爪先の向こう側に落ちていた。知らない内に麗奈がホックを外したのだ。
股がむずむずしたので、麗奈の太ももに押し付けてみた。途端に、電気が走ったように体が痺れる。
「気持ちいい……」
無意識に出た言葉が自分の鼓膜を振動させて、久美子は真っ赤になった。ひょっとして、自分は今、エッチなことをしているのではないだろうか。
知識がないのでよくわからない。いけないことをしている気がしてきたが、麗奈も一緒なら大丈夫だと、心を落ち着けた。
麗奈の前では、隠し事はもうしない。自分のすべてをさらけ出しても、きっと麗奈は受け止めてくれる。
麗奈の手が下着の中に滑り込んでくる。指の動きに合わせて水っぽい音がして、久美子は恥ずかしさと気持ち良さで真っ白になった。
「はぁ、はぁ……」
二人の吐息が絡み合う。体中が痺れてくる。
子供のように麗奈の体にしがみついた。
熱っぽい声を漏らしているのは、自分なのか、それとも麗奈なのか。もう何もわからない。
「麗奈、麗奈……私、もう……っ……」
あまりの気持ち良さに、意識が飛びそうになる。声が大きくなる。
麗奈に強く抱きしめられて、もう一度舌を絡め合ったところで、久美子の記憶は途切れた。
闇の中で、荒い息がする。
それがだんだんと落ち着いてきて、やがて静かになった。
呼吸を整えて、久美子は隣を見た。
麗奈が俯せでスマホをいじっている。その光で麗奈の顔が白く照らし出される。妬けるほど綺麗な目鼻立ち。
「何してるの?」
体勢を変えて、片手を麗奈の背中に乗せた。汗でじっとり濡れていたが、それは自分も同じだった。
シャワーを浴びたいが、麗奈の汗が愛おしい気もする。
「うん。さっきの、途中から録音してたから、ファイル名をどうしようかなって」
さらっとすごいことを言い出した。そういえば、前に森の中でも、録音がどうのと言っていた気がする。
意識がなくなる少し前から、麗奈が一言も喋っていなかったのは、そのためか。
呆れながら首を傾げる。
「前の土下座の写真もそうだけど、そういうの、何に使うの?」
「秘密」
「個人で楽しむ範囲で使ってね」
「当たり前じゃない」
スマホを放り投げて、麗奈はそっと久美子の髪を撫でた。
それが気持ち良くて、しばらく麗奈に身を委ねる。
「私、好きな気持ちはちゃんと伝えるし、嫌な時は嫌だって言うから、久美子ももう、嘘は言わないで」
「うん」
「私、貴女に好きじゃないって言われて、本当に泣きそうだった」
「私もだよ。すごくウキウキして学校に来たら、麗奈すごく冷たいんだもん。絶対に後悔してるんだって、そう思ったの」
久美子もそっと手を伸ばして、麗奈の髪に触れた。
自分のくせ毛と違って、麗奈の髪はさらさらして真っ直ぐだ。撫でているこっちがドキドキする。
「まあいいわ。今回はお互い様にしましょう」
静かに身を寄せ合う。
さっきまでのように、激しく体を重ねるのも幸せだが、こういう落ち着いた時間も精神的に満たされる。
しばらく何も言わずに、互いの体を触り合っこしてから、麗奈が言った。
「それで、これからどうする? 帰る? それとも、一晩中ここにいる?」
久美子は笑った。聞いたことのある台詞だ。
あの時はトイレにも行きたかったし、帰ると言ったが、今日はトイレも水もある。ベッドは気持ちいいし、一晩中ここにいるのも悪くないかもしれない。
「いいよ。麗奈が一緒にいたいって言うなら、ずっとここにいる」
「一緒にいたい」
即答だった。
久美子は思わず胸が熱くなった。誰かに好かれるって、こんなにも嬉しい。
込み上げてきた涙を拭って笑う。
「麗奈、大好き」
「本当? だったら、今度また噛んでもいい?」
「それは嫌」
学校の保健室。カーテンの向こうには、見慣れた日常が広がっている。
麗奈の美しい曲線が、わずかな光に照らされている。
それがあまりにも幻想的で、久美子はまた一夜の夢のように、朝が来たら失われやしないかと怖くなった。
小さな寝息を立てる麗奈の胸の谷間に手を置くと、規則正しい心音が伝わってきた。
確かな温もりを感じながら、久美子も目を閉じる。
日常は、油断をすると、何もかもを飲み込んでいく。
その大きな波に抗うには、流されるだけの自分を変えなくてはいけない。
強くなろう。この温もりを、二度と手放さないために。
一人で頷いてから、麗奈の柔らかな肩に顔を押し当てる。
夜が静かに更けていく。
─ 完 ─