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美味しそうにソフトクリームをねぶっている麗奈に、久美子は思わず見惚れた。
クリームがつかないように髪をかき上げる仕種と、手元から覗かせる白いうなじ。
眩しそうに細める目と、丸く開かれた唇。その唇がソフトクリームの表面に近付き、舌先がちろっとクリームを舐め取る一連の動きは、同性の久美子でもドキドキせずにはいられない。
それに、普段ツンと澄まして大人っぽい麗奈が、ソフトクリームという菓子類を食べる子供っぽい姿のギャップ。これは額に入れて飾っておきたいと、反射的にスマホでパシャっと写真を撮ると、麗奈が唇をクリームで白く汚した顔で久美子を見た。
それをぺろりと舐めてから、視線を落とす。いつの間にか、溶けたクリームがコーンを伝って、久美子の手をベタベタにしていた。
久美子が慌てて手を上げると、麗奈がその手を取って自分の顔に引き寄せた。
「写真なんか撮ってるからよ」
呆れたようにそう言いながら、麗奈が久美子の手についたクリームを舐める。すっかり冷たくなっている麗奈の舌が、指の隙間を這うようになぞって、久美子は小さな声を漏らして俯いた。
宇治橋の近くで、観光客向けに売られているソフトクリーム。それを二人で買って、宇治川を眺めながら並んで座って食べている。
久美子が周囲を窺うと、幸か不幸か二人を見ている者はなかった。信号が変わったのか、橋の上から車の音が戻ってくる。
西日が背中から影を長く伸ばす。並んだ二つの影。手元を見ると、麗奈が久美子のソフトクリームにかぶりついていた。
「なっ……!」
絶句する。麗奈は久美子の手を離すと、元に戻ってそっぽを向いた。耳まで赤くなっている。
久美子は自分のソフトクリームの表面を見る。今しがた、ここに麗奈の舌が触れていたかと思うと、急に恥ずかしくなった。
その部分を大きく口を開けて唇ですくい取る。その様子を、いつの間にか麗奈がじっと見つめていて、久美子は目を丸くてもう一度俯いた。
口に広がる甘ったるい味は、二人を包み込む空気のよう。
クリームと一緒にコーンをかじると、麗奈が口を開いた。
「どうして写真撮ったの?」
「可愛かったから」
「じゃあ、私も撮る」
麗奈がスマホを撮り出して、久美子に向けた。久美子は思わず顔を隠す。
「ほら、手、邪魔だから。自然に食べて」
「無理だよ、そんな……」
何枚か撮られる。元々麗奈は久美子の写真をよく撮るが、久美子は自分が被写体として映えるとはまったく思っていない。
不細工ではないと思うが、地味だ。麗奈のような華やかさも、淑やかさも無い。自然に撮られる写真はいいが、いざカメラを向けられると萎縮してしまう。
「私のくみコレが増えたわ」
「くみコレ?」
「久美子コレクション」
コノ子ハ何ヲ言ッテルンダロウ。
思わず呆れてカタカナになる。本当に、中学時代を振り返っても、学校での麗奈を見ても考えられないくらい、茶目っ気のある言動。
これが麗奈らしい麗奈なのかはわからないが、恐らく自分にしか見せない姿だと思うと誇らしい。
ソフトクリームも残りふた口。先に食べ終わった麗奈が、肩にもたれかかってきた。
その重さと温もりを感じながら、最後のコーンを食べ終えて、久美子も麗奈に体重を預けた。
一つに重なった影はすっかり薄くなり、川の向こうから夜がやってくる。
ぎゅっと手を握り合う。久美子の手は、先ほどのクリームでベタベタしたままだが、平然と舐めてきた麗奈が、気にしているとは思えない。
しばらくそのまま、同じ時間を味わうように沈黙して、麗奈が顔を上げて一度左右に目をやった。
人の少ない場所ではないが、今は近くに誰もいない。それを久美子も確認してから、そっと唇を合わせた。
柔らかく触れ合う唇の先っぽ。すぐに舌を絡め合う。
まだ残るクリームの味がした。どこまでも甘くて、全身の力が抜けていく。恍惚とする5秒。
「はぁ。オキシトシンが増えた……」
わけのわからないことを呟きながら、麗奈が唇を離す。さらに数秒余韻に浸って、静かにバッグを引き寄せる。
「そろそろ帰ろうか」
「うん……」
手を繋いだまま立ち上がる。そのまま分かれ道のぎりぎりまで、汗ばむ手の温もりを感じ続ける。
家まで持って帰りたくなる衝動を堪えて、久美子は手を離した。
「じゃあ、また明日」
「うん。おやすみ」
小さく手を振って背中を向ける。
2歩歩いて足を止め、一度振り返ると、麗奈もまったく同じことをしていて、二人で赤くなって前を向いた。
生温い風が吹く。じんわりと汗ばむ首筋を一度ハンカチで拭い、久美子は家路を急いだ。
今思えば、中学時代のあの一言は、不用意ではあったが言ってよかった。
少なからず麗奈を傷付けたが、その傷が久美子の印象として残り、結果として今に繋がっている。
日常は、麗奈と二人でいることが当たり前になってきた。平穏な毎日。ただ、満足しているかというと、そうでもない。
部活動で忙しい日が続くが、帰宅部の子たちみたいに、帰りにカラオケに寄ったり、ショッピングをしたり、そんな時間にも憧れる。土日は私服で小旅行なんかもしてみたい。欲は尽きない。
もちろん、麗奈もそれを望んでいるかはわからない。そういう話をすると目を輝かせるが、麗奈はトランペットを愛している。練習時間を削られるのは嫌がりそうだ。
「だからまあ、中学時代からは考えられないくらい、仲良くはなったかな」
通学路、珍しく一緒になった秀一が、最近麗奈とどうだと聞いてきた。
特に隠す理由もないので、ここ数日のことを思いつくまま口にする。
もちろん、森でのファーストキスや、保健室での情事については話さない。ケンカしたことには軽く触れたが、前世が吸血鬼とか、わけのわからない話は自分の胸の内だけに仕舞っておいた。
秀一は頭の後ろでバッグを握って、「ふーん」と気のない相槌を打った。
久美子よりも頭一つ高い。彼の見る世界はどんな景色なのだろう。たまに気になる。
「高坂が笑うとことか、想像もできないな」
「よく笑うよ? きっと私にだけ心を許してくれてるんだね」
偉そうに胸を張る。しかし、それについては、秀一はさほど羨ましくなさそうだった。
代わりにこんなことを聞いてくる。
「で、お前は高坂のどこがいいんだ?」
「うーん」
妙に絡んでくるなぁと思いながら、わざとらしく腕を組んだ。
通学路の坂道は同じ制服で埋まっている。時々麗奈の姿を探すが、いつも朝早く登校してトランペットを吹いているから、待ち合わせなければ会うことはない。
「空気、かな。そりゃ、美人だし頭もいいし、そういうところも好きだよ? 自分をしっかり持ってるところとか、私には無いから尊敬する」
うん、と自分に言い聞かせるように頷いた。
「でも、一緒にいて居心地がいいっていうのが一番かな。喋っていて楽しいし、喋らなくても気をつかわないし」
「他人の顔色を窺う天才のお前がなー」
意外そうに秀一。久美子は思わずむっとなるが、否定はできない。
自分のことを話すのが苦手。誰かと二人でいると緊張する。喋っているのを聞いているのが楽。自分が何か言うことで、空気が悪くなったらどうしよう。相手が気分を害したら……。
そんなことばかり考えている黄前久美子という人間を、この幼なじみは熟知している。
少し沈黙が下りる。今日は麗奈と何をしようと考える。今通った車の色が好みだとか、落ちているタバコの吸い殻にイラッとしながらも、決してそれを拾ったりはしない自分の人間性について思ったり。
なんでもない時間。
秀一が言った。
「俺以外にも、気をつかわない相手ができたわけだ」
「何言ってんの?」
半眼で見上げると、秀一はわかりやすくそっぽを向いた。
久美子は首を傾げる。確かに、秀一といると気をつかわない。今も、隣にいるにも関わらず、全然違うことを考えていた。
そんな相手は他にはいない。けれど、秀一はもはや家族のようなものだから、それは当たり前だ。
「秀一は、弟的な?」
「兄じゃねーの?」
「えー。私が妹かー」
露骨に不満を漏らす。久美子は前を向いた。
校門の手前で混雑して、秀一と腕が触れ合った。麗奈とは全然違う熱さを感じる。
秀一が慌てて腕を離す。嫌だからそうしたわけではないと、久美子は知っている。
知っていて、何も気付かないふりをして下駄箱に向かった。
秀一について、一つ放置してある事案がある。
少し前、葉月が秀一に熱を上げていた。思い立ったらまっしぐらな少女が、片想いを胸に秘めて、見ているだけで満足なわけがない。
葉月は秀一に告白して、残念ながら想いは実らなかった。葉月はいい子だから、秀一は何を考えているのだろうと思ったりしたが、久美子は少なからずほっとした。
それは別に、秀一が好きだからというわけではない。ただ、何かが変わってしまうのが怖かっただけだ。
久美子自身はそう思っているが、葉月は久美子が秀一を好きで、秀一も久美子を好きだと思っている。実際、秀一は「他に好きな人がいる」と言って断ったらしい。
要するに葉月は、お前らさっさとくっつけと言っている。言葉にはしないが、その方がいっそ諦めがつくのだろう。
しかし、少なくとも久美子にはその気はない。まったくない。
もちろん、秀一を嫌ってはいない。男子生徒の中では一番好きだろう。居心地が良いのは事実だ。
ただそれは、恋愛感情ではない。ないと思う。久美子は誰かに対してそういう想いを抱いたことがないので、恋愛感情がどういうものかわからないが、少なくとも秀一については、弟くらいにしか思っていない。
果たして逆はどうなのか。
秀一が葉月に言った、他にいる好きな人とは誰なのか。
それについて考えることを、久美子は放置している。面倒くさいと感じる。とにかく、今の関係を変えたくない。
「それって、我が儘なのかなぁ……」
久美子は大袈裟に頭を抱えて、重苦しいため息をついた。
昼休み。暑い日が続くが、木陰のベンチは涼しくて気持ちいい。校庭からする無数の声を聞きながら、久美子は紙パックのジュースに差したストローをくわえた。
一口吸って、ストローを離す。声がないので怪訝に思って隣を見ると、麗奈は無表情でじっと校庭を見つめていた。
今の話を聞いていなかったのかと思ったが、そうではなかった。麗奈は校庭を見ているのではなく、次に何を言うか考えているのだ。
今朝の秀一の態度が気になって、気軽に相談してしまったが、ひょっとしたら重たい話だったかもしれないと、久美子は反省した。
「要するに、塚本は、久美子のことを好きなの?」
「私の自惚れだといいんだけど……」
もう一度ため息をつく。麗奈は何も言わない。
久美子は反省してから後悔した。麗奈に「大変ね」と笑われて終わるネタだったはずが、何やら思いつめた表情をしている。
久美子は、もし葉月が秀一と付き合ったら、何かが変わってしまうと思った。それと同じように、麗奈も不安を抱いているのかもしれない。
「大丈夫だよ。私は変わらないよ?」
安心させるように言ってみる。
しかし、麗奈の表情は険しいままだった。視線を落とし、一度目を閉じて小さく息を吐く。
「別に、そういうのじゃないし」
重たい沈黙がのしかかった。予鈴が鳴って、声もなく立ち上がる。
「麗奈、ごめんね。今の話、もし気分が悪かったら忘れて」
力なく映る背中に向かって言ってみたが、麗奈は何も答えなかった。
胸がざらつく。油断した。すごく安直に大きなミスをしたのだと、ようやく気が付いた。
ただ、そのミスが何か、いまいちわからない。だから、その時はそれ以上何も修復できず、無言のままそれぞれの教室に戻った。
放課後には麗奈はもういつも通りだったし、秀一とは話をせずに過ごした。
元々、今朝もたまたま一緒になっただけで、秀一との距離は中学の時から変わっていない。まるで今突然起きたかのように話をしたが、前からあったことを改めて言っただけである。
ただ、麗奈にはそうは聞こえなかったのかもしれない。
家に帰って一人になると、色々なことが頭をぐるぐる廻った。宿題をする気分ではなかったので、明日怒られる覚悟を決めてノートを閉じる。
──大丈夫だよ。私は変わらないよ?
あの一言は、言葉足らずだった。麗奈は、「もし秀一と付き合っても、私は変わらないから大丈夫だよ?」と受け止めたかもしれない。
もちろん、そういう意味ではない。「秀一と付き合う気なんてないから大丈夫。麗奈との仲は変わらない」と言ったのだが、恐らく麗奈は誤解した。
だが、今さらそれを訂正したら、余計に深読みされるだけだろう。疑心暗鬼に陥ると、なんでも穿った見方をしてしまうものだ。
昨日と今日とで、状況は何も変わっていない。
久美子はそれをもう一度確認した。何も変わっていないのだから、自分と麗奈も何も変わらない。今日と明日も同じはずだ。
ざらざらする不快な気持ちを押し込めて、久美子は自分に言い聞かせるように頷いた。
そんな久美子の思いとは裏腹に、翌日の昼、事件は起きた。
久美子がいつも通り、緑輝と葉月と三人で弁当を食べようとしていたところに、突然麗奈が現れたのだ。弁当を手にして、実に綺麗な笑顔でこう言った。
「久美子、二人で一緒にお弁当食べない?」
場の空気が凍り付くのがわかった。葉月の表情が見る見る険しくなる。
葉月と麗奈の仲は良くない。校舎裏の一件で、葉月に殴られたことを麗奈が恨んでいるということはないし、殴ったことを葉月が後悔していることもない。
ただ、今となっては葉月が思ったような状況ではなかったと葉月自身知っていて、久美子が麗奈と親しくしていることも把握している。
しいて言えば、一番の問題は久美子にあるが、三人とも「あれは不運な出来事だった」と、心の中で折り合いをつけている。
その上で、麗奈はなるべく葉月の前で久美子と親しくしないようにしていたし、麗奈が意図的にそうしていることを、久美子も知っていた。
それが、こうしていきなり爆弾を投下してきたのはどういうことだろう。やはり昨日の一件が引っかかっているとしか思えないが、関連が見えない。
緑輝はじっと様子を窺っている。女子校出身なので、こういう空気には慣れているのだろう。久美子自身、吹奏楽部で少なからずこの手のぎすぎす感には慣れているが、当事者になったことは少なかった。
「どういうつもり? これから三人で食べようとしてるの、頭のいい高坂さんなら、見てわかるよね?」
葉月が挑発的に吐き捨てる。「頭のいい」なんてわざわざ付けなくてもいいのにと、久美子は思った。
麗奈がにっこりと笑う。
「私は久美子に聞いてるの」
蒸し暑い教室が南極にワープしたかのようだ。
もはや説明するまでもなく、久美子はこういう選択が大嫌いだ。本当にやめてほしい。どちらかを選ぶとは、どちらかを選ばないことだ。八方美人の久美子にできるはずがない。
それを、麗奈は誰よりもよく知っている。それなのにこの仕打ちは、嫌がらせだろうか。それとも、何か深い意図があるのだろうか。
葉月と麗奈、二人に笑顔を向けられて、久美子はたじろいだ。「四人で食べよう」がバッドアンサーなのは明白だ。どちらかを選ばなければいけない。
久美子は麗奈が好きだ。家に帰ってからも、四六時中麗奈のことを考えている。スマホの壁紙も麗奈だ。
けれど、葉月も大事な友達である。誤解だったとはいえ、助けに来てくれたのは嬉しかったし、その後本当に心配して病院まで付き添ってくれたことで、葉月がいかに自分を大事に思ってくれているかわかった。葉月に心を開いていなかった自分を反省もした。
久美子は自分でもわかるほど乾いた笑みを浮かべて、弱々しく答えた。
「麗奈、今日は三人で食べるから、二人で食べるのは明日にしよう。誘ってくれてありがとう」
もちろん、麗奈が納得するはずがない。それはわかっている。
ただ、解のある問いではなかった。どちらが後でフォローしやすいかと考えた時、久美子はより親しい麗奈の方だと思った。
「わかったわ。邪魔をしたわね」
そう言って、麗奈は背中を向ける。まるで久美子がそう答えるとわかっていたかのように、それ以上何も言わずに教室を出ていった。
しばらくの沈黙の後、葉月が不思議そうに久美子を見た。
「高坂さん、今のはどういうつもりなの?」
葉月が思ったよりも冷静で、久美子は安堵の息をついた。
「正直、全然わかんない」
困った顔で苦笑した。
麗奈は天然系ではない。わざとやったのは確実だが、その意図がまったくわからない。
もやもやした思いを抱えたまま、久美子は三人で昼休みを過ごした。
部活を終えると、辺りは薄暗くなっていた。
バッグを肩にかけて、久美子は麗奈に声をかけた。
「麗奈、ちょっといい?」
麗奈が複雑な表情で久美子を見る。その瞳がなんだかとても頼りなくて、久美子は少し喧嘩腰だった自分の態度を反省した。
意図は相変わらずわからないが、麗奈は麗奈なりに考えて、悩んだ末の行動だったのだろう。
「いいけど」
大人しく麗奈が従う。
なるべく人目につかないよう気をつけながら、いつか二人で掴み合いになった校舎裏に移動した。
「ここに来ると、久美子を噛みたくなるわ」
麗奈がおどけて笑う。場の空気を和らげようとしたのはわかったが、生憎久美子はそういう気分ではなかった。
正面から向かい合って、なるべく感情を押し殺して聞いた。
「麗奈、どういうつもりなの? せっかく落ち着いてきた日常を、どうしてわざわざかき乱すの?」
声に棘が孕む。冷静に麗奈の意図を問いただすつもりだったが、つい非難してしまったことを、どうか許してほしい。
中学時代の一言も和解した。その後ごたごたしたが、乗り越えるたびに絆は強くなっている。
葉月が秀一に告白したことには驚いたが、関係は前のまま維持された。葉月と麗奈も、仲が悪いなりに折り合いがついていた。
つまりは、二人でイチャイチャしながらソフトクリームを食べたあの日と、状況は何も変わっていない。にも関わらず、なぜ今こうして、難しい顔で向かい合っているのか。
麗奈はしばらく何も言わずに俯いていた。力なく垂れ下がる艶のある黒髪。思わず触りたくなるのを堪えて見つめていると、やがて麗奈が意を決したように顔を上げた。
真剣な瞳に久美子が映る。
「久美子一人が平和で満足な日常なんて、私は要らない。それなら私は、何もない日常の隣で、貴女と特別な時間を過ごしたい」
はっきりと、力強く、いつもの勝気な麗奈の声が浸透する。
久美子ははっとなった。
自分一人が平和で満足な日常。久美子は現状を、そんなふうに考えたことがなかった。
麗奈とはなんでも言い合える仲だと思っていた。自分がほとんど何も我慢していないように、麗奈も致命的な部分では、何も我慢していないと思っていた。
けれど、ひょっとしたら麗奈は何か、今の関係を維持するために無理をしていたのかもしれない。
呆然とする久美子に一歩近付いて、麗奈がふわっと抱きしめる。その温もりが、今は無性に悲しかった。
「久美子、私は貴女が好き。でも、もし貴女が私の愛を勘違いしてるなら……」
そこで言葉を止めて、麗奈は久美子の体を離した。
黒い綺麗な瞳が潤んでいる。それを隠すように背中を向けて、麗奈が言った。
「私は、全部思い出にする覚悟をするから」
振り返ることなく遠ざかる麗奈の背中を、震えながら見送る他にできなかった。
渇いた口の中に、嫌な味が広がった。
帰り道の記憶がない。
くらくらする頭でどうにか家まで辿り着き、食事やら風呂やらを済ませて、久美子はベッドに倒れ込んだ。
学校から今まで堪えていた涙が、一気に溢れ出す。
──久美子一人が平和で満足な日常なんて、私は要らない。
麗奈の言葉が、頭の中で何度も何度も繰り返される。
当たり前に存在する日常は、みんなの努力によって作られているのだと気が付いた。
葉月は自分が殴った麗奈と仲良くしている久美子に、優しく接してくれる。
好意を放置しながら、生殺し状態を甘んじて受け入れてくれる幼なじみ。
自分の「変わりたくない」という我が儘に、みんなが付き合ってくれている。
そんな自分勝手な日常を、麗奈が見限るのも無理はない。
だけど、麗奈に対しては、何を改善すればいいのかわからない。麗奈は何を我慢しているのだろう。
まさか今日の昼、あそこで麗奈と一緒にご飯を食べれば良かったのか?
それは違う。麗奈はそういう子ではない。そもそも、麗奈にああいう行動をさせてしまった、自分のそれまでの言動がまずかったのだ。
積もり積もっていたものがあったとしても、きっかけとなったのは秀一の会話で間違いない。
生殺しになっている秀一に同情したのだろうか。秀一の好意にではなく、久美子自身の煮え切らない態度に苛立ったのかもしれない。
秀一との関係に白黒つければいいのだろうか。
いや、麗奈がそんなことを望んでいるとはとても思えない。きっとそういう表面的な話ではないのだ。
何か見落としている。
けれど、その何かがまったくわからない。
聞きたい。今すぐ電話して確認したいが、それに気付けない自分に失望されるのが怖い。
麗奈に嫌われたくない。離れたくない。自分にだけ見せてくれるあの笑顔を、絶対に手放したくない。
麗奈と過ごした時間が、触れ合った温もりが、交わした言葉が、全部思い出になるなんて、そんなのは堪えられない。
「嫌だ……嫌だよ、麗奈……」
枕に顔を埋めて、嗚咽を漏らす。どうにかしないといけないが、何も浮かばない。
単なる麗奈の我が儘ではないかと思う気持ちもある。けれど、たとえそうだったとしても、何か応えなければ壊れてしまう。
今日の麗奈はひどく思いつめていた。あの子も今頃部屋で泣いているかもしれない。
一緒にいたい。
それを誠実に伝える他に、もう何も思い付かない。